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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[44]特定秘密保護法案を批判する視点


『反天皇制運動カーニバル』第9号(通巻352号、2013年12月10日発行)掲載

特定秘密保護法案の国会審議が大詰めを迎えていたころ、某大学で「帝銀事件と平沢死刑囚」について語る機会があった。NHKのディレクターであった故・片島紀男に関しては、「埴谷雄高・独白『死霊』の世界」(1995年)や「吉本隆明がいま語る 炎の人・三好十郎」(2001年)などの作品を観て、私は注目していた。だが、氏は、私があまりテレビを観る習慣のなかった時期に、「昭和」史や戦後史に関わる番組も多数制作していた。「獄窓の画家 平沢貞通~帝銀事件元死刑囚の光と影」(2000年)もそのひとつである。この番組を学生と一緒に観てから、上記のテーマについて語るという企画である。

私は死刑廃止運動の場で、晩年の片島氏と知り合う機会があり、獄死した死刑囚の再審請求に賭ける氏の熱意を知っていた。講義の前夜、新聞に小さな記事が載った(12月3日)。12人が毒殺された1948年の帝銀事件で、東京高裁は、獄中死した平沢元死刑囚の養子で再審請求人の武彦さんが死亡したために、再審請求の手続きが「終了した」、というものである。裁判の場で、冤罪の死刑囚であった平沢氏の無念を晴らす道は閉ざされたことになる。

65年前の事件について20歳前後の若者に語るに際して、「国家」を司る者たちの恣意性を自覚してほしいと私は希った。占領下で起きた帝銀事件の場合、それはふたつの形で現われる。①同事件の実行犯捜査は、犯行現場での毒物の手慣れた扱いから見て、旧関東軍満州第731部隊所属の軍人に絞られた。だが彼らは、対ソ連戦に備えて同部隊員の技量を活用しようとする米軍の庇護下にあり、その戦争犯罪は免責されていた。GHQ(連合国総司令部)は警視庁と新聞に圧力をかけ、捜査方針を変更させた。②代わりに生け贄にされた平沢氏は、杜撰な取り調べと裁判で死刑が確定した。確定から32年間を獄中に暮し、95歳で獄死した。その間に就任した法相は35人、ひとりとして執行命令書に署名しなかった。高検検事長も認めたように「判決の事実認定に問題があった」ためである。①からは、占領国の横暴・傲慢さが透けて見える。②からは、死刑制度を維持する国の冷酷さが浮かび上がる。そして双方に共通するのは、国家は「機密」を好み、いったん「機密」にされた事柄は、民衆に知らせないことを通して、他ならぬ民衆を縛り上げるという事実である。占領下の「昔話」が、現下の特定秘密保護法案の本質に連なってくるというリアリティを、若者たちには感じ取ってほしかった。

この日の講義では触れる時間がなかったが、私が同法案を批判する際に強調してきたのは、国際的な視点である。近代国民国家の枠組みを尊重しつつも、人権にかかわる問題に関しては国際的なネットワークを作り上げて、各国の意識・自覚の向上を図る努力が目立ち始めたのは1960年代以降である。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966年)に代表されるように。その後も、女性の地位、先住民族の権利、子どもの権利、監獄制度や死刑制度などの問題をめぐって、国際的な基準を設定する試みがなされてきた。

今回の法案に関しては、「ツワネ原則」を想起せよ、との声が批判派から上がり、私もその声を聴いて初めて知った。「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」が正式名称である。安全保障上の理由から国家が多様な情報の秘密指定を恣意的に行ない、市民の知る権利とのバランスが崩れている現状を危惧した国連などの国際機関職員と専門家五百人以上が、南アフリカのツワネで2年間議論を続け、今年6月に公表されたものである。【因みに、アパルトヘイト(人種隔離政策)を廃絶した南アフリカが、2001年にダーバンで開かれた人種差別に関する国際会議に続いて、人権問題を討議する場になっていることは象徴的で、意義深い】。このツワネ原則を読めば、各国政府が、知る権利や人権を侵すような暴走を防ぐ手立てが一定は規定されており、特定秘密保護法はその対極にあることが明らかになる。法案は成立したが、私たちは、たたかい続ける手立てのすべてを失ったわけではない。過度の悲観論に陥ることなく、なすべき日常的な課題にじっくりと取り組み続けたい。

(国会前の抗議行動から帰った翌朝の、12月7日記)

「もうひとつの9・11」――チリの経験はどこへ?


DVD BOOK ナオミ・クライン=原作 マイケル・ウィンターボトム/マット・ハワイトクロス=監督作品

『ショック・ドクトリン』解説(旬報社、2013年12月)

2001年9月11日米国で、ハイジャック機による自爆攻撃が同時多発的に起こった。この事件を論じることがここでの目的ではない。少なからずの人びと(とりわけラテンアメリカの)が、この事件によって喚起された「もうひとつの9・11」について語りたい。それは、2001年から数えるなら28年前の1973年9月11日、南米チリで起こった軍事クーデタである。その3年前に選挙によって成立した世界史上初めての社会主義政権(サルバドール・アジェンデ大統領)が、米国による執拗な内政干渉を受けた挙句、米国が支援した軍部によって打倒された事件である。

2001年9月11日以降、米国大統領も、米国市民も、なぜ米国はこんな仕打ちを受けるのかと叫んで、「反テロ戦争」という名の報復軍事作戦を開始した。「もうひとつの9・11」は、実は、1973年のチリだけで起きたのではない。世界の近現代史を繙けば、日付は異なるにしても、米国が自国の利害を賭けて主導し、引き起こした事件で、数千人はおろか数万人、十数万人の死者を生んだ事態も、決して少なくはない。そのことを身をもって知る人びとは、2001年の「9・11」で世界に唯一の〈悲劇の主人公〉のようにふるまう米国に、底知れぬ偽善と傲慢さを感じていたのである。

同時に、ラテンアメリカの民衆は、1973年の「9・11」以降、世界に先駆けて、チリを皮切りにこの地域全体を席捲した新自由主義経済政策のことも思い出していた。アジェンデ政権時代には、従来の社会的・経済的な不平等にあふれた社会で〈公正さ〉を確立するための諸政策が模索されていた。外国資本の手にあった鉱山や電信電話事業の公共化が図られたのも、その一環だった。軍事クーデタは、これを逆転させた。すなわち、新自由主義政策が採用されたからだが、日本の私たちも、遠くは1980年代初頭の中曽根政権時代に始まり、近くは2000年代の小泉政権時代に推進されたこの政策に、遅ればせながら晒されていることで、その本質がどこにあるかを日々体験しているのだから、政策内容の説明はさして必要ないだろう。

1980年代初頭に制作されたボリビアのドキュメンタリー映画に、印象的なシーンがある。軍事政権時代に莫大に流入していた外国資本からの借款が、どこへいったのかと人びとが話し合う。高台にいる人びとは、下に見える瀟洒な中心街を指さし、「あそこだ!」と叫ぶ。そこには、シェラトン、証券会社、銀行などが入った高層ビルが立ち並んでいる。周辺道路もきれいに整備され、さながら最貧国には似つかわしくない光景が、そこだけには現われている。「あそこで使われた金が、いま、われわれの背に債務として圧し掛かっているのだ」と人びとは語り合うのである。これは、新自由主義経済政策下において導入された外資が、その「恩恵」には何ら浴すことのない後代の人びとに債務として引き継がれる構造を、端的に表現している。

だが、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けただけに、ラテンアメリカの人びとは、その本質を見抜き、それを克服するための社会的・政治的な動きをいち早く始めた、と言えるだろう。国によって時間差はあるが、20世紀も終わりに近づいた1980年代以降、次第に軍事政権を脱して民主化の道をたどり始めた彼の地の人びとは、新自由主義によってズタズタにされた生活の再建に取り組み始めた。旧来の左翼政党や大労働組合は、この経済政策の下で、また世界的な左翼退潮の風潮の中で解体あるいは崩壊し、この活動の中軸にはなり得なかった。民衆運動は、地域の、生活に根差した多様な課題に取り組む中で、地力をつけていた。新自由主義政策が踏み固めた路線に沿って、さらに介入を続ける外国資本を相手にしてさえ人びとは果敢に抵抗し、ボリビア・コチャバンバの住民のように、水道事業民営化を阻止するたたかいを展開した。

政治家にあっても、社会改良的な立場から自国の政治・経済・社会の状況に立ち向かおうとすると、既成秩序の改革が必要だと考える者が輩出し始めた。彼(女)らの関心は、差し当たっては、新自由主義が根底から破壊した社会的基盤を作り直すことであった。20世紀末以降、ラテンアメリカ地域には、世界の他の地域には見られない、「反グローバリズム」「反新自由主義」の顕著な動きが、政府レベルでも民衆運動レベルでも存在しているのは、このような背景があるからである。

「もうひとつの9・11」――チリの悲劇的な経験は、それを引き継ぎ、克服しようとする人びとの手に渡っているというべきだろう。

9年目を迎え、社会に徐々に浸透し始めている死刑囚の表現――第9回「大道寺幸子基金・死刑囚表現展」を終えて


『出版ニュース』2013年11月下旬号(2013年11月21日発行)掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が主催する「死刑囚表現展」は、10年の時限を設けて2005年に発足した。今年は、残すところあと1年となる、9回目を迎えた。文章部門には12人、絵画部門には13人からの応募があった。両部門に応募したのは3人であったから、22人が参加したことになる。死刑確定者と、審理のいずれかの段階で死刑の求刑か判決を受けて係争中の人を合わせると、この間は150人ほどである。応募できる人びとのうち15パーセント程度の人が参加していることになる。新顔の応募があったのはうれしいし、逆に、今年は作品が届かなかったなあと思う名前も、幾人か思い浮かぶ。ユニークな発想で、物語性のある絵柄に加えて、描き方をさまざまに工夫した作品を毎年送ってくれた松田康敏氏の絵が、今年はなかった。2-12年3月29日に小川敏夫法相の命で処刑されたのだ。このように9年目ともなると、作品を通して見知った名前の人たちが、その間に幾人も刑死するか獄中死している。彼らが遺した、脳裏に印象深く刻まれていた文章や、目に鮮やかだった絵が、あらためて蘇ってくる。「死刑囚表現展」とは、そんな緊張感に満ちた場で続けられてきている、ひとつの試みである。

では、今年度の作品から、注目した諸点に、まずは文章部門、次に絵画部門の順で触れてみよう。

昨年、現代的な感覚に満ちた言葉を駆使した短歌と俳句作品を応募してきたのは、音音(ねおん、筆名)氏であった。

キャーママとゲリラ豪雨にはしゃぐ声すぐそこ遥か結界の外

裁判へ出廷する度育ってた空木(スカイツリー)が今日開花

AKB聞いてるここは東拘B

昨年の選考委員会は、この人の言語感覚に沸いた。選考会(毎年9月、非公開で開催)の討議内容も、10月の死刑廃止集会で行なう公開の講評も、すべて文字に起こして応募者に差し入れしているから、音音氏にもその雰囲気が十分に伝わったのだろう。今年、氏は、傍目には思いがけない表現方法を見い出した。「(表現展)運営会のみなさんへ」と題した作品で、昨年の選考会における各選考委員の発言を引用しながら、そこへ自らが介入するのである。選考委員の言葉のひとつひとつに、「そうなんです」とか「こうなんです」と言って実作者が介入すると、まるでそこに対話が成立しているような感じが醸し出される。選考する側からすれば、自分の読み方の「浅さ」があぶり出されるような思いも、ないではない。不思議な雰囲気を湛えた作品で、好評を得た。見方を変えると、獄中の死刑囚が、いかに他者との対話を欲しているかをも示していて、切ない思いがする。

響野湾子(こと庄子幸一)氏は、「紫の息(一)」「紫の息(二)」と題して短歌を555首、「赤き器」と題して俳句を200句、応募してきた。例年通りの、旺盛な創作力である。今年も、自らが犯した行為をめぐる贖罪の歌が多い。贖罪に贖罪を重ねても、それが他者からは認められぬもどかしさ。その思いは反転し、仲間の刑死や、来るべき将来に自らが「吊るされる」情景を描写する歌が続き、読む側は息苦しい。そこへ稀に、いささかユーモラスな趣きを湛えた、自己批評的な歌が立ち現れる。

希望なき死刑囚の身に配らるる 食事アンケート真剣に悩めり

処刑死を思ひつつ食ふ夕食の 生きんが為の苦瓜の汁

次のような歌にも注目した。

刑場で殺されるなら放射能 浴びて廃炉の石になりたし

終息を聞かぬ原子炉我が手にて 一命賭けたし殺されるなら

歌の巧拙を問題とするなら、採るべき歌ではないかもしれない。だが、ここにもまた、社会との接点を激しく求める死刑囚の真情があふれ出ていると感受しないわけにはいかないのだ。

文章部門では、音音氏が「新波(ニューウェーヴ)賞」、響野湾子氏が「努力賞」と決まった。「新波賞」という命名は、音音氏の軽妙な言語感覚にせめても応答したい気持ちの表われなのだが、ご本人はどう思われるだろうか。

他の応募者の作品についても、ひとこと述べておきたい。檜あすなろ(筆名)氏の「自分史」は、肝心の「自分史」に関わる箇所は、これまでの同氏の作品がすべてそうであったように、まだ自分に正面から向き合えていないために読み手にははぐらかされた思いが残った。だが、獄中の死刑囚がおかれている状況を詳しく述べている箇所に注目した。秘匿されている現実が明らかにされない限り、死刑制度の本質を見極めることは難しいからだ。露雲宇留布(筆名)氏の「霊」は昨年同様の長編フィクションだが、書きためていた原稿なのか、昨年の選考委員の批評がまったく生かされていないことが残念だ。死んだ人間が誰かに乗り移るといったプロットだけが先行し、登場人物のひとりひとりが描けていない点がむなしい。氷室蓮司(筆名)氏の「沈黙と曙光の向こうがわ」は未完のまま提出されているので、完成時に触れたい。何力氏の「司法界の怪」は、自分の裁判の実態を通して日本の司法の在り方を問うのだが、表現方法にいま一つの工夫がほしいと思った。

最後に、短詩型で印象に残った作品をひとつづつ。

人間のいくさ始まる呱呱(ココ)の声(石川恵子)

人類がなかなか絶つことのできない「いくさ」の始まりを、「おぎゃあ」という誕生の声に求めた意外性が印象に残る。

大学を終えて娘は東京へ 女優目指して日々励みおり(西山省三)

この歌は、同じ作者による数年前の忘れがたい歌「16年ぶりに会う18の娘 何で殺したんと嗚咽する」に繋がる。作者と娘との交流は続いており、娘は自立した道をしっかりと歩み始めている様子がうかがわれて、どこか、ほっとするものを感じる。作者が死刑囚と知っていてはじめて生まれる思いなのだが、「死刑囚表現展」とは、このような感慨をもたらす場でもあるだろう。

秋風に背中おされて猛抗議(渕上幸春)

別句「鰯雲見ていただけで怒鳴られた」とともに、獄中処遇の厳しさを伝える。日本の行刑制度にあっては、教育刑か応報刑かの議論が依然として必要なのか。獄中で孤立無援の作者は、さわやかな「秋風」にも励ましを受けるのである。

わが罪を消せる手段(てだて)があるならば さがしに戻らん母のふところ(大橋健治)

悪人と呼ばれし我も人の子で 病いにかかり涙も流す(加賀山領治)

薫ちゃん母のもとえと抹殺死(林眞須美)

この方たちも、もっとたくさんの歌や句を詠み続けていただきたい。石川恵子さんの歌に「ひとたびは身辺整理なしたるに改めて買う原稿用紙」というのがあった。皆さんが、いちど手にした「表現」の場を失ってほしくない、放棄してほしくない、と切に思う。

次に、絵画部門へ移ろう。13人から合計39点の作品の応募があった。絵画は、直接的に観る者の目に飛び込んでくるだけに、それぞれの作者の個性が際立ってわかる。そのことは、風間博子さんと林眞須美さんのふたりのなかで、対照的に立ち現れてくる。あらかじめ言っておけば、私の考えでは、ふたりとも冤罪である。粗雑極まりない捜査と裁判の結果、彼女らは取り返しのつかない運命を強いられている。だから、ふたりはたたかう。どのようにして? 風間さんは、正攻法で冤罪を訴えることによって。「幽閉の森、脱出の扉」は、例年の作品と同じく、自らが閉じ込められている暗い閉鎖空間と、外部から差し込んでくる光とが描かれている。状況は厳しいが、ここから脱出できるという希望を捨ててはいないという強い意志が横溢している。いわば、直截的なメッセージ絵画と言えようか。したがって、観る者にとっても、作者の意図は伝わりやすい。

他方、林さんの作品は、私が共感した選考委員・北川フラム氏の表現を借りると、「他人に理解されたいとか、コミュニケーションの可能性をすべて断ち切っている」地点で成立している。画面の中央に描かれている黄色い月や花や赤曲線や四角形を取り囲むのは、常に、昏い黒と青の地色である。内部の明るい色を四方から包囲する地色は、地域で一風変わった生活を送っていたがゆえに事件発生後に自分を真犯人に仕立て上げていったメディア、警察、検察、裁判所、そして社会全体の象徴だろうか。内部に四つの明るい色があれば、それは来るべき将来に獄中から解放された母親の帰宅を待つ四人の子どもたちだろうか。傍目なりに勝手な想像を膨らませることはできるが、それが、作者が込めた深い暗喩にたどり着くことは難しいのかもしれない。しかし、林さんの作品は、観る者を捕えて、放さない。事実、各地の展示会場では彼女の作品をじっと凝視する人の姿が目立つ。メディアが作り上げた「真犯人」像と作品との間に横たわる、深い溝を覗き込むような思いからだろうか。だとすれば、彼女の作品は、その高度な抽象性において訴求力を持っているのだと言える。

8点を応募した宮前一明氏の作品が語りかけるところも多い。多様なテーマを多彩な方法で描き分ける作品自体が興味深いのは当然で、人目を惹いた。氏からは、9月の選考会議が終わった後で、作品と画材についての説明書が届いた。そこには、購入も差し入れもできない和紙(しかも、サイズが大きい)をいかにして入手したか、直径二・五ミリの極細筆ペンしか使えないのに、どんな描法を工夫して太い線を描いたかなどに関して、詳しく説明されていた。それを可能にした努力は尊いと思えるほどに、徹底したものであった。差し入れ物に関しては、もちろん、獄外の協力者の存在があり、両者のコミュニケーションの好ましいあり方が、作品の背後から浮かび上がってくるような感じがした。

藤井政安氏の「年越し菓子」の精緻な細工には頭を垂れる。北村孝紘氏の「トリックアート」をはじめとする6点も作品群もそれぞれ個性的で、才能の乱反射といった趣がある。金川一、高尾康司、高橋和利氏ら常連も、他の誰でもない己が道を歩んでいる。謝依悌氏の作品が例年の迫力を欠いたことはさびしかった。Ike(通称)、伊藤和史、何力氏らも、今後の展開を期待したい。檜あすなろ氏は、紙で作る小物入れの設計図を応募してきた。外部の協力者がそれを基に工作した。立体が登場したのだ。獄中者には何かと厳しく、理不尽な制限が課せられている中で、「表現」上の工夫は新たな一段階を画した。

以上を概観した結果、絵画部門の受賞者は、藤井政安氏に「優秀賞」、林眞須美さんに「独歩賞」、風間博子さんに「技能賞」、宮前一明氏の「オノマトペの詩」に「新波賞」――と決まった。

最後に、「死刑囚表現展」の9年目を迎えた今年は、画期的な動きがあったことを報告しておきたい。文章作品の過去の優秀作は、すでに3冊ほど単行本化されている。例年話題となる響野湾子氏の俳句と短歌も、最近出版されたばかりの『年報・死刑廃止2013』の「極限の表現 死刑囚が描く」(インパクト出版会、2013年)にかなりの数の作品が掲載された。他方、絵画作品に関しては、毎年一〇月東京で開かれる死刑廃止集会当日に会場ロビーに展示する以外では、いくつかの地域で小さな展示会が積み重ねられてきた。昨2012年9月、広島で開かれたのも、そのような小さな展示会の一つであった。そこへ、制度化された枠から外れた表現への関心が深い評論家・都築響一氏が訪れ、死刑囚の表現のすごさをインターネット上で発信した。氏のブログを読んでいる読者は全国各地に多数散在しており、次々と人が詰めかけた。その中に、広島県福山市鞆の浦にあるアール・ブリュット専門のミュージアム、鞆の津ミュージアムの学芸員・櫛野展正氏もいた。氏もまた、死刑囚の絵画表現に衝撃を受け、自分が働くミュージアムで絵画展を開きたいとの打診が私たちにあったのは昨秋のことである。年末には東京へ来られて8年間の全応募作品を見て、展覧会のイメージを固められたようだ。準備は着々と進み、4月20日には「極限芸術–死刑囚の絵画展」が開幕した。「表現展」8年間の応募作品およそ300点が展示された。私も開幕日を含めて二度足を運んだ。築150年の醤油蔵だった建物は、天井も高く、落ち着いた雰囲気をもっている。プロの学芸員の仕事だから、額装も照明も作品の配置も、十分に練り上げられている。壁に掛けない作品は、作者ごとにファイリングされていて、見やすい。

福山駅からバスで30分、瀬戸内海に向かって細長くのびる街を歩くと、あちこちに極限芸術展のチラシやポスターを見かける。スーパー、喫茶店、食堂、船着き場、郷土館――「異形な者」をあらかじめ排除する空気が、ない。それもあってだろうか、人びとは詰めかけた。新聞各紙、「FLASH」や「週刊実話」のような週刊誌、タレントや俳優も来て、出演しているテレビやラジオの番組で広報が行なわれた。複数の美術評論家による評も、新聞各紙や美術誌に掲載された。会期中には、都築響一、北川フラム、田口ランディ、茂木健一郎氏らによる講演会も開かれた。会期は2ヵ月の予定だったが、1ヵ月間延長され、7月20日に終わった。ほぼすべての都道府県から5122名の人びとが来場したという。終了後、鞆の津ミュージアムからは、媒体掲載記事一覧と入場者のアンケートが送られてきた。熱心に鑑賞した様子が伝わってくる。知られざる世界を知ることの重要性がひしひしと感じられる。

もうひとつ付け加えることがある。基金の名称となっている大道寺幸子さんの息子、大道寺将司氏は昨年『棺一基』と題した句集を刊行したが、それが2013年度、第6回目の「日本一行詩大賞」を受賞した。角川春樹氏の肝いりで始まった試みである。選者は、角川氏以外に、福島泰樹、辻原登、辻井喬の4氏である。過去の受賞者を見ても、俳句・短歌・詩の分野での重要な仕事が選ばれている。

「死刑囚表現展」を初めて9年目――事態は、ここまで「動いた」と、あえて言ってもよいだろう。政治・社会の表層を見れば、私たちが目標としてきた「死刑制度廃止」を近い将来に展望することは難しい。個人や集団に許されない殺人の権限を、従来の国家は、戦争と死刑という手段で独占してきた。戦争を未だ廃絶し得ない国家も、人権意識の発揚によって死刑は廃止する――それが全国家の3分の2を超える140ヵ国を占めるまでになった。人類史の、たゆみない歩みの成果である。現在の日本国家は、死刑を廃止するどころか、戦後は辛くも封印してきた「戦争によって他国の死者を招く」戦争行為まで可能な体制作りに邁進している。戦争と死刑を認めることは、「他者の死」を欲する/喜ぶ精神に繋がる。それがどれほどまでに社会の荒廃を招くか。その「手本」は太平洋の向こう側の大国にある。この趨勢を、社会の基層から変えるにはどうするのか。

私たち、「基金」運営会はまもなく、最終年度10年目の展望を討議しなければならない。

当初設定していた時限が来たからといって、止められるか。「11年目以降」を視野に入れなければならないのではないか――だとすれば、そのための条件づくりも含めて、討議はきびしいものになりそうだ。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[43]韓国における、日本企業への個人請求権認定の背景


『反天皇制運動カーニバル』第8号(通巻351号、2013年11月12日発行)掲載

第二次大戦中に日本企業に徴用された韓国の人びとが、その企業を相手に行なう損害請求訴訟において、請求権を認定する韓国司法のあり方が定着し始めた。この問題をめぐっては、日本のメディアには「国家間の合意に反する」とする意見が溢れている。1965年の日韓請求権協定に基づくなら、請求権問題は解決済みだとするのである。自民党総務政務官・片山さつきは「国家間の条約や協定を無視した判決を出す国が、まともな法治国家と言えるのか。経済パートナーとしても信頼できない。敗訴した日本企業は絶対に賠償金を支払ってはいけない」と語っている(8月21日付「夕刊フジ」)。これは俗耳に入りやすい論理だけに、検証が必要だ。私たちは、複雑に絡み合った歴史を解きほぐす労を惜しむわけにはいかない。いささか長くなるが、この問題を考える前提として、日本の敗戦以降の歴史過程を胸に留め置くべきだろう。事態は、植民地支配に関わる自覚、反省、謝罪、補償を実現できないまま現在に至った、私たちの戦後史に深く繋がるものだからである。

1945年8月、日本は遅すぎた敗戦を迎えた。アジア太平洋の諸地域に全面的に展開した軍隊が「敗退」を始めた後でも、それは「転戦」だと言い繕う者たちが、政治・軍事権力の座にあった。東京をはじめとする諸都市への大空襲と沖縄地上戦を経てもなお「敗戦」を認めようとしなかった支配層は、広島・長崎の悲劇を味わって後にようやく、それまでの「敵」=連合国側が提示したポツダム宣言を受け入れた。しかもそれは、天皇の「聖断」によるものである、とされた。本土決戦は回避された。空襲で焼け野原になっていた東京にあっても、皇居と国会は炎上することはなかった。ヒトラーと同じ運命を天皇裕仁がたどることは避けられた。

天皇は「現人神」から「象徴」に変身して、生き延びた。戦争を推進した多くの官僚も、戦争を熱狂的に支持した一般の国民も、戦争責任を問われることなく、延命できた。「無責任」なあり方が社会に浸透した。植民地は「自動的に」独立した。1953年のディエンビエンフーのように、1962年のアルジェのように、1975年のサイゴンのように、被植民地民衆の抵抗闘争によって日本の植民地主義が敗北した、という実感を社会総体がもつことはなかった。こうして、戦前と断絶することのない、日本の戦後が始まった。

戦後の出発点に孕まれていた「虚偽」は、戦後も継続した。いったんは武装解除され、やがて米国のアジア戦略の変更によって再武装が認められた日本は、基本的には自ら戦火に巻き込まれることなく「平和」の裡に戦後復興に邁進することができた。翻って、近代日本の植民地支配と侵略戦争および軍政支配から解放されたアジア諸地域では、内戦あるいは大国の介入による戦火が長いあいだ途絶えることはなかった。アジア民衆は、日本が戦後復興を経て高度産業社会へと変貌する過程を目撃していながら、日本の植民地支配や侵略戦争に関わる補償を要求する「余裕」などは持たなかった。

1975年、米国が敗退してベトナム戦争は終わった。アジアにおける大きな戦火が、ようやく消えた。加えて、日本の敗戦から45年を経た1990年前後から、右に概観した世界秩序に変化が現われ始めた。他の矛盾をすべて覆い隠していた東西冷戦構造が、ソ連体制の崩壊によって消滅した。韓国では軍事独裁体制が倒れた。アジアの人びとは、ようやく、自らの口を開き、過去に遡って日本との関係を問い直す条件を得た。

旧日本軍の「慰安婦」や元「徴用」工、元「女子勤労挺身隊」の人びとが、日本国家と雇用主であった日本企業に個人として賠償請求訴訟を始めたのは、この段階において、である。サンフランシスコ講和条約や日韓条約は、そもそも、植民地支配の責任を問うこともなく締結された。過去に締結された条約や協定に基づいて自己の権限を主張するのは、どの時代・どの地域を見ても、常に強者の側である。弱者であった側は、別な原理・原則に基づいて自己主張を始めざるを得ない。奴隷制、植民地支配、侵略戦争の責任の所在を問う現代の声には、そのような世界的普遍性が貫いていると捉えるべきだろう。

(11月9日記)

司馬遼太郎の「日本明治国家」論の呪縛――アニメ『風立ちぬ』が孕む問題


『映画芸術』第445号(2013年10月末刊行予定)掲載

子ども向けのアニメーション映画では、夢を追い、理想を語り、現存する価値観や秩序の外へ出て、新しいものをつくりあげていいんだよ、と呼びかけてきた宮崎駿監督が、大人のアニメーション映画をつくったときに、どんな作品が出来あがったか。『風立ちぬ』が問いかけるのは、この問題だと思う。

この映画の原作・脚本・監督のすべてに関わった宮崎は、戦争を糾弾したり、ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞したり、主人公は実は戦闘機ではなく民間機を作りたかったのだと庇ったり――それらを描くことは意図しない、と語る(「企画書・飛行機は美しい夢」、映画パンフレット『風立ちぬ』所収)。続けて、言う。「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間を描きたいのである。夢は狂気をはらむ。その毒もかくしてならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない」。

「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間」とは、この映画の主人公で、実在の人物であった堀越二郎である。戦闘機・ゼロ戦の設計者として知られる。1941年生まれの宮崎は、自他共に認める兵器愛好者であり、会議中でも雑談中でも、白い紙に思わず兵器や戦闘機をスケッチしているという挿話の持ち主である。設計物としてのゼロ戦の「美しさ」を思い、同時に、日本は愚かな戦争で「負けただけじゃなかった」と言える数少ない存在が優秀な機能をもったゼロ戦であると確信している(『朝日新聞』2013年7月20日「零戦設計者の夢」)。戦争を嫌い、武器を愛するのは「矛盾の塊」だが、「兵器が好きというのは、幼児性の発露」と自己分析する。

脚本では堀越二郎の人物像には、具体的な接点はまったくなかった同時代の作家・堀辰雄の像がフィクションとして重ね合されていることだけを付け加えておくなら、この作品にかけた宮崎の意図の説明としては、これで十分だろう。大急ぎで言っておくなら、「狂気や毒をすらはらむ夢」が描かれることになるなら、芸術作品の企図としては十全だ、とも。

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『風立ちぬ』において、宮崎の意図はどのように実現しているだろうか?

1910年代、北関東の片田舎に生を受けた二郎は、近代化以前の時代を生きていた美しい日本の風土の中で育ち、いつしか大空を風のように飛ぶ飛行機への憧れを抱く。手本として夢の中で出会うのは、同時代のイタリア航空機業の創業者、ジャンニ・カプローニ伯爵である。ユニークな型の航空機を次々と開発していたカプローニへの傾倒は、少年時代の二郎の夢の大きさを物語る。彼はその夢を実現し、大学では航空学科に学び、就職も三菱内燃機(現・三菱重工)に決まり、航空宇宙システムの分野で働く。視察・研修のためにドイツへも長期間にわたって赴く――二郎の前半生をこのように設定することには、もちろん、実在した堀越二郎の経歴が反映されていよう。同時に観客は、明治維新以降の50~60年の日本国家の歩みをそこに重ね合せることになる。二郎の人生は、欧米諸国をモデルに、富国強兵・殖産興業に邁進した歳月の国家的なあり方の縮図でしかないからである。

映画は、「自分の夢に忠実にまっすぐに生きた」二郎が開発した戦闘機・ゼロ戦が、どのように使われたかを明示しない。終盤に登場するカプリーニとの間で、「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」「はい、終わりはズタズタでした」「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは」という会話が――それは、ゼロ戦の残骸の山を前に交わされる――すべてを暗示するだけである。

冒頭で紹介した宮崎の意図からすれば、ここまで描けば十分となるのだろう。だが、映画では夢の中で出てくる爆撃シーンの先には、現実には異邦の人びとの生死があったのだという事実を無視することは、宮崎においてどのように可能になったのだろうか? この映画が主題としているのは別なことだという説明は可能だろうか? 二郎の夢にはらまれていた「狂気や毒」は、この描き方で十分だったのだろうか?

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現実の宮崎駿は、日本がアジア諸地域に対して行なった植民地支配や侵略戦争の問題について、また従軍「慰安婦」問題について、的確な批判的発言を行なってきた。その彼が『風立ちぬ』で行なった、アジア無視という歴史把握の方法には、次の問題がはらまれているのだと思える。

宮崎には、堀田善衛および司馬遼太郎と語り合った『時代の風音』という著書がある(朝日文庫、1997年。初版はユー・ピー・ユー、1992年)。若いころからの堀田の影響は大きかった、とは宮崎の言である。司馬に関しても、『明治という国家』やテレビ番組『太郎の国の物語』に非常に感動した、と述べている。『歴史の風音』の座談会自体は、堀田と司馬のふたりを軸に行なわれていくので、宮崎の発言は目立たない。私自身も、堀田独自の、歴史の重層的な把握方法には多くを学んできた。他方、司馬の『明治という国家』や『坂の上の雲』などに見られる「明るい明治」と「暗い昭和」を対比させ、両者の間に断絶をもうけて前者を称揚する方法には、あまりにご都合主義的で、歴史の見方としては成立し得ないとの批判をいだいてきた。

任意に、いくつかの司馬の発言を引いてみる。「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることはまちがいはない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追い詰められた者が生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったことはまぎれもない」(『坂の上の雲』)。

「私は軍国主義者でも何でもありません。(中略)日本海海戦をよくやったといって褒めたからといって軍国主義者だということは非常に小児病的なことです。私は彼らはほんとうによくやったと思うのです。彼らがそのようにやらなかったら私の名前はナントカスキーになっているでしょう」(『「明治」という国家』)

『この国のかたち』と題された、司馬の文明批評的な評論集の随所に見られるのは、「昭和はだめだが、明治の国家はよかった。そこまではよかった」という独特の史観である。明治国家はすでに述べたように、欧米に追随し富国強兵の道を歩み、そのことで近隣のアジア諸地域を植民地支配と侵略戦争で踏みつけにした。その延長上に、堀越二郎が生きた「大正」「昭和」の時代はくるのだから、それは連続性によって捉えるべき歴史事象であり、個人の恣意で断絶をもうけることはできない。また、歴史事象には「オモテ」と「ウラ」があり、この場合は「オモテ」だけを主題としているから、「ウラ」からの批判を免れることができるということもない。司馬の不透明な文章と物言いは、その点を曖昧模糊とさせて、ひとを幻惑する。司馬の近代日本国家論に親しむという宮崎は、『風立ちぬ』において、その轍を踏んでしまったように思える。

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最後に、次のことに触れておきたい。20年ほど前、歴史教科書において、植民地支配・侵略戦争・「慰安婦」問題などをめぐる従来の記述方法に異議を唱える「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が活発化した時期があった。漫画家・小林よしのりもその流れに参与し、独自にたくさんの漫画作品を描き始めた。それが、若者を中心としたおおぜいの読者を獲得していることを知った私は、どんな漫画なのかと思い、いくつかを眺めてみた。絵柄は好みではなく、物語の展開にも呆れる個所が多かったが、目を逸らすようにして、吹き出しの文句だけを読み急いだ。時代はすでに、左翼をはじめとする反体制の思想と運動の退潮期に入っていた。小林は、戦後進歩派や左翼が従来展開してきた戦争論や「慰安婦」問題に関わる論議のうちから、「弱点」を衝きやすい論点を誇大かつ一面的に描いては、それに反駁するという方法を駆使する場合が多かった。当時は、今なら実現しているようなネット社会ではなかった。だが、小林漫画の扇情的で独断に満ちた情報の切り出し方といい、受け手の多くがそれを唯一の解釈として受け入れ、他の情報との照合を行なって真偽を確かめるという作業を行なわない流儀といい、現在のネット空間の貧相なあり方を先取りしたような世界であった。私は、小林漫画が展開している非歴史的な「論理」(「非論理」と言うべきか)は批判したが、どこか痒いところに手が届いていない欠落感を抱えていた。

ちょうどその頃、美術史家の故・若桑みどりが行なった小林漫画についての講演を聴く機会に恵まれた。彼女もまた、あの漫画は嫌だけれども読まなければならぬといい、図像学的な分析から言えば、彼の漫画はうまく、読み手がどこに反応するかのツボを心得て描いている、と語った。物語の要所に登場しては問題を提起し、叫び、怒り、悲しむ人物には漫画家自身が投影されているが、クライマックスにおけるこの人物とその周辺の描き方は際立っており、読み手が主人公に一体化する仕掛けが施されている、というように。

アニメーション映画としての『風立ちぬ』論においても、また、このような図像的な視点からの分析・批判が必要なのだろう。現在の私にその任は担いきれないが、しかるべき方がその作業を担ってほしいと希望して、この稿を終えたい。小林と宮崎の同一性を主張したいのではない。ジブリ・グループの画の魅力を十分に弁えたうえで、物語の展開への批判を深めたいのだ。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[42]ボー・グェン・ザップとシモーヌ・ヴェーユは同時代人であった


『反天皇制運動カーニバル』第7号(通巻350号、2013年10月15日発行)掲載

ベトナムのボー・グェン・ザップ将軍の死(10月4日)を聞いて、連鎖的にいくつかの思いが浮かんだ。彼の生年は、日本で幸徳秋水ら12名が大逆事件で処刑された1911年であったから、享年102歳であった。太宰や埴谷雄高などと同世代か、と咄嗟に思った(太宰は09年、埴谷は10年の生まれである)。まず、書棚から彼の著作『人民の戦争・人民の軍隊:ベトナム解放戦争の戦略戦術』(弘文堂新書、1965年)とジュール・ロア『ディエンビエンフー陥落:ベトナムの勝者と敗者』(至誠堂新書、1965年)を取り出して、ぱらぱらと頁を繰った。彼は軍人として訓練を受けた人ではなかった。『孫子』やナポレオン戦役記を読んで軍事知識を身につけたとは、有名な逸話だ。ザップ自身の本に関しては、刊行当時も、ソ連や中国の経験の絶対化やマルクス・レーニン主義理論をベトナム的な現実に当て嵌める生硬な論理展開には納得できない気持ちを私は抱えていたには違いない。同時に、1960年代半ば、眼前で展開されている抗米闘争のめざましさを思えば、不可避的にたたかわれていたあの戦争の「正しさ」を、信じるほかはなかった。準備時期を経て1944年にフランス植民地軍とたたかうために結成された人民軍の萌芽が、翌年には占領した日本軍との戦いも強いられていく過程を読めば、(読んでいた60年代半ばの時点で言えば)20年間も絶えることなく続けられてきた武装闘争の必然性が見えてくる感じがした。「ベトナムは勝つにさえ値しない戦争に勝つより米国による占領体制を進んで選択し、日本のような戦後復興を図るほうが賢明だ」とする磯田光一(磯田『左翼がサヨクになるとき』、集英社、1986年)の考えや、「自前で武器を作る能力も持たないベトナムが他国から武器の補給を受けて戦い続けていることのばかばかしさを人類の名において鞭打つべきだ」とした司馬遼太郎(司馬『人間の集団について――ベトナムから考える』、中公文庫、1974年)の意見などは、私には論外であった。

次に思い出したのは、10月9日が46回目の命日だったこともあって、チェ・ゲバラのことである(1928~1067)。彼には、サップの『人民の戦争・人民の軍隊』キューバ版に寄せた序文「ベトナムの指標」という文章がある(1964年)。それも再読した。当時のチェ・ゲバラの発言と行動が私(たち)を惹きつけるものがあったとすれば、それは、さまざまな領域にわたる彼の言動が常に、旧来のソ連型社会主義の枠組みに疑問を呈し、それを乗り越えようとする、あるいは克服しようとする新たな観点を提起していた点にあった、と思える。その彼にして、この小さな論文では、前衛としての革命党と人民解放軍に対する無限定的な信頼は揺るぎない。「党と軍隊の親密な関係」や「軍隊と人民の間の固い絆」に対する確信も、同様である。後代に生きていることで、20世紀型革命の、悲惨な行く末を見届けることになった私たちが、今さら踏みとどまっていてよい地点だとは思えない。

最後に、ふと思いついたことは、自分でも意外だった。シモーヌ・ヴェーユの生年と没年を確かめたくなったのだ。1909~1943年であった。ボー・グェン・ザップより二歳だけ年上である。ヴェーユは極端な短命だったが、第一次世界大戦からロシア革命へ、世界恐慌からファシズムの台頭へと向かう20世紀初頭の30年有余を、ザップとヴェーユのふたりは、直接的な交流はなかったとしても、まぎれもない同時代人として生きたのであった。

1933年末、スターリン体制へと進みゆくロシア革命の過程をすでに同時代的に目撃していたヴェーユは書いている。「ロシアにおける干渉戦争は、真の防衛戦であり、我々はその戦士をたたえるべきだが、それでもロシア革命の進展にとっては越え難い障害となった。恒久的な軍隊、警察、官僚政治の廃止が革命のプログラムであったのに、革命がこの戦争のお蔭で背負わされたものは、帝政派将校を幹部とする赤軍や、反革命派よりもっときびしく共産主義者を殴打するようになる警察や、世界の他の国に類を見ない官僚政治組織なのである。これらの組織はすべて一時的な必要にこたえるはずのものであったが、それがこの必要ののちまで生きのびることは避けられなかった。一般に戦争はつねに人民の犠牲において中央権力を強化する。」(「革命戦争についての断片」、伊藤晃訳、『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』、春秋社、1968年)。

ヴェーユが、例外として挙げる史実は、パリ・コミューンだけである。同時代人ではあったが、異なる条件下の社会に生きて、社会変革の道を探り続けた三人の言動から何を学び取るかは、現在を生きる私たちに委ねられている。(10月12日記)

「日本一行詩大賞」授賞式での代理挨拶


2013年9月17日 アルカディア市ヶ谷

受賞者・大道寺将司君の「受賞の言葉」を、まず、ご紹介いたします。

このたびはありがとうございました。拙句に「悪名を生きゐて久し竹の秋」がありますが、私は、俳人諸氏や俳句メディアにとってのみならず忌むべき存在です。其れ故、いかなる賞とも無縁だと弁えてきましたし、望んだこともありませんでした。

そのような私の句を作品本位に評価して下さいました選考委員の皆様には 深い敬意を表し、感謝申し上げます。

また、拙句集『棺一基』の上梓に御尽力して下さいました辺見庸さん、太田出版はじめ関係者の皆様にも感謝を申し上げます。

私は病牀六尺の正岡子規に魅かれ、独学で自己流のまま独房から俳句を発出してきました。俳句は小さな詩型ですが詠むことのできる世界は広く、豊かな叙情性を表現することもできるものです。私の句はいまだ狭小な世界のとばぐちに立つばかりですが、時間の許す限り、今後も句作を続けてまいります。

2013年8月11日      大道寺将司

この受賞の言葉は、文通や面会という交通権を持つ私宛てに送ろうとしたものです。ところが、本人が拘置所側に発信を依頼してから一週間以上も経ってから、これは交通権を持たない第三者、つまり一行詩大賞の事務局を担う俳句誌「河」に宛てた文面だから、発信を不許可とするとの告知を受けました。これ以前に、一行詩大賞主催者から本人宛に「受賞の言葉」と自薦20句の原稿を8月20日までに送るようにとの依頼状があったのですが、私が媒介者となって差し入れたこの文書も、同じ理由で交付されませんでした。私が主催者からの申し出を手紙で書き送り、面会時にも口頭で伝えたので、本人はようやく事の次第を理解しました。結局、この原稿は、弁護人経由で私に送られ、延期していただいた〆切日に辛うじて間に合ったのです。

彼がいるのは、ここからわずか1時間もあれば行き着くことのできる、小菅駅や綾瀬駅に近い東京拘置所です。逮捕されてから38年、死刑が確定してから26年になります。刑が確定するまでは、文通も面会も、回数制限はあっても自由にできます。死刑が確定すると、処遇はがらりと変わります。彼の場合、交通権は、当初、弁護人と母親一人に限定されました。手紙は、書く内容を事前に当局に提出し、弁護人には裁判以外のこと、母親には安否を尋ねる以外の文言を書くことは許されませんでした。母親ひとりでは、差し入れられる本の冊数も極端に限られ、拘置所備え付けの本もあらかた読み終えてしまいました。そこで、或る文庫に収録されている日本文学の古典を自分で購入するようになり、そこで、子規の『病牀六尺』や『仰臥漫録』などに出会ったのです。それらを読み進めるうちに、検閲によって頭脳の中まで覗かれているような獄中の日常にあって、それを免れる、あるいは突き破る精神の突破口を、彼は俳句に求めたのでした。

以来22年、そして公表したものとしては母親宛ての手紙の末尾に最初の一句を添えてから17年、彼は俳句を詠み続けてきました。最初の5~6年は、箸にも棒にもかからぬ作品しかできず、一万数千の句を捨てた、と本人は語っています。

彼の句集をお読みの方はお分かりのように、そこにはまず何よりも、自らの行為によって意図せずして殺傷してしまった方々に対する、深い悔いと償いの気持ちがあります。同じ境遇にある死刑囚や獄中の仲間のことを想う句があります。自然に触れることを許されていない環境の中にあって、26年間を生きた外界での記憶と想像力に基づいて、自然のさまざまな姿を詠んだ句があります。日々読む新聞から得た情報に基づいて、同時代の社会や政治のあり方を冷徹に詠む句もあります。彼は病を得てここ数半来は病舎におりますから、そこからしか見えない世界を詠むこともあります。

いま、面会・文通の権利を有する人間は7人まで増えました。明日以降、私たちは面会を行ない手紙を書き、今夜みなさんから寄せられた言葉をできるだけ正確に彼に伝えます。外部の人間にできることは少ないが、彼が句作を続け、また何よりも生き抜くために、外部からできるだけのことはいたします。大道寺君の作品から、何らかの思いを受け止められたみなさんが、今後とも、共感をもってか批判的な視点をもってかのいずれにせよ、彼の俳句と生き方に関心をお寄せくださるよう、お願いいたします。

ありがとうございました。

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[41] 排外的愛国主義が充満する社会の中の異端者


『反天皇制運動カーニバル』第6号(通巻349号、2013年9月10日発行)掲載

仲代達矢の言葉に励まされた。「みんな同じものばかりになったらどうなる? 人と違うものをつくる異端者が、次の世代のためにしっかりしないといけないんです」(八月一六日付け「朝日新聞」夕刊)。出演した最新作『日本の悲劇』に触れての言葉である。映画制作の現場から生まれたものだが、時代状況から見て、普遍性を持つと私には思える。口にするのが、仲代のような「有名人」でなくても、誰であっても、いい。私たちは、いま、このような言葉を欲し、それを自らの内部で確認することが必要な日々を生きているような感じがする。

例えば――本欄では、元東京都知事I・S、現大阪市長H・T、現首相A・Sなどの、人権意識のかけら(ここは「欠片」と漢字で書く方が、言葉の本質が見えやすいようだ)もなく、歴史に無知な連中の言動をたびたび批判の対象としてきた。彼らがその種の発言をしたときには、もちろん、社会のさまざまな場所から、批判の声が上がった(上がり続けている)。人権を尊重する国際的な水準からすれば、そして、地域と世界に生きる異民族同士の相互の関連の中で歴史をふり返り、捉えるべきだという普遍的な立場からすれば、「失格」「退場」でしかない言葉を彼らは吐いたからである。

だが、彼らはいまだに政治の前線にいる。一度は消えたのに、再登場した者すらいる。選挙ともなると、大量得票を得る。すなわち、現在の日本社会の現状では、この傾向を批判する私たちが「少数派」で「異端者」であるかのように、現象している。私にとっては、ずっと以前から「わかりきった」ことではあった。「覚悟」していたことでもあった。いまや、その少数派や異端者をも寛容に包み込む「海」(往年の「前衛主義者」でもあるまいし「人民の海」などという古典的な表現は使うまい)がここまで干上がってきたのである。自分たちの姿を、有明の干潟でのたうつムツゴロウの姿に模してみる。だがムツゴロウには、あの場所で生きる生態的な必然性があろうが、私たちはどうだろうか? その私たちを包囲しているのは、「排外的愛国主義」である。社会的雰囲気としてのこの潮流と、前記の政治家たちの言動とは見合っているから、彼らは「安泰」なのである。

7月29日には、例の麻生発言もあった。桜井よし子が理事長を務める「国家基本問題研究所」のシンポジウムの場に、桜井、田久保忠衛、西村真悟などと共に登壇した時に、である。あまりにも低劣ゆえ、麻生発言の紹介はしまい。後日、麻生は「あしき例としてナチスをあげた」などと弁解したが、元の発言に立ち戻れば、それがまったくの嘘であることは文脈上明らかだ、というに留めよう。問題は、だが、こんな閣僚をすら私たちは即罷免(リコール)することができない状況下にあるということである。

これに先立って4月には、自民党幹事長・石破茂が「改憲成って国防軍が創設された暁には、戦場への出動命令を拒否すれば軍法会議で死刑もしくは懲役300年」と発言した。石破の表現を再現するなら「すべては軍の規律を維持するために」である。石破は、また、災害発生時の非常事態宣言、すなわち戒厳令発令の意図をたびたび語っている。企図されている防衛省「改革」では、これを実現するために、自衛隊の運用業務を制服組の統合幕僚監部(統幕)に一元化する方向が目指されよう。

主要閣僚や与党幹部がこのような「超」歴史的/「超」憲法的発言を次々と繰り出すことによって、この種の「言論」がいまや日常と化した。日常化するとは、それが「ふつうのこと」となること、「当たり前のこと」となることを意味する。それでも、自民党改憲案に基づく改憲へと一気に行き着くことは、「世論」動向を配慮すれば出来ないと知った彼らは、憲法を機能停止させる動きを急速化している。画策されている秘密保全法案は、そのもっとも顕著な表われのひとつである。ここでは、「行政機関の長」と都道府県の警察本部長に、「特定秘密」を扱う者の「適正評価」を行なう大幅な権限が与えられようとしている。

こうして、行政・警察・軍隊という、その本質において「抑圧的」な機構を一体化させて社会の根本的な再編を行なうこと――彼らのでたらめな発言に呆然とし、それを時に嘲笑している私たちの背後に迫るのは、この現実である。(9月7日記)

(追記:本連載のタイトルに因み、藤圭子さんの死を悼みます。)

[書評]寺尾隆吉=著『魔術的リアリズム――20世紀のラテンアメリカ小説』(水声社)


「日本ラテンアメリカ学会会報」2013年7月31日号掲載

1960年代以降、いわゆる「ラテンアメリカ文学ブーム」を牽引しながら、現代世界文学の最前線に立っていた同地の作家たちのうち、ある者はすでに幽冥境を異にし、ある者は高齢化して筆が滞り始めた。代わって、次世代の作家たちが台頭し、日本での紹介も進み始めている。このような変革期を迎えたいま、ブームを担った巨匠たちの遺産=「魔術的リアリズム」の概念をあいまいなままに放置しておくべきではない。そう考えた著者は、「魔術的リアリズム」という概念の、錯綜した道を踏み分けて進む。

中心的に取り上げているのは、アストゥリアス、カルペンティエール、ルルフォ、ガルシア=マルケス、ドノソの5人の作家たちである。まず、先行する世代のアストゥリアスとカルペンティエールが、それまでは「野蛮」という眼差しで見られる対象でしかなかった先住民族インディオとアフリカ系黒人が持つ文化に、それぞれ注目した過程がたどられる。1920年代から30年代にかけてのパリには、のちにラテンアメリカ文学の興隆を担うことになる作家たちが続々と集まっていたが、その中に、グアテマラとキューバを出身地とする前述のふたりの作家もいた。ヨーロッパの芸術家の中では20世紀初頭から、非西欧世界の文化に対する評価(「崇拝」と表現してもいいような)が高まっていた。加えて、シュルレアリスムの芸術思想・運動も展開されていた。その思潮に揉まれて、アストゥリアスは『グアテマラ伝説集』の、カルペンティエールは『この世の王国』の創造へと至る。いずれも「魔術的リアリズム」の出発点を告知するような秀作だ。だがその後は、二人ともその道を突き進むことができない。西欧的教養を身につけた知識人が、「他者として」インディオや黒人の世界に精神的な越境を試みて作品を創造し続けることの困難性が立ちはだかるからである。先駆者の「栄光」に敬意をはらいつつ、他の論者の論考も参照しながら、二人の「限界」を容赦なく指摘する筆致に惹きつけられる。

他者に先駆けて「魔術的リアリズム」を実践した二人の作家は、やがてその道から外れた。それに続く作家が登場するうえでの条件を用意したのは、メキシコである。1910年のメキシコ革命以降の文化政策の積み重ねの上に、50年代に入って作家の卵への奨学金給付制度ができたことの意義が強調される。ルルフォが『ペドロ・パラモ』を執筆したのは、この制度の下であった。一見は両立が不能に思える「制度」と「文学創造」を、密接に結びつけて論じる著者の観点が刺激的だ。今後は、1959年キューバ革命後に設けられた「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関がその後持ち得た意義とも合わせて論じられることになるだろう。

この後も著者は、『ペドロ・パラモ』の内在的な作品分析を行ない、さらにマルケス『百年の孤独』、ドノソ『夜のみだらな鳥』へと説き及ぶ。終章に向けては、魔術的リアリズムの「闘い」とそれが「大衆化」していくさまが具体的な作品に即して論じられていく。

異質な作家たちへの目配りも利いていて、さながら、「時代の精神史」を読むような充実感を味わった。(7月2日記)

太田昌国の夢は夜ふたたび開く[40]死刑囚の表現が社会にあふれ出て、表現者も社会も変わる


『反天皇制運動カーニバル』第5号(通巻348号、2013年8月6日発行)掲載

広島県福山市にあるアール・ブリュット専門の鞆の津ミュージアムで、去る4月から7月にかけての3ヵ月間にわたって、死刑囚が描いた絵画の展示会「極限芸術」が開催された。当初は2ヵ月間の予定だったが、好評であったために途中で会期が1ヵ月間延長された。総入場者数は5221人になった。ミュージアムのある鞆の浦は、北前船や朝鮮通信使の寄港地であったことでも名高く、歴史の逸話にあふれた町だが、福山駅からバスに乗って30分ほどかかる場所にある。今回の入場者には、町の外部から来た人が多かったようだが、その意味では、アクセスが容易だとは言えない。そのうえでの数字だから、いささかならず驚く。

展示された300点有余の作品を提供したのは、私も関わっている「死刑廃止のための大道寺幸子基金」死刑囚表現展運営会である。2005年に発足して以降、毎年「表現展」を実施してきたので、昨年までの8年間でそのくらいの絵画作品が応募されたのである(別途、詩・俳句・短歌・フィクション・ノンフィクションなどの文章作品の分野もある)。絵画作品全点の展示会は初めての試みだったが、これは当該ミュージアムのイニシアティブによるものである。会期中に、都築響一、北川フラム、茂木健一郎、田口ランディ各氏の講演会も開かれた。特に都築氏は精力的なネットユーザーで、発信力が高い。その伝播力は大きかったと推測される。

メディアの敏感な反応が目立った。「死刑囚の絵画」という、いわば「閉ざされた空間」への関心からか、テレビ・ラジオ・週刊誌などで芸能人や評論家が観に行ったと語り、やがて複数の美術批評家も「作品の衝撃性」を一般紙に書いた。私は2回訪れたが、今回の展示会を通して考えたことは、次のことである。

一、言わずもがなのことではあるが、「表現」の重要性を再確認した。死刑囚は、いわば、表現を奪われた存在である。社会的に、そして制度的に。その「表現」が社会化される(=社会との接点を持つ)と、これほどまでの反響が起こる。国家によって秘密のベールに覆われている死刑制度が孕む諸問題が、どんな契機によってでも明らかにされること。それが大事である。1997年に処刑された「連続射殺犯」永山則夫氏は、自らの再生のために「表現」に拘った人だが、氏の遺言を生かすためのコンサートは、今年10回目を迎えた。死刑制度廃止を掲げているEUは東京事務所で氏の遺品の展示会を開いて、日本の死刑制度の実態を周知させようとしている。俳句を詠み始めて17年ほどになる確定死刑囚・大道寺将司氏は昨年出版した句集『棺一基』(太田出版)で、今年の「日本一行詩大賞」を受賞することが、去る7月31日に決まった。どの例をみても、死刑囚自らが、自分の行為をふり返った、あるいは己が行為から離れた想像力の世界を「表現」したからこそ持ち得た社会との繋がりである。それによって死刑囚も変わるが、社会も変わるのである。

二、死刑囚の絵画を「作品」として尊重するミュージアム学芸員の仕事であったからこそ、今回の展示会は「成功」した。額装、展示方法、ライティング、築150年の伝統ある蔵を改造したミュージアムそのもののたたずまい――すべてが、それを示していた。

三、「地方」と言われる場合の多い「地域」社会のあり方について。死刑囚の絵画とは、一般社会からすれば、「異形」の存在である。鞆の浦の船着き場、歴史記念館などの公共施設にも、スーパー、喫茶店などの民間店舗にも、この展示会のポスターやチラシが貼られたり、置かれたりしていた。それは、この町の人びとの「懐の深さ」を思わせるに十分であった。特異な地勢の町だが、行きずりの旅行者の観察でしかないとはいえ、寂れているという感じはなかった。私は今年、山陽と道東の市町村をいくつか歩いたが、新自由主義的改革によって地域社会の疲弊が極限にまで行き着いている現実を見るにつけても、その中にあってなお活気を保っている町の例があるとすれば、その違いはどこからくるのだろうという課題として考えたいと思った。

(8月3日記)