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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

フライデー・ナイト・フィーバーの只中で/あるいは傍らで


『インパクション』誌第186号(2012年8月25日発行)掲載

M 3月末に3000人から始まった、首相官邸前での毎週金曜日夜の反原発行動は、現政権が原発再稼働方針を明言したころから、参加者が一気に増え始めている。主催者の発表では、その増え方は、300人→1000人→2700人→4000人→12000人→45000人→20万人……となっている。君もよく顔を出しているというが。

O 今までなら、金曜日の夜というのは、けっこう予定が入っていて、2回に1回程度しか参加できていなかった。事態が変わったので、これからは金曜日の夜はできる限り空けておき、現場に行くようにしようと思っている。

M 集会やデモなら、公安条例に即して言えば、届け出を出して「許可」を得ることになるが、あれは自然発生的にひとつの場所に集まって、並んで抗議するわけだから、憲法の原則「移動の自由と表現の自由」から言って、警察も本来は規制できない。防衛庁(現防衛省)や外務省や法務省などの前でなら、以前からさまざまな団体が行なってきたことだが、今回は参加者の規模があまりに大きくなったので、従来とはまったく異なる性格と意義を帯びるようになったのだと思える。率直に言って、君はどんな感じを持っているの、あの集まり方に。

O この行動を呼びかけているのは「首都圏反原発連合有志」だが、先行する例のない、まったく新しい運動形態を作り上げていると思う。もともと中心を持たない運動である。明確な指導部が存在する場合には、指導部の方針に従って運動が〈一なるもの〉としてまとまることを求めがちだが、それもない。私としては、組織論的にいって、異議はない。むしろ、賛成だ。この形態は、呼びかけ団体が作り出したというよりも、各回の参加者の総意が作り上げている、と解釈するのがいいのだろうけれど。

M 「現場では混雑するから、事故を起こさないようにボランティアスタッフや警察官の誘導に従いましょう」とか、帰るときには「警察官の人たちにも、できれば『お疲れさま』の一言を」とか呼びかける姿勢が物議をかもしていると聞いた。また、行動終了時刻の夜8時になると、時には警察車両の高性能マイクを使って、主催者が「解散」を呼びかけることもあったという。なお立ち止まって抗議を続けようとする人びとからは、それに対する罵声がとんだとも聞いたし、またツイッター上の別な情報によれば、そのとき警察車両の上に乗ってマイクを握っていた人は、デモ隊に解散要請を行なったばかりではなく「再稼働反対!」のコールも呼びかけていたのだから、なかなかのしたたか者だったという弁護論も見かけた。

O 正直なところ、広場でもない場所に10万人以上も集まると、全体像を把握できる人はいないと思う。噂話は私の耳にもいろいろと入ってくるし、ユーチューブで確かめたりもするが。いま君が言ったことのなかで、前半部はその通りだ。警察官の誘導に従ってとか、警察官にも「お疲れさま」の一言を、という呼びかけは、チラシそのものに書かれている場合もある。警察が鉄柵や警察車両を使って、官邸近くの特定の地帯から人びとの排除を始めたときには、私もそれには抗議して、この先へ行かせよ、と求めた。私はまだ周囲の人間から咎められてはいないが、警官隊の措置に抗議する人に対して、これを非難し「やめなさい」と止める声が、デモ隊のなかからよく上がるのだという。私なら、「皆さんの安全を願っての措置です」と警察官がいう阻止線の設置はかえって危険なものだと思うし、デモ隊を分断して全体像を見えなくさせるのは弾圧の一方法なので、抗議そのものを止めるつもりはない。デモ隊の中には、警官隊や、随所でデモ隊を待ち受けていては日の丸を振りながら罵声を浴びせる在特会や「草の根右翼」に対して、同じ水準の口汚い罵声を投げ返す人もいて、それがデモ隊の仲間の間から発せられることが耐え難いことは身に沁みているから、態度や言葉遣いには気をつけているが。

同時に、以下のことは付け加えておきたい。警官隊との余計な軋轢・摩擦・対立を避けたいと思って、私から見れば必要以上に抑制的になっている人の心には、こと反原発問題についてなら、ひとりひとりの警察官をこちら側に呼び寄せることができるのではないか、という希望があるのではないか。「敵」の巣窟とも言える軍隊や警察の内部から、寝返ってこちら側に越境してくる人を生み出すこと――生易しいことではないが、古典的とも言える、価値あるその試みをしているのだ、と。若い日、埴谷雄高の政治論『幻視のなかの政治』を通して、「敵を味方に転化する」ための、気が遠くなるような長い時間をかけた努力の過程を学んだ者としては、その思いは掬い取りたい気持ちがしている。

M いまの話を聞いていると、思い出すことがある。15年ほど前のことだ。私は、先住民族問題や国外の解放運動とそれに連帯する運動をめぐってけっこう頻繁に討論集会を呼びかける側にいた。そこには、もはや息も絶え絶えになっていた政治党派の人びとがよく来ていた。某党派の人物たちは、討論の時間になると必ず挙手して、その日のテーマとは直接には関係しないことがらを取り出しては、「労働者国家擁護」という無内容な立場からの論議を延々と行なうのが常だった。そのスタイルがわかった私は、彼/女らが発言していつもの逸脱を始めると、司会をしていても発題者として質問を受ける立場にいても、厳しく批判して、その発言を止めさせた。すると、集会アンケートなどを通して、次のように言われたりした。「あの種の発言に対して苛立つMさんの気持ちはわかるが、今の人びとはあのような激しい言い合いに慣れていないから、退いてしまうかもしれない。やり方を考えたほうがいいです」。直接の知り合いからは、こう言われた。「ああいう場面になるとドキドキします。面白そうという気持ちもあるけど、これから一体どうなるのだろう、と緊張します」。それは、いわば、その場の雰囲気としては「浮いていたかもしれない」私のことを心配しての、友情ある説得であるように思われた。言葉を換えれば、それは、私たちの世代の運動が次世代に遺してしまっている過激なるもの、「暴力の記憶」なのだろうか。内ゲバ、連合赤軍の同志殺し、デモ隊と機動隊との衝突、爆弾による死者、激しい言葉遣い――個々人がどこまでそれに関わっていたかとは関係なく、今となっては、「あの時代の遺産」はこんなものとしてしか記憶されていないのだろうか?

O デモや大きな集会やストライキの記憶といえば、60年安保か70年安保の時代にまで遡らなければならない。60年安保は、確かに敗戦後15年目の段階での大きな大衆的闘争だったが、ひとつには所得倍増計画によって、いまひとつにはヤマトから削減された米軍基地を沖縄に押しつけることによって、収束させられた。68年の全共闘と70年安保は、確かに君も言うように、その時代を直接には知らない世代によって「無惨な暴力」の時代として刻印されているのだと思う。しかも、60年代の経済成長を引き継いで、その後は高度消費社会が実現していく過程に入り、豊かな社会に人びとは生きるようになった。加えて、「正義」を求める過激な運動がどこへ行き着いたかを人びとは見聞きしていたこともあって、政治・社会・経済上の、多少の矛盾や不正義には目を瞑る、脱政治の時代が長く続いた。その後に行なわれた新自由主義的な改革や冷戦構造の崩壊の過程で、戦後革新の象徴ともいえる総評と社会党は解体に追い込まれた。正規雇用を前提として成立していた企業内組合の旗がはためくデモや集会は、すでにほぼ消えて、なくなっていた。

M 君の話を受けて言うと、大学生のなかには、デモやストライキって非合法ではないのですか、と尋ねる者がいると大学教師が嘆いていたのは、もう10年近く前のことだったろうか。日本社会はそれほどオメデタイ状況になっていたのだ。21世紀に入って小泉政権の下で新自由主義改革は完成した。デモ非合法論を唱えていたのかもしれない元学生を待ち受けていたのは、非正規雇用と失業の時代だった。だから、フリーターや派遣労働者が主体となって、音楽を流しながら街頭を歩くサウンドデモが大都会で行なわれるようになった。歩道でデモを見ていた若者がデモ隊に合流するなどの、絶えて久しく見られなかった光景が現れたりもした。だが、そのような合流を怖れた機動隊の隊列が、デモ隊を取り囲むようにして厳しく規制した。サウンドデモは、新しい果敢な試みだったが、デモ隊は、歩道の群衆からは「切り離されて」いた。

O その意味では、首相官邸前に詰めかける人の数が増えることで、デモ隊が封じ込められていた歩道から車道にあふれ出て、そこを占拠するという現象がときどき起こっているのは興味深いことだ。しかも、暴力を伴っているわけではない。警察がどれほど阻止線をつくろうと、「抗議エリア」なる地帯を飛び地のように設けてデモ隊を分断しようと、それを無効にしてしまうほどまでに人びとが集まってくれば、阻止線を張っていた警察の警備車両もおのずと姿を消していく。それが実現したときの人びとの笑顔は印象的だ。自分の顔だって、明るくなる。私は、ふだん乗っている電車内の光景と官邸前の光景を、よく対比的に思うことがある。混み合った電車内では、譲り合いもないわけではないが、見知らぬ他人と身体を接触させている緊張感と不機嫌さが溢れている。隣の男が何を考えている人間かは、まったくわからない。油断も隙もない。だから、交わされる言葉もない。押されると、すぐ押し返す。官邸前では、見知らぬ人であっても同じ思いでここにいるという信頼感をもつことができる。立つ場所も譲り合う。自然に、言葉が交わされる。大勢だ、ということも安心できる要素だ。知人にもよく会う。政府の方針に抗議するという政治的な行動が、これだけの「楽しさ」を伴っている。日常生活では味わうことのない「解放感」もどこかで感じる。週1回という頻度で行なわれている官邸前行動への参加者が増え続けているのは、ここにあるような気がする。それを実現しつつあるのだから、この行動の発案者たちは、すごい仕掛けをしたと思う。

M よいことばかりだろうか。先日、ある友人が言った。「いまの運動に問題点があるとすれば、またしても被害者意識に依拠した運動だということではないだろうか。原水爆禁止運動もそうだったが、自分が被害者になる、あるいはその恐れがある、という場所にいてはじめて、日本社会では運動が盛り上がる」。

琉球の友人が言ったことだから、私の受け止め方では、この言葉には、米軍基地の被害(重圧)の過半を沖縄に押しつけることで、自らは被害者意識を持たないヤマトへの批判が込められている。被害者意識のないヤマトでは、したがって、米軍基地撤去の課題にも、それに結びつく日米安保条約破棄の課題にも、関心は著しく低い。憲法9条は守りたいという気持ちと、近隣諸国の脅威があるから日米安保で米国に守られていると安心という意識がヤマトでは共存している。自分が被害者にならなければ、ある深刻な問題についての関心も沸かない状況はどういうことなんだ、という問いかけがある。

O 確かに大事な問題が孕まれているが、それは、運動・活動の過程の問題として考えればよいのではないか。政府・官僚・財界・東電・原子力の専門家たち――これらの連中が、起きている悲劇的な現実を無視して再稼働に向かって動き始めてしまった以上、再度の原発事故を「恐れて」反原発・脱原発の運動が高揚することには十分な根拠がある。実際に現場に来て、集まっている人びとの多様性――年齢、性差、社会層―-を見るだけで、いまこの社会がどんな状態になっているかが分かる。この対話でも垣間見てきた時代の変化も、現実に即して理解できる。これだけ多くの人びとが、官邸前に定期的に集まって抗議活動を続けることで、そこに参加している人びとの間で、時代の変化と現状に関する認識が深まっていくというのは大変なことだ。楽しさや解放感がある時の、人間の学び方は、広い。深い。早い。「被害者意識に依拠できるときしか、この国では運動が盛り上がらない」という批判もよし。誰もが、百家争鳴のようにものを言い合い、互いにそれを尊重しつつ〈共同の空間〉をつくりあげればよい。事実、先ごろからは、主催者の指揮から離れた別な場所で、独自の抗議活動を行なう集団も生まれている。これは、相手を罵倒することも否定することもなく、たたかうための〈共同の空間〉をつくりあげる努力だ。

私が、もうひとつ持っている希望の根拠は、次のことからきている。私が住んでいるのは、東京西部にある私鉄沿線の市だ。5つの駅を利用できる、比較的広がりのある都市で、人口は19万人だ。そこでも、昨年の「3・11」以来、2ヵ月に一度程度の頻度で、集会とデモが行なわれている。私はそこへもほとんどすべてに参加してきた。都心のデモと違って、道行く人がはるかに身近になる。それぞれの駅付近を起点にすると、5通りの行進ルートがある。それぞれの駅でのビラまきに先だって参加したら、次回のビラまきの日程が書きこまれていて、「○○駅前を首相官邸前に!」などという文言があった。余談になるが、思わず、1968年の懐かしいスローガンを想起させるものだった。米原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止闘争の時にまかれた「エンタープライズを戦艦ポチョムキンへ!」という文言のアジビラだ。それはともかく、都会の「空虚の中心」というべき首相官邸前における行動では、戻っていく居住地における行動の裏づけも持つ人が多いことが重要だ。居住地での生活と切り離された地点で、都心の国会や官邸や諸官庁への行動だけが行なわれているわけではない。集会へ行くと、地域ごとのデモの呼びかけが多い。私自身も、従来は、労働と活動の時間割の制限上、できなかったことだ。休日に行なわれる大規模な集会・デモの時には、明らかに同じ目的をもって同じ私鉄駅から乗る人も目立つようになってきた。従来の日常とは異なる兆しは、社会・政治のレベルで、至るところに見られる。首相官邸前での定期的な行動の重要性を思いつつも、そこだけで終わっていないことが大事なことだと思う。

M 君は「フライデー・ナイト・フィーバー」の只中にもいるし、同時に、少し逸れた傍らの視点も持っているということかね。

(8月2日記)

戦後日本国家と継続する植民地主義


2012年4月28~29日 反「昭和の日」連続行動「植民地支配と日米安保を問う」における講演

反天皇制運動連絡会『運動〈経験〉』誌第35号(2012年8月15日発行)掲載

●三つの論点

きょうのテーマは、「戦後日本国家と継続する植民地主義」というものですが、時間が50分間ですので、非常に端折った話になると思います。三つの点に分けてお話ししたいと思います。

まず一つ目の問題です。戦争なり植民地主義の問題に関して、侵略戦争あるいは植民地支配に対する謝罪をいつまでも外部から強いられたり、首相や天皇が謝罪をし続けているのは日本だけである、という言い方がよくされます。これに対して有効に反論する言い方はいくつかありますが、戦争と植民地支配に関わる議論は、世界的なレベルではどのあたりまで来ているのかという問題を考えてみたいと思います。いま言ったようなことを言う人たちは、欧米諸国は日本に先駆けて世界各地に植民地を作ったけれど、未だかつて彼らが謝ったという話は聞いたことがないとよく言います。確かに、今から30年前、1980年代の初頭までだったらそうだったかもしれません。けれども、少し幅を狭めて見てみると、1990年、冷戦崩壊以降今日までの20年間に、侵略戦争と植民地問題をめぐる世界の問題意識は、格段に変貌を遂げたのです。もちろんそれは十分な形ではありません。この点についてはあとでふれます。しかし、他の国は謝っていないなどと言うような認識は、今の世界がこの問題にたいしてどう取り組んでいるかということに対して、正確な把握をしているとは言い難いということを、最初にお話ししたいと思います。

二つ目に、戦後日本国家において、植民地意識が継続しているという問題意識を私たちが持つとすれば、それはどのような形で継続しているのかという問題です。これは、ここにお集まりの皆さんには、すでに了解点に至っているようなことで、特に新しい知見があるわけではありませんが、現段階での整理をしておきたいと思います。

三つ目は、一番目と二番目の課題を知ったうえで、一体これからどのように問題を捕えていくべきなのか。それを思想的な課題として、あるいは歴史認識の課題としてお話ししたいと思います。その後で何をやるかという具体的な問題は、また別の場所の課題になるだろうと思います。

●コロンブスの大航海を起点として

まず最初の、植民地支配、植民地主義の問題に関して、現代世界の認識はどこまで来ているかという問題を、歴史的に少し振り返っておきたいと思います。

植民地支配の歴史は古いですが、古代・中世のそれは、現代の私たちが手にしている、あるいは強いられている世界秩序の問題からすれば、その継続性において問題にするには足らない。私たちの現在的な課題ではないということで、脇においていいだろうと思います。それでは、私たちが生きてきた20世紀、および21世紀の世界秩序に大きな影響を与え続けているその結果を、支配した方も統治された方も受け取らざるを得ないでいる、そういうものとしての植民地支配という問題の起点はどこだったか。

私たちは20年ほど前から、それは15世紀末のコロンブスの大航海に始まるアメリカ大陸の征服であると主張してきました。このことは、ヨーロッパ人が一挙に世界へ出て行くきっかけになった。ソ連崩壊後、私たちはグローバリゼーションという言葉を、いかにも新しい言葉のようにとらえてここまで流布させてしまったわけですが、あの15世紀末は、第一次グローバリゼーションの時代であったと言えます。あの段階で、世界がいわば全球化、一つの球と化したわけです。

その時、先頭に立ったのは、スペインでありポルトガルであり、イベリア半島の大西洋に最も近い海洋諸国であったわけです。しかしそれらは急速に、ヨーロッパ列強との戦いの中で衰退を遂げていく。その次に台頭したのが、北ヨーロッパのイギリス帝国です。イギリスは、カリブ海地域をインドと誤認してインディアスと名付けてしまいました。ですから、そちらを西インドと呼び、その後あらためて自分たちが到着したアジアのインドを東インドと名付けます。そうして1600年に設立したのが東インド会社です。

それ以降、フランスやオランダ、一部地域に関してはポルトガルも含めて進出し、東南アジアはヨーロッパの植民地主義の大きな荒波に洗われるということになります。

もう一つ忘れてならないのは、アフリカ地域です。世界史を学ぶと、19世紀末のアフリカの地図は、広大な大陸が隈なくヨーロッパ列強のいずれかの植民地と化した「アフリカ分割図」となっている。そういう地図を見せられるわけです。

●植民地の「消滅」

このように、15世紀から19世紀の末にかけての4世紀の間に、ヨーロッパ列強は、今で言うアジア・アフリカ・ラテンアメリカのほぼ全域を、隈なく植民地支配することになりました。この体制が大きく崩れるのは、あとで触れる、1945年8月の日本帝国主義の敗戦を契機にしてです。

その前にちょっと触れておかなければならないのは、19世紀初頭、ちょうど今から200年くらい前、ラテンアメリカの諸国がスペインやポルトガルから次々と独立したことについてです。これが、独立運動の最初の狼煙であったと、そういうふうに言っていえないことはありません。ですが、この段階はすでに、白人による征服と植民地統治から3世紀も経っていた段階です。この地域には、征服者であった白人の末裔たちが、政治・社会・軍事的な権力をすでに確立していました。ですから19世紀初頭のラテンアメリカ諸国の独立というのは、そこにもともと住んでいた先住民が主体となった独立ではなくて、現地に作られた新たな白人支配層を中心とした独立であったわけです。そうした意味では、真の独立とは言えない、という内部からの批判が、今日まで一貫して行われているのはご存じのとおりです。

ですから、やはり明治維新以降、東アジアばかりではなくて、南アジア・南太平洋海域の諸島にまで侵略の爪痕を残した日本が軍事的に敗北することによって、それまでの欧米と日本による植民地支配体制が崩れていく一つのきっかけが初めて与えられたということを見ておかなければなりません。もちろんベトナムのように、日本が敗北した後、なおフランス植民地支配との戦いを続けなければならず、そしてフランスの敗北後はまた、新たにアメリカ帝国との戦いを続けなければならなかった地域もあるのです。けれども、大きく言えば、第二次大戦以降の過程の中で、アジアにおける植民地支配はだんだんと消えていくわけです。

アフリカの場合は、1960年が、「アフリカの年」と言われたぐらいに、次々に独立を果しました。そこは主にフランス領でした。そしてイギリス領の植民地も、最後にはポルトガルの植民地も、独立していきました。

●冷戦の崩壊の過程で

このように、1945年以降の時期を通じて、植民地主義はほぼ潰えたというふうに言われてきたわけです。ところが、にもかかわらず、なぜ私たちはいま、「継続する植民地主義」という問題意識を持たざるを得ないのか、ということです。

1945年の日本の敗北は、それ以前のイタリア・ドイツの敗戦と繋がって、ファジズム三国の敗戦というふうに理解され、それは同時に連合国側の勝利を意味したわけです。けれども、その結果成立した戦後世界において、世界は新しい状況に入りました。東西冷戦構造ですね。それが崩壊する1991年までの約45年間、戦後世界においては東西冷戦構造というものが、最も大きな矛盾として私たちの世界を支配していたわけです。ですから支配された側も、それまであった植民地支配という問題について、これをどのように捉え総括するのかという問題提起を行うきっかけをなかなか掴むことができなかった。支配した側はもちろん、場合によっては自らの傷口を開けてしまうような問題提起を、自らするはずがありません。その結果、第二次大戦後長い間、植民地主義の問題、植民地支配の問題は、世界的にきちっと論議されないままできました。たとえば日本は、かつての交戦国に加えて、植民地支配を行った国に対しても、国交正常化、国交回復という過程を取るのですけれど、その過程の中でも植民地の問題がきちっと提起されて、二国間の間で十分な討議をして解決の道を探る、そういう道もほぼ閉ざされていました。

ところが1989年から91年にかけて、東ヨーロッパおよびソ連の社会主義体制――強靭だと思われた共産党・労働党の独裁体制が次々と崩壊するという事態になりました。その段階で、東西冷戦構造は消滅したわけです。東西冷戦構造という戦後世界を規定した構造が消滅することによって、今まで覆い隠されてきた矛盾が噴出しました。

例えば国家間、特に支配・被支配、侵略・被侵略という関係があった場合には、不十分な形であれ賠償などが問題になってきます。しかしいったん国交正常化の条約を結べば、それは国家間の問題としては解決済みということになってしまうのです。1965年の日韓条約がまさにそうでした。ところが韓国は、東西冷戦体制が倒れていくのと前後して、非常に強権的な軍事独裁政権が倒れ、民主化の過程を辿っていきます。そういったなかで、言論空間が一定の自由を獲得し、今までの独裁政権の下では自由な発言ができなかった個人が、発言をしはじめたわけです。韓国では、1991年12月に金学順さんという、旧日本軍の「従軍慰安婦」とさせられた人が、初めて自ら名乗って、日本国家に賠償を請求した。そのような動きが具体的に出始めたわけです。国交正常化交渉によって国家間の補償問題というのは解決がついたと両国政府は言うかもしれないけれども、私個人に関して日本国家は何ら補償を行っていない。そのような論理によって、一個人が、かつての支配国である現在の日本国家を訴えるという、具体的な動きが出てきたわけです。それは、今まで国家間の関係の中で、またその国の中においても抑圧されていた個人の声が、国境の壁を越えて噴出し始めた、そういう段階であるというふうに捉えることができるだろうと思います。

またドイツは、ナチズムに対する深刻な反省がありますから、もっと早い時期からユダヤ人に対して様々な戦後補償を行ってきました。それだけではなく、ジプシーと呼ばれていたロマ人、あるいは同性愛者、医学実験の犠牲者とされた人々にたいしても、補償の枠を広げるということを、1980年代にドイツは行ってきています。さらに、ドイツもたくさんのヨーロッパの国々を占領していますから、その占領地で強制労働させた人々に対しても補償すべきであるという声が高まって、政府と、当時の強制労働に関して責任のある企業が共に国家予算と企業経費を使った基金を創設するというような動きも出ています。1990年前後という時間に、こうした動きがはっきりと出て来ているということを、確認しておくべきであると思います。

●ダーバン世界会議の到達点

先ほど触れたように、私たちはコロンブスの大航海が近代植民地支配の起点であると主張してきました。そして、1992年10月に、私たちは「五百年後のコロンブス裁判」という催しを2日間にわたって東京で開きました。コロンブスの大航海が、近代ヨーロッパのその後の隆盛と、アメリカ大陸における先住民の奴隷化とがセットになった歴史的な史実であったという事実から、ヨーロッパ近代はあのコロンブスの大航海によって何を得ることができたのか。そしてそれはその後のヨーロッパの繁栄にとって、どれほどの意味を持ったのかということをめぐって討論を行ったのです。特に呼応してやったわけではないのですが、同時期に各国で、様々な動きがあって、世界的に「五百年」の問い直しが実現したわけです。つまり、ヨーロッパ近代をどう捉えるかという問題に関しては、二十年前に非常に大きな転換が世界規模で始まり、それがこの20年間ずっと続けられているというふうに考えるのがよいと思います。

ラテンアメリカでは、この五百年を、自分たち先住民や黒人や民衆が抵抗する五百年であったという問題意識で主体化するキャンペーンが行われました。これは余りに大きなキャンペーンであったことによって、その土地に住んでいる人々の歴史を現実に変えるために寄与したわけです。四百年前ではできなかったことが、五百年後のラテンアメリカで実現し、それと呼応するような形でヨーロッパでもアメリカ合衆国でも日本でも、世界の様々な地域で歴史観の変革が進んだわけです。これは、植民地問題ということが、近代以降の世界を考えるうえで避けられない問題であったということを普遍化していく、一つの大きなきっかけであったと思います。

そして、1990年前後からの幅を持って20年間の動きを見た場合、この動きはさらに深まります。

2001年8月から9月にかけて、「人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に反対する世界会議」というものが、南アフリカのダーバンで開かれました。最も凶暴な人種差別制度であったアパルトヘイトが廃絶されて十年足らずのうちに、国連も係わった国際会議が南アフリカで開かれたわけです。ここで初めて欧米諸国と、植民地主義・奴隷貿易・人種差別の犠牲になった地域の政府代表及び民間代表が一同に会して、この問題を21世紀初頭に生きる我われがどのように考えるべきかという討論が行われました。もちろん対立がありました。奴隷貿易をやり、人種差別を行い、植民地主義を実践した側は、その歴史的な過ちを言葉の上では認めたとしても、補償問題が出されると、「3世紀・4世紀も前のことを、そんなふうに言い出したら世界はとんでもない無秩序になる」と言って反対したのです。「パレスチナ占領地のイスラエルによる占領形態は、現在なお続く人種差別の典型的な現れである」という演説が行われた時には、イスラエルとアメリカ合衆国の代表が怒って席を立ちました。このように様々な対立と矛盾を抱えた会議ではあったけれども、少なくとも国連が関わった国際会議で、このようなことがまともな討議の対象になったのは画期的なことです。このような段階まで、つい11年前の世界は来ていたわけです。しかし、この会議が終わって3日後、いわゆる「9・11」が起こりました。アメリカの資本主義グローバリズムの典型である超高層ビルと、軍事グローバリズムの象徴であるペンタゴンなどが、ハイジャック機によって攻撃されました。それが余りにも大きく報道されたことによって、ダーバン会議の意義について、報道がほぼ絶えてしまいました。一部研究者などの手によって詳しい報告書などは出ていますが、残念ながらもっと広いレベルでこの会議の意義が私たちの中に浸透していくことは妨げられたわけです。

それでも、11年前はそのような段階になっていたのです。

たとえば、2007年にブッシュがアフリカ・セネガルのゴレ島という奴隷貿易の根拠地として非常に有名な島を訪れて、「奴隷貿易は歴史上の最大の犯罪であった」と、あの人でさえ言ったんです。アフガニスタンとイラクに対する、あの酷い攻撃をやっている最中のブッシュが。奴隷制度については、少なくともこのようなことは言わざるを得ない、そういう段階になっていたわけです。同じ年、ブレアも奴隷貿易にイギリスが国家として参与したことを謝罪しました。奴隷貿易は、イギリスが最も富を蓄積した事業でした。ですから歴史認識の問題として、あのブッシュと共にイラク・アフガニスタンに凶暴な軍事攻撃をやっていたブレアも、この段階では、奴隷貿易に関しては言葉の上ではこのように言わざるを得なかった。そしてまた、女王のエリザベスも出席したウエストミンスター大寺院の式典で、ウィリアムズ・カンタベリー大司教はこのように言いました。「奴隷所有者、奴隷貿易国家の子孫である我われは、歴史的繁栄の大部分がこの残虐な行為の上に築かれたという事実に向き合わなければならない」と。一方的な軍事攻撃は絶対止めるつもりのない米英首脳でさえ、歴史的過去としての奴隷貿易については、このように認めざるを得なかった。もちろん言葉の上の謝罪であると批判することも可能だし、補償という問題が提起された時には絶対呑むはずがないという批判も十分できるし、それをしなければならないと思います。しかしながら世界は、過去の歴史的な犯罪、人類が行った犯罪に関して、このような言葉で語らざるを得ないような時代に入っていたということです。

●日本の植民地支配の起点

繰り返し言いますが、遺憾の意の表明とか言葉の上での謝罪と、具体的な補償の間にはまだ深い溝があります。しかしそれは、今後の様々な討論なり行動によって、もう一段階飛躍していくことで、そういう歴史が現実に書かれるのだろうというふうに思います。

ハンナ・アーレントという有名な政治学者がいますが、彼女の主著『全体主義の起源』が書かれたのは、1957年、今から半世紀ちょっと前です。彼女はこの本の中で、20世紀の全体主義、主にナチズムの分析を行いました。「20世紀の全体主義というのは、19世紀の帝国主義、植民地主義、人種主義に起源を持つものである」という分析です。この1990年前後から20年間の、世界で同時代的に進んだ植民地主義や奴隷制度に対する捉え返しの時代というのは、アーレントが50年前に言ったことがようやくこのような問題意識の中で問われ、討論される時代になっているということを意味している。

それで、私たちはこの問題を、敗戦後日本の現実の中でどのように考えるかということです。はじめにも言ったように、例えばこのような集会に集まる人々の中では、この点はかなり共有されていると思うので、ごく簡単に触れることにします。

明治維新以降の近代国家、日本の植民地支配の問題として起点をどこにおくかという問題は、今後もっと問題提起がされた上で論議されるべきであると考えています。一般的な歴史書、社会的通念からすれば、日本の最初の植民地支配は、1894年の日清戦争後の台湾の領有であり、1910年の朝鮮の併合であるというふうに極めて自然に語られ、そう信じられています。けれども僕は別な考え方を持っています。起点は明治維新の翌年、1869年の蝦夷地の併合であるというのが、僕の観方です。蝦夷地が北海道と名前を変えられて、近代国家日本の領域圏として包摂された。その10年後、1879年には、恐ろしい言葉ですが「琉球処分」によって、独立王国であった琉球をやはり明治維新国家に包摂しました。この二つの歴史的事態を、近代日本の植民地主義の具体的な始まりであるというふうに捉えるのがいいのではないかと思います。松前藩によっても島津藩によっても、蝦夷地も琉球も全面的には支配されていなかった。一定の独立性を持って自分たちの地域圏を、アイヌの人たちも琉球の人たちも持っていたわけです。しかし、あたかも松前藩によって蝦夷地が全的に支配され、また島津藩によって琉球が全的に支配されていたかのように見なして、近代明治国家による植民地主義の具体的実践として北海道や琉球の領有を捉えない。それはおかしいのではないかと思うのです。

同時に、朝鮮支配にしても、1910年という併合の年が突然現れたのではないわけで、アメリカ帝国によって浦賀沖で砲艦外交が行われた22年後の1875年、日本は江華島へ行って同じ砲艦外交を繰り広げて、朝鮮に対する一方的な様々な外交的な要求を行った。このとき以来、35年を費やして韓国を併合したという歴史過程があるわけです。つまり、1895年という日清戦争後の台湾領有によって、いよいよ日本は外に向かって行くことになったのだという近代の捉え方をするのではなくて、維新前後からそのような動きが始まっていたととらえなければならないと思います。米国や、それに追随したほかのヨーロッパ諸国によって行われた砲艦外交や不平等条約の強要を、日本がアジア近隣諸国に対して自分たちの責任において行った、そのような出発点が維新前後にあったのだというふうに捉える必要があると思います。

●転換がなかった戦後

続いて1945年の敗戦の問題です。私自身も何度も触れましたし、今まで多くの人々が触れてきたことです。なぜ日本は断絶なき戦後の始まりを迎えてしまったのか。なぜあの戦争犯罪を自分たち民衆の手によって裁くことができず、植民地支配の問題を自らの手によって提起することができず、なぜダラダラと天皇制の体制と官僚制を頂点とした体制が戦後も続いてしまったのか。

これも客観的な背景は、当然私たちは知っています。ドイツのように、ソ連赤軍がドイツ本土に攻め入ったわけではなかった。首都決戦に入ったわけではなかった。ヒトラーのように、最高責任者が自殺せざるを得ないような窮地に追い込まれたのでもなかった。議事堂にソ連の旗が翻ったのでもなかった。ドイツはあれだけ徹底的な戦いを首都においても経験したことによって、自分たちの無謀な戦争、ナチズムによって実践された戦争が本当に敗北したのだという事実を、否が応でも認めざるを得なかったわけです。それに比べると日本は、天皇や官僚体制中枢部はもとより、空襲を受けて悲惨な目に遭った住民も多かったはずの首都圏の大多数の人間も、自分の身に染みて敗戦の傷みを感じることはなかった。これは語弊のある表現だとは思いますが、戦後責任の取り方の問題として言っているのです。戦場の悲惨さは、地上戦を経験した沖縄と原爆を経験した広島・長崎に他人事のように押しつけておいて逃れる術があったということが、決定的な違いであったわけです。

そのような形で始まった戦後において、中国では内戦が続き、韓国では1948年に済州島蜂起が起こり、50年には朝鮮戦争が始まり、ベトナムではフランス軍とその後アメリカ軍に対する熾烈な戦争がありました。戦火はなお、ベトナムの場合、30年続くわけです。そのようなアジア情勢がありながら、日本は戦後の平和を、繁栄を、戦後民主主義を享受することができた。そのような関係の問題として、東アジアにおける戦後の日本を考えなければならないだろうと思います。

このことは、今日の集会のテーマであるサンフランシスコ体制・安保体制について考えることに他なりません。この時期の問題については、豊下楢彦さんの『安保条約の成立』(岩波新書、1996年)と『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫、2008年)という仕事によって、対日平和条約と日米安保条約がセットになった体制が、当時のどんな政治の力によって実現されたのか、十分信頼できる資料に基づいてわかるようになりました。これはもちろん、よくぞ持ちこたえた吉田外交という話ではなくて、天皇ヒロヒトが、度重なるマッカーサーとの会見の中で、自分の保身のために、日本の占領統治、憲法、沖縄統治についてアメリカにすすんで協力したという問題と繋がっているわけです。しかし、日本社会の中では、このような史実は十分に伝わってはいません。それはメディアの問題でもあるし、歴史教育の問題でもあるけれども、これからの私たちの課題となって残っているのだと思います。

●時間的なスパンを抱えつつ

60年安保の時代、僕は高校生でした。その後いろいろな本で、敗戦後の時代のことを学びました。しかし今振り返って思えば、この時代の学び方というのは僕の中でも非常に大きく欠落していたものがあったわけです。当時の僕にとって、主要な関心は、やはり、全学連を中心とした学生たちの国会突入闘争を初めとする、今まで見たこともないような新しい闘争形態に対する驚きや、共感であったし、あるいは左翼になれば共産党という時代が終わって、左翼になっても共産党ではない、別な考え方や動きがあるということの魅力であった。僕は当時から、党派的な場所を活動の場としては自覚的に選んでこなかった人間ですが、それにしても新左翼という思想と運動の台頭があって、この中には何か今までの、ソ連共産党や、それとイコールであった日本共産党に見られるような、どうにもならない考え方とは違う新しい考え方が出て来るかもしれないという期待を部外者ながら持った。そのような新しい運動形態の問題として、60年安保というものを見るきらいがあったわけです。その場合、60年安保が、その八年前にサンフランシスコ条約と一緒に結ばれた日米安保の何を変えて、どのような新しいものにしようとしたのか。そしてこの60年の安保改定によって、いわゆる本土の米軍基地は減ったけれども、沖縄の基地は倍増したという事実。こういうことについて知り、考えるようになったのは、もっと後になってからでした。

ある過去の時代をどのように捉えるのかというのは、やはり全体的な視野を持っていないと非常に一面的であったり、本質を見ないで、ある現状的な目新しさに目を奪われるものであるというのが、今の僕の感慨ですけれども、最後にまとめとして、これからどのように、というところをちょっとでも触れて終わりたいと思います。

さる都知事とか、二つの大都市の市の市長とか、固有名詞を口にすると口が腐るような気がするので、できるだけ固有名詞を言わない形で言及するように普段からしているのですが、この人たちに典型的なように、帝国主義は侵略戦争において何があった、こういう事件があった、こういう史実があったという、既に歴史的に立証されており、これを覆す事は至難の業であるというような問題に関して、彼らは、別に史実と対峙するわけではなく、くずしていくんですね。例えばさる市長のように、自分の爺さんだか親父さんは「君たちが言う虐殺の直後に南京に入っているけれども、大歓迎を受けている。もし虐殺が起こっていたらそんな事があり得ただろうか」というようなことを言う。82年の歴史教科書の問題が起こった時もそうです。例えば「朝鮮人大虐殺というけれども、関東大震災、1923年。日本人の巡査の中には、追われてきた朝鮮人を匿った立派な人もいたではないか」と言う。絶対的な事実を覆すことができないものだから、本当にその隅っこにあったかもしれない個人的なお話、エピソード、そういうものに依拠して何かものを言う。それがまるで既に立証されている歴史的事実に拮抗できるかのような演出をする。メディアの批判力がないので、それを突くことができないんです。それが非常に苛立たしいところなんですけれども。

これらの市長たちが言っている、あるいはそれに追随している一般書店の雑誌部門を占領している、手に取るのも嫌な雑誌たちの問題提起というのは、そのような水準のものです。しかしこれが今の社会の中では多くの人々の心を捉えているのは事実であるので、これに対して一体どういう有効な反論の仕方があるのだろうということは、共に考えたいと思います。決して軽視してはならない。

小林よしのりが、歴史教科書や慰安婦問題についていろいろ言い始めた時も、これはぜったい軽視すべきではないと思いながら僕もいろいろ読みました。当時も書きましたが、本当に嫌な漫画です、あいつの漫画は! 絵柄が嫌です。だから目を背けて、字だけ読んでいたんですね。そうすると今のような問題点がはっきり出て来るわけです。しかしあの絵に目を奪われ、心を奪われて読んでいる若い人たちが、同時代に大量に存在したことは事実です。それが何万部何十万部という売れ行きによって実証された。そこは私たちが逃げるべき場所ではないだろう。そこでどう有効に闘うかということを考えたいのです。

いろいろな活動も理論的な問題提起も、実るまでには時間がかかるので、本当にめげることがありますけれども、先程の新垣さんのお話にあったような、沖縄の闘争をずっと見ていても、あるいは世界各地の様々な侵略戦争や植民地支配に関わっての復権の活動を見ていても、弛まず問題提起することが、どこかで、何十年後かに──残念ながら何十年後かでしょう。五十年後であったり六十年後であったり、問題によっては十年後くらいに実を結ぶものがあるかもしれない。なかなか人間はそれほど賢くなくて、同じ過ちを何度も繰り返してしまう。これはもう前提の事実として認めなければならない。しかしそれでも問題提起を続けることによって、活動を続けることによって、その時期を少しでも早めることができる。冒頭に触れた侵略戦争と植民地支配、奴隷貿易、奴隷制度に関する遅々たる人類の歩みは、あきらめてはいけないということを呼びかけていると、僕は思うのです。問題提起を続ける人がいたから、世界の水準で、そこまでようやく来たんです。「ここまで来たんだから」というところで、僕たちは常に問題を前向きに捉えて、これからも様々な努力を続けたいと思います。

太田昌国の夢は夜ひらく[29] 都市ゲリラであった大統領のリオ演説の波紋


反天皇制運動『モンスター』31号(2012年8月7日発行)掲載

テレビはあまり見なくなったが、7月末のある日、どこかのチャンネルが、雨宮処凛と毛利嘉孝をスタジオに招いて、首相官邸前の原発再稼働反対デモをめぐる討論番組を放映することを知って、何気なく点けたままにしておいた。当世の番組だから、観ている誰でも、ツイッターで意見を寄せることができる視聴者参加型番組である。官邸前デモについては、いずれ触れる機会もあるだろう。きょうの話題は別だ。主要なテーマが終わって、「今週ツイッターでもっとも注目度が高かったテーマ一覧」というパネルが出て、一位から十位までのテーマが並んだ。他のテーマはひとつも頭に残っていないが、八位の「ムヒカ大統領演説」という文字だけが、私の目に跳びこんできた。その後の番組の流れの中では、1位か2位のテーマについての説明がなされたが、テーマも中身も覚えていない。

私は1年前からツイッターにはまっているが、その数日前に、私の「フォロワー」が紹介していたムヒカ演説を読んで、それを日本語で読むことができるウェブサイトを紹介し、ムヒカなる人物についての簡潔な情報を伝えたばかりであった。日本のマスメディアではまったく報道されていないムヒカ演説が、ツイッターの世界では次々と転送されて、テレビ番組が放映する「週間ベストテン」に入っていること–―そのことへの、新鮮な驚きが私にはあった。メディア状況は、それほどまでに、劇的な変化を遂げつつあることをあらためて実感したのである。

ムヒカとは、ホセ・アルベルト・ムヒカ・ゴルダノ(1935~)、南米ウルグアイの大統領である。2009年の選挙で当選し、2年有余前の2010年3月、大統領に就任した。話題となっている演説は、6月末にブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連持続可能な開発会議(Rio+20)」で行なわれた。翻訳は、ラテンアメリカに住む日系青年たちが運営するNikkei Youth Network のサイトにアップされたのだが、この原稿を書いている時点では接続不能なので、それをフォローした以下を挙げておく(ユーチューブで、生演説も視聴可能)→http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/archives/1706023.html

(これも接続不能な場合は、「ムヒカ演説」で検索できよう)。

演説内容は、しごく簡明――リオ会議は「持続可能な発展と世界の貧困をなくす」ことを目的とした会議だが、無限の消費と発展を求めてきたのが私たちであることを顧みるなら、残酷な競争によって成り立つ消費資本主義社会が孕む問題を放置したまま、共存共栄の論理を語ることは不可能。問題の本質は、環境危機ではなく、問題の本質に向き合わない政治危機なのだ、と要約できよう。

この演説がネット上で熱い共感を呼んでいるのは、昨今の首相や大統領には珍しい「論理」と「倫理」を兼ね備えた内容が、ここにあるからだろう。私がツイッター上で付け加えたのは、ムヒカの「前歴」である。1960年代から70年代初頭にかけて、ウルグアイでは反体制都市ゲリラ「トゥパマロス」が活発に行動していた。トゥパマロスは、その政治的倫理の高さと作戦活動のめざましさで、一時代を画した。ムヒカはそのメンバーで、何度も逮捕された。しかし、彼は二度も脱獄した。獄外の仲間が、刑務所に近い家屋の床下から牢獄へ向けてトンネルを開通させ、それを伝って脱走したのである。1972年の軍事クーデタ後に徹底した弾圧を受けた。辛うじて生き延びたメンバーの一部が、民主化の過程以降、政党を結成し、政治の世界に進出した。そのような人物を、およそ40年を経て一般選挙で大統領に当選させるウルグアイ民衆の政治的・社会的「成熟ぶり」が眩しい。ある時代に、信念に基づいて法を犯した者が、刑期を終えてのち、社会的に復権することを保証している人びとの「寛大さ」に打たれるのである。その人物が77歳のいま、40年の時間を超えて持続していたゲリラ時代の初志を大統領として国際会議で披歴し、その演説を貫く理想主義に、およそ政治家なるものへは不信感しか持たない他地域の人びとが感銘を受けている。

ツイッターを含めたネット世界での「精神的交通」、侮るべからず。そう、思った。

(8月4日記)

沈黙の表情が語りかけるもの――ヤン・ヨンヒの3部作を見る


『映画芸術』第440号(2012年夏号)掲載

独裁体制下にある他国を描く方法は、簡単だ。独裁支配とは、歴史上のどの時代、どの国を取り上げても、実に奇奇怪怪な実態をもつものだから、にわかには信じがたいまでのその奇怪さ、恐怖、独裁者の放埓な独善ぶりなどを、まずは繰り返し描き出せばよい。続けて、その社会で言論と行動の自由を許されていない民衆が、いかに画一的な生を強いられているか、誰もが同じ表情、同じ口調で、ただひとつのことしか言わない不思議な光景を付け加えるのだ。これで完了だ、隣の或る国を、理解不能な、したがって対話も不可能な存在として、こちら側の人間たちに納得させるためには。

2002年9月17日以降の日本社会は、まさしく、この通りになった。日朝首脳会談において相手国の首脳が日本人拉致の事実を認め謝罪して以降のことである。朝鮮を独裁支配している指導者を嘲笑し、支配下の民衆を笑うことすらない感情を欠いた存在として画一的に描くこと。これ、である。この民族主義的な情念の噴出を前にしては、歴史的な過程の中で二国間関係を捉えて冷静な議論を呼びかける少数者の声は、ほとんど掻き消された。

在日朝鮮人の映像作家、梁英姫はその真っ只中に登場した。まずは2005年『ディア・ピョンヤン』である。作家の父親は、朝鮮の指導者を一途に信奉する在日朝鮮総連の関西地区幹部であるが、家庭ではステテコ姿で酒を飲みながら、時にはポロリと本音を漏らしたりもする気さくな一面もある(母親の役割も重要だが、ここでは焦点が当てられている対象を考えて、「父親」と表現する)。娘である作家は、朝鮮大学校を卒業するまでは辛うじて父親の方針の下で育ったが、女優、ラジオパーソナリティ、映像作家と職遍歴を重ねながら世界各地を歩いて、自由な気風を内面に育てる。朝鮮指導部への忠誠を誓う父親には違和感と批判を持つが、同時に一個の人間としては愛さずにはいられない存在でもある。カメラは、この二つの間を往き来する。政治的な教条主義と日常生活での意外な素顔の対比がきわめて印象的で、つい笑いと涙を誘われたり、この人物に対する親しみを感じさせたりもする描き方になっている。過去を封印してきた父親は、カメラを持った娘の執拗な問いに次第に心を開くようになる。ついには、帰国事業で朝鮮に「帰国」させた三人の息子について、その後の現実を知るだけに、「行かせなくてもよかったかもしれん」とまで呟いてしまう。ドキュメンタリストとしての作家の資質を余すところなく証明している一シーンである。

次の作品、2009年の『愛しきソナ』は、帰国した兄の娘、ソナを軸に描いたドキュメンタリーである。作家自らが朝鮮を訪問して、兄たちの家族の生活の中にカメラを持ち込む。この撮影方法は、朝鮮では、めったに許されることのなかった稀有な例外だけに、決まりきった構図でしか朝鮮の姿を知らなかった私たちには、映像それ自体がまず新たな情報の宝庫である。率直には言葉を発することのできない登場人物(兄たち、その妻たち、そして訪朝した両親)の、その時々の表情、沈黙、立ち居振る舞いもまた、重要な情報を私たちに伝える。この作家は、沈黙の表情に物を言わせるのがうまい。だが、作家の姪、幼いソナは、カメラを前にしてもあくまでも天真爛漫だ。あの国は、電力不足による停電が日常茶飯事だが、ある夜、電気が消えるとソナは叫んでしまう。「停電中のこの家はとてもカッコいいです。おお、停電だ。栄えある停電であります!」。もちろん、あの国で許されている唯一の言語体系である「偉大な指導者」に捧げる慣用句風に、あの有名な女性テレビアナウンサーの口調を真似ながら、言うのである。

きわどい表現を含んだ『ディア・ピョンヤン』の公開によって、作家はあの国への出入りを禁じられた。愛する父親は亡くなった。兄の一人も病死した。次の作品を映像で企画するとしても、もはやドキュメンタリーの道は閉ざされていた。選ばれた道は、当然にも。フィクションへの転位である。こうして、2012年の『かぞくのくに』は生まれた。作家自らがシナリオの筆を執った。

あの国へ渡った兄が帰ってきた(物語は、それを待望していた妹の視点を軸に展開する。それは作家自身の視点でもあろう)。治療の難しい病気に罹り、3ヵ月間限定での帰国が特別に許可されたのだ。25年ぶりの懐かしい再会。しかし、日が経つにつれて、「兄が奥さんと息子と住むあの国」と「私が両親と住んでいるこの国」との間には、思いがけないほどの距離があることがわかってくる。しかも、兄には監視役の付添いがいる、あの国から。どこへ行くにも、彼が付き纏うのである。そして……。

物語の紹介はここで留めよう。シナリオは綿密に練られている。作家の実体験に基づく挿話が随所に生かされていよう。そのきめ細やかな設定が、物語に膨らみと深みを与えている。宮崎美子演じる母親の表情と姿が、どのシーンでも切ない。特に、あの国に帰る監視員にも背広を新調してやり、三人の子どもへの土産も持たせるという「配慮」を示す場面は、監視員を演じるヤン・イクチュンの表情ともども忘れ難い。監視員はまた、主人公の妹(安藤サクラ)に「あなたも、あの国も大嫌い」と言われて、「あなたが嫌いなあの国で、私も、あなたのお兄さんも生きているんです。死ぬまで生きるんです」とだけ答える。作家はここで、独裁下に生きる一人ひとりの人間の心の襞を感じとるよう、観客に呼びかけているように思える。25年前の「帰国」時と同じように今もあの国の体制に対して煮え切らぬ態度を取り続けて、息子の怒りを買う父親(津嘉山正種)も、その表情にはいつも苦悩の(そう言ってよければ、悔悟の)色が漂っているようだ。作家は、それぞれの登場人物がありきたりの言動に終始することを巧みに避け、言葉と表情を通して、多面的な存在として描き出している。「典型」に甘んじさせないのだ。他者を〈単一の〉存在として捉えるのではなく。一人ひとりが、揺らぎや葛藤や嘘や自己矛盾すら抱えた人間として描くことで、自己をさらけ出したその地点から、人間同士の新たな関係性が開けていくことに希望を託しているようだ。

帰国する主人公を演じるARATA改め井浦新は、台詞と表情と所作全体で、今回も特異な雰囲気を醸し出している。今後も注目したい俳優だ。監督およびスタッフの力量に加えて、キャスティングの的確さが、この作品の成功を導いたと思える。

10年前の「9・17」以降の、日本の特殊な社会・言論状況のさなかに差し出された梁英姫の3部作の大切さを、どこよりも、この社会に生きる私たちが感受したい。この小さな文章の冒頭に書いた問題意識に照らして、そう思う。

(7月2日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[28]オスプレイ配備は、事前協議によって拒否できる


反天皇制運動連絡会『モンスター』30号(2012年7月10日発行)掲載

米海兵隊御用達の航空機・オスプレイospreyは、「ミサゴ」の意である。「わしたか科の大形の鳥で、海岸の岩や入り江などに住み、するどい爪で魚をとらえて食べる」と簡便な辞書にはある。古代・中世の歴史を欠き、移民国家として高々二百数十年の歴史しか持たない米国は、開発する武器や展開する軍事作戦の名称に、征服した先住民族(インディアン)の母語に由来する名詞や、猛々しい鳥類の名称や、「不朽の自由作戦」や「トモダチ作戦」などという、米国以外の地域に住む人間なら顔も赤らむ名称を、臆面もなく付す伝統がある。オスプレイは、猛禽類から来る名称である。

「敵」ながら、言い得て妙な、名づけである。侵略部隊としての米海兵隊がオスプレイを重用するということは、従来なら上陸用舟艇に頼っていた上陸作戦(それは、当然にも、陸地に構える「敵」から丸見えである)の様態を一新する手段を得たことを意味している。水平線の彼方から突如として現われるオスプレイは、最大速力・時速520キロメートルで飛行できるのだが、その輸送能力は、兵員数24名と武器などの物資(15トン)である。持てるその獰猛な暴力によって「敵」を鷲掴みにするというのであろう。

オスプレイの日本配備(厳密にいうなら、沖縄配備)の道を掃き清めるために、日本国防衛省が「MV-22オスプレイ——米海兵隊の最新鋭の航空機」と題するA4で22頁の小冊子を関係各所に配布したのは、去る6月13日であった。同日夕刻(米国時間)、フロリダ州ナヴァレ北部のエグリン射撃場でCV-22オスプレイが墜落し、搭乗員5名が負傷した。4月11日にはMV機がモロッコでの軍事演習中に墜落したばかりだから、事故確率が高いという印象が否めない。冊子には翌14日に配布された分もあったが、それには事故発生だけを伝える素っ気ないビラが一枚挟み込まれた。

この冊子によれば、オスプレイは「ヘリコプターのような垂直離着陸機能と、固定翼機の長所である速さや長い航続距離という両者の利点を持ち合わせた航空機」とされている。「回転翼を上へ向けた状態ではホバリングが可能となり、前方へ向けた状態では高速で飛行することができ」、「MV-22は、現在配備されているCH-46と比較して、最大速度は約2倍、搭載量は約3倍、行動半径は約4倍になる」という。ヘリコプター機能を持つことで滑走路を必要としない点が、一層の効果的な運用を可能にするのだろう。冊子には、飛行高度と騒音の関係表もあるが、下限は500フィート(150メートル)だから、超低空飛行も行なうのである。その他「運用・任務」「安全性」「騒音」「沖縄での運用」などの項目ごとに、ごく簡単な説明がなされている。

全体としてみれば、事故率を低く見せかけ、騒音は「前機より軽減」され、環境への影響なども「特段なし」とみなすなど、米軍が提供した資料をそのまま翻訳しただけの代物であることが透けて見える。危険性が高いこのオスプレイ配備が発表されるや、沖縄はもとより低空飛行訓練が予定されている全国各地から、厳しい批判の動きが高まっている。無視できなくなった政府は、一応、せめて「配備延期」要請を行なう程度の対米交渉は行なったらしいことを明らかにしている。官房長官は「米国と何度も交渉したが、押し返せなかった。米国は日米安保条約上の権利だと主張した」と語った。防衛相は「日本政府に条約上のマンダート(権限)はない」と述べている。1960年の条約改定時に「安保条約六条の実施に関する交換公文」が交わされ、米政府は、在日米軍に関する①重要な配置の変更、②重要な装備の変更、③日本国内の基地から行われる戦闘作戦行動——の3項目については、事前協議することが規定されている。協議があれば、日本政府が自主的に諾否を判断するというのが政府の立場であるが、事前協議は一度として行なわれていない。自民党時代はもとより、民主党政権になっても、日米安保を容認することが、そのまま、占領時代さながらに米軍の特権を容認し続けることに直結している。米軍の140機のオスプレイは、今年3月現在、東はノースカロライナ、西はカリフォルニアとハワイの米国内に配備されている。米国本土を初めて離れて、オスプレイは日本→沖縄へ向かっている。日米軍事協力体制は、こうして、世界にも稀な「異常な」性格を有している。(7月7日記)

『棺一基 大道寺将司全句集』刊行に寄せて 


『北海道新聞』2012年6月20日夕刊掲載

去る4月に刊行されたばかりの句集がある。『棺一基 大道寺将司全句集』と題されている(太田出版)。作者は現在64歳。27歳のとき企業爆破事件の被疑者として逮捕され、その後死刑が確定しているから、獄中生活は37年間に及んでいる。2年前から多発性骨髄腫を病み、その後闘病中である。因みに、釧路出身で、高校卒業時までそこに暮らした。

作者が俳句をつくり始めたのは、16年ほど前のことである。当時は存命中であった母親宛ての手紙の末尾に一句を添えるようになった。最初の句は、「友が病む獄舎の冬の安けしを」であった。それを手始めにつくられた、およそ1200句が本書には収録されている。わずか17文字の作品であるが、文学表現としての自立性は高いから、作者の実生活上の経歴を離れて作品それ自体を鑑賞することは、もちろん、可能であり、本来はそれが好ましい読み方なのであろう。

同時に、作者の稀な境遇を知ってしまえば、それに即した読み方が可能になり、読者からすれば、それによって読みが深まるということも否定し得ない事実である。1970年代初頭当時の作者たちは、戦争責任に頬かむりしたままの戦後日本国家と大企業の責任を問うて、爆弾を用いて象徴的な建造物に対する一連の爆破行為を行なった。それは、三菱重工ビルを目標としたときに、8人の死者をはじめとする多数の重軽傷者を生んだ。人的殺傷は意図していなかったから、本人たちにとっても結果は衝撃的だった。

大道寺俳句はこの事実に向き合おうとする。「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ/春雷に死者たちの声重なれり/方寸に悔数多くあり麦の秋/死は罪の償ひなるや金亀子/まなうらに死者の陰画や秋の暮/ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな/夢でまた人危めけり霹靂神/笹鳴や未明に開く懺悔録/いなびかりせんなき悔いのまた溢る/ででむしやまなうら過る死者の影/寝ねかねて自照はてなし梅雨じめり……」

句集は今回で3冊目、獄中書簡集も2冊刊行している。自著を出版できるというのは、一般的には晴れがましいことだが、彼は最初の本を刊行したとき以来、その思いを自らに禁じているように見える。被害者との〈絶対的な関係性〉において自己の存在があることを、片時も忘れることはないからである。そして、これらの表現が、死者の無念さに届いているか、家族の怒りと憎しみに届いているか――そう問われるならば、それが不可能であることを、作者はおそらく知っている。だからこそ、再び、句をつくる。その〈思いの深さ〉は、第三者でしかない私たち読者は、容易には感受できないものであろう。

『棺一基』は、作者と交流のある作家・辺見庸氏の強い勧めによって実現した。辺見氏のこの間のエッセイには、大道寺俳句と彼自身に触れたものが散見される。それらが「跋文」として収録され、さらに新たに書かれた「序文」が読書案内の役割を果たしてくれる。

31文字で表現される短歌の場合、その抒情性において読む者の心に訴える作品があり得る。それがうまくいっていない場合なら「抒情に流れすぎる」との批評も可能だ。短歌よりわずか14文字少ないだけだが、俳句の場合はそうはならない。抒情も思いも断ち切った、ギリギリの表現。それが、句境の深まりとなった稀有な例が『棺一基』である。

絵が浮かぶ句「独房の点景とせむ柿一個」。香りが漂う句「遠くまで沈丁の香を追い掛けし」。実存句「身を捨つる論理貧しく着膨れぬ」。獄中でも感じられるささやかな季節の変わり目を告げる句「女囚らの声華やげる弥生かな」。狭い独房から生まれた多様な世界が、そこにはある。

私が好きな一句は「風に立つそのコスモスに連帯す」である。「コスモス」を作者の名に置き換えて、季語を欠いたその句をそっと呟いてみる。

太田昌国の夢は夜ひらく[27]オウム真理教事件報道と権力の変幻自在さ


『反天皇制運動モンスター』29号(2012年6月12日発行)掲載

「NHKスペシャル 未解決事件」でオウム真理教事件が取り上げられた(5月26~27日)。NHKが独自に入手したという七百本を超える教団内部の音声テープや元信者・元警察官の証言を基に実録ドラマとドキュメンタリーの手法を組み合わせて、事件の原因や教団の実態を複眼的に描こうとした、と番組の惹句にはある。

決定的ともいうべき内容的な欠陥がひとつある。坂本弁護士事件と松本サリン事件の捜査に当たった神奈川県警と長野県警の元警察官の取材を行ないながら、聖域にして踏み込まなかった問題があるからである。両県警の元警察官は、それぞれ、「オウムとサリン」の関係を疑い、あと一歩で摘発できる寸前までいっていた、と語る。今はすべての「サティアン」が撤去されている、上九一色村の茫々たる廃墟に立たせて、そう語らせるのである。思わせぶりたっぷりと。

NHKの取材グループは、映像記録や音声記録以外にも、膨大な文字記録も読み込んで、番組を構成したに違いない。そこには、麻原氏の国選弁護人であった渡辺脩氏の二著もあったに違いない。なければならない。『麻原裁判の法廷から』(和多田進氏との対談、晩聲社、1998年)と『麻原を死刑にして、それで済むのか?』(三五館、2004年)である。もちろん、もっと一般的な関連書でもいい。それらを読めば、松本サリン事件(1994年)や地下鉄サリン事件(1995年)よりはるか以前の坂本弁護士事件(1989年)にこそ、問題究明のカギがあることを知ったに違いない。なぜなら、神奈川県警はこの事件の捜査を徹底的にサボタージュしたからである。発端は1980年代半ばの事件だが、神奈川県警警察官が共産党幹部の自宅の電話盗聴を行なっていた事件が明るみに出た。

坂本氏が属していた弁護士事務所は、この一件で県警を追及する立場にあった。県警は、そこで対抗心から、坂本一家失踪事件に「事件性は薄い」との立場を貫いた。失踪現場には、オウムとの関連性を強く疑わせる証拠物件があったにもかかわらず。江川紹子の言によれば、県警は、坂本弁護士の「借金まみれの逃亡」「大金持ち逃げ」「過激派内部の内ゲバ」などの諸説を一部メディアに漏らしさえしている。

これに劣らず重大なことがある。この事件に加担した信者のひとりは、事件の数ヵ月後、教団と対立し後者を脅す目的で、坂本弁護士らの遺体を埋めた場所を明かす地図を県警に送っている。だが県警は、この「密告者」に対する取り調べも埋葬現場での引き当たりも行なわず、遺体発掘に最も不適切な積雪期に捜索したために遺体発見に至らず、というような信じがたい怠慢捜査しか行なわなかった。遺体発見は、したがって、オウム一斉摘発後の1995年9月であった。「タレこみ」から、実に5年有余の年月が流れていた。その間に、松本サリン事件と地下鉄サリン事件が起こったのである。

問題の本質は、だから、元警察官に「オウム追及まで、あと一歩のところまで来ていたのに」と詠嘆的に語らせるところには、ない。それは、むしろ、本質を故意に歪める効果をもつ。神奈川県警が坂本弁護士事件の真剣な捜査を怠ったことが、二つのサリン事件での膨大な犠牲者を生み出し、また、宗教的な救済を求めていただけの悩める若い信者たちを許しがたい犯罪に走らせる結果につながったのである。この事実が描かれれば、オウム真理教問題の見え方は一変する。NHKの番組は、舞台設定をまったく誤ったと言うべきであるが、ことが警察・検察権力のあり方に深く関わることである以上、私たちはこれを、社会の普遍的な病巣に手を届かせる契機に転化できると考えればよいだろう。

番組は、ひとつだけ重要なことを明らかにした。国軍でもない一民間宗教団体がいかにして技術的にサリン製造に至ったのか。米軍の一高官がそれを究明するために、サリン開発に関わった複数の確定死刑囚との面会を東京拘置所で重ねているというのである。国家としての米国は、やはり、ただものではない。自国の安全保障の観点からみて重要な情報はすべてホワイトハウスとペンタゴンに集中させよ。この気迫を前に、確定死刑囚との交通を厳しく制限している日本の法務当局は、あえなく拝跪したのであろう。神奈川県警といい、日本法務省といい、権力は実に変幻自在である。(6月9日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[26]米日「主従」関係を自己暴露する、耐え難い言葉について


『反天皇制運動モンスター』第28号(2012年5月15日発行)掲載

一、「TPP(環太平洋経済連携協定)をビートルズに喩えれば、日本はポール・マッカートニーのようなもの。ポールなしのビートルズは考えられない。ジョン・レノンはもちろんアメリカです。この二人がきっちりハーモニーしなければならない」

二、「自分はバスケットボールのポイントガード。チームワークを重んじる。目立つ選手ではないが、結果を残していく」

前者は、3月24日、日本の現首相がTPP加盟を推進する意向を強調して行なった、東京における講演の一節である。私は、この日、いつものながらでテレビのニュースをつけていて、喩えの出鱈目さに驚倒して耳をそばだてた。全体を聞き取った自信はなかったが、事後的に調べると発言の内容は確かにこうであった。

後者は、4月30日、ワシントンを訪れた日本首相が、米国大統領との会談時に行なった発言だ。これも、いくつかのルートで確認した。バスケットボールに詳しくはないが、ポイントガードとは、知る人が言うところでは、ドリブルして主役にいい球をパスする役割だという。スポーツ競技での役割分担として見るなら麗しいことだが、政治の場で使うべき喩えとは言えない。バスケット好きのオバマの気を惹くために、外務官僚が思いついて首相に焚きつけた文句なのだろう。「主役」は、もちろん、米国大統領であり、共同会見時には首相はその人物を「相手守備に切り込んで得点を稼ぐパワーフォワードだ」とまで持ち上げたという。これに対して大統領は「首相は柔道の専門家、黒帯だ。記者団から不適切な質問が出たら、守ってくれるだろう」と応じたという挿話さえ付け足されている。

私は、民族的義憤とも国民的憤怒とも無縁な人間なので、その種の思いはない。しかし、人間としての、譬えようもない恥じの感覚が、この一連の言葉を聞いて生まれる。自虐的な、あまりに自虐的な! ウィットからも、文学的・芸能的なセンスからも限りなく遠い、おべっかとへつらい。他人事ながら、恥じらいのあまり身悶えるほどである。他人事とはいっても、私が否応なく所属させられている国家社会にあって、政治的代表であることを表象する人物の言動が、これなのである。

その恥じらいは、翌日には憤怒と化す。5月1日付け読売新聞は言う。「大統領選挙まで半年となり、活動の多くを全米各地の遊説に費やしている大統領が野田首相がらみで約3時間の時間を割くのは、首相への期待度の高さを物語る」。同じ記事が、加えて言うには、リチャード・アーミテージ元国務副長官は、仙石由人などの超党派議員訪米団と会見し、歴代首相で誰を評価しているかと問われて(そんな頓馬な質問をする議員がいることも驚きであり、恥じでもあるが)「一に中曽根、二に小泉。その二人に野田は匹敵する。日米同盟の意義を理解しており、消費税やTPPも一生懸命やっている」と答えたという(ワシントン支局・中島健太郎記者)。

どのエピソードからも、「主人と下僕」という関係を内面化している政治家とジャーナリストが記した言葉であることが、否定しようもなく立ち上ってくる。これらは、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が、不可分の一セットで発効した1952年4月28日から、60年目を迎える日々に吐かれた言葉である。

『続 重光葵手記』(中央公論社、1988年)によれば、60年前の日々対米交渉に当たっていた外相の同氏は、那須で天皇裕仁から「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」との「下賜」を受けた(55年8月20日)。駐留米軍全面撤退構想すら持っていた重光は、なぜかそれを取り下げ、今日まで続く「主従」としての米日関係が固定化し始めた。それは、沖縄を切り捨て、日米一体となってそこへの植民地主義的支配を貫徹してゆくことになる節目の日々であった。

沖縄の「役割」を軸にした、自民党政権時にも不可能であった水準の米日主従関係の固定化――私たちが直面している事態は、これである。これへの反発を反米民族主義として表現しないためには、1952年(講和条約+日米安保)→1972年(「復帰」=再併合)→2012年(現在)より射程を伸ばし、1879年(琉球の武力併合)以来の植民地主義史として捉え返すことで、ようやく主体的な問題設定となると思う。(5月12日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[25]「海上の道」をたどる軍事力の展開――70年前の史実と、現在と


反天皇制運動『モンスター』27号(2012年4月10日発行)掲載

オーストラリア連邦北部ノーザンテリトリ準州にダーウィンという町がある。ティモール海に面し、オーストラリアのなかではもっともアジアに近い町だ。真珠湾奇襲攻撃から2ヵ月後の1942年2月、日本軍はこの町を空襲した。日本軍がオランダ領東インド諸島(その後のインドネシア)を占領したことに対して、連合国側がオーストラリア北部にある基地から反撃に出ることを封じるための先制攻撃である。日本軍占領によって追われた植民者・オランダ人の一部がオーストラリアへ逃げ、日本軍は続けてティモールをも占領した史実を重ね合せると、確かにオーストラリア北部はアジア多島海の延長上に位置する地勢上の要件を備えていることがわかる。

このダーウィンに、去る4月3日、米海兵隊の第一陣二百人が本拠地ハワイから到着した。昨年11月、豪州を訪問した米国大統領は、豪首相との会談で、ダーウィン近郊の豪軍施設を利用して米海兵隊を駐留させることで合意した。五年後の2017年(ロシア革命百周年! と書いても、虚しくも意味ないか)には2千5百人規模にする計画である。70年前の日本軍の海洋展開を頭に描きながら、中国の「海洋進出」を警戒して仕組まれた米豪軍事協力体制が確立したのである。米国はさらに、豪西部パースの海軍基地の利用拡大や、インド洋の豪領ココス諸島を無人機基地として利用する可能性も検討しているという情報もある(4月5日付しんぶん赤旗)。世界規模での米軍再編は、豪州地域で先行的に展開されている。去る2月の米豪軍事共同訓練には日本の航空自衛隊が初めて参加しており、さらに経済面では日本はオーストラリアにとっての最大の貿易相手国であることを考え合わせると、私たちが日常感覚として持つ「オーストラリアの遠さ」は、為政者たちが取り仕切る政治・経済・軍事の領域での実態とはかけ離れているのであろう。

ここから、二つの問題を考えておきたい。一つ目は「米軍の世界展開」の現状である。昨年末時点での米国防総省の統計に基づいた数字がある(3月25日付朝日新聞)。米国内の基地と領海には122万人の兵士がいる。国外には30万人の兵士が駐留している。合計152万人の兵士を抱え、年間軍事支出は50兆円に上る。特徴的なことを挙げてみる。

一、ドイツに5万3526人、イタリアに1万817人、日本に3万6708人の米兵士が駐留している。欧州とアジア太平洋の枠組みでそれぞれを見ると、いずれも突出した数字である。第2次大戦の敗戦国への「仕打ち」が60年有余以後の今なお継続している。帝国主義間戦争とはいえ、日独伊がファシズム国家であったことから、連合国側は道義的な「優位性」を保持し得たが、その「成果」を米国が独り占めして現在に至っている。

二、アフガニスタンには9万1千人の兵士が駐留している。イラクからは完全撤退したが、クウェートなど周辺地域には4万人程度を残していることからわかるように、原油確保とイランに向けた戦略は十分に担保されている。

三、中南米・カナダの駐留数は1970人とされている。中南米は、かつてなら「裏庭」意識で思うがままに利用してきた地域だが、政権レベルでも民衆レベルでも対米従属を絶ち、自立的な動きが高まった結果と見るべきだろう。東アジア、日本にとって、もって他山の石となすべき教訓だと言える。

二つ目は「北朝鮮が打ち上げる『衛星』に対する破壊措置令」の意図である。部品落下の可能性に向けての措置としては、きわめて異常な警戒態勢が準備されている。沖縄本島、宮古島、石垣島へ地上発射型迎撃ミサイルPAC3を配備したことは、2010年の「防衛計画の大綱」が言及した、中国を意識しての「南西防衛」構想の具体化のための一里塚であろう。日米軍事同盟の下にある限り、この構想は「海上の道」をたどって、冒頭で見た米豪軍事協力体制とも結びつくだろう。

どの国の為政者も、隣国の軍事的脅威を言い募っては、自国の軍事力強化の口実としている。東アジアのこの悪循環を断ち切るために「他山の石」から知恵を得たい。切に、そう思う。(4月7日記)

破壊しに、とわれらは言う――「民衆運動の同時代性」なるものに関わる一視点


『季刊ピープルズ・プラン』57号(ピープルズ・プラン研究所、2012年3月刊行)掲載

1960年代後半の東京には、アナキズムに心情的な共感を寄せる一定数の学生がいた。私もその中の一員だった。フランス1848年革命の前と後の時代に、ルイ・オーギュスト・ブランキが情勢をいかに捉え、いかに行動し、いかに幽閉されたかにまつわる魅力的な話を年長者から聴いた夜だったか、話は、ボリシェヴィキの革命が、その初心を貫くことができずに、常に歪められ、裏切られてゆくのはなぜか、それこそ、前衛党と、それが指導して建設されるはずの新しい国家を絶対化する彼らの思考と実践のあり方に由来するものだ、と討論は進んだ。ところで、そうならない保証はどこに? 年長者が言うには、ある革命が起こったら、前衛党主義者ではないわれわれが、その権威化・権力化を阻止するためにそれを壊すこと。要は、つくっては壊し、つくっては壊しだよ。それを繰り返すしか他に方法はないんだ。ふーん、かくめいって疲れるものなんですねえ。一時(いっとき)の高揚なら、祭りのように楽しめるものを、四六時中緊張していなけりゃならないなんて――そんな軽口をたたきながらも、まだ若く20代前半であった私(たち)は、そんな未来を考えることが、まっとうな夢であり希望であるような日々を生きていた。

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(2011年1月のエジプト)革命前夜、広場では次の大統領候補について、あちこちで議論の輪ができていた。土産物屋の店員、ムハンマド・ハムシャリーは「(次の大統領は)副大統領(当時)のスレイマーンだって、かまいやしない」と言った。しかし、スレイマーンではムバラークと同じではないかと反論すると、彼はあっさりこう言った。「奴が変わらなければ、また僕たちがデモをすればいいのさ」

既成の権力に代わる新たな権力や政策の代案を創るよりも、眼前の倫理に反する権力に対し、ひたすら叛逆し続けること。そうした生き方に価値を置くこと。青年たちの精神はアナキストのそれだった。ハムシャリーの台詞は、戦前の日本における叛逆者の一人、金子文子を想起させた。

田原牧『中東民衆革命の真実――エジプト現地レポート』(集英社新書、2011年)

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O 君は若いころから、レボルト社の『世界革命運動情報』の編集・刊行・販売に関わり、40~45年後の今となっては「夢」のような、革命の同時代性に惹きつけられていたようだった。その後長じてからも、世界各地の政治・社会の動きに一種の「同時代性」がうかがえることに留意した発言をしてきたように思える。そんな君は、現在の世界の状況をどう見ているのか。昨今のありふれた言説と言えば、こういうものだ――すなわち、米国発祥の金融危機は資本主義の、そう言ってよければ「死の苦悶」だが、それに加えてヨーロッパも債務危機に見舞われており、あたかも世界恐慌前夜の様相を呈し始めている。この危機的な状況を前に、世界各地の民衆はそれぞれ独自の形で新しい運動を展開しており、それは大きなうねりとなっている。「アラブの春」を見よ、財政緊縮政策に抗議するヨーロッパ諸国の民衆運動を見よ、1%の独占に抗議する99%の人びとのたたかいという象徴的な表現を生み出した米国のたたかいを見よ、というわけだ。そしてそこに、日本における反原発運動の高揚を付け加えることも、ありふれた流儀だ。これは本当に「同時代性」なのだろうか。仮にそうだとすれば、その「同時代性」は何を物語るものなのだろう。君の考えを聞かせてくれないか。

M 世界の動きを新聞とテレビの大メディアだけで知る時代はとうに終わった。背後にいる資本の利害を忠実に反映して、報道すべきニュースを選択し、隠蔽したい事実は報道せず、したがって表層に流れる組織的大メディアの報道は、個人や小集団が発信するインターネット情報によって乗り越えられつつある。しかし、それもまた玉石混交であり、しかも厖大だからすべてに接しそれを咀嚼することはできず、信頼しうる発信源に行き着くには、かなりの努力と時間が要る。私にはそれができていると言い切る自信は、とてもじゃないが、ない。自信がない分は、(それがあると仮定して)過去の蓄積と、勘に頼るというのが正直なところだ。最近では、大メディアが世界の民衆運動の中でもニューヨークの占拠運動を突出して取り上げたという傾向に対して、インターネット情報に基づいて、別な視点を提示したいと思った。

O 君は、オキュペイション(占拠)という語感には、米国国家が世界各地で繰り広げてきた植民地主義的「占領」を連想して〈引いてしまう〉とか、自分たちは「99%」だと言って誇る多数派とは、数値として対アフガニスタン・イラク攻撃に賛成した人間を含めないと成立しない数字だといって、警戒する見解を発表して(註1)、ネット上で若干の物議を醸したな。

M その運動を全面否定したわけでもないし、基本精神には共感するとしたうえでの、部分的な、しかし歴史的な把握の観点では重要な、問題提起のつもりだった。米国発だとなんでも肯定的に受け入れるという受容の仕方に対する批判の一環だった。事実、広場や街頭の占拠運動の出発点は、今でこそ知られているが、2011年5月15日、スペインの首都マドリードのプエルタ・デル・ソル(太陽の門)広場で行なわれた(註2)。「15-M」と書いて、スペイン語で「キンセ・デ・エメ」と発音される。日本で私たちがよく使う「5・15」という感じだ。この日、マドリードでは数万人の人びとが集まって、「今こそ真の民主主義を!」を合言葉に、示威行進を繰り広げた。バルセロナでは1万5千人、スペイン全土で15万人が参加したという。

O 「15-M」にしても、突如始まったわけではなくそれに先行する象徴的な行動があったと聞いたことがある。

M 例のフラメンコ集団のことだね。前年の2010年末ころから、スペイン南部のアンダルシア州を中心に、大銀行の店内で突然フラメンコを踊り出す数十名の男女が出没するようになった。「バンケーロ(銀行家)! あんたは財布を握り、私はスッカラカン」と歌いながら、数分間銀行を占拠したのだという。この、傍から見ても愉快な行動には、二重の意味があると思う。アンダルシアは伝統的にスペインでも最も貧しい地域で、アラブ人、北アフリカのベルベル人、ロマ、スペイン系ユダヤ人、アフリカ黒人など多地域から住民が集まり、独特の芸術表現が花開いた地域だ。フラメンコは、かつてジプシーと呼ばれたロマの人びとがホェルガ(どんちゃんさわぎ)の場で育んだ舞踏音楽で、今では商業化した面もあるが、根強いロマ差別がある社会にあっては、他者にも一目おかせる有力な自己表現の一方法でもある。だから、根づいた文化表現を通しての抵抗運動であることが、意義の一つ目。私もなんどか観ているが、フラメンコは、なんたってカッコいい。現場に居合わせた人は、最初は度胆を抜かれ、いつしか喝采をおくるしかなかったと思う。次いで、2003年3月、米英首脳と並んでイラク攻撃の道を掃き清めたのは、当時のスペイン首相アスナールだったが、彼は1996年の首相就任以来、米英政治指導部の政治・経済政策に一体化していた。つまり、新自由主義政策の忠実な実行者であったのだが、その結果、実態経済を離れた地点でマネーが舞う金融操作主体の経済に堕している現実を、フラメンコ集団は大銀行を占拠したり、その門前で踊ったりするという象徴的行為で暴いた。スペインはその後、社会労働党のサパテロ政権に移行してはいたのだが、新自由主義政策からの大胆な転換を図るという意味では無為無策だった。その現実を白日の下に曝したこと、それがふたつ目の意義だ。

O 1973年のチリ軍事クーデタを契機に20世紀末までの数十年間、世界に先駆けて新自由主義経済政策に翻弄されて、世界銀行やIMFのような国際金融機関や先進国の金融資本に都合よく操られたラテンアメリカ諸国を二重写しに見るような経験だな。

M 現在EU圏で最も深刻な経済危機に見舞われているのは、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルの諸国だ。いずれも地中海に面した、いわゆるラテン系の国々だ。ドイツ首相メルケルは苛立って、ラテン系の人びとはもっと働いたら、と語ったというが、ここに現れたのはまさにEU圏内の南北問題だね。君が言うように、ラテンアメリカ諸国が前世紀末から新世紀初頭にかけて経済危機に直面した時に、その原因をつくった先進国や国際金融機関が責任を前者に転嫁した視線そのものだ。大国であるドイツやフランスの大銀行が、EUの南の諸国、つまり相対的に貧しい諸国を借金漬けにして、見返りに新自由主義政策の実施を強要した。小さな政府、公営部門の廃止、福祉・医療・教育部門への競争原理の導入などだ。EUはいまその結果に直面しているのだ。いわゆる「メルコジ」連合が、地中海方面を迷惑気に眺めながら文句を言うようなことではない。

O 「同時代性」のひとつが見えてきた気がする。ソ連亡き後、つまり社会主義圏崩壊を見て勝利を謳歌した資本主義は「グローバリゼーション(全球化)」という形で世界を支配した。その原動力は、ラテンアメリカ地域で功を奏したかに見えた新自由主義路線だった。その恐るべき結果を見届けた人びとは20世紀末からそれへの抵抗運動を始めた。それは現在、政権レベルでも民衆運動レベルでもしっかりと根づき、新自由主義に抗し別な価値観を具体的に提示する、世界でも稀な地域となっている。ラテンアメリカ地域から一周遅れで新自由主義に席捲されてきたヨーロッパで、それと同じことが始まっているのだと言える。ヨーロッパ各地や米国でのオキュパイ運動をその延長上で捉えると、すべてがすっきりと繋がって見えてくるようだな。

M 「同時代性」という観点から言うなら、誰もが気づいていることだろうが、一点重要な事実がある。この大衆運動には、かつてのようには「党」や「大労組」の影も形もない。20世紀を通しての社会主義・共産主義運動は、強固な「党」の指導の下で展開された。その専制と独断が無惨な結果に行き着いたことで、党そのものが自滅した場合もある。人びとの意識がそれに見切りをつけたとも言える。昨今では、新自由主義政策によって旧来なら労働者が大労組に結集していた産業分野が分割させられ、必然的に労組の解体・再編に至たった場合も多い。人びとは、上からの「動員」によってではなく、自らの責任と主体性において判断し、行動を選び、自由に発言するようになった。党や組織の官僚統制が効かない時代の当然の傾向として、それは歓迎すべきことだと思える。党と労組の役割という点では、米国の場合は推して知るべしだが、スペインでも政権党であった社会労働党は先にも言ったように新自由主義政策を是正する意欲もなかったし、UGT(スペイン労働総同盟)も既成の秩序の枠内で既得権を守るのに精いっぱいだ。世界中どこを見ても、民衆運動に共通する性格はこれだ。

O それは「アラブの春」にも共通するものだろうか。いろいろな報告や分析を読んだが、何が驚いたって、第二次大戦後の時代幅で見ると、あの権威主義的な政治的指導者ばかりが輩出し、それが声高に叫ぶ民族主義的スローガンに世論が一体化する、「英雄待望論」そのものが実践されてきたような地域で、「英雄も指導者も不在」(田原牧、前掲書)の民衆運動が丸腰の状態で沸き起こり政権打倒にまで至ったことだ。「アラブの大義」という曖昧な包括的指針の下で、外部に米国とイスラエルという敵を設定し、国内の強権政治も非民主的な王政も許容してきたアラブ世界の構造そのものが崩壊し始めたのだ。指導部が不在のままに大衆運動が展開されているという点では、他の世界との共通点を持っているように見えるが、従来のアラブ社会の独特のあり方を思うと、そこでははるかに深く地殻そのものの変動を準備する動きがあるように思える。

M 君も引用した田原牧氏の『中東民衆革命の真実』はそのあたりの事情をよく伝えているな。ムバーラク打倒の理由を、米国とイスラエルに妥協的なその姿勢に対する怒りだと解釈した左派知識人がいたというが、虚飾にまみれたアラブ民族主義こそが青年たちに葬られたのだと田原氏は正しくも主張している。アラブ諸国の中でイスラエルに最も非妥協的な政権党を持つシリアにまで、チュニジア、エジプト、リビアの激動が波及している理由は、ここでこそ解き明かされるという分析も明快だ。グローバリゼーション時代を象徴するコンピューターが、ツイッターやフェイスブックというツールを駆使して人びとを広場に駆り立てた点も、情報封鎖社会にあっては特異なことだった。

自律的な民衆運動の展開という共通項はあっても、その背景としての社会をどこまで揺り動かすかという意味では、深度が違っているようだね。ここまで話してきてつくづく思うが、メキシコ・チアパスのサパティスタの1994年蜂起の影響力・波及力は、決して軽視できないな。持久戦段階の現在、この運動が大きな転機に立たされていることは事実だとしても。第一に、それはソ連崩壊直後のことで、いまさら「革命」だの「反体制」だの、ましてや「武装蜂起」など問題外のことだと思われているような時代のたたかいだった。単純なようだが、諦めるな、という叫びはいつだって貴重だね。第二に、多国間自由貿易協定反対というスローガンが、グローバリゼーションの時代的特徴を正確に捉えていた。先に触れたように、ラテンアメリカ地域は新自由主義に翻弄されてきていたから、身に染みてその本質を見抜いていた。第三に、自分たちは電気の通じていない山中にいながら、深い山から出たところにある町や、米国はテキサスに住む同胞(メキシコ系の人びと)のコンピュータ―・ネットワークを通じて次々とメッセージを発信できた。第四に、そのメッセージの文体と内容が、訴える力もある豊かなものであった。第五に、自らを前衛党と名乗らず、権力獲得をめざさないと明言した。同じ方向へ歩むさまざまな社会運動との間に共通の社会的空間を形成し、その協働性の中で社会変革をめざすと語った。第六に、止むを得ぬ手段として武装蜂起しながら軍事至上主義ではなかった。相手(政府)に対しても民衆に対しても武器を誇示することなく、戦争は避けたい/武器は捨てたい/平和を望むとのメッセージを発信し、それを実践した(註3)。これらはすべて、今まで見てきた世界中の新しい社会運動が、従来のそれとは異次元で帯びている性格だ。ボリシェヴィキ指導下の20世紀の社会運動が持っていた性格とは、根底的に異なるものをそこに見ることができる。

O サパティスタを重視するのはラテンアメリカや欧米が主だと思われてきたが、アジアでも、韓国、中国、インドなどでは大いなる関心を持つ社会運動家がいる。社会運動が見過ごしてきたり、関心をすら持ち得なかったりする問題に、真正面から取り組んだ提起を行なっているのだから、当然だと思う。日本でもそれを深めたいところだね、「同時代性」を見極めるためにも。

M こうして、世界の状況と民衆運動に「同時代性」を見るという話をする時、どうしても触れざるを得ないことがある。それは、この問題意識は日本を含めた東アジアにも適用できるのか。そのとき、現政権の抑圧性という点では突出している中国や朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の位置はどこにあるのか、という問題だ。もちろん、日本では「3・11」以後の反原発運動の活性化のなかに、新しい社会運動の萌芽がいくつも見られる。大気と大地と海洋に対処のしようのない放射性物質が浸み込んでいくという事態は、いまだかつて想像すらし得なかった諸問題を私たちに提起している。論争なき社会にあって、それらをめぐって論議が起きていること自体が好ましい方向だと思う。私たち自身がこの過程を生きており、今後も生き続けるのだから、きょうの話で出てきた世界各地の民衆運動から学び得ることがらを生かす方法を探りたいと思う。

中国でも、乱開発・経済格差・言論の統制・辺境の非漢民族地域での弾圧・党と行政幹部の腐敗などをめぐって、めざましい大衆運動が起こっている。人間が、自らのスケールというか器量とでも言ったらいいのか、それでは御し得ないほどの人口を抱えた「帝国」における激動は、なまなかな想像を超える問題を提起することになるだろう。民族的な排外主義の傾向が深まる日本社会の只中にあって、これといかに向き合うかという問題は、私たちにとっての厳しい試練だと思う。そして最後が北朝鮮だ。金日成の独裁が確立して以降の長い間、ありとあらゆる民衆の自立的な動きが封じ込められ、恐るべき弾圧にさらされてきたこの社会でも、デジタル機器の浸透によって情報封鎖を打ち破る萌芽がいくつも出てきた(註4)。1989年の東欧革命においても、きょう話し合ってきたエジプトなどのアラブ世界の激動においても、権力によって封じ込められてきた情報が社会に広くあふれ出ることが、変革の決定的な契機となった。「同時代性」という問題意識のなかから、中国も北朝鮮も除外しないという意識的な努力が、私たちには求められると思う。

O 確固たる論理的な枠組みを示しながら輝かしい未来を約束した20世紀的な社会運動は敗北した。いまは、そのあとの混乱・混沌期だ。さしあたっては、現存秩序を「破壊しに」といって台頭してくる民衆運動のなかにみずからの身をさらして考え抜くしかないと思える。

(註1)「〈占拠せよ〉(occupy)という語に、なぜ、私はたじろぐか」、『反天皇制運動 モンスター』21号(2011年10月)および「領土問題を考えるための歴史的文脈」、『月刊 社会民主』680号(2012年1月)

(註2)スペイン語各紙も参照したが、日本語で読むことのできる、スペイン情勢に関する詳しく刺激的なブログに、スペイン在住の童子丸開氏が主宰する「幻想のパティオ(スペインの庭)」doujibar.ganriki.net/webspain/menuspainhtml.htmlがある。本稿で触れた運動的事実の記述は、童子丸氏のブログに負うところが大きい。記して、感謝する。

(註3)サパティスタの思想については、以下の重要な書物がある。サパティスタ民族解放軍『もうたくさんだ!』(太田・小林編訳、現代企画室、1996年)。マルコス+イボン・ルボ『サパティスタの夢』(佐々木真一訳、現代企画室、2005年)

(註4)『北朝鮮内部からの通信 リムジンガン』第6号(アジアプレス出版部、2012年2月)所収の「北朝鮮デジタル・IT事情最新報告」に詳しい。