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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

アルジェリア事件の先に、何を視るのか


『スペース21』第74号(2013年3月発行)掲載

今から半世紀前の1960年代、アルジェリアから届くニュースは、「時代」の希望の証しのひとつだった。植民地解放闘争を弾圧するために現地に送り込まれたフランス軍の内部からは「祖国に反逆する」脱走兵が次々と生まれていた。解放戦線側は、戦闘で捕虜にしたフランス兵が負傷していると手厚く看護したうえで本国に送り返すという人道主義的な姿勢を明確にしていた。フランツ・ファノンの目の覚めるような帝国―植民地論も、アフリカ革命論も、他ならぬアルジェリアの闘争を源泉として発信されていた。ほぼ同じ時期に解放を成し遂げたアルジェリアとキューバの間では、あの時代の中では突出した国際主義的団結が実現しているように思えた。

いたずらに、過去を美化するのでも懐かしむのでもないが、半世紀後のアルジェリアから届くニュースは、寒々しい。今回の天然ガスプラントでの襲撃・人質事件を引き起こしたイスラーム聖戦主義集団にしても、これを暴力的に鎮圧した政府にしても、国の内外の人びとの心に響くようなメッセージのひとつでも発しているわけではない。1990年代、複数政党制に移行したとたんに15万人もの犠牲者を生み出すことになる、血を血で洗う凄惨な「暴力の時代」をこの国は経験した。今回は、プラントで働く多国籍の人びとが関わり合いを強制されたぶん、事態が国際化して見えているだけだ。もちろん、ここに、グローバリゼーション時代の、国境を超えた労働力移動という問題を見出すことはできる。武装集団が、フランス軍のマリ撤兵という要求を掲げていたことも、無言に近かった彼らのメッセージとしては唯一注目すべきことだ。

だが、BPという英国資本と日揮という日本資本が関わってきた天然ガス開発が孕むかもしれない問題点が、武装集団から、ましてやアルジェリア政府から指摘されているわけでもない。行為の主体が問題提起を怠れば、事態の本質は浮かび上がらない。言葉を伴わなければ、何らかの行動が本来的に孕むべきメッセージ性は、他者に伝わらないのだ――「9・11」がそうであったように。今回のアルジェリアの場合でいえば、開発された資源は、地元と多国籍企業の間で「対等に」分配されているかという問題が見えてはこない。帝国の内部にあっては、第三世界に対する自国企業の進出は「無償の贈与」のような思い込みがあるだけに、事態の奥行に手が届かないままに、事件の悲劇性はいっそう増すばかりである。

日本のメディアではあまり浮かび上がってこない問題に触れておこう。2010年暮チュニジアに始まる「アラブの春」以降の激動の中で、独裁体制が崩壊したのちに旧政府軍の武器庫から大量の武器が武装集団に渡ったことの指摘は多々ある。私は、アフガニスタンとイラクという、「9・11」以降「反テロ戦争」の標的とされてきた国々が、アフリカ北部と地形的に一続きであることに注目したい。これに「海賊退治」の標的=ソマリアや、この地域最大の暴力装置を有するイスラエルなどの国名を加えるならば、ここ十数年もの間、この地は大国主導の下で激しい戦地であり続けてきたことがわかる。暴力の「旨味」は感染する。超大国を中心として諸国家が実践してきた戦争による地域支配の現実を見て、これを真似する武装集団が次々と生まれたのだ。国家暴力を「テロ」の範疇から取り除き、非国家集団の行為だけを「テロ」と呼ぶご都合主義の破綻を、今回の事態は示している。

したがって、今回の事態から引き出すべき教訓は、「テロ」や紛争に武力で対抗することの危うさである。現政府は、自衛隊法を改訂し現状では認められていない「邦人保護のための陸上輸送」を可能にする方針を固めた(2月21日現在)。この先に展望しているのは武器使用基準の緩和だろう。非国家集団を相手に「対テロ戦争」なる非対称的な戦いを続けることの過ちを知ろうともしない者たちは、こうしていつも、火事場泥棒的なふるまいに終始する。先に待ち受けるのは、困難な問題を解決する手段として「軍事」に当たり前のように頼る、米国やフランスのようなありふれた国家の姿である。(2月22日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[35]アルジェリアの実情を伝える急使は、どこから来るのか?


『反天皇制運動モンスター』第37号(2013年2月5日発行)掲載

ここ数年、「革命の通信」ともいうべき、北アフリカはマグレブの急使が途絶えることがない。広場に集まった群衆の中から、らくだに乗って突撃してきた部隊に蹴散らされた人びとの中から、逃亡した権力者の宮殿を占拠した人びとの中から――急ぎの使者がやってきては、何ごとかを伝えてゆく。

だが、私たちは、それを聞き取る術を持っているのか? 私たちはすでに、ここ十数年来のアフガニスタンとイラクについての報道を経験し、何事をも「イスラム」と括ることで、何か危険なもの、過激なもの、異質なもの――などと仄めかそうとする報道操作に全面包囲されてきた。それから、わが身を分け隔てる知恵を私たちは持っているか? あまりに歪められた「イスラム報道」に接するたびに、わが身は思わず身構える。

今回のアルジェリアの事態についても同じことだ。かつてなら、アルジェリアの急使は豊富だった。フランス植民地軍脱走兵の証言、植民地軍から拷問を受けた少女ジャミラの手記、解放戦線のスポークスパースンだったフランツ・ファノンの諸著作、そしてジロ・ポンテコルヴォの映画『アルジェの戦い』――植民地解放闘争の息吹を伝える急使が数多くあった。だが、1990年代の凄惨な内戦で15万人もの死者を出した記憶も消え去らぬ現在、抗争の当事者であった政府にせよイスラム武装勢力にせよ、適任の急使を外部世界に送ることができない。すでに19年も前にメキシコのサパティスタがインターネットを駆使して行なったような鮮烈な言葉によるメッセージを、今回の「覆面部隊」は発することができないままだ。だが、マリに侵攻したフランス軍の撤兵を要求する言葉だけは明快だった。ここから何がわかるのか? 事態はもはや北アフリカに局限され得ず、西アフリカへと拡大している、ということだ。マリと言えば、数年前に観たモーリタニア映画『バマコ』(アブデラマン・シサコ監督、2006年)は、世界銀行らの国際金融機関がマリに強制した構造調整政策の実態を巧みに告発する内容だった。20世紀末から21世紀初頭にかけて、ラテンアメリカ諸国に続いてアフリカの国々も、先進国と国際金融機関が主導する新自由主義経済政策の支配下にあったのである。この程度の知識でもあれば、天然ガス・プラント問題を通して、開発による利益を地元に還元するルールはどのようにつくられているのか、あるいはいないのかへと私たちの関心は伸びて、犠牲者の哀しい物語だけで終わらせずに、問題の本質的な膨らみへと行き着くことができるはずだ。

他方、新自由主義に翻弄された社会が、いかに構造的に壊れるものであるか。そのことを、小泉改革以降の日本社会の実情に照らして、私たちは学びつつある。経済生活を破壊された底辺層が、相互扶助の精神が相対的に高いイスラムの人びとの「影響下に入る」ことは見え易い道理である。メディアが好んでやるように「アルカイダが聖戦思想をもってアフリカを侵食している」などという側面だけで、事態を捉えるべきではないだろう。

マリの隣国ニジェールには、フランスの原発推進部門が採掘を手掛ける豊かなウラン鉱がある。現在のところ、東アフリカのジブチにしか軍の常駐基地を持たない米国は、去る1月28日、ニジェールへの米軍駐留に向けて同国政府との間に地位協定を結んだと発表した。「北アフリカで拡大するテロ組織に対応するために」米軍は偵察用無人航空機基地をニジェールにつくり、300人程度の要員を駐留させるのだという。またしても、軍事的な対応である。「反テロ戦争」の拡大図を見るために、地図を広げてみよう。アフガニスタン、イラクに始まる「戦線」が次第に西へと拡大し、ソマリアでの「海賊退治」を経て、ついに西アフリカへ至った事実に行き当たろう。それは米国主導の「反テロ戦略」の破綻を意味している。いつでもどこでも軍事に頼る大国のふるまいを「横暴」と捉える非国家組織が同じ手を使って対抗することで、現在の状況がつくられたのだ。

最近、国連事務次長は「ラテンアメリカの経済状況が比較的順調なのは、この地域で武力紛争がほとんどないこと」を理由として挙げた。私はこれを、同地域では米国の影響力が大幅に減退し、その軍事的プレゼンスもほぼ消えて、新自由主義路線を排除して、各国に自主・自立・相互扶助の動きがあるからだ、と読み替える。アルジェリアをはじめ北西アフリカの現実の打開方法を伝える急使は、意外な場所から来るのかもしれない。

(2月2日記)

イラク戦争10年、福島原発事故2年、安倍政権成立の現在とは


『反改憲運動通信』第8期第15号(2013年2月発行)掲載

ラテンアメリカの現代小説の中には「独裁者小説」の系譜とでも名づけるべき優れた作品群がある。いつの時代にか実際に存在したどこかの独裁者をモデルにして、その治世下ではいかに摩訶不思議な支配が貫徹していたものか、どれほどの抑圧が、不条理にも体制そのものと化し、民衆の意識の中にも当たり前のこととして浸透していたか、を作家の想像力もまじえて描くのである。作品それ自体はフィクションとして読まれるべきものであっても、引かれるエピソードは限りなく現実に近いと思われる場合が多い。独裁者に共通するのは、「実際に起こったこと」を「なかったこと」にしてしまう力である。その力は、もちろん、絶対的権力の行使によって担保されている。たとえば、警察と軍隊を動員して数百人の人びとを虐殺しても、そんな事件はどこでも起こらなかったことにしてしまう、というように。時空を異にして読む日本の私たちは、まさかこんなことがあるなんてとか、いくらなんでもフィクションだよねとか、あゝこんな国に生まれなくてよかったとか、日本に生まれて幸せだったなどと、もしかしたら、思ったりするのである。

返り咲くべきではなかった安倍晋三の所信表明演説(2013年1月28日)を読みながら、刊行される都度読み耽ってきたその「独裁者小説」を思い出した。安倍は「独裁者」ほどの大物ではない。ラテンアメリカの軍人政治家なら長けているレトリックの冴えもないから、「美しい国」とか「世界一を目指していこう」とか「強い日本」とか、今どきの小学生も言わないような幼稚で、空疎で、かえって聞く者の顔が赤らむような言葉をしか使えない。その意味でも、あの地の独裁者とは似ても似つかぬ者である。しかし、安倍は、つい2年足らず前に起きて、今なお多くの人びとを現に苦しめ、不安な気持ちにさせている重大な出来事に一言も触れないで所信を語る、という離れ業をやってのけた。「大震災」には触れた。政策的にではなく、被害者の少女の言葉を引きながらセンチメンタルに。だが「原発」の「ゲ」の字も、その演説にはなかった。つまり、原発事故などというものは実は福島で起こってもいなければ、脱原発か原発継続かをめぐって社会を二分するような争いなどはこの社会の何処をさがしても見当たらないと、政治家=安倍は言外に語ったと同じことになる。実際に起こったことを無きに等しいもののように扱うこと――安倍は、その点においてのみ、かの小説群に描かれた独裁者に似通ってくる。

独裁者は、本来なら叩きやすい。独裁下の言論の不自由さを掻い潜って、地下潜行した風刺言論が栄えた例は、古今東西多々ある。だが、独裁制なき日本のメディアはおとなしい。「言論の自由」は、所与のものとして存在しているのではなく、日々の表現実践によって獲得されるものだとの自覚がないのかもしれぬ。「被災」した福島には触れても、それを「原発」抜きで行なうことによって、「あるようでないような」福島をしか、安倍は語らなかった。にもかかわらず、その不誠意を厳しく指弾するメディアの声は小さい。はて面妖な。時たま現われる一部のジャーナリストによる果敢な報道を除くと、マスメディアは巨大な、沈黙のブラックボックスと化したかのようである。それは、人びとをして「あった事実を、ないものと思わせる」には、実に好都合な仕掛けだと言わなければならない。件の小説群に描かれた独裁者と違って、安倍は、表現弾圧の装置なしに、それと同じ効力を持つ「メディアの沈黙」という武器を所有しているのだと言える。

また、安倍晋三は、選挙とは関係のない時期や内向きの会合などでは言いたい放題にしている言動を、選挙演説や国会内では情勢を読みながら封印したりもする。政治家とはそんなものだとは言えるが、安倍の場合はその振幅があまりに激しいので、六年前の前回はそれが命取りになったのである(詳しくは、蓮池透+太田昌国『拉致対論』、太田出版、2009年、を参照。私はこの本で安倍にレッドカードを出したつもりでいたから、その復帰は「衝撃」だった)。今回も、選挙前には公言していた旧日本軍「慰安婦」問題に関わっての河野談話見直し方針は、直ちに米国の主要メディア・政府筋・議会からの批判にさらされていることから、前回の轍を踏むことを避けるためにそれを貫くことに逡巡のさまが見えないではない(1月31日現在)。もちろん、本音は維持しつつ、擬態によって批判をやり過ごすためにだけ。

だが、安倍は、現状のメディアと右派的「民意」の中でかつてほど孤立してはいない。それは、12年末総選挙の結果が示した現状維持派の著しい台頭によって証明されている。この場合の現状維持とは、政治的に言えば、日米安保体制を肯定し、中国・韓国・北朝鮮の「脅威」に対抗するために自衛隊のより一層の浮上を待望し、沖縄・福島は中枢部の犠牲にさらされているという「植民地主義」論に基づく捉え方を歯牙にもかけない考え方の謂いである。それはまた、ペルシャ湾岸戦争以来20数年をかけて、またアフガニスタン、次いでイラクに対する一方的な攻撃の開始以来10数年をかけて世界的に制度化された「反テロ戦争」の「大義」を背景に持つ意識である。

一定の時間をかけて人びとの裡に内面化した意識を変えることは容易なことではない。幼い子どもに向けて乱射された銃の規制を求める声は、自国が他所で日々実践している無人爆撃機による攻撃をはじめとするすべての殺戮を中止する声には繋がらない。自らの生活と実存を脅かす原発を怖れこれに反対する気持ちが、自国の行なおうとしている原発輸出に反対し抗議する声となって広がっていくことは稀だ。

こうして、イラク戦争10年、原発事故2年を経て安倍政権成立にまで至ったわが社会は、独裁制が存在しないのに、メディアと民衆が自ら進んで批判精神を失い既成秩序の護持に堕している点で、傍からは摩訶不思議にしか見えないだろう。私たちが生きているのは、そんな危機の時代である。

(2月2日記)

第2回死刑映画週間「罪と罰と赦しと」開催に当たって


『死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90』機関誌第127号

(2013年1月25日発行)掲載

昨年開催した死刑映画週間『「死刑の映画」は「命の映画」だ』から、私たちは確かな手応えを感じた。一見したところ「暗さ」と「重さ」を感じさせる催し物だが、にもかかわらず大勢の人びとが詰めかけてくれたから、ということも理由の一つだ。映画を観たり、ゲストの話を聞いたりした人から、死刑制度についての自分の誤解や無知をめぐって、また犯された罪と死刑囚をめぐる思い込みをめぐって、冷静にふり返る声をいくつも聞いた、ということもある。その後、私たちが開く集会や会議に新たに参加している若い世代の人びととは、この映画週間を通して出会った、というのも大きな理由だ。もとより、私たちとは逆に、死刑制度は維持されなければならないと考えている人びとも、この催し物に参加していたに違いない。それも、私たちが望んだことだ。情報公開が極端に制限され、秘められている部分があまりにも大きい社会制度については、賛否いずれの立場に立つ誰であっても、まず、その制度のことを「もっと知る」ことが必要だと思うからだ。

制度のことは、法律や歴史の中でそれが果たしてきた役割を通して、外形的には理解が届く。分からないのは、この制度の下に生きざるを得ないひとの心だ。あるいは、この制度を何らかの理由で廃止した社会に生きるひとの心に、どんな変化が起こるのか、ということだ。その意味では、開催した私たち自身が、10本の作品をあらためて(あるいは初めて)観て、それぞれ深く思うところがあった。生きた時代も場所も異にする多くの人びと――フィクションとドキュメンタリーでは、犯罪が想像上のものか実際に起こったものかの違いはあるが、いずれも、罪を犯した者あるいは冤罪者・被害者・遺族・周辺の人びと、そして脚本家・監督・俳優など映画に関わるすべての人びと――が、「死刑」という、人類が生み出した制度をめぐって、肯定しあるいは否定し、怒り、悲しみ、あれこれ戸惑い、迷い、断言し、苦悩する姿が、そこにはあった。この重層的な複数の思いを、ひとつの固定的な線の上に手際よく整理することはできない。そうしようと焦るのではなく、そこで揺らぐひとの(自分の)心のありようを、じっくりと見つめることが必要だ、と私たちは考える。

今回選んだ9作品から、大まかに言って「罪と罰と赦しと」という共通のテーマを私たちは取り出した。そこから微妙に外れ、別な課題を取り出すべき作品もある。いずれにせよ、ひとを殺めた「罪」を犯した者がいて、それに対する「罰」として国家あるいは或る権力の下で処刑する行為が行なわれるという、明快な因果の関係だけで、事が済むわけでない。済ませてはならない。罪ある者の「償い」と、長い苦悩を経たうえでの当事者の「赦し」の可能性を排除することなく、制度としての死刑の問題を捉えたい、それはひとが持つ人間観と価値観に関わることだ、と私たちは主張したいのである。(2013年1月10日記)

【追記】詳しい上映情報については、会場となるユーロスペースのHPをご覧ください。

太田昌国の夢は夜ひらく[34]銃を「内面化」した社会と、銃の放棄を展望する運動


『反天皇制運動モンスター』第35号(2013年1月15日発行)掲載

昨年の暮れも押し詰まった12月14日、米国東部コネティカット州の小学校を現場にした銃の乱射事件は26人の犠牲者を生んだ。その多くは子どもであった。そのため「クリスマスを目の前にして」という情緒的な反応も含めて、日本でも大きく報道された。オバマ大統領も直ちに記者会見を行なったが、途中で声を詰まらせ涙を浮かべる様子も、事細かに報じられた。大統領は、銃規制の方針を打ち出しているが、もちろん、これに反対する銃ロビー団体=全米ライフル協会(NRA)の動きもあって、前途は予断を許さない。

それにしても、この光景を何度見てきたことだろうか。私の世代なら、60~70年代にベトナムの戦場に派遣されていた帰還兵が、次々と引き起こした乱射事件を思い起こす。生まれついての軍人ではなかったどこにでもいる若者が、兵士になってアジアの人間に対する人種差別意識に基づいた殺人訓練を受けたのちの数年間を戦場で過ごし、やがて帰国できたとしても、彼はもはや、かつて市井に生きていたころの彼ではない。彼は、自らが他国の戦場にいて揮った無制限の暴力を自国へ持ち帰るほかないのである。そのことを、ダグラス・ラミスは「戦争が帰ってくる」と、的確にも名づけた。

今回事件を引き起こした人物は元軍人ではないようだ。だが、3億丁の銃がひしめくと言われる米国社会である。「銃の所有は開拓以来の自主独立精神の象徴だ」とするNRAの主張が、むごい乱射事件が起きたときだけ「銃規制派」に中途半端に転向するオバマ的な人物を含めた広範な人びとの支持をふだんは受けているからこそ、この現実が生まれていると解釈すべきであろう。オバマは、確かに、城内秩序を乱した実行者には怒りを見せ、いたいけな犠牲者を悼んでみせた。同時にオバマは、この同じ銃を、否、殺人能力にはるかに長けたミサイルや無人爆撃機を、「反テロ戦争」の名の下にアフガニスタンやパキスタンやイエメンのような城外では使うことをきょうも指令し続けているのである(つい先日まではイラクでも)。銃を何の疑問も持たずに使用することは、あの社会の人びとの中で、価値として「内面化」しているのだ。「内」で起こった殺人事件に涙を流したその日にも、「外」に向けては殺戮指令を出す人物の偽善性は、そんな社会にあっては、経済合理性に基づいた主張を持つ銃規制反対勢力の現実性を前に、膝を屈するしかない。

その米国と国境を接して南に位置するメキシコからの、二つのニュースに注目したい。ここ数年は麻薬をめぐる暴力事件が絶えることはない。麻薬の最大の消費国=米国があってこそ、それに付け入ったマフィアが、コロンビア、ペルー、ボリビア、パナマなどを原産国および経由国として利用してきたのだが、昨今はその最前線がメキシコに移動したようだ。けだし、米国の暴力性は軍事面にのみ現れるのではない。経済的な消費=供給構造を規定する力にも如実に現われる。だが、ここではメキシコ南東部に目を移して、そこからのメッセージに注目したい。マヤ歴に基づいて「世界終末の日」と騒がれた12月21日、高度消費社会の人間たちが好奇心に駆られて、「過去」としてのいくつものマヤ遺跡の周辺に群がった。同じ日、チアパス州で「現在」を生きるマヤの末裔たちは、4万人から5万人とも言われる老若男女の塊となって、主要五都市の中心広場を沈黙の裡に占拠した。全員が黒の目出し帽を被っていた。19年前に、グローバリゼーションの趨勢に異議申し立てを行ない、武装蜂起したサパティスタ民族解放軍(EZLN)の自主管理区に住まう人びとの群れであった。沈黙の広場占拠と行進によって、19年間に及ぶ持久的なたたかいの現状を表現する象徴的な行為であった。武器は捨てて、政治=生活=文化の全領域でこそたたかいを継続したいというその路線を端的に表現したものであった。マルコス副指令の短いメッセージは言う。「関連するひとびとへ 聞こえただろうか? これは君たちの世界が崩壊する音だ。我らの世界が復興する音だ。その日はかつて日中でも夜であった。そして、夜という日は、いつか日が明けるのだ。民主主義! 自由! 正義!」。いかにもサパティスタらしい修辞ではある。

銃の意味を徹底して考えることを放棄している米国社会。武装蜂起はしたが、当初から武器と戦争のない未来社会の夢想を公言していたサパティスタ――去る12月中旬の二つの対照的なニュースは、いずれも深く示唆的であった。(1月12日記)

社会の中の多数派と少数派をめぐる断章――選挙結果を見て


『労働情報』第854/855号(2013年1月1/15日号)掲載

社会を変えたいと思ったのは若いころのことだが、それを実現するために多数派を形成する場に自分をおこうと考えたことは、ほとんどない。現存する体制を変革したいと思う運動体・組織体の中にも、自覚的にか無自覚的にか、強権・暴力・専制をふるい、少数者や力弱きものに対して抑圧者として立ち現れる多数派や、それを上から取り仕切って自らが揮う権力の恐ろしさを疑うことすら知らない指導部がいる。それとの一体化は避けたうえでなお、社会変革運動への関わり方を模索しよう。私は、そう考えた。

だから私には、多数派であることを誇る態度に対する、根本的な懐疑がある。米国の公園占拠運動が掲げた「1%対99%」というスローガンは、格差問題に焦点を当てた判りやすいものだと感心はするが、同時に、米国の99%と言えばアフガニスタンとイラクに対する殺戮戦争を熱烈に支持する人間も含まずにはおかないのだから、この数字を強調することは内部矛盾を糊塗してしまう場合もある、などと言わずにはいられないのである。

首相官邸前や国会前で巨万の人びとと共に「原発再稼働反対!」と叫んでいても、この中で、日米安保条約破棄や死刑制度廃止などの、私が近未来に展望している課題を共有できる人は極端に少ないことを経験的に知っているから、そこにいる多数派に丸ごと同一化している実感が私にはない。巨万の人びとが持つ「反原発」の熱意を軽んじるわけでは、もちろん、ない。反原発運動の盛り上がりが、沖縄に集中している軍事基地への怒りに結びつかないことがもどかしいのだ。総人口の1%でしかない少数派の琉球人が、1947年に天皇が占領軍に発した「沖縄切り捨てメッセージ」の延長上で65年後の今なお米軍基地の重圧に喘ぐ現実を因果関係で見ると、これをつくり出しているのはヤマトの多数派の意志に他ならないとしか言いようがないのだ。だから、ヤマトの人間たちは憲法9条の護持を言いつつ日米安保にも安住しているという沖縄からの指弾を受け止めなければ、と思うのである。多数派が、少数派の強いられている現実に気づくことは、かくも難しい。

この社会の中で保守言論が次第に力を得はじめる出発点は1990年前後だったと言える。それは、「革命・革新」を掲げる言論と運動が、世界でも日本でもその影響力を急速に失い始めた時期に重なっている。私は、保守言論が根を張る社会的な基盤の問題としては軽視すべきではないと考え、それらの言論を読み込み、批判する作業をしばらくの間続けた。歴史・論理・倫理などの面から見て支離滅裂な議論を相手にするのは、深い虚しさを伴うことだった。その歴史観が若者の間に浸透しつつあるようだということが、私がその作業の虚しさに堪え得た唯一の理由だった。だが、それから20数年が経って振り返ってみれば、その言論傾向は社会全体を浸しているのであった。

決定的な契機はあった。小泉時代である。政治・社会の中で論理が機能しなくなった例を日本現代史に探るなら、すぐに行き当たるのは小泉政権時代である。思い出すことも忌わしい数々の非論理的で、無責任な発言をこの男は行なった。それが大衆のレベルでは人気上昇の契機にもなった。非論理的な決め台詞が大衆的な喝采を浴びるという状況は、この社会では議論や討論が成り立たなくなったことを意味している。〈政治〉は、テレビスタジオで声の大きな政治屋が芸人相手に与太話に興じるものと化し、投票行動もまたそのレベルで行なわれるようになったのである。

国内には、先行きに対する不安と不満が渦巻いている。その解決に向けた地道な討論よりは、外部にいる、目に付きやすいものを「敵」に仕立て上げればよい。東アジア地域には、その意味では「恰好な敵」が多い。

私たちはいつのまにか、衆寡敵せず、の状況に追い込まれていたのである。

今回の選挙結果に見られる「危機的な状況」に即呼応できる指針があるわけではない。政治とは、つまるところ、議会内の議員の数のことだと観念するなら、確かに、危機は深い。絶対無勢ながら〈議会外〉から議会内に対応しなければならない期間が、少なくとも数年間は続く。他方、選挙とは、もっとも性悪な人物を自らの代理人として選ぶ儀式と化している、というのが私の確信だ。それが、もっとも悲劇的な形で実現してしまった今回の選挙の当選者の顔写真を一瞥すれば、納得する人も多いだろう。私たちが獲得すべき〈政治〉は、ほんとうに、こんな醜悪な連中の手中にすべて握られているのだろうか? 〈政治〉とは何か、という哲学的・現実的な問いを、選挙の結果とは別に、永続的に自らに突きつけて私たちは歩みたい。その時、「危機」はひたすら外在化されることなく、主体内部のものとしても自覚されるのだ。

(2012年12月18日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[33]ヤマトの政府と「民意」の鈍感さに見切りをつけた琉球弧の運動


反天皇制運動『モンスター』第35号(2012年12月4日発行)掲載

「アメリカへ軍事基地に苦しむ沖縄の声を届ける会」は、2012年1月下旬に訪米団を派遣した。ささやかな旅費カンパを行なった私のもとに、10月30日付けで発行された「訪米団報告集」が届いた(インターネットをお使いの方は、会の名前を入力すると、いくつかの情報源に行き着くことができる)。

冒頭にある団長・山内徳信の文章はのっけから次のように始まる。「日本政府に訴えても聞いてもらえないならば、基地の運用者であるアメリカ政府や連邦議会、アメリカ市民へ訴えよう」と。ここで言う「日本政府」の背後には、これを支えてきた日本社会の「民意」か「世論」が存在しているわけだから、私たちも無傷では読むことのできない文言である。まず、二つの論点をここから引き出しておきたい。沖縄の民衆が持つ日本政府に対する絶望感が、歴代のそれに対して積み重ねられてきたものであることは、戦後史を顧みるなら当然理解できることだ。だが、時期に注目して直接的な要因を探れば、普天間基地に関して「最低でも県外」移設を掲げて挫折した鳩山元首相の一件に由来することは、見えやすい道理である。彼には確かに「政治力の不足」が見られたが、それと同時に見ておくべきは、彼の企図が「辺野古移設を既定路線とする米国側と日本の外務、防衛両省上層部からの反撃」に見舞われたことである(『文藝春秋オピニオン 二〇一三年の論点百』所収の鳩山論文)。この点は私も何度か指摘してきたが、メディアと多数派世論は鳩山の「公約違反」を論うばかりで、外務・防衛官僚上層部によって鳩山案に対する妨害工作が行なわれたことに触れる議論は極端に少ない。ここにこそ、あの事態の本質を見るべきであろう。

ふたつ目は、この事実を自覚したうえでなお、米国から見れば、日本の「国内問題」でしかないものをわざわざ米国まで出かけてきて訴えるのはお門違いではないか、という反応に見舞われるに違いないということである。事実、代表団メンバーの報告を読むと、応対した米国の議員からは、そうした趣旨の指摘が幾度も返ってきている。日本社会の中でそのケリがつけられていないという意味において、この指摘はヤマトの私たちにも痛覚をもたらす。代表団には、その時の居心地の悪さを予感するものがあったと思われるが、それでもなお訪米した意図は何か。参加した糸数慶子によれば「米国内で財政赤字削減計画の一環として国防費の大幅削減が計画され、そのため海外の米軍基地の大幅見直しの動きがあり、米国連邦議会の有力議員や有識者、シンクタンクの中からも沖縄の米軍基地の整理・縮小や在日米軍の再編を求める声が高まり、このタイミングでの訪米は千載一遇のチャンスであった」ということになる。事実、基地支配者である米国政府(国務省、国防省)や連邦議会の上下両院議員、補佐官、シンクタンク、駐米日本大使など62ヵ所にも及ぶ訴えは、かつてない「民衆による直訴行動」であったようだ。

結果は、もちろん、楽観的なものではあり得ない。しかし、真剣な議論もないままに、駐留米軍の「抑止力論」に終始する日本政府・官僚(何度でも書かねばならないが、その背後にあるヤマトの「民意」!)の「無感覚な対応」(山内徳信の言葉)に翻弄されてきた代表団にしてみれば、米国側のそれは「率直で、新鮮であった」という感想を一様に述べている点が注目される。問題提起がなされれば、最後の一線を譲る気持ちはさらさらないとしても、「議論を通してその提起を受け止める」という態度が見られたのであろう。それを「率直で、新鮮」と言わざるをえない心中を察したいと思う。

他方、「琉球弧の先住民族会」のメンバーである親川志奈子は、ジュネーブの国連人権理事会先住民族部会で「先住民族という視座」から、琉球の軍事化や基地被害についての訴えを行なった経験を報告している(『世界』12月号)。『世界』掲載の文章には珍しく、生活と文化に根差した豊かな視点から、「脱植民地化を実践し生きていく」展望を語っている。彼女の文章は「そして問い続ける、沖縄を目の前にして日本人はどう生きるのかと」という言葉で結ばれている。

沖縄での注目すべき動きが、期せずしてか、ヤマトの政府と「民意」の鈍感さに見切りをつけ、世界からの包囲網の形成に向かっている現実に目を向けたい。  (12月1日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[32]10年目の拉致被害「帰国」者の言葉


『反天皇制運動モンスター』第34号(2012年11月6日発行)掲載

朝鮮特務機関による拉致被害者の蓮池薫氏が『拉致と決断』と題する著書を出した(新潮社)。同社のPR小冊子「新潮」に2年間ほど連載されていたものを元にして、「帰国」10年目に合わせての単行本化である。朝鮮で送らざるを得なかった24年間の歳月が、あふれるごとくの言葉で綴られている。外部の人間が、一部を恣意的に引用したりまとめたりすることは慎みたい、と思わせる何かがある。氏の文章を実際に読まなければ伝わらないものがある、と感じさせるという意味において。

10年前、日朝首脳会談が実現し、ピョンヤン宣言が発表されたとき、日本社会を覆い尽くしたのは拉致問題への関心一色だった。それは確かに重大な国家犯罪だが、問題の本質は、近代国家・日本による近隣諸地域への侵略、戦争、植民地化の過程と、敗戦後の「戦後処理」のあり方に関わっており、それへの総合的な視野なくしては拉致問題などの個別課題を解決する目途も立たないことは、私には自明のことだった。

だが、この問題に関わる世論形成に大きな力を発揮した拉致被害者家族会の方針は違った。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」――他のいかなる問題にも先駆けて拉致問題を解決すること、そのことを強硬に主張した。ことは、外交問題である。二国間の関係に関わることがらであるからには、一国が一方的に優先課題を設定していては、交渉の糸口にもたどり着くことはできない。このことを知ってか知らずにか、家族会の方針に異論を立てる者が、この社会には極端に少なかった。政治家しかり、外務官僚しかり、メディアに登場する者たちしかり。家族会は、比類ない圧力団体として、社会全体を縛り上げてきたと言える。背後には常に、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(いわゆる「救う会」)という、極右団体を控えさせながら。

去る10月、日朝首脳会談から10年目を迎えて、無為に過ぎた10年間をふり返る企画がメディア上にあふれた。「拉致問題の進展が見られない」「内閣改造のたびごとに、拉致問題担当相が変わり、政策の継続性がない。政府の誠意を疑う」「親の高齢化が進み、残された時間はほんとうに僅かだ」――家族会の人びとの、即時的な心情に寄り添う言葉はあった。それだけが、あった。拉致問題だけを切り離して、優先的に解決する――社会を10年ものあいだ金縛りにしてきたこの路線の「非現実性」を指摘する声は、いまだにかき消されたままだ。

この10年間、渦中にありながらもっとも理性的な言葉を語ってきたのは、「帰国」できた5人の拉致被害者であったように思える。「帰国」から1年半の間はまだ子どもたちが朝鮮に残っており、その後も、生存している拉致被害者の安否を思えば、自分たちの発言がどんな影響を及ぼすかを熟慮した、慎重な言い回しが目立った。だが、蓮池薫氏の場合には、家族会事務局長時代の兄・透氏の著書『奪還』(新潮社、2003年)や『奪還第二章』(同、2005年)から、漏れ響いてくる印象的な言葉がいくつもあった。「何ヵ月も安否確認さえできない政府の無能ぶり。一介のNGOにできることなのに」「政府は主導的に何をしようとしているかわからず、物足りなかった」「自分たちだけが帰ってきて忍びない」「日本だけが被害者だというような態度で北朝鮮に接しても、ぶつかり合いにしかならないんだ」。

私は当時これらの言葉を読みながら、「帰国」者たちが、奪われた24年間の経験を生かし、日朝和解のための架け橋になるような生き方をしてくれたなら――とひそかに夢想した。部外者の、勝手な思いであることは承知していた。書物を刊行するという意味では外部の私の視野にも入ってくる蓮池薫氏の仕事を見ていると、その思いが叶いつつあるような気がする。現代韓国文学を中心とした氏の翻訳書は20冊を超えている。孔枝泳の『私たちの幸せな時間』『トガニ』(いずれも新潮社)など優れた作品が目立つ。拉致そのものを扱った新著『拉致と決断』も、氏がそれによって強いられた運命を思えばなお、公平・公正な立場で日朝間の歴史的・現在的な関係を観ようとしており、そのありようが胸を打つ。

(11月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[31] 「尖閣問題」を考えるとき、私たちが立つ場所


反天皇制運動『モンスター』第33号(2012年10月9日発行)掲載

先日、「レイバーネットTV」に初めて出演した。ユーストリームを利用したオンラインニュース番組である。2010年5月以来、月2回のペースで生放送されている。当夜の「特集」は、「尖閣・竹島」に象徴される領土問題であった。番組全体の時間枠は75分間、そのうち45分が「特集」に割り当てられる。キャスター2人はもちろん、特設スタジオ内の10人近い技術スタッフの中からも質問が出たり、声がかかったりしながら番組は進行するが、45分間は、けっこう長い時間幅だ。

領土問題は、植民地主義が遺した「遺産」である場合が多い――現在、日本が直面しているそれは、その典型である――から、列強による世界分割地図や、「固有の領土」論に関わっては、いにしえの地図が必要になる。「無主地先占」論なる、聞き慣れない表現には、文字パネルが用意される。放送中とその後の反響を聴きながら、それらの素材が果たした「威力」を思った。

このテーマに関わって、言葉で表現しなければならない問題は多面的だが、これを機会にどうしても強調したい点がひとつあった。日中間に起こった、今回の不幸な事態を招いたのは、現東京都知事が去る4月米国で行なった「尖閣諸島を東京都が買い取る」とした発言にある、ということである。問題のよって来るゆえんに迫る報道が、傲岸不遜この上ないこの小人物を怖れているわけでもないだろうが、マスメディアでは弱い。対照的なことには、ネット上では、都知事批判が的確になされている。曰く「選挙公約であった米軍横田基地返還交渉も行なわずに、何が尖閣か」。曰く「140万もの人びとが住む沖縄が、米軍基地負担に喘いでいる事実に何も言及しないで、無人島へのこの異常な関心は何なのか」。曰く「原発推進派として、福島の現実にこころひとつ動かさずに、何が『国家を守る』か」。曰く「この国は元来、領土問題にはたいへん太っ腹な国で、天皇制を守るためなら沖縄くらいくれてやったではないか」。曰く「いまなお、複数の県に実効支配の及ばない広大な領土があるではないか」――これらは、ごくふつうに、ネット上で複数の人びとが発している言葉である。知事番の記者たちは、都知事をたちどころに矛盾の極致に追い詰めてしまう、この種の質問のひとつをすらしないのだろうか。

都知事を米国に招いたのは、同国ネオコンのシンクタンク「ヘリテージ財団」であった。米国右派からすれば、東アジアに安定的な平和秩序が確立されることは、忌むべきことだ。国家間に常に一触即発の緊張関係が走っているならば、米国の軍事力が、広くアジア太平洋地域に、従来のそれを上回る形で伸長し続ける理由として活用できる。誰もが言うように、領土問題は、ナショナリズムをいたく刺激する。国内に抱える諸矛盾を覆い隠すために「反中国」の悪煽動を行なえば、国内での政治的な支持を得るのは容易なことだ。それは、そのまま、日米両国の右派の利害に繋がる。都知事は、いわば彼の本質に重なる地のままで、そのための役割を演じたのだと言える。

「1895年に沖縄県に編入された」という「日本固有の領土」=尖閣諸島は、「1879年=琉球処分」という名の「ヤマトによる琉球植民地化」以降の、重層的な歴史を想起させずにはおかない存在である。同時に、敗戦後の米国による占領統治から「返還」の過程では、諸島のなかの2つの島が米軍の射撃場とされたこと(豊下楢彦『「尖閣購入」問題の陥穽』、「世界」2012年8月号)で、米国による軍事植民地化という問題をも浮かび上がらせる存在でもある。こうして、「東アジア騒乱」を望む日米右派が反中国の「切り札」として悪用している尖閣問題は、そこに平和をつくりだそうとする私たちの側からすれば、のちに米国も加担して実践されてきた、百数十年に及ぼうとする植民地主義をふり返るべき場所である。おりしも、在沖縄米軍のオスプレイ配備をめぐって、「日米の植民地」としての琉球という問題意識の大衆的な深まりが、沖縄現地からは伝えられている(たとえば、松島泰勝氏インタビュー、9月24日付毎日新聞)。ここが、私たちが踏みとどまって、問題の本質を探り続けるべき場所である。

注記――レイバーネットTVへのアクセスは、http://www.labornetjp.org/tv

(10月6日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[30]九月の出来事に、何を思うか


反天皇制運動『モンスター』第32号(2012年9月11日発行)掲載

生きてきた時代の中で、忘れられぬ出来事が詰まった月がある。個人的なことで言えば誰にせよあれこれあるだろうが、現代史の中で起きた社会性を帯びた出来事という観点から言えば、私の場合は、9月が随一だろうか。

まずは、40年近く遡る。1973年9月11日、南米チリで、社会主義政権を打倒した軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、チリの一般選挙で、社会主義者サルバドル・アジェンデが当選した。武力によってではなく、選挙を通じて成立した、世界史上初の社会主義政権であった。その3年前、隣国=ボリビアではチェ・ゲバラが殺されたが、その前後には、1959年以降「キューバに続け」とばかりにラテンアメリカ全土で闘われていた反政府武装ゲリラ闘争が相次いで敗北していた状況に照らすなら、それは、社会変革を実現するうえで新しい道を切り拓く経験であった。ひとによっては、それを「銃なき革命=チリの道」と呼んだ。

チリ革命は、政治・経済過程の変革はもとより、帝国主義文化の浸透に関わる批判的な分析で見るべき成果を挙げたが、それが3年間の試行錯誤の果てに軍事クーデタによって挫折したのだった。鉱山企業や通信事業の国有化によって、従来享受してきた特権的な利益を剥奪された米国の画策がこのクーデタの背後にあったことは、言うまでもない。平和革命の道が、相も変わらぬ、超大国が画策した軍事力によって潰えていくこと――その際立った対照性を、胸に深く刻み込んだ多くの人びとがいた。

それから28年を経た2001年9月11日、私たちの記憶になお生々しい事件がニューヨークとワシントン郊外などで起こった。高層の世界貿易センタービルや、五大陸の軍事的制覇の野望を表現しているのではないかと私が疑っている、五角形の奇怪な形をしたペンタゴン・ビルに、ハイジャック機が激突したのである。「9・11(September Eleventh)」の略称によって、世界中に知れ渡っている出来事である。私は、事件の死者たちを悼みつつも、同じ日付を持つチリ・クーデタの記憶が消えていない者の立場から、この「悲劇」を米国が独り占めすることなく、自らが世界各地で軍事力の行使によってつくり出してきた「数多くの9・11」を思い起こし、世界近現代史上におけるそのふるまいを内省する方向へ向かうこと――そのことをこそ望んだ。

その後の事実が明かしているように、実際には、そうはならなかった。むしろ、逆であった。米国の為政者は、世界史上かつってなかったような悲劇の主人公として自らを演じた。犠牲にさらされた者は、どんなことをしても許される――端的に言って、こんなことをしか語っていない大統領が行なった「報復戦争」の呼号が、米国社会を丸ごと捉えた。悲劇を口実に、新しい戦争が始められた。まずはアフガニスタンで、次いでイラクで。それからの11年間に、どれほどの悲劇が積み重ねられてきているのか。世界はまだ、正確な形では、そのことを知らない。

その翌年の9月の出来事は、東アジアの規模で起こった。2002年9月17日、日朝首脳会談がピョンヤンで行なわれた。戦後57年を経ていながら、いまだに国交回復すらできていない、したがって、植民地支配の清算もついていない朝鮮と日本、二国間の関係を正常化することが最大の眼目であった。その席上、朝鮮側首脳は、推測されてきた「朝鮮特務機関による日本人拉致」が事実であったと認めて謝罪した。植民地支配や侵略戦争を行なった過去を指して、その「加害者性」を指弾されてきた日本社会は、或る拉致被害者の家族が語ったように、「これでようやく被害者になれた」と誤解して、「負い目」を払拭した。政府も、メディアも、社会も、丸ごとそのような感情に支配されて10年――したがって、事態は膠着し、二国間の関係の正常化どころか、拉致問題の進展も見られない。こうして、戦後67年が経ってしまった。

それぞれの社会が、震撼させられる重大な事態に見舞われることで、自らをふり返り/改めるせっかくの機会を得ながら、逆にそれを自己正当化の口実にしてしまう。人間社会の愚かさを明かしているようで、9月の出来事は哀しく見える。(9月8日記)