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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[39]諜報・スパイ騒動においても、裏面で作用する植民地主義的論理


『反天皇制運動カーニバル』第4号(通巻347号、2013年7月9日発行)掲載

7月2日早朝、いつものようにパソコンでteleSURを観ていた。ベネズエラのカラカスを本拠に発信されているテレビ放送のウェブ版である。ラテンアメリカの数ヵ国の共同出資で運営されている。情報大国の通信社・テレビ局・新聞社に占有されてきた国際問題に関わるニュースを地元から発信しようとする試みで、私にとってはそれだけでも貴重な情報源である。キューバの「反体制ブロガー」として有名なヨアニ・サンチェスが言うような、それゆえに起こり得るかもしれない情報の一面性や歪み(すなわち、政府広報的な性格)は、その受け手が別な局面で対処すべき問題だろう。

この地域では、いま、かつて圧倒的な影響力を及ぼしていた米国の存在感が薄れ、まさにそれゆえにこそ、「紛争」案件が目に見えて減っている。基本的には平和な状態下で、新自由主義経済政策を批判的に克服し、貧困問題の解決を軸とした社会・福祉政策に重点を置く諸政府が成立している。各国間の相互扶助・協働・友好関係の進展もめざましい。個別に見ていけば、コンフェデレイションズ・カップ開催を批判したブラジルの大規模デモに見られるように、それぞれ重大で深刻な問題と矛盾を抱えていることも事実だが、大局を見るなら、なかなかに刺激的な地域だ。つまり、それは、米国による政治・経済・軍事の干渉さえなければ、ある地域一帯の平和と安定がいかに保障されるか、ということを実証しているにひとしいからである。その意味で、20世紀末以降のラテンアメリカ地域は、世界秩序がどうあるべきかという問題意識に照らした場合に、ありうべきひとつの範例である。

さて、7月2日早朝のtele SURに戻る。天然ガス産出国会議が開かれていたモスクワを発ったボリビアのエボ・モラレス大統領の搭乗機がポルトガルとフランスでの給油のための着陸はおろか上空通過も許可されず、オーストリアのウィーン空港に強制着陸させられたとの急報が報じられていた。そのためにきわめて危険な飛行を強いられた、とも強調されていた。理由は、モスクワ空港の乗継地域に留め置かれていた米中央諜報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏が、ボリビアへ向かう大統領専用機に搭乗しているとの噂が流れたせいという。

オーストリア当局は13時間ものあいだ離陸を認めず、そのかん機内捜索を要求し続けているとの続報もあった。ボリビア側はこれを重大な主権侵害だとして抗議したが、最終的にはオーストリアの入国管理当局職員が、同機内にはスノーデン氏が不在であることを現認し、エボ大統領はようやく帰国できた。

2004年に発足したUNASUR(南米諸国連合)はボリビア第二の都市コチャバンバで緊急首脳会議を開き、帰国直後のエボ大統領も参加して、今回の事態について検討した。会議の最後に採択された共同声明は、フランス、ポルトガルに加えて同様な態度を示したスペイン、イタリアなど四ヵ国は「21世紀の今日にありながら、新植民地主義的なふるまいをラテンアメリカの一国に対して行なった」ことに関して、公式に謝罪すべきであると要求したが、スペインは直ちにこれを拒否した。スノーデン氏の搭乗に関して信頼に足る情報があったからというだけで、情報源は明らかにしていない。それが、米国政府筋であることを疑う者はいないだろう。7月5日、南米諸国連合の加盟国であるベネズエラのマドゥロ大統領は、人道主義的な立場からスノーデン氏の亡命を受け入れると表明した。同じ日、中米ニカラグアのオルテガ大統領も、「状況が許せば」同氏を受け入れると語った。

今回の諸事態からは、現代の世界地勢地図がうかがわれて、語弊があるかもしれないが「おもしろい」。諜報・スパイ問題は、もっぱら欧米的な文脈の中で語られている。オバマが居直ったように、どこの国だってお互いに同じ諜報作戦を展開しているのだから「おあいこ」だとする「論理」である(その言い分は、戦時下の「慰安婦」問題をめぐる大阪市長Hの言い分に似通ってくるところが、両者ともに、耐え難い)。その論理を貫徹していくにあたって、欧米では(意識的にか無意識的にか)「植民地主義」がはたらき、その身勝手な世界秩序から排除すべき「第三者」をつくり出していることを見抜くこと。ボリビア、ベネズエラ、ニカラグア――今回の事態の裏側を陰画のごとく浮かび上がらせる国名を観ながら、私の頭には、〈奴らの〉それとは異なる世界地図が描かれていく。(7月7日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[38]歴史を「最低の鞍部で越えよう」とする論議に抗して


『反天皇制運動カーニバル』第3号=通巻346号(2013年6月11日発行)掲載

学生時代に愛読した文学者、本多秋五の『物語戦後文学史』(1958年から『週刊読書人』に連載。単行本は新潮社、1966年。現在は岩波現代文庫、全3巻)の末尾に、忘れがたい言葉があった。「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」というものである。ことは、戦後文学にのみ関わることではない。いかなる対象物であろうとも、論争の相手であろうとも、そのもっとも低い峰においてではなく、最高の(最良の)地点で越えることを呼びかける声として、私は聞き取った。理想主義にもっともよく憧れる若い時代のことだから、自分はこれを原則としたいものだ、と強く思った。その後、私と同世代の人の文章を読んでいて、本多秋五のこの表現に触れた件を何度か見かけた記憶がある。ひとつの時代を画するほどの、深いメッセージ性を帯びた言葉としてはたらいたのだろう。

従軍「慰安婦」問題をめぐって吐かれ続ける有象無象の政治家や評論家たちの言葉を見聞きしながら、不似合にも、本多のこの言葉をいく度も思い出していた。精神の、倫理的かつ論理的な高みを目指すことのない、「下品な」言葉にそれらは溢れていて、本多が呼びかけた志とは対極にあるものとして、印象が深かったからである。ここでは、それらの耐え難い言葉を再現するのは最小限に留めたいが、この現象には「時代の記憶」として再度触れないわけにはいかない。

大阪市長・橋下徹が十年前に出版した本には、次のような件があるという(5月26日付け東京新聞コラム「筆洗」から重引する)――自分の発言のおかしさや矛盾に気づいたときは「無益で感情的な論争」をわざと吹っかける。その場を荒らして決めぜりふ。「こんな無益な議論はもうやめましょうよ。こんなことやってても先に進みませんから」。

橋下は、まさしく一貫して、この「論法」に拠って生きていることがわかる。詭弁やすり替えを批判して、もしかして有効になるのは、相手がそれを恥じて改める精神を持つ場合だけである。橋下のように、それを自分の特技として誇示するような人間に対しては、有効ではない(橋下ほどのあけすけな語り口は持たないが、元首相K・Jや現首相A・Sも思想的に同根であることは、その発言歴を辿ればわかる)。問題は、今回の問題についての橋下の弁明に納得するという人びとが41%も占めるという「世論」のあり方にある(共同通信6月1~2日調査)。関西のテレビ局がわざわざ「大阪のおばちゃん」を登場させて「あの人、正しいこと言うたはんのに、周りが騒ぎ過ぎちがう?」と言わせるところにある。前号で述べたように、「外圧」に「抗する」快感を生きる「国民」が確実に増えているのである。皮相きわまりない歴史観を披歴し、同時に恐るべき排外主義的な言辞をふりまく橋下などの一握りの政治家が、決して「孤立」しているわけではないという点に、現状の深刻さが現われている。

「最低の鞍部を越える」議論の典型は、「戦場の性の問題として女性を利用していたのは日本軍だけではない」という物言いにある。アメリカ軍も韓国軍も同じではないか、といって「おあいこ」にしてしまいたい心根が透けて見える。これは、第二次大戦において国軍が組織的にこの制度(=性奴隷制)をもったのは、日本とナチス・ドイツだけであったという歴史的事実を捻じ曲げる、根拠なき言い草である。「軍に売春はつきもの」という石原発言はいかにも俗情に阿る物言いだが、「慰安婦は売春婦と同じだ」という水準に問題の本質をすり替えて「性奴隷制」の免罪を意図している。他方、石原たちには「売買春は必要だ」という男社会の「常識」が張り付いている。彼らはこの「常識」を「平時」にも「戦時」にも適用する。後者の時代であれば、食糧や物資が集中する軍隊の周辺に群がって生きるしかない一定の女性たちの「強制された生」には、思いのかけらも及ばない地点で、彼らは発言している。

半世紀前の本多秋五の言葉が持った意味をあらためて捉え返し、議論をまっとうな水準に据えなおして、私たちの歴史観・世界観を鍛えたいと思う6月である。(6月8日記)

他者不在の、内向きの「日本論」の行方


『季刊ピープルズプラン』61号(2013年5月30日発行)掲載

安倍晋三という政治家は、首相として初登場したときは「美しい国へ」という言葉で、挫折から5年半後に再登場したときには「新しい国へ」いう言葉で、日本の現状と行く先を語った。そこでイメージされている「日本」とはどういうものかを検討することが、ここで私に課されている問題である。この書のレベルを思って、そんな意味があるのか、とは問うまい。安部の登場と再登場の意味を考えるということは、ここ数十年における保守思想の流れのなかに、なぜ極右派が台頭したのかを考えることである。そのために、時代を少し遡った時点から始めたいと思う。(『美しい国へ』は2006年7月、文春新書。『新しい国へ:美しい国へ 完全版』は2013年1月、文春新書)。

(1)

一時期、私は「右派言論を読む」という作業を続けていた。集中した時期を大まかにいえば、1990年代初頭から21世紀にかけてであったと思う。自分なりに切迫した問題意識に駆り立てられていた。時代背景には、ソ連・東欧社会主義圏の無惨きわまりない体制崩壊があった。それと同時期に起こった東西冷戦構造の崩壊、イラクのクェート侵攻を契機にしたペルシャ湾岸戦争もあった。社会主義の実質的な敗北状況を見て、左派言論はみるみるうちに活力を失った。ソ連型社会主義を、「真の社会主義」の立場から夙に批判してきた者にも、ソ連崩壊はボディブローとして効いてきた。対照的に右派言論は沸き立った。「戦後の論壇は、長いこと、左翼に乗っ取られていた」と、なぜか、誤解している彼らは、ついに「われらの時代」がきたと思っているようだった。以前から、産経新聞社刊の『正論』や文藝春秋刊の(いまはなき)『諸君!』などの月刊誌は、右派言論の場として刊行されていたが、その誌面が格段に活気づいた。だが、傾聴に値する、落ち着いた論調の文章は次第に消え、ともかく進歩派と左翼に悪罵を投げつけて溜飲を下げるといった調子の、極右派の文章が増えた。その意味で、右派言論の質の低下は、隠しようもなく顕わになっていた。

それでも、その種の言論が従来とは比べものにならないほどに社会的な基盤を持ち始めている、という判断を私はもった。とりわけ、漫画家・小林よしのりによる近現代史をテーマにした一連の漫画作品が若者の心を熱狂的に捉えていることを知って、小林が描く世界に関心をもった。そして、いかなる暴論でも、それを受容する社会的な雰囲気があるときはそれを無視して済ませるわけにはいかないという考えを日ごろからもつ私は、「右派言論を批判的に読む」という課題を自分に課したのだった。

切実な課題は、逆の方向からもやってきた。良質な右派言論には、また左翼を罵倒するだけの下品きわまりない文章であっても、進歩派や左翼が持つ論理や歴史観の「弱点」を射抜く論点が、ときに見られた。それはとりわけ、ナショナリズムを問題とするときに否応なく立ち現われた。「左翼ナショナリズム」は、体制側のナショナリズムや、私が批判の対象としていた司馬遼太郎の近代日本の捉え方とも重なり合う貌をもってしまうからである。自分の外部にいる「敵」は撃ちやすい。だが、それが自分の内部にも巣食っているのかもしれないと自覚するとき――そのような「敵」に対しては、避け得ぬ課題として向き合わざるを得ないのである。

このような動機から、前世紀末のほぼ10年間、私はひたすら右派言論を読み、それを批判する作業を行なった。質が著しく低下した文章が載った単行本や雑誌を購入するために身銭を切るという意味では悔しく、それをたくさん読まなければならないという意味では虚しく、だがそれは同時に自分(たち)をもふりかえる作業であるという意味では貴重な試みではあった――と、(個人的にではあるが)今にしてふり返ることができる。

やがて21世紀が明けた。自民党内では傍流であった小泉純一郎という政治家が前面に登場したことによって、「政治」を語る言語状況が大きく変化した。論理も倫理も政治哲学も徹底して欠く小泉用語が、大衆的な支持を獲得するという時代が到来した。非論理的な言葉による「煽動政治」である。それは、前世紀末にメディア上に台頭した右派言論に向き合うこととは別な意味で、虚しさが募る時代であった。言論は劣化し、政治も劣化度を増すばかりであった。野党勢力も、政府に政策論争を挑むよりは、閣僚のスキャンダル探しに明け暮れるようになった。「政治の話題」は、その意味ではテレビといわゆるお茶の間を賑わせたが、それが「政治」の本質とは無関係であることは自明だった。

5年間に及んだ小泉時代が終わって後継者に指名されたのは、これまた時代が時代であれば保守本流にはなり得ないはずの、安倍晋三という極右政治家だった。「美しい国へ」というのが、この男が持ち出した〈政治的〉メッセージであった。その後首相となる麻生太郎も「とてつもない日本」という惹句をもって登場した。いずれも、歴史と現実に向き合う姿勢を放棄したまま、夜郎自大的に「日本」を誇示するという、成熟した大人なら口にするのも気恥ずかしさを伴うような類の表現であった。それを臆面もなく言い立てるところに、この時代の極右保守政治家の幼児性が現われていた。冒頭で触れた右派思想の劣化は、ここまできたのか、と嘆息するほかはない状況ではあった。

だが、改憲の意図を明確にもち、近代日本が歩んだ歴史過程(それを象徴するのは、他国の植民地化と侵略戦争である)を肯定的に解釈しようとする安倍が前面に登場したからには、しかもそれが一定の支持率を獲得しているからには、私は仲間と共にその政治観の空しさに堪えながら、彼の言動への注目を怠ることはできなかった。ところが、安部は病気を理由に1年後には政権を放り出した。多くの予想に反して、短命に終わったのだ。私は、それから数年後の2009年、事後的に安倍政権の性格についてあらためて分析する機会をもった。拉致被害者家族会の元事務局長・蓮池透との間で「拉致問題」をめぐって対話を行なったときのことである。その結果は、『拉致対論』と題して出版されている(太田出版、2009年)。

そのころ、蓮池はすでに初期の立場を離れて、北朝鮮の政府に対して「拉致問題の優先的解決」を譲らない、強硬一本槍の政策を主張する家族会とそれに追従するばかりの政府の路線に対する深い違和感を表明していた。異論を持つ者同士の間にも対話の時期がきたと考えて、私は蓮池に対談を申し入れた。4回に及ぶ非公開の対談においては、「拉致問題の解決のために最も熱心に努力してきた政治家である」との自負をもつ安倍について、語るべき多くのことがあった。蓮池は、安倍に対して「一定の世話にはなった」との思いがあるであろうと考えて、その批判的な分析は私が引き受けた。

安倍は、「政界」の内情を詳しく追跡している上杉隆によれば、内輪の集まりの場では「北朝鮮なんて、ぺんぺん草一本生えないようにしてやるぜえ」とか「北なんてどうってことねぇよ。日本の力を見せつけてやるぜ」といった言葉で強がりをいう人間であった(上杉隆『官邸崩壊』、新潮社、2007年)。首相になってからは、いつでもどこでも本音を口にするという態度を戦術的に止めてはいたようだが、周知のように、1年間の首相在任中に、拉致問題は解決に向けて一歩たりとも進展しなかった。逆に安部にしてみれば、「拉致問題への熱心な取り組み」は、意外な地点で裏目に出た。「拉致には熱心な安倍は、旧日本軍の性奴隷、従軍慰安婦問題の誠意ある解決には、なぜ、熱心でないのか。ひとしく人権侵害問題であるのに」という批判が、米国政府高官や主要メディアから沸き起こったのだ。そのころ、安部の表情は憔悴をきわめているように見えた。前任者が、いつも颯爽たる振る舞いの小泉であったから、それは見事なまでに対照的だった。案の定、数日して安倍は記者会見を開き、病気のため辞任すると語った。

(2)

「美しい国」日本などという、およそ政治とも思想とも無縁なイメージを掲げて登場した安倍は、実際のところ、何に躓いて挫折したのだろうか? 他者不在の、自己中心性がゆえに、である。

短く、安倍の経歴をたどってみる。安倍の述懐によれば、ある家族から、イギリスに留学していた娘が北朝鮮にいるらしいから助け出してほしいとの要請があったのは、彼が自民党所属の国会議員であった父親の秘書をしていた1988年のことである。それ以降、死んだ父親の後を継いで1993年に衆議院議員に初当選する転機の時期を挟んで、拉致被害者家族会と拉致議連が結成される1997年までのおよそ10年間、安倍は確かに、自らが属する自民党の中にあっても「奇異」に見られるほど拉致問題の解明に取り組んでいたようだ。「孤立無援に耐えながら自分だけはいち早く拉致問題に取り組んだ」という自負も顕わな安倍自身の著書を離れて、客観視するために他人の書物も参照してみよう。元共同通信記者で、安倍の父親が現役であった時代から自民党を担当していた野上忠興の著書『ドキュメント安倍晋三――隠れた素顔を追う』(講談社、2006年)を読むと、秘書時代の1988年に拉致事件のことを初めて耳にした安倍が、2002年の日朝首脳会談に至るまでの10数年間に、ただひとつ、この拉致問題を通して、自民党およびその主導下にある政府の中枢に上り詰めていった過程が、よく理解できる。当時としてはめずらしく、自民党の党内秩序である年功序列を壊して、相対的には若かった安倍が森政権(2000年7月)と小泉政権(2001年4月)の二期連続で官房副長官に任命された。それには「運」にも恵まれたと野上は書いているが、この地位に就いていたことが、2002年9月の小泉訪朝の際に、安倍が随行する機会に繋がるのである。

安倍の観点からすれば、小泉訪朝計画は、当時の官房長官・福田康夫と、外務省アジア・大洋州局長・田中均という、いうところの「対北朝鮮融和派」によって推進されていた。拉致問題については何かと口出しする「うるさい」安倍は、徹底して蚊帳の外におかれていた。それは、首脳会談から1ヵ月後に実現した拉致被害者5人の「帰国」後の処遇をめぐる論議の時点まで続いている。今後の交渉を進展させるためには「10日間程度の一時帰国だとする北朝鮮との約束を守る」べきだとする田中=福田ラインに抵抗して、安倍は田中に「あんたは北朝鮮外務省の人間か!」とまでなじって、5人の残留を主張した。安部の主張は、北朝鮮に残る子どもたちを思う苦悩の果てに残留を決意した蓮池薫ら被害者自身の選択と、結果的に合致した。この時点で、安倍は、拉致問題での政策路線をめぐる政府内および党内の闘争に勝利したのだと言える。その背景には、北朝鮮との実効性のある交渉よりも強硬な態度を優先的に求める、戦後最大の圧力団体=拉致被害者家族会の存在がある。その意向を慮って、疑問も批判もいっさい封じ込めて、家族会の考え方に追随するばかりのマスメディアと世論の動向もある。安部がこの時期について、直接的に言及している言葉は少ないが、周辺の関係者は当時の安倍の「余裕ある」態度を語り伝えている。「世論」を味方にしていると確信した安倍が、この上ない自信をもってふるまっていることがわかる。

深刻な問題は、これ以降に起こる。2002年9月の日朝首脳会談以降現在までの11年もの間、対北朝鮮政策は、その時点で融和派に「勝利」した安倍らが敷いた路線上で展開されてきた。民主党政権の時代とて、それに変化があったわけではない。その間に何が起こったのか、と問うことも虚しいほどに事態は何ら動いていない。むしろ、両国間関係は悪化している。自らが政府に強要した路線の必然的な結果とはいえ、拉致被害者の年老いてゆく家族の焦燥はつのるばかりである。

理由は明白だ。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」という、安倍らが主張する牢固たる態度が、問題を解決するためのすべての出口を塞いでいるからだ。安倍は、先述の著書のなかで、「ほんらい別個に考えるべき、かつての日本の朝鮮半島支配の歴史をもちだして、[北朝鮮に対する]正面からの批判を避けようとする」勢力がいることを批判している。安倍は、ついうっかりと、この箇所を書いてしまったようだ。北朝鮮側は、ほんらい別個に考える「べき」植民地支配の清算問題を、当然にも持ち出す。為政者としての安倍は、ほんらい別個に考える「べき」問題については、いっさい言葉を発せず、方針も示さないままでいる。安倍はこの問題を「別個に」考えたことが一度でもあったのだろうか? 拉致と植民地支配という2つの問題は、「別個に」ではあっても「同時に」考える「べき」問題だということは、外交関係の相互性からいって、当然のことである。安倍は、「美しい国」の抽象的なイメージを守るために、歴史に直面することをあくまでも避け続けるのである。

安倍の流儀で「歴史」を語るとすれば、次のようになる。「拉致問題は現在進行中の人権問題であるが、植民地問題や従軍慰安婦問題はそれが今も続いているわけではないでしょう」。「別個に考える」という発言の本音は、ここにある。「現在」と「過去」の間に高い壁を設けて、後者は「考えない」ことにするのである。しかし、歴史に関わる問題は、安倍の皮相な思いを超えて展開する。清算されていない「過去」は「現在」の問題として、人びとの意識と現実の中に存在し続けるのだ。ましてや、安倍は、「清算されるべき過去」を、実は、歴史修正主義の立場から「認めたくない」、できれば「肯定的に捉えたい」「美化したい」という本音に基づいて、非歴史的な思考回路をもつ「美しい国」論者である。そうである限り、「過去」を記憶する者は、「忘却したい」者の追跡を止めることはない。

そのような安倍を待ち構えていたのが、次の矛盾である。2000年に「女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、「慰安婦問題」と「昭和天皇の戦争責任問題」が真正面から審理された。この法廷についてNHKが制作した番組内容に、安倍ら「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が政治圧力をかけて、当初企画されていた番組内容が改竄された。このように、安倍にとっては、慰安婦制度は「美しい国」神話を守るために国家責任から解除し、あくまでも民間業者や「慰安婦」自身の「商行為」であるという範囲に押し止めなければならない問題であった。マスメディアが総体として、真実・事実を追及する姿勢をとみに失っていく状況の下で、日本国内では、安倍のこの詐術は一定の効果を上げていたのかもしれない。反撃は、思わぬところから跳んできた。米国から、である。『ワシントン・ポスト』などの主要メディア、議会、米国政府内「知日派」からすら、「拉致問題」と「慰安婦問題」(米国では、「性奴隷問題」と呼ぶほうが一般化している)という人権問題をめぐる「安倍晋三のダブル・トーク(ごまかし、二枚舌)」が公然たる批判にさらされたのである。彼は支柱と仰ぐ米国首脳部からの批判に精神的に堪えかねて、そこへ身体的不調も加わって、2007年9月の辞任に繋がった。当時の報道を見聞しながら、私はそう捉えていた。

すなわち、安倍がいう「美しい国」日本は、他者との関係で物事を考えなければならなくなるときに、即座に崩れるしかない程度の、脆弱なものであることを自己暴露したのである。

(3)

作家の辺見庸は、2007年秋、自分が入院している病院の廊下で、みな無言で浮かない顔をした背広の一団に出会った情景を描いている。

「男たちの群れの中心に、糸の切れたマリオネットのように肩をおとし、やつれはてて、生気をうしなった人間の横顔があった。いっしゅんだけ、そのひとと視線が交叉した。と、彼はすぐによどんだ目を伏せた。たじろいだのは、そのひとが体調不良を理由に辞意を表明して間もない首相だったからではない。そのとき、かれがふだんの「凶相」をしてはいなかったことと、すっかりしおたれた男の暗愁に、なんだかこころやすさをかんじてしまって、われながらとまどったのだった」(『水の透視画法』あとがき、集英社文庫、2013年)。

だが、それから5年後の思いを、辺見は続けてこう書いている。「最近、首相にかえり咲いた男をテレビで見たら、以前よりももっとこわい凶相をしていたのでぎょっとした。(中略)この世は、予感のとおり、まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」。

その昔、『政治家の文章』という好著を書いたのは作家の武田泰淳だった。それを読んで以来、私は、政治家の「文章」と、ついでに「面相」も、その人物の真贋のほどを見極める一助として観察するに値すると思うようになった。いまテレビを点け、新聞を開けば、政治指導部には辺見がいう「凶相」が勢ぞろいしている。それらの者たちはこぞって、敵対諸国を前に世界に稀な国として「日本」を誇る言動を繰り返し、閉鎖的な国家意識の中に人びと(国民、と彼らはいう)を閉じこめようとしている。彼らが、ひとり孤立している存在ならばたいしたことではない。辺見がいうように、この世が「まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」のは、この政治勢力が、民衆の無視できない規模の支持を得ているとしか思えないからである。

安倍を含めて卑小な国家指導者は、18世紀末以降ヨーロッパに構成され始めた近代的国民国家の枠組が永続的に続くものであるかのように、ふるまう。だが、1991年12月のソ連邦の崩壊は、現状では多くの人びとがこれなくしては生きてはいけないと考えているのかもしれない「国家」というものが、いかに脆く、儚いものであるかを証明した。「9・11」以後や「3・11」以後の国家社会のあり方をふりかえるとき、とりわけ論理も倫理も欠いた国家指導部を見ていると、これほどまでに理念的に貧しい連中に牛耳られている「国家」など、早晩崩れ去るほかないのではないか、人類は「国家」とは別な社会組織をつくらなければならないのではないか、という思いがこみあげてくる。

もちろん、国家を即時廃止することはできない。だから、「国家」の枠組みを尊重しながらも、各国の社会的在り方に規制を掛ける国際条約の試みが1960年代から着実に続けられてきた。私の関心の範囲で、ごくかいつまんでいくつかを挙げると、以下のようなものがある。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」と「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966)、「死刑廃止国際条約」(1989)、「組織的強姦、性奴隷、奴隷用慣行に関して被害者個人及び国家の権利及び義務を平和条約、協定などの手段によって国際法上消滅させることはできないことに留意する決議」(1999)、「先住民族権利宣言」(2007)などである。このリストは、長く続く。そして、これらの国際規約の精神をそれぞれの国で実効あるものにするためには、まだ長く歩まなければならない道程もある。だが、これは、国民国家の内向きの強制力が弱まってきたことを背景にもつ、主要には「人権」をキーワードに、国家を超えた共通の価値観をつくり出そうとする努力の表われである。

世界の、この大きな流れを見るとき、特定の「国家」の歴史、伝統、文化などに意味なく拘泥し、他者との関わり/関係性のなかで己を見つめる契機をもたない世界観を待ち受ける運命は明らかだろう。安部晋三の「日本論」を、そんな時代の仇花として、支配層ではなく民衆レベルの「国際化」の流れの中で、泡と消し去ること――それが、東アジアと世界に安定的な平和をもたらすために、私たちが担うべき「国際連帯」の課題である。

【付記】この文章の一部に、最初の安倍政権が成立した直後に書いた、私の以下の文章から流用した部分があることをお断りします。『「拉致問題」専売政権の弱み』(派兵チェック編集委員会編『安倍政権の「戦う国づくり」を問う』、2007年4月)

(4月17日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[37]「外圧」に「抗する」ことの快感を生き始めている社会


『反天皇制運動カーニバル』第2号(通巻345号)(2013年5月14日発行)掲載

5月4日付けの北海道新聞は、「3日に政府関係者が明らかにした」というニュース源で、以下の記事を一面トップに掲げた。現首相は2015年に「戦後70年」の新談話を発表することを目指している。その際、「戦後50年」を迎えて1995年に発表された「村山談話」に盛り込まれた「植民地支配と侵略」を認める文言を使わない意向である。アジア諸国に「損害と苦痛を与えた」「反省とお詫びを表明する」という意味では、村山談話と2005年小泉談話の精神は基本的に引き継ぐものの、「植民地支配と侵略」の言葉は避けて、今後のアジア諸国との友好関係を主眼とする「未来志向」の内容に書き換えたいと考えているというのが、この記事が伝えたことである。

伏線はあった。4月22日の参院予算委での質疑である。首相は、民主党の白真勲議員への答弁で「安倍内閣として、(村山談話を)そのまま継承しているわけではない」「戦後70年を迎えた段階で、安倍政権として未来志向のアジアに向けた談話を出したいと考えている」と語っている。この答弁の裏に隠された真意を探っていたジャーナリストの、いわゆるスクープが、冒頭で触れた道新の記事だったのだろう。

あの男は2年後も政権の座に就いているつもりなのか!――私たちにとっては、悪い冗談としか思えないことも、メディアが行なう世論調査なるものによって高い支持率を得ているからには長期政権が可能だと確信しているらしい本人とその取り巻きには、内心ほんとうに期するものがあるのだろう。前例はある。2001年から06年まで首相であったK・Jも、その新自由主義政策の無責任さにもかかわらず、高い支持率を誇っていた。国会で野党議員が同首相の政策を厳しい言葉で追及すると、当該議員の部屋には「いじめるな」という電話やファクスが、文字通り殺到したと言われた。新聞・テレビも同様であり、それらは、首相に批判的な発言を行なうと抗議の電話とファクスが来るだけならまだしも、購読者数や視聴率の急低下となって如実に反映すると言われたものだった。メディアが権力に対する批判精神を、今までとは格段の差で、急速に失い始めたのは、この時を境にしてであった。

当該の政治家は、もちろん、その言動のすべてにおいて、愚かにも程があるというべき人物だった。メディアの竦み方・怯み方もひどすぎた。だが、なんのことはない、「民意」なるもの、「世論」なるものが、そんな水準で表現される時代が来たのである。そんな時代を作り出してしまったのである。私たちの社会は、派手な言動をする笛吹き童子が現われると、その笛につられて(それが、集団自殺への道だとも知らぬ気に)奈落の底へでも、海の中へでも、喜んでついてゆくようになった。現首相をめぐって立ち現れている昨今の政治的・社会的風景に既視感をおぼえるのは、これが、K・J時代の再現に他ならない一側面をもつからである。

現首相A・Sは、前回首相であったときには、拉致問題と「慰安婦」=性奴隷問題に二重基準を設け、前者の追及には熱心だが後者の国家責任はできる限り低く見せようと腐心することの矛盾を米国政府首脳や同メディアに突かれ、自滅した。日米安保体制に絶対的な信頼感をもち対米追随政策を展開しながら、歴史的には、米国との全面戦争にまで至った戦時過程や他ならぬ米国の主導性にも与かって形成された「戦後レジーム」に関しては米国指導部の意にも反する再解釈を行なおうとすることの、絶対的な矛盾に自縄自縛されたからである。再登場して以降は、当初こそ、官房長官を盾にしたりしながら、本音を公言することはなかった。だが、地金は隠しようもなく、出てきた。「侵略の定義は、学会的にも国際的にも定まっていない。国と国のどちら側から見るかで違う」(4月23日)とまで、A・S自身が語り始めた。これに対して、近隣アジア諸国からはもちろん、欧州メディアや米国議会・政府の元高官・メディアなどからも「懸念」の声が上がり始めている。

問題は、ナショナリズムに席捲されているこの社会は、いま、自浄能力を欠いた状況にあるということである。「外圧」があればあるほど、これに「抗する」ことへの快感を生きるという一定の雰囲気が醸成されており、それがA・Sを支える社会的基盤である。自らの非力を託つようだが、私たちが抱える問題はそこへ立ち戻ると思う。

(5月10日記)

短期間に終わった出会いの記憶に――片島紀男氏に


文化冊子『草茫々通信』6号「特集 片島紀男の仕事」

(2013年4月25日発行、書肆草茫々、佐賀市)掲載

片島紀男氏の存在を知ったのは、いつだったのか、覚束ない。著作も多いが、氏の主たる仕事が映像ディレクターであったことから、いま、氏が制作したテレビ作品一覧を眺めてみると、私が観たのはわずか2作品でしかない。1995年『埴谷雄高「死霊」の世界』と2001年『吉本隆明がいま語る 炎の人 三好十郎』である。自宅にテレビをおかない時期も長かったし、テレビを入れてからも帰宅が遅いこともあって、今なら見逃すはずのない戦争期に関わる記録番組も、井上光晴の番組も、トロツキー紀行もまったく知らずに生きてきた。埴谷・吉本のご両人は、テレビに出演すること自体が珍しい文学者なので、おそらく事前広報が行き届いたのだろう、私も放映以前に察知できた。加えて私が深い関心を持ち続けてきた二人の思想家なので、これを見逃すはずはない。観て、かつ(今は行方不明だが)珍しくも録画までしている。

二人の文学者が語りつくした内容も、もちろん、さることながら、こんな番組を制作するテレビのディレクターが存在することに驚きをおぼえた。『死霊』は、1960年代半ば私が学生であった頃は、冒頭の部分を収めただけの真善美社版が、わずかな古書店で入手できただけであったが、私は当時の生活感覚からすれば高価なそれを買い求めては読み耽り、手元不如意になると同じ書店に売り飛ばすという、わけのわからぬ行為を何度も繰り返していた。それほどまでして手元において、事あるごとに目を通したい書物の筆頭に『死霊』は位置していた。そしてその後長い時間をかけて書き進められていく経緯を同時代史として現認していたわけである。

『死霊』だけではない。埴谷が書く政治論も文学論も映画論も、さらにあらゆるジャンルの断簡零墨のすべてを収録した評論集の一冊一冊が、私の心を捉えた。若いころ愛読している作家や思想家が現存している場合、距離のとり方が難しい。会って一言でも話したいという願望と、読者としてはあくまでも文章を通してのみの、一方的なつき合いに留めておく方が賢明だという冷静な判断の間で揺れ動く。埴谷の場合、私は後者を選んだ。ある会合で近くに見かけたこともある。訪ねようと思えば、伝手はあった。それでも、敬して遠ざけた存在で、埴谷の場合は、あったほうがよい。それが私の選択だった。

敗戦50年後を迎えた1995年正月、実際の声は聴くまいと思い定めていたその人が、あろうことか、テレビに出演して喋りだした。『死霊』の世界を自ら語り出して留まるところを知らない風だ。構成、作品からの引用、ナレーション、質問の仕方――そのすべてに私は圧倒された。しかも、それは五夜にわたって続けられた。埴谷が拘泥した「存在の革命」の内実が解き明かされてゆくこんな番組を実現させたディレクターの手腕に、私は真底驚いた。それが、テレビ番組を通しての片島氏との最初の出会いだった。

番組の内容は、2年後の1997年には『埴谷雄高独白「死霊」の世界』(NHK出版)と題して書物にまとめられた。埴谷の死後5ヵ月目だった。その手際のよさにも感心したが、この本に添えられた第三者の文章を読むと、やはり埴谷にとってテレビに出演するなどとは、死後の放映でない限りあり得ないことだったようだ。その条件を呑むかのようにして、ともかく本人の口を開かせカメラを回してしまったディレクターの「迫力」を感じて、あらためて唸った。

こうした片島氏の存在を意識しながら、その後も毎年のように制作された氏のテレビ番組を観る機会が、なぜか私にはなかった。6年後に観たのが『吉本隆明がいま語る 炎の人 三好十郎』である。語る人も、語られる人も、私には魅力的だった。吉本の著作は埴谷のそれと同じような重量をもって、私の中に位置を占めていた。そして、学生時代にうまくは出会うことができなかった三好とは、20世紀末以降の政治・社会の激変のさなかで、私は必然的に再会していた。左翼思想と運動への加担、転向、戦時体制への翼賛、戦争責任論、戦後進歩派への懐疑――三好がその後半生を費やして拘った諸問題が、そのころ、新たな意味合いを帯びて私に迫ってきていた。三好の著作を読み、その戯曲の演劇公演があればできる限り観る日々を私が送っていたころに、時期的に重なり合って、前述の作品は放映された。

この番組もまた、その完成度において、深い印象を私に残した。番組には三好の伝記的な事実が巧みに織り込まれていた(それには、片島氏のNHK勤務の初任地が、三好の出身地の佐賀であったことにも与かっていたようだが、片島氏の初任地=佐賀勤務が14年間も続いた経緯などは後日になってから知った)。三好の人生の軌跡と作品の誕生およびその変貌の経緯が、京都・三月書房の宍戸恭一と吉本の的確な批評によって辿られていた。宍戸は、先駆的な三好論『現代史の視点』(深夜叢書社、1964年)と『三好十郎との対話』(同、1983年)の著者である。三好の生涯と作品を「悲しい火だるま」と呼んだという吉本が、テレビ・カメラを前に話す様子も初めて観た。講演は若いころから何度か聴いているが、変わることなく言い換えと繰り返しが多く、耳に入る言い回しは決して明快とは言えない。だが、吉本の発想と論理の骨格を知っていると、彼が言おうとしたこと自体は、私の中に明快な像を描いて、残った。それは、おそらく、番組の「構成」がすぐれていたことにも由来するものだろう。

こうして、私が接することができた片島氏の数少ない映像作品からは、作家の世界に深く分け入る独特の方法に学ぶところが多かった。「映像ディレクター=片島紀男」の名は、くっきりと私の中に刻み込まれた。放映から二年後、氏は『悲しい火だるま―評伝三好十郎』(NHK出版、2003年)を出版した。これは著作権抵触問題のために絶版回収されたが、氏は挫けることなく、改訂版『三好十郎傳―悲しい火だるま』(五月書房、2004年)を出版した。600頁近い大著だった。仕事ぶりはエネルギッシュで、徹底したものだった。いつか出会う機会があれば、と望まないではなかった。

意想外な理由から、その出会いは実現した。最初の出会いが、いつ、どこであったかの記憶はない。日記は、その年が終わると処分してしまう習慣を持つ私には、復元する術がない。片島氏が亡くなった年である2008年から逆算すると、2005年あたりの出会いであったろう。三鷹事件・帝銀事件など戦後史に関わる映像作品を制作し、著書も持つ氏は、やがて帝銀事件の死刑囚、故平沢貞通の無実を確信し、再審請求の活動に携わるようになった。私は私で死刑制度廃止運動に以前から関わっており、その場の共通性から、出会う機会に恵まれたのだった。初めて会ったときに交わした言葉も、埴谷と三好の映像作品に関する印象を私がそのとき伝えたか否かも、情けなく、そして無念だと思うが、覚えていない。二度目の出会いは、私の事務所がある渋谷で開かれた平沢貞通の個展会場においてであった。逮捕・幽閉される以前の平沢の作品の「発見」はなお続いている時期で、そこで初めて観る作品がいくつか、あった。作品をめぐってはもちろん、死刑廃止の実現のために今後も連絡を取り合って、いろいろな手を尽くそう、などという話を交わした。それから間もなく、片島氏は、私の渋谷の事務所へ訪ねて来られた。帝銀事件再審請求運動への協力を私にも要請し、その訴えをしかるべき人びとにも広めてほしいということだった。できる限りのことはします、と約束した。

その時だったか、それとも別な機会だったか、氏は私にもう一つの協力を乞うた。レオン・トロツキーを暗殺したラモン・メルカデルの弟が残している回想記を翻訳してもらえないか、という要請だった。1994年に『世界わが心の旅 メキシコ・トロツキー 夢の大地』という映像作品(未見のため、旅人は誰だったのかも、私は知らない)を持つ氏は晩年のトロツキーに関する書物を準備中で、暗殺者の近親者がスペイン語で書いたその回想記の重要性を感づかれたらしかった。私がスペイン語を解することも含めて、ある程度は私のことも理解されたうえでの申し出だったのだろう。

関心は大いにあるが翻訳するまでの時間はない私は、別な適任者に翻訳してもらい、半年後くらいだったか、できあがった訳稿に目を通したうえで片島氏に送った。それは『トロツキーの挽歌』(同時代社、2007年)に生かされた。読みながら、私は、60年安保闘争を軸とする学生運動へ関わって以降の課題のひとつに、片島氏はこれで「ケリ」をつけたかったのだろうと思った。

日常的に常に連絡を取り合っているという関係ではなかった。「死刑制度廃止」という課題の共通性はあり、そして何よりも、埴谷雄高や三好十郎、吉本隆明、ゾレゲ、トロツキーなど、共通の関心事項はあるのだから、いつかじっくりと語り合う機会はあるだろうと確信していた。その日は、放っておいても、いつか来る――いま思えば、何の根拠もなく、そう思い込んでいた。

だから、氏の逝去を報じる2008年12月24日の報道は衝撃だった。いまでも、悔しさはつのるばかりだ。私にとっての埴谷雄高がそうであったように、著作を通して知っていれば十分、という関係性は、もちろん、あり得る。そのひとと実際に知り合う機会を得ながら、それが不十分なままに突然断ち切られると、悔いと無念さが、いつまでも消えない。人間とは厄介な存在だ、とつくづく思う。

片島さん! 失礼ながら少しいかついが、人懐こいあなたの笑顔を思い浮かべならが、人間の「存在の革命」と、人間がその中で生きる「社会の革命」をめぐっての、あなたとの想像上の対話を続けたい。応えてください、私の問いかけに。(3月16日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[36]「日本人の統一」を呼号するのではなく「論争ある分岐を」


『反天皇制運動 カーニバル』第1号(通巻345号、2013年4月16日発行)掲載

(反原発運動について)――「戦後ここまで日本人が統一したことはない」。

(会場の日の丸について)――「日の丸を見たら身構える世代ですが、今日はそれを掲げる人もいることをうれしく思う」

――3月11日、原発事故から2周年目の東京集会に、私は別件があって参加できなかった。その集会において、前者は大江健三郎によって、後者は澤地久枝によって、それぞれ語られた言葉であることを私が知ったのは、したがって、事後的なことである。二人のこの発言内容は、ネット上の複数の人たちのサイトを照合して、記した。そのうえでの引用だから、この部分に限ってはほぼ正確なものとして解釈することが許されると思う。だが、全体的な文脈を十分にはたどることができないので、壊滅的な批判は控えて、さしあたっての小さな疑義だけを呈しておくに留めたい。

私はふだんから、「私(たち)=日本人」を前提にして主語に据える文章を、滅多なことでは書かない。私が否応なく持たされている「日本人」であるという属性が、私のアイデンティティ(自己同一性)」を規定しているものとして積極的に援用すべき機会は、私にはないからである。止むを得ず、そのことを認めた地点から発言しなければならないことが、まま、あるとしても。ましてや、排外主義的な風潮がここまで社会全体を浸しているとき、「日本人が統一」していることを肯定的に語る原理を私はもたない。「統一された日本人」が「日の丸」によって象徴されていると呼号する人間が実在する社会に住んでいるからには、そんな場所からは明確に区別されたところにわが身をおいて、この社会の行く末を考え、発言する人間でありたいと思うからである。

私自身も、首相官邸付近をはじめとする各所での反原発行動には何度も参加してきているが、そこにいることの「苦痛」を感じた経験も、数回には留まらない。例を挙げてみる。ある夜、現場に遅く着いた私は、首相官邸に最も近い地点にはいるが、それ以上は行かせまいと阻止線を張る警官隊に封じ込まれている数十人の集団のところへ行こうとしていた。次第に近づくと、先頭でメガホンを口に当てた男が「野田内閣を打倒せよー」と、奇妙な抑揚をつけて唱和の音頭をとっていた。その発声は、明らかに、天皇記念日や閣僚の靖国参拝を批判するデモを行なう私たちに、黒塗りの街宣車から、高性能マイクを使って罵倒を浴びせる職業右翼のものにちがいなかった。奴らは、集会の発題者を察知している時には、その固有名を挙げて「打倒せよー」と叫び、「打倒したぞー」と唱和させ、「叩き出せー」「北朝鮮へ帰れー」と叫びたてるのだから、一度その標的にされた者には忘れようもない口調と発声なのだ。ファシズムの匂いがする声と抑揚とでも言おうか。そこに「日の丸」は翻ってはいなかったが、たとえ「反原発」であろうともこの発声には唱和すまいという私の感性は信じるに値するとだけ考えて、私はその集団に背を向けた。

「左右を超えた脱原発、そして君が代」(坂本龍一と鈴木邦男の対談企画に『週刊金曜日』誌2月8日号が付した名称)などという言い草が、論議も論争もないままに、「日本人」内部の了解事項となるとき、その外部にはじき出される者が、必ず存在する。「右」はその本質からして、「左」はその無自覚さにおいて、排除すべき「非日本人」を、このスローガンを通してつくり出すのである。このように「統一された」日本人こそ、恐ろしい。そこに翻る「日の丸」に恐怖を感じる「非日本人」が存在することを感受できない感性は、「日本人の内部」からこそ、疑うに値する。

「反原発」運動の内部には、「城内平和」は求めるが原発輸出には何の関心も示さない傾向が厳に存在する。「反戦・平和」運動の内部には戦後一貫して、「憲法9条」と「日米安保体制」を「共存」させる心性が消えることはなかった。沖縄の現状は、その延長上で担保されている。

「統一と団結」の呼号ではなく「論争ある分岐を!」――私たちが、いつでも、どこでも、依拠すべきはこの原則である。蛇足ながら、ここでいう「分岐」は「分裂」と同義ではない。

(4月13日記)

第2回死刑映画週間を終えて


死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90機関誌『FORUM90』128号

(2013年3月30日発行)掲載

昨年初めて「死刑映画週間」の開催を試みたが、それに手応えを感じた私たちは、去る2月2日から8日までの7日間、昨年と同じ東京渋谷・ユーロスペースで、第2回目を開催した。存在する死刑制度の実際に即して考え、問題提起を行ない、討論を深めることは、もちろん大事だ。同時に、ひとに備わっている想像力を駆使した映画・文学などの芸術表現は、ひとの心に意外なまでの作用を及ぼすことがあるから、その力を借りて、問題の領域を広げたり深めたりすることができる。昨年は、犯罪と死刑をテーマにした10本の映画を上映してみて、この思いをさらに深めることができた。だから、第2回目を開催することは当然の選択だった。

「死刑映画」と一口にいっても、上映可能な作品が次から次へと湧き出てくるわけではない。10本前後の作品を上映するとなると、借出し料金も相当な額に上る。加えて、旧い作品の場合、配給会社が消えていることもあるし、もはや上映権が切れている場合も多い。新作でも、制作側はロードショーを終えてしまうとDVDソフトの販売に力を入れるから、劇場でのスクリーン上映にはあまり拘らないケースが昨今は出てきているようだ。昨年来、この映画をぜひ、という推薦をくださった方もいる。「この作品をこそ」と多くの人が思う作品で、昨年と今年のリストに上がっていない作品があれば、そんなケースに該当するだろう。したがって、「犯罪」は扱われているが「死刑」そのものが必ずしも主題とはいえない作品も(もちろん、それが「犯罪映画」として、また「時代と人間」の描き方としてすぐれた作品であることを前提として)上映リストに入れることになる。今年の場合、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』がそれである。

今年は、9本の作品を27回上映した(『ヘヴンズストーリー』が長尺なので、2回枠を使った)。観客総数は1308人だった。昨年より数十人少なかった。当日券の観客が6割を占めて、前売り券を持った人より多いのは昨年と同じ傾向だった。私たちがふだんは接していない人がけっこう多く来場していることの証左だろう。

総じていえば、『少年死刑囚』や『真昼の暗黒』のように、観る機会が少ない、旧い日本映画への関心が深いことがうかがわれた。実際にあったことを素材にしている作品の場合は、それを通して、自分が知らない過去の出来事、時代背景、警察・検察・裁判所のあり方、人びとの暮らしの様子、さらには名のみ知る過去の名優たち(その多くは、いわゆるバイプレイヤーである)の姿などを知るという魅力がある。『略称・連続射殺魔』は、永山則夫が生まれ育ち生活した場所や、彼が見たであろう風景をひたすら写し撮るだけで、登場人物も物語もあるわけではない。こんな喩えは監督の足立正生氏には申し訳ないが、私は、グーグルの「ストリート・ビュー」の先駆けのように思える瞬間があった。ともかく、そこにはまぎれもなく「1969年」の日本各地の風景があって、知る者には懐かしく、知らない者には新鮮だ。戸惑いを感じた人もいたようだが、制作当時「風景論」なる熱心な論議を巻き起こしたこの作品から、ある出来事(犯罪)の背後に広がる「風景」を知ることが、どれほど大事なことかを実感できた人が多かったという印象を受けた。

『ヘヴンズストーリー』は、本来なら、この作品だけを論じる機会を得たいほどの長編力作で、4時間38分のあいだ立ちっぱなしの人が10人以上も出るほどの盛況だった(椅子席は92席)。実際に起きた事件をモデルにして描かれてはいるが、それに土俗性も重層的な物語性も注ぎ込まれているので、豊かな膨らみを持つ作品となった。犯罪と被害、被害者遺族が辿らなければならない後半生の生き方、報復、暴力の「連鎖」――などの諸問題をめぐって深いところで考えるよう、観客を誘う作品だった。テレビ・新聞の事件報道では、複数の視線が絡み合うことなく〈単一の〉同調主義的な視点が作り出されてしまうが、この映画は違った。その違いが際立ってもいた。その意味でも「罪と罰と赦しと」という今年の副題にもっともよく見合った内容だった。

観客数という意味で苦戦したのは、韓国の『ハーモニー』と中国の『再生の朝に』だった。収支はトントンにしたいし、上映する以上はできるだけ多くの人に観てもらいたいから、「数」はこだわりの対象である。なぜだったのか、作品論(これが大事だ、ということを私たちは自覚している)を含めて、今後の私たちの検討課題としたい。韓国は、死刑が連発された軍事政権時代とうって変って、この15年間死刑が執行されず、実質的な死刑廃止国となっている。中国は、日本・北朝鮮と並び、国内統治の重要な手段として死刑制度を利用し続けている東アジアの一国である。どちらの国の経験も、いまだに死刑制度を廃絶できていない日本の私たちに示唆を与えよう。東アジアには、なぜか、世界的には20数年前に消滅したはずの「東西冷戦構造」が継続しており、国内矛盾を隠蔽しながら対外的に強硬路線を取る支配層が存在する。ここに生きる私たちは、他のどこよりもまず日本社会のあり方の問題として、このことを分析しなければならない。自らを省みることのない排外的なナショナリズムの煽動において、国内の厳格な刑罰制度としての「死刑」はどんな役割を果たしているのか。両者の間には関係があるのか、無関係なのか。死刑制度廃止が加盟条件になっているEU諸国の場合には、あり得ない課題の設定である。「死刑映画週間」もまた、この社会に強まる「見ず知らずして、隣国に対する理由なき嫌悪感」が現われる一例にならないこと――そのことを私たちは心がけたい。

今年は来場者にアンケートへの記入をお願いした。予想以上に多くの方が寄せてくれた。希望上映作品も、幾人かの方が挙げてくれた。前述のような理由で、すべての希望を叶えることはできないが、今後も示唆と助言はいただきたい。上映期間の延長を希望される方もいるが、現状の私たちの力量では一週間がギリギリの限度である。資金面とスタッフの仕事量の双方の意味から考えて。さらに作品の内容に関して、また死刑制度に関して、ご自分の見解を披歴するいくつもの意見をいただいた。糧としたい。

さて、スタッフは、来春の第3回の実現に向けて準備に入っている。今回来場された方が下さったDVDで候補作品を観たり、各劇場を回ってめぼしい作品を観たりしている。どんなプログラムができるかはまったくの未知数だが、どうか、今後とも批判的なご支援をいただきたい。

ウカマウ集団と日本からの協働――歴史観と世界観を共有して


眞鍋周三編『ボリビアを知るための73章』【第2版】(明石書店、2013年2月刊)所収

ボリビアの映画作家、ホルヘ・サンヒネスらが形成する「ウカマウ集団」の作品は、1980年以降、そのすべてが日本で公開されている。基本的には、非商業レベルの自主上映形式である。国際的には一定の知名度をもつ映画集団であり監督ではあるが、小さな国の映画集団であることを思えば、あまり例を見ないことである。ここでは、そこへ至る過程を述べるものとする。

ラテンアメリカの歴史と文化、実際に行なわれているさまざまな文化表現に関心を持つ唐澤秀子と私・太田昌国が、ラテンアメリカ遍歴の道程でエクアドルに滞在していたのは1975年のことである。ある日、キトの街を散策していると、街頭の壁に貼られた一枚のポスターに気づいた。切羽詰った表情をしたひとりの先住民青年が銃を手に構えている。エクアドルではすでに何万人が観たとか、いくつかの惹句が添えられた『コンドルの血』というボリビア映画の宣伝ポスターであった。この地域を理解する鍵のひとつは、先住民に関わる諸問題だと痛感していた私たちは、その足で会場へ向かった。

衝撃的な作品であった。アンデス先住民の農民がスクリーンで話しているのはケチュア語で、まったく理解はできない。都会の人間が話すスペイン語や米国人の英語の一部が聞き取れるだけだ。だが、物語の筋は十分に見える。とあるアンデスの寒村が舞台だ。結婚したカップルが幾組もあるのに、村ではここ数年子どもの誕生がない。なぜだろう、と訝しく思った首長は、数年前から米国の医療チームが低開発国援助の名の下で診療活動をしている診療所をのぞく。そこでは、地元の若い女性に対して、本人の同意を得ない不妊手術がなされていた。真相を突き止めた村人たちは怒り、医療チームの住み家を襲うが……と物語は展開する。

米国の平和部隊が何らかの理由でボリビアやペルーから追放された1970年前後の出来事は、日本にいた頃に知っていた。明かされた事実の衝撃性もさることながら、見慣れた日本や欧米の映画とは異なるカメラワークなどの映画作法も新鮮だった。会場にはチラシも何もない。係に乞うと、それはないが、映画の監督がいま亡命者としてキトにいるという。私たちの連絡先をおいて、その日は去ったが、翌日逗留先のホテルに現れたのが監督のホルヘ・サンヒネスとプロデューサーのベアトリス・パラシオスだった。私たちは映画の感想を語り、広くさまざまなテーマについて語り合った。歴史観や世界観に著しい近さを感じる人たちであった。

その後、亡命先を転々とする彼らと、旅を続ける私たちは、幾度となく会う機会をつくった。コロンビアで、メキシコで。その間に、今までの作品をすべて見せてもらった。ウカマウの作品群は、単にアンデス地域に限定されることのない、広く帝国―第三世界の諸問題を、歴史的・芸術的に提起している優れたものであるとの確信を得た。帰国する私たちに、彼らは一本の16ミリ・フィルムを託した――『第一の敵』。日本での上映の可能性を探ること。それが双方の約束事であった。

1970年代後半、その頃、小国の無名作家の映画を商業公開する可能性はまったくないことが、すぐわかった。自主上映する方針を決め、字幕用の翻訳をはじめとする多くの作業を自力でやることにした。不足する資金は、友人たちから借りた。1980年6月、2週連続の週末4日間、定員400名ほどの会場で6回の上映を行なった。入場者総数2000人。驚くべき数であった。ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死から十数年、まだその記憶が鮮明な時代であった。初公開されるボリビア映画は、ゲリラと先住民貧農の共同闘争をテーマとしているとの情宣を行なったので、それが効いたのかもしれぬ。

東京上映成功の報を聞いて、全国各地から上映計画が寄せられた。名古屋・京都・大阪・那覇・広島・札幌・神戸・仙台・博多・水俣・佐世保――わずか一本の16ミリ・フィルムが全国を旅し始めた。生業を別にもつ私たちは、上映収入から最小限の必要経費(フィルム代・字幕入れ代・チラシ印刷費・会場代など)を落とした残りはすべてウカマウに還元するという方法を原則とした。当時ボリビアは民主化の過程を迎えており、長い間亡命していたサンヒネスらはそのたたかいの過程を記録している時だった。日本からなされる送金が次回作の制作資金の一部となるという、当初からの構想が具体化し始めた。その後数年のうちに、既存の作品はすべて輸入して、次々と上映会を行なった。送金額も順調に増え続けた。5年後の1985一年、次回作を共同制作しないかという提案がウカマウからきて、あらすじも送られてきた。力不足を自覚しつつも同意し、シナリオの検討、資金の調達などに力を尽くした。上映時には入場券となる前売り券を多くの人びとが買って、支えてくれた。数人のスタッフが撮影現場に参加する計画も立てたが、現地の政情不安定ゆえにロケ日程が確定できず、これは不可能だった。

その作品は四年後『地下の民』となって完成をみた。サン・セバスティアン映画祭でグランプリを獲得するほどの優れた作品だった。東京・渋谷の仮設小屋でのお披露目公開では、連日長い行列ができた。その次の作品『鳥の歌』でも一定の共同作業を行なった。シナリオ段階で意見を出し、ほぼ完成状態で送られてきた作品の、一部のストーリー展開や音楽の用いられ方に異見を出した。それらは採用され、手直しされたものが最終的には送られてきた。

サンヒネスは、2000年、私たちの招待で来日した。東京・木曽・名古屋・大阪で「上映と討論」の夕べを開いた。20年間、ウカマウ映画を見続けてきたフアン層の厚みを実感できる集まりとなった。

ウカマウと私たちとの協働作業は、30数年を経た今も続いている。激動の現代史の展開の中にあって、出会いの当初感じた歴史観と世界観の共通性を双方がぶれることなく持続してきたからこその関係性であった、と私たちは考えている。

◎参考文献

太田昌国=編『アンデスで先住民の映画を撮る――ウカマウの実践40年と日本からの協働20年』(現代企画室、2000年)

ドミティーラ『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人びとの物語』(現代企画室、唐澤秀子訳、1994年)

ベアトリス・パラシオス『「悪なき大地」への途上にて』(編集室インディアス、唐澤秀子訳、2009年)

ウカマウ映画集団の軌跡―-先住民族の復権に向けて


眞鍋周三編『ボリビアを知るための73章』【第2版】(明石書店、2013年2月刊)所収

一時期の世界有数の映画史家ジョルジュ・サドゥールは、映画が製作さえされているならどんな小さな国の映画事情にも触れながら、『世界映画史』を著した(みすず書房)。だが、彼は1967年に亡くなっているから、記述は1964~5年段階までで終わる。ボリビアに関してはわずか7行で、一つの作品も観る機会を持たないままに映画館事情などに触れただけだ。ちょうどその頃、ボリビア映画界の先駆的作家となるホルヘ・サンヒネス(1936~)は、短篇2作をもって登場していた。キューバ革命(1959年)の熱気が、ラテンアメリカ全域を覆い尽くしている時期であった。チリの大学で映画技術を学んだ彼は故国へ戻り、ありのままの映像・音楽・音を用いて、搾取と貧窮に喘ぐ民衆の現実を第1作目の短篇『革命』(1962年)で描いた。続けて、ボリビアに多い、企業が掘り尽くしたと考えて見捨てた鉱山で採掘仕事を単独で行なう労働者の現実を『落盤』(1964年)で描いた。

ボリビアの人口の圧倒的多数を占める底辺の民衆によってこそ受け止められてほしいと作家が願った2作品は、中産階級の一部の良心派の心は衝撃と共に捉えた。だが、貧窮の現実を日々生きている人びとの反応は違った。自分たちのありのままの現実を今さらスクリーンで眺めたところで、どうなるわけでもない。そんな結果をではなく、なぜこうなるのかという原因をこそ知りたい――この反応を知ったサンヒネスは、初の長篇『ウカマウ』(1966年)に新たな気持ちで取り組んだ。妻の暴行・殺害犯であるメスティソの仲買人に対する復讐を長い時間をかけて実現する若い先住民農民の物語である。ティティカカ湖上にある太陽の島を舞台にした物語は、先住民とメスティソのそれぞれの日常生活のあり方を丹念に描くことで、両者の人間関係・自然との関わり方・価値観などを対照的に際立たせた。この社会を分断している人種ごとの「文化」の違いを的確に浮かび上がらせたのである。

ボリビア史上初の長編映画は大評判となり、多くの観客に恵まれた。人びとは、街なかでサンヒネスを見かけると、映画のタイトルそのままに「ウカマウ」と声をかけるようになった。ウカマウとはアイマラ語で、映画の中で何度か使われる台詞だが、「そんなものよ」をといった感じの意味である。監督がひとり際立つ映画作りではなく集団制作を企図していたサンヒネスらは、「ウカマウ」を集団名とすることにした。

長篇第2作『コンドルの血』(1969年)と第3作『人民の勇気』(1971年)は、当時の社会・政治状況を分析したウカマウが、第三世界が強いられている従属構造は国内支配階級とその背後にいる帝国主義によってつくり出されていると考え、それをテーマにした作品である。前者は、米国が後進国援助の名の下で行なっている医療活動において、人口爆発・食糧不足を危惧する医療チームがアンデスの先住民女性に対して本人の同意もなしに強制的な不妊手術を行なっている事実を告発した。後者は、1967年ボリビアでたたかっていたゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する行動を計画していた鉱山労働者や都市の活動家の動きが、それを察知した政府軍によって未然のうちに鎮圧される過程を、生存者の証言に基づいて、セミ・ドキュメンタリー風に描いた。演じるのは常に、素人の農民や鉱山労働者だ。こう書くと、単なるプロパガンダ映画のように響くかもしれないが、物語の構成やカメラワークその他の映画的要素がそれに堕すことを防いだ。現実の社会では最下層に位置づけられている先住民族が、スクリーン上で自らの母語で語り、物語の主役として登場する姿も、先住民族差別が制度されているにひとしい社会の中にあって画期的なことだった。ウカマウ映画は、国の内外でその存在感を高めるようになった。

1971年クーデタで軍事政権が成立し、従来のような表現は許されない時代に入った。今までの作品の上映は不可能になり、ウカマウのフィルムを所持していること自体が罪とされた。サンヒネスは活動の場を、アジェンデ社会主義政権が成立したチリに移した。70年代を通して続く亡命時代の始まりである。1973年、チリでも軍事クーデタが起こり、逮捕を免れたサンヒネスは辛うじてペルーへ逃れた。ペルーでは『第一の敵』(1974年)を、次に亡命地エクアドルでは『ここから出ていけ!』(1997年)を制作した。アンデス諸国に共通の先住民族の母語、ケチュア語による作品である。前者では、ゲリラとアンデス農民の反地主共同闘争の行方が描かれた。60年代のペルーで実際にたたかわれたゲリラ闘争の指導者が獄中で書いた総括の書に基づいた脚本であったが、それはボリビアで1967年に敗北したチェ・ゲバラたちの闘争を彷彿させる内容だった。後者では、資源開発を狙う多国籍企業の尖兵となった宗教集団がアンデスの先住民農民社会に食い込み内部崩壊を導く過程と、それへの抵抗運動の芽生えを描いた。いずれも、現地の農民・映画関係者・大学などから、国境を超えた協力が得られてこそ可能になった作品だった。ウカマウが企図する「先住民族の復権」という思想が「集団的創造」を通して実現した、最も典型的な例として、サンヒネス自身が回顧する二作品である。

1980年代初頭、ボリビアでは民主化を求める民衆運動が高揚する一方、軍部も繰り返しクーデタを試み、混沌たる情勢となった。サンヒネスらは出入国を繰り返して、この過程をドキュメンタリーとして描いた。『ただひとつの拳のごとく』(1983年)はこうして生まれた。十数年ぶりにボリビアに落ち着いて、制作・上映活動ができる時代となった。内外の「敵」を真正面から捉えて行なってきた60~70年代の制作活動をふり返り、新たな時代に向き合う方法を探る過程で生まれたのが『地下の民』(1989年)である。都市で働く一アイマラ青年の半生をたどりながら、先住民としてのアイデンティティの危機という問題を、現実の重層的な社会構造とアンデス先住民の神話的な世界もまじえて描いた、広がりのある作品である。それまでの作品も、各種国際映画祭で高い評価を得てきたが、『地下の民』は89年度サン・セバスティアン国際映画祭でグランプリを受賞した。

文字通り、ウカマウ集団=ホルヘ・サンヒネスの代表作というべき作品となった。

その後も、『鳥の歌』(1995年)、『最後の庭の息子たち』(2003年)などの作品を通じて、過去を内省的にふり返り、あるいは新たに生まれてくる情勢をいかに捉えるかという必然的なテーマをめぐっての模索が続いている。この間、ボリビアには先住民大統領が誕生した。デジタル機材の浸透によって、映画を取り巻く技術的な環境も激変している。ウカマウ集団は今後どこへ向かうか。興味は尽きない。

◎参考文献

ホルヘ・サンヒネス+ウカマウ集団=著『革命映画の創造――ラテンアメリカ人民と共に』(三一書房、太田昌国訳、1981年)

『第一の敵』上映員会=編訳『第一の敵――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』(インパクト出版会、1981年)

『第一の敵』上映員会=編訳『ただひとつの拳のごとく――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』(インパクト出版会、1985年)

書評:佐野誠『99%のための経済学〈教養編〉―誰もが共生できる社会へ』(新評論)


『新潟日報』2013年3月3日掲載

景気さえよくなるなら何でも許される、という気分がこの社会に充満している。多数の自殺者、非正規労働従事者の激増などが象徴しているように、経済的な苦境にあえぐ人びとが多い現実を正直に反映した気分とも言える。この閉塞した状況から抜け出すには、どうすればよいのか。本書の著者が徹底してこだわるのは、この問題である。

処方箋を出すためには、的確な診断が必要だ。時代の特徴をどう捉えるのか。米国のウォール街占拠運動が掲げた「1 %対99%」というスローガンに著者は共感する。1%とは少数の富裕層、99%は圧倒的多数の一般庶民を意味する。すなわち、世界と日本の現状を分析する際に著者が鍵とするのは、「格差社会」の到来という捉え方である。

なぜ、こんな時代が到来したのか。自由化・規制緩和・「小さな政府」等の政策を通じて市場競争にすべてを委ねた新自由主義サイクルが世界を席捲したからである。それは、世界的に見れば、1970年代半ばにラテンアメリカ諸国で始まった。日本では、1980年代半ば過ぎに中曽根政権時代に始まった。遠い他国ばかりではない、自国においても、それがどんな結果をもたらしたか。それがいくつもの例を示しながら、解き明かされていく。読者は、自分自身に、また周囲に起こっている身近な現実に照らしながら、著者の分析の正否を確かめていくことができる。

では、どうするのか。著者が打ち出すのは「共生」という考え方である。人間には、損得勘定のような利己主義に動機づけられた発想もあるが、同時に、連帯感に基づく共生を求める心もある。前者がこの格差社会を生み出したのだから、後者の精神と実践によって変革する。これもまた、内外のさまざまな実例を挙げて、論じられていく。

新潟出身の著者は、思いがけない仕掛けを工夫している。非戦を思いながらも「連合艦隊司令長官」として真珠湾攻撃を指揮する立場に立たされた同郷の山本五十六に関する映画を論じる場所から転じて、やはり同郷で、同時代の経済学者、猪俣津南雄に繋げていく箇所である。それは、五十六が「日本の社会についてどのような見識をもっていたか」を知りたいという著者の思いからきている。経済学者である著者が狭い専門分野を抜け出し、一般読者に向けて工夫を凝らして著した好著である。