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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(4)


ボリビアの書店へ行ってボリビア関係の書物を見ていると、Editorial “Los Amigos del Libro” (本の友社)という名前の出版社のものが目立った。Enciclopedia Bolivianaと総称して、ボリビアに関するさまざまなテーマの書物を出版していた。いくつもの本を束ねて、「ボリビア百科事典」的な叢書になることを目指しているのだろう、と思えた。ケチュア語やアイマラ語の辞書もあって、当然にもラパスで購入した。これらも、のちにウカマウ映画の字幕翻訳作業を行なう際には大いに役立つことになる。その後、コチャバンバという都市へ行く機会があった。(因みに、永井龍男に「コチャバンバ行き」という短篇がある。1972年の作品だが、行く前に読んだのか帰国してから読んだのか、今となっては定かではない。)それはともかく、コチャバンバには「本の友社」の本社がおかれていることを思い出し、寄ってみた。社長自ら応対してくれた。Werner Guttentag T. という、ドイツ系移民の末裔だった。南米各国にはドイツ系移民がけっこう多い。

いろいろと話しているうちに、すでに幾冊かの本を購入していた作家、ヘスス・ララ(Jesús Lara)の話題になった。メキシコに滞在していた時に、”Guerrillero Inti Peredo”(『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』)と題する彼の本を読んでいた。インティとココのペレード兄弟は、チェ・ゲバラ指揮下のELN(ボリビア民族解放軍)に属していた。インティは、1967年ゲバラ隊が壊滅されたときにも生き延びて、その後「われわれは山へ帰る」と題する声明を発表したこともあったが、1969年にラパス市内の隠れ家で見つかって、結局は殺されてしまった。ヘスス・ララはインティの義父に当たるが、コチャバンバに住んでいるという。グーテンターク氏は、その場で作家に電話して、日本からの旅人が会いたがっているよ、と伝えてくれた。すぐ訪ねてみた。ここでも話はずいぶんと弾んだが、作家は、官憲の手入れのあとで焚書された自分の本、『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』の焼け焦がれた残骸写真を見せてくれたうえで、焼増しを一枚贈ってくれた。その写真は、前回触れたドミティーラの『私にも話させて』を刊行する際、関連する記述があったので収録した(焼かれたのは、他ならぬ「本の友社」版である。私がメキシコで読んだ版は、メキシコの出版社から出ているものであった)。

その後、帰途ペルーのリマに滞在していた時、ヘスス・ララ原作の演劇『アタワルパ』がリマ郊外で上演されるというニュースを新聞で知った。アタワルパは、スペイン人征服者によって処刑された、実質的なインカ帝国最後の皇帝である。その夜、リマ郊外へ出て山あいに入ると、両側のかがり火が迎えてくれる。野外という雰囲気も手伝ったのだろうが、内容的にもなかなかに感動的な舞台であった。コチャバンバの作家に、舞台を観た感想を書き送った。彼も、自作が上演される機会に私たちが偶然にも居合わせたことを心から喜んでくれた。ホルヘたちに再会した時、このことも話題にした。彼らも作家とは知り合いのようだが、長引いている亡命生活の中で音信も途絶えていたので、私たちから氏の元気な様子を聞いてうれしいようだった。こうして、これもまた、どこかでウカマウに繋がっていく物語ではある。

*           *         *

ボリビアの南の端と国境を接する国のひとつはアルゼンチンである。そこへ移った。白人国と呼ばれることが多い。さまざまな先住民族が住まう土地に、征服者としてヨーロッパ人が侵入し、そこを植民地化し、植民地経営のために西アフリカから膨大な数の黒人奴隷を強制連行し、しかもこれらの諸民族の血が複雑に交じり合い――という過程を経たのだから、現在あるラテンアメリカの国々は、複合的な多民族社会を形成している場合が多い。ウカマウ集団の出身国であるボリビアは、2006年のエボ・モラレス大統領誕生を契機に行なわれてきた改革政策のなかで、国名も「ボリビア多民族共和国」と改めた。それでも、国によって、その民族構成には大きな差が見られるから、人口構成に占める白人の率によっては「白人社会」という呼称が成立してしまうのである。そうであれば、ウカマウに即して先住民族の存在を重視するという観点から見るなら、アルゼンチンには見るべきことはないのか。

日本を出る前、この地域に関する多くの書物を読んだ。中でも印象的な1冊は、ダーウィンの『ビーグル号航海記』だった。チャールズ・ダーウィンは、1831年から5年間、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗って、南米大陸沿岸からガラパゴス島へ、さらに南太平洋地域をめぐりながら、航海記を記録する。記述されるのは主として地質や動植物の観察記録だが、時代はまさしくラテンアメリカ各国がスペインからの独立を遂げた直後のこと、陸地内部の社会・政治状況に触れる個所もないではない。独立直後のアルゼンチンが、ローサス将軍の下、先住民族の徹底的な「殲滅作戦」を展開したことは、当時日本でも読める一般的な歴史書でも書かれていたから、まさしくそれと同時代にアルゼンチン沿岸を通ったダーウィンの反応を知りたかったのだ。

記述によれば、ダーウィンはローサス将軍にいちど出会っている。率いる軍隊が「下等な、強盗のような」本質をもつことに気がつきつつ、将軍の、非凡で熱情あふれる性格を肯定的に述べている。過酷な運命を強いられる先住民への「同情」を示す記述もあるが、その「掃討戦」は無理からぬことというのが、彼が行き着いている結論である。ひとつ関心を引くエピソードがある。先住民「殲滅戦争」に参加したスペイン人から、その戦いぶりを聞いたダーウィンは、その非人道性に抗議する。答えは、次のようなものだった。「でも止むを得ません。どんどん産みますからね」。これこそ、まさしく、本連載1回目で触れたウカマウ集団の作品『コンドルの血』に登場する、20世紀米国の「後進国開発援助」グループの意識でもあった。

さて、アルゼンチンの先住民人口は、総人口の0.5%を占めるにすぎないが、そこにも「動き」はあった。首都ブエノスアイレスにいたとき、新聞で知ったのだろう、先住民の集まりがあるという告知があり、そこへ出かけた。会場はバスク会館といった。スペインのバスク地方からの移住者たちが独自に持っている会館なのだろう。その集まりがどんなものであったかは、もはや覚えてはいない。それでも、そこでの出会いから始まって、対権力との関係上から公にはできない集まりへも誘われた。それは、なんと、ウカマウの『コンドルの血』の上映会であった。どこからともなく現われた50人近くの、主として先住民系の人びとが、スクリーンに見入った。

ボリビアは、米国「平和部隊」の恣意的な「援助計画」に翻弄された当事国だった。対象とされた先住民人口も総人口の過半を占めており、問題はあまりに深刻で、政府も「平和部隊」の追放まで行なうだけの、社会的・政治的基盤はあった。翻って、きわめて少数の先住民人口しかいないアルゼンチンにおいては、先住民は、また別な困難さに直面しているのだろうと、私は考えていた。

(2014年3月19日記)

ウカマウの長征(3)


キトでホルヘたちと別れるとき、私たちがやがてボリビアへ行くことを知っていながら、彼らは誰かへの伝言を託したり、誰それに会ってほしいと望んだりすることはなかった。軍政下の政治・社会状況は苛烈で、ウカマウのフィルムを持っていただけで逮捕されたり家宅捜索を受けたりする人もいた時代だった。外国人の私たちに「不用意な」ことを依頼して、相手にも私たちにも「迷惑」がかかることを避けたのだろう。

だから、ウカマウ集団の本拠地である肝心のボリビアで、私たちの滞在中にこれといって直接的に関わり合いのあることができたわけではない。だが、広い意味で考えるなら、結果的には、間接的にではあるがさまざまに「繋がる」エピソードがなかったわけでもない。ここでは、そのうちのいくつかのことを書き留めておきたい。

とある講演会でファウスト・レイナガという文筆家に出会った。ラパスの知識人たちが集まっているその講演会が終わりかけたころ、「君たちは、ケチュアやアイマラなどの先住民族の現実を少しも知ることなく、太平楽なおしゃべりをしている」と激しい口調で糾弾したのだ。関心をもって、声をかけた。ケチュア人であった。この人物については、私の新刊『【極私的】60年代追憶――精神のリレーのために』(インパクト出版会、2014年)の第8章「近代への懐疑、先住民族集団の理想化」で詳しく触れた。ご関心の向きは、それをお読みくだされば幸いである。ここでは最小限のみ言及しておきたい。

ファウストには『インディオ革命』など十数冊の著作があるが、いずれも、インカ時代のインディオ文明に対する全面的な賛歌と、翻ってそれを「征服」し植民地化したヨーロッパ(白人)文明 に対する批判と呪詛に満ちた文章で埋め尽くされている。植民地主義の犠牲にされた人びとが、過去から現在にかけての植民地主義を批判するときに、ときどき見られる立場である。植民地主義の論理と心理が染みついている植民者とその末裔たちの在り方を思えば、まずは、この問いかけに向き合わなければならないというのは、私の基本的な態度としてある(ありたい、と思い続けている)。だが、当時ファウストと話していても思ったのだが、対立・敵対している(かに見える)二つの立場を、一方を〈絶対善〉、他方を〈絶対悪〉と捉える立場は、討議・論争を不自由にする。この不自由さは、両者の関係性に負の影響を及ぼす。多くの場合、そのような立ち位置は、植民者の側に加害者としての自覚が欠けているときに現れる、被植民者側の怒りと苛立ちと絶望の表現である、ことは弁えるとしても。

誰にしても、この世に生を享けたときの諸条件が絶対化され、生きていく中で、活動していく中で、思考していく中で――「変わる」ことの可能性が否定されるなら、それはすなわち、人間の〈可変性〉を否定されることを意味する。私は、若いころからの、アイヌや琉球の人びとや在日朝鮮人とのつき合いのなかで、そのことを実感した。

のちにホルヘたちと再会したとき、ファウスト・レイナガのことは話題に上った。ホルヘたちも、当然にも、ファウストのことは知っていて、その立場は往々にして「逆差別」に行き着くしかないのだ、と結論した。私もその意見には同感だった。ウカマウの2005年の作品『鳥の歌』には、スペイン人による5世紀前の「征服」の事業を批判的に捉えようとする白人たちの映画撮影グループに属する一青年に対して、「ここは多数派の俺たちの土地だ。ここに白人は要らない。マイアミにでも行ったら、どうだ」と叫ぶ先住民の青年が登場する。ふたりは激しく言い争いをするのだが、ホルヘたちはここで、「可変的」である人間の価値を、生まれ・育ってきた存在形態の枠組みに永遠に封じ込めて、静的に判断することの間違い、あるいは虚しさを語っているのだと言える。逆に言えば、「矛盾」があるからこそ、その解決に向けて、ひとは行動する。その行動のなかで、ひとは変わり得る。そのことへの確信とでも言えようか。民族・植民地問題が人びとのこころに刻みつける課題は、重い。どの立場を選ぼうと、〈錯誤〉を伴う〈試行〉でしかあり得ない。現在の時点から俯瞰してみると、ウカマウ集団は、この課題と真っ向から取り組んで〈長征〉を続けてきたのだと言える。

あとになっての、もう一つの間接的な「繋がり」――それは、ボリビアと言えば忘れるわけにはいかない鉱山地帯への旅から生まれた。ポトシ、オルロ、シグロ・ベインテ、ヤヤグアなどの鉱山町へ、である。征服者フランシスコ・ピサロの一隊がインカ帝国を征服したのは1533年だが、1545年には海抜4000メートル以上の高地に位置するポトシ鉱山に行き着き、これを「発見」している。銀を求めて人びとが殺到し、ポトシはたちまちのうちに当時の世界でも有数の人口を抱える都市となった。そして採掘された銀はヨーロッパへ持ち出され、それが「価格革命」をもたらしたことは有名な史実である。これまたよく引用されることだが、スペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたのは1605年だが、その中では「ポトシほどの価値」と表現を使って、巨きな富を言い表わしている。もちろん、この繁栄を可能にしたのは、危険かつ過酷な鉱山労働に従事した(強制労働として従事させられた、という方が正確だろう)先住民の犠牲によって、である。ポトシには、博物館となっているカサ・デ・モネダ(造幣局)があって、経済的な繁栄の様子にも厳しい労働のありようにも想像力を及ぼすことができる装置は残っていた。だが、次いで訪れたヤヤグアやシグロ・ベインテの炭住街区の現実には胸を衝かれた。そこは、のちに知ったところによれば、鉱山で働く労働者の宿舎を建てることで成立した集落であり、いわば「野営地」にひとしいようなところを、鉱山労働者とその家族は住まいとしていたのであった。ボリビアの一作家は次のように表現したという。「人間がいかに我慢強いものであるかを知るには、ボリビアの鉱夫の居住区を知るにこしたことはない! ああ! 鉱夫と赤子はなんというさまで、生活にしがみついていることか!」。

私たちがここを訪ねた時点では未見だが、ウカマウは1971年にシグロ・ベインテを主要な舞台に『人民の勇気』というセミ・ドキュメンタリー作品を制作している。1967年6月、鉱山労働者と都市から来た学生たちは、当時ボリビア東部の密林地帯で戦っていたチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する坑内集会を開こうとしていた。これを事前に察知した政府は、夜陰に乗じて軍隊を派遣し、炭住街区を襲撃して大勢の労働者を殺した。この史実に基づいて、鉱山労働者と家族がおかれてきた状況を再構成した作品である。この作品には、シグロ・ベインテの実在の住民で、鉱山主婦会のリーダーのひとりであったドミティーラが出演している。彼女はその後1975年メキシコ市で開かれた国連主催の国際婦人年世界会議に招かれ、政府代表の官僚女性や「先進国」フェミニストの発言に対して、火を吹くような批判の言葉を投げつけた。

帰国後しばらくして、唐澤秀子は、このドミティーラの聞き書き『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人々の物語』を翻訳した(現代企画室、1984年)。炭住街区の様子やドミティーラの思いを日本語に置き換えていく過程で、この時の鉱山町訪問の経験が生きたと思う。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8403-6

(3月14日記)

ウカマウ集団の長征(2)


エクアドルの次にはペルーへ行った。ウカマウとの関係でのみいうなら、ホルヘ・サンヒネスとベアトリス・パラシオスは前年の1974年にはペルーに滞在していて、クスコ地方のティンクイ村を舞台に『第一の敵』(1974年)を撮っていた。結果的には、私たちはこの映画の16ミリフィルムをホルヘたちに託されて、日本での公開の可能性を探るべくその後帰国することになるのだが、75年に二人にキトで会ったときには観る機会を持つことはできなかった。だから、ペルーに滞在している間は、この映画が基となる史実を借用したという、ペルーのゲリラ・民族解放軍(ELN)指導者、エクトル・ベハール(Hector Bejar)が獄中で書いた証言記録( ”Las Guerrillas de 1965 : balance y perspectiva“ 『1965年のゲリラ――その結果と展望』)を読むに努めた。この本の英語訳は、当時ラテンアメリカ解放闘争の記録を積極的に出版していた米国のマンスリー・レヴュー社から刊行されていたので、日本を出る前に読んではいた。だから、まだ映画それ自体は観ないまでも、ホルヘたちが、1960年代のラテンアメリカにおけるゲリラ闘争をふりかえる物語構成を考えた時に、この本の記述に一定依拠したことを本人たちから聞いて、浅からぬ縁は感じた。一年後メキシコでホルヘたちに再会し、『第一の敵』も見せてもらい、さらに話を続けたとき、この映画が参照して描いたのは、ベハールの書の「アヤクチョ戦線」の章からであることがわかった。「アヤクチョ」については、後に触れる。

ところで、著者エクトル・ベハールのその後を知るためにインターネットで検索してみた。リマのサンマルコス大学で社会学を研究する学者になっていた。ペルー国内はもとより国際問題の論評も精力的に書き続けているようだ。現在書いていることの中身を読むのはこれからだが、半世紀前の武装ゲリラ指導者の人生がこんな風に続いているのを知ることはわるいことではない、と思った。→http://www.hectorbejar.com/ ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカも、元は都市ゲリラ・トゥパマロスの活動家で脱獄経験もあるし、ブラジルの大統領ジルマ・ルセフも軍事政権下では非合法の左翼組織に属して武装闘争にも関わっていた、という。このような経歴の人物が、初志の延長上で(おそらくは、緩やかな変化を遂げながら)政治や研究の世界の前線にいるのだから、ラテンアメリカの社会は、変わることなく、おおらかで、懐が深い。もちろん、元ゲリラたちの資質と生き方にも、社会が受け入れる何かが備わっていたのだろう。

リマで読もうとした(十分に理解できたとは言えない)もう一冊の本は、詩人、ハビエル・エラウド(Javier Heraud)の詩集だった。1942年生まれの彼は、早熟な才能を示した詩人だった。キューバに留学していたが、密かに帰国した時にはベハールと同じELNに属していて、すぐにゲリラ根拠地に入り63年政府軍との戦闘に斃れた。21歳だった。日本にいる時から彼の名は聞いていて、作品を読みたいと思っていたのだ。詩の真髄を理解するには、私のスペイン語読解力は不足していた。後智慧だが、作家、バルガス・リョサはハビエルの親友で、その死に際して心に染み入る追悼文を書いた。当時のリョサは、キューバ革命を熱烈に支持し、一般論としても社会主義的な未来に希望を託している段階だったのだ。その後の彼の思想的変貌の過程には、上に触れた人びととは異なる次元だが、私は興味をそそられていろいろと参考文献を読み、「憂愁のバルガス・リョサ」という文章を『ユリイカ』1990年4月号に書いた(太田著『鏡のなかの帝国』所収、現代企画室、1991)。こうして書いていると、〈過去〉と〈現在〉が自由気ままに往還していくが、そこに何かしらの「繋がり」が見えてこないこともない点がおもしろい。

40年前に話を戻す。首都リマにしばらく滞在した私たちは、世界最高の高度を通る列車に乗ってアンデスを越え、以後ワンカーヨという町からクスコへ着くまで、地元の住民が利用する乗り合いトラックに乗って、途中のいくつかの町に泊まっては旅した。初めて目にするアンデス高原を幌もなくひた走るトラックの上は、風は冷たく、寒かった。ごく稀に停留所があって、町の市(いち)に物売りに行ったのだろう先住民の農民がひとり降りて歩き始めたりするのだが、見渡すところ人家も人影もまったく目にすることができず、いったいあの人はどれほどの距離を歩いて目的の家にたどり着くのだろうと、訝しく思ったりもした。トラックの上に残って旅を続ける者(都会から来た人間だったろう)からは、「おーい、こんなところで降りて、家はあるのかい?」などという声が投げかけられたりした。のちに『第一の敵』を観ると、先住民はまさにあの高原を、途方もない長い時間をかけて、勁い脚力で歩いているのだった。

途中にアヤクチョという町があった。スペイン植民地からの独立をめざすシモン・ボリーバル指揮下の軍隊がペルー副王軍と戦って勝利した会戦の場所だから、歴史書にも出てくる地名で、記憶にはある。夜更けに着いた町のホテルは、なにかの会議開催中とかで旅人が多く、空きはなかった。宿にあぶれたペルー人と外国人旅行客の数は数十人のかたまりになった。夜中に空いている公共機関は警察しかないな、と誰かが言い、みんなで警察署を訪れた。当直の警官と押し問答を繰り返した挙句、それなら仕方がない、ここに泊まっていいといって、彼は留置場を解放してくれた。

翌日、アヤクチョの町を歩いた。さまざまな意味合いで、「アンデス最深部」という言葉が浮かんでくるような町だった。「先住民性」を色濃く感じたせいだろう。ちっぽけな書店に入ると、『アメリカニスモ』辞典があった(”Diccionario de Americanismos “, Alfred N. Neves, Editorial Sopena Argentina, 1973)。「正統派」のスペイン語だけではない、ラテンアメリカ各地で使われる先住民の母語に派生する語句、いくつかの言語の混淆語などの特有の単語が収められている。何の役に立つかも知らぬまま、辞書好きの私は買い求めた。それには、アンデス先住民の母語であるケチュア語やマイマラ語の単語もけっこう収められていて、結果的には、その後ウカマウ集団の映画を次々と輸入して、字幕の翻訳作業を行なう時に少なからぬ働きをしてくれることになるのである。すでに述べたように、ウカマウの映画には、ケチュアとアイマラの民が常に登場し、その言語がスクリーン上に炸裂するからである。

こうして、アヤクチョの町も、ウカマウとの関係で何かにつけて思い出される町となった。この訪問から5年後の1980年、アヤクチョ地域を根拠地とした反体制武装運動「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」の活動は開始される。これは、ベハールの時代のそれとはまったく異なる性格を持つ運動で、その性格に深い衝撃を受けた私は、カルロス・I・デグレゴリ他著『センデロ・ルミノソ――ペルーの〈輝ける道〉』と題する翻訳書を出版して、長文の解説を付した(現代企画室、1993年)。それはまた、別な物語となるので、ここで止めておきたい。

(3月13日記)

ウカマウ集団の長征(1)――出会い


私たちが、ボリビアの映画制作集団ウカマウの作品の自主上映を始めたのは1980年のことだった。早や34年が経っている。上映に加えて、その作品のシナリオ集や映画理論書も刊行してきたし、幾人もの論者によってウカマウ論もずいぶんと書かれてきた。だが、34年と言えば、その間には幾世代もの移り変わりがある。2014年5月、全作品回顧上映を企画している機会に、主としてウカマウを知らない若い世代に向けて、ウカマウの映画のことや私たちの活動のことをあらためて書いておこうと思う。

いまから40年近く前の1975年、私たち(私と唐澤秀子)はエクアドルの首都キトにいた。メキシコを皮切りにラテンアメリカの歴史と文化、現在の状況を知るための現地での生活はすでに3年目に入っていた。人びととの交流こそがいちばん大事とはいえ、新聞や本を読み、ラジオを聞き、映画・芝居・音楽・講演などの催し物に足を運ぶことも、重要なことだ。キトに着いて間もなく、その魅力的な街を散歩していた。とある街角で壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。映画上映の告知のようだ。銃を握りしめたインディオの一青年の切羽詰った表情がポスター全体を覆っている。Yawar Mallku という、私たちにとっては未知の言語でタイトルが書かれている。近寄ってみると、Sangre de Condor というスペイン語でのタイトルも付されている。『コンドルの血』という意味だ。ボリビア映画であること、エクアドルではすでに何十万もの人びとが観たことなども書かれてある。見るからに先住民の顔立ちの人が映画の前面に出ているようだ。そんなことなど、あり得ない時代だった。加えて、アンデス先住民にとってコンドルが象徴する世界は深くて、広い。これこそ、メキシコで名のみ聞いていた、あのグループの映画ではないのか。どうしても観なければ、と思った。たまたま、その日が上映日だ。

会場はキト中央大学講堂だった。70分間、私はスクリーンに釘づけになった。話されている言語はスペイン語、ケチュア語、英語。ケチュア語はまったく理解できないが、演技者の表情を伴って話されるし、物語の展開を追うのにそれほど障害にはならない。物語はこうだ――とあるアンデスの先住民村。若いカップルの結婚が続いたのに、なぜか、子どもが生まれない。そのことに不審を抱いた村長(むらおさ)は、数年前から「低開発国援助」の名目で村に来て、診療所を開設している米国人グループがいることを思い出す。ある日、診療所の壁の隙間から内部を覗くと、村の若い女性に対する手術が行われているのだが……。それは、本人の同意を得ないで行なわれている強制的な不妊手術であることを知った先住民たちは米国の青年たちの住まいに押しかけて告発する――。他にもいくつもの伏線が張られている物語は、内容的に豊かに展開するが、説明はこれくらいに留めておこう。

それにしても、「強制的な不妊手術」とは穏やかではないが、この主題には既視感があった。1970年前後の日本において、ボリビアやペルーなどのアンデス諸国から、米国が派遣している「平和部隊」が追放されたというニュースが報道されていたからである。「産児制限をしないことによる人口爆発→来るべき食糧危機」という図式を唱える学者が「先進国」にはいて、その考えを信じた平和部隊員が『コンドルの血』に描かれたような行為に及んだのである。また、この「平和部隊」は、1959年のキューバ革命の勝利に驚いた当時の米国大統領ケネディが、それまでは等閑視してきた「後進国」の貧困問題などを解決するための援助政策として立案したものであった。ラテンアメリカでは、それは「進歩のための同盟政策」と呼ばれた。それが、一面ではこんな実態をもつのが現実だったのだ。

描かれている事実もさることながら、欧米と日本の映画文法に慣れ親しんできた者としては、カメラワークをはじめとする映画技法が新鮮だった。スクリーン上にケチュア語がとびかうことも刺激的だった。厳然と存在する差別ゆえに、インディオは公の場では自らの母語を話すことさえ憚られるという証言を、この時代のそれとしていくつも読んできたからである。

上映会場には、チラシ一枚すらなかった。単に上映が行なわれ、観客はそのまま帰って行った。制作者や監督のことを知りたいと思った私たちは、大学の事務局によって、この映画のチラシを一枚でも欲しいと言った。監督はいまキトにいるよ、あなたたちのことを伝えておくよ。

翌日、監督のホルヘ・サンヒネスとプロデューサーのベアトリス・パラシオスが私たちの宿泊しているホテルへ訪ねてきた。ふたりは、ボリビアに軍事政権が成立した1971年以来国外へ亡命し、チリ、ペルーなどを経て、エクアドルに来ているということだった。ロビーで長いこと話し合った。この映画に詰め込まれているたくさんのことどもから派生して、いつしか世界観や歴史観をめぐる話となったが、物の見方や考え方において共通なものを随分と感じた。ホルヘたちもそうだったであろう。「先進国」から先住民を見る視線にも、ほかならぬボリビア内部で多数派住民である先住民を見る視線にも、拭いがたい構造的な差別がある。左翼ですら、この弊を免れている者は少ないんだということを、いくつかの実例を挙げながらホルヘは説明してくれた。

彼らの作品は初期から、カンヌ映画祭などで夙に注目されていたようだが(ゴダールが『コンドルの血』を評して「人びとを行動に動員する要因になり得るもの」と言ったことは、ずっと後になって知った)、とある映画祭で出会ったフランス映画社の柴田駿氏からは、この種の映画は日本では商業公開は無理ですと断られたとも言っていた。映画の内容から配給事情まで、初対面での話題は広範に広がった。

亡命の身であるが、エクアドルでは新作制作の企画もあり、彼らのエクアドル滞在はしばらく続く、という。私たちは、このあとさらに南へ向かい、アルゼンチンとチリまで行き着いてから再度陸路で北へ戻る。連絡を取り合っていれば、ふたたび落ち合うことはできよう。その時には、いままで作ってきたウカマウの作品をすべて観る機会をつくろう、とホルヘたちは言った(1975年のその段階では、『ウカマウ』『コンドルの血』『人民の勇気』『第一の敵』の4作品があった)。

そんな約束を交わして、私たちはキトでいったん別れた。最少限の記録は残っているが、それにしてももはや40年近くも前のこと――おぼろげになった記憶も少なくないなかで、いまも消え去ることなく鮮明な「出会い」の一つが、これである。

(3月10日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[47]「真実究明・赦し・和解」の範例を遠くに見ながら


『反天皇制運動カーニバル』12号(通巻355号、2014年3月11日発行)掲載

状況分析のために必要性を感じて、昨年12月上旬の特定秘密保護法案成立以後、14年3月上旬の現在にまで至る3ヵ月間の「東アジア日録」を整理してみた。東アジア諸国の多国間関係に深い影響を及ぼす事項に限定した。日付を入れて1行40字でまとめていくと、たちまちのうちに70行を超えた。もっと丁寧に拾うと、100行なぞ優に超えてしまいそうな勢いを感じた。上に述べた限定的な観点で事項を絞り込んでも、ほぼ連日のように、どこかで何事かが起きていることを、それは意味している。別に生業をもつ、市井の個人が整理するには、その能力を超えた情報量である。その意味では、そんな個人でもある程度まではまとめることができるという点で、パソコンの威力を想った。

日本で目立つのは、戦後最大の岐路というべき時期を自らが思うがままに突き進む現首相A・Sの言動、加えてその取り巻きの補佐官や議員と閣僚、さらにはNHK新会長+経営委員らのふるまいである。靖国神社参拝、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を可能にするための策動、旧日本軍「慰安婦」や南京虐殺をめぐって歴史を捏造する発言、学習指導要領解説書での「領土教育」の強化指針、巷にあふれ出るヘイトスピーチ――どれを取ってみても、すべてが周辺諸国民衆と為政者の神経を逆なでせずにはおかない方向性をもっている。それに反応するかのようにして、韓国・朝鮮・中国での動きが伝わってくる。私の考えからすれば、後者の言動のなかにも政府レベルであれ民衆レベルであれ、日本で噴出する醜悪なナショナリズムに対してその水準で対抗しようとするものも散見されないことはない。特に政府レベルでは、日本の場合と同じように、自らが生み出している国内矛盾から民衆の目を背けさせるために「外なる敵=日本」の存在を大いに利用している権力者の貌が見え隠れしている場合がある。それは、私の心を打たない。だが、まず変革されるべきは、日本の現為政者にみなぎる植民地支配と侵略を肯定する歴史観であり、同時にそれを陰に陽に肯定する社会全般の雰囲気であるという私の捉え方からすれば、他国のナショナリズムが「第一の敵」として登場することはあり得ない。言葉を換えるなら、国家間の歴史問題に関して、加害国側がその自覚を持たないふるまいを続ける、否むしろ現在の日本のように居直り、過去を肯定する態度を続ける限りにおいて、被害国側にそれを超える論理と倫理を求めることはできないというのが、「国家」に拘りそれを単位として行なわれている国際政治の変わることのない現実だ。ふたたび、別な観点から言うなら、だからこそ、A・Sを首班とする日本の「極右政権」はその政策路線を追求するうえで、緊張に満ちた現在の東アジア情勢(=国家間関係)から十分すぎる恩恵を受けているのである。どの国の民衆であれ、自国と隣国の国家指導者たちが興じる、この「ゲーム」の本質を見抜く賢さを獲得しなければならない。

主題は変わるが『現代思想』(青土社)三月臨時増刊号が総特集「ネルソン・マンデラ」を編んでいる。私も寄稿しているのだが、それを書き、そして出来上がったもので他者の論考を読んで、いちばん心に響くのは、アパルトヘイト(人種隔離体制)の廃絶後のマンデラ政権下で追求されている「真実究明・赦し・和解」への道を模索する姿勢である。「人道への犯罪」と呼ばれたアパルトヘイト体制の推進者――政治家、経営者、警察官、軍人、言論人、市井の人のどれであっても――の罪を告発し追及するのではなく、加害者が「真実」を告白し、被害者に「赦し」を乞い、それが受け入れられ、もって「和解」へと至るという、困難な道を彼の地の人びとは選んだのである。アパルトヘイト体制が内包していた、悪意に満ちた人種差別の本質を思うだに、それは渦中の人びとに(とりわけ被害者に)とって矛盾も葛藤もはなはだしい過程だったに違いない。だが、社会が「復讐」と「報復」の血の海に沈むことがないように、南アフリカの人びとはその道を選んだ。この範例の横に、加害者側からの「真実究明」がなされていない、否、それどころではない、「真実」を捻じ曲げ、隠蔽する動きが公然化している東アジアの実例をおいてみる。身が竦む。

(3月8日記)

第3回死刑映画週間「国家は人を殺す」開催に当たって


「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」主催「第3回死刑映画週間」のためのパンフレット(2014年2月15日発行)掲載

いまからもう17年も前のことになるか、「この国は危ない/何度でも同じあやまちを繰り返すのだろう/平和を望むと言いながらも/日本と名のついていないものにならば/いくらだって冷たくなれるのだろう」とうたった歌手がいた。1997年4月23日、在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件が、当時のフジモリ大統領の武力発動によって「決着」をみたのだが、その軍事作戦で人質1名、攻撃した兵士2名、ゲリラ14名が死んだ後のことである。救出された人質が乗ったバスの出入り口に立ったフジモリ大統領が、満面の笑みを浮かべながらペルー国旗をうちふる姿を覚えている方もおられよう。それを、日本のメディアは「日本人(人質)が助けられた」と嬉しそうに絶叫するばかりで、他国の死者(この歌では、「救出作戦に当たった兵士2名の死」のことを言っている)には何の関心も示さない形で報道した。歌は、そのことへの危機感の表明であった。この軍事作戦が実施された日付に因んで「4.2.3」と題されているこの曲の作り手も歌い手も、中島みゆきである(曲は『私の子供になりなさい』、ポニーキャニオンPCCA-01191、に入っている)。

言葉を変えるなら、人間の生死に関わることがらを、「日本国民」という内部と「非日本人」という外部に〈ごく自然に〉分け隔てて喜怒哀楽を表現してしまうという、この社会に根深く沁みついている心性の在り方に、歌手は深い危惧を抱いたのである。

私は最近、この歌を幾度となく思い起こす。それは、おそらく、次の二つの理由からきている。ひとつには、現首相や政権与党指導部によって煽動され、草の根の一定の「民意」にまで根を下ろしている偏狭なナショナリズムが、上に触れた17年前のあり方とぴたりと重なり合う傾向を示しているからである。否、ぴたりと重なり合うという表現に留めるのは、正確ではない。「外部」にあるものをひたすら憎み侮蔑し、国の「内部」に凝り固まるこの現象は、いわゆる「ヘイト・スピーチ」に見られるように、醜悪なまでに増長しているのが現実なのである。

ふたつ目は、この国家のあり方と切っても切れない関係にある「死刑」問題の現況からくる。与党幹事長は、上の趨勢を推し進める過程で、「(国防軍)が成立した暁には、戦場への出動命令を拒否すれば軍法会議で死刑もしくは懲役300年」と語った。また、現法相は昨年4回にわたって死刑執行を命じて、計8人の人びとの命を奪った。凶悪犯罪を犯して「死刑囚」になった者と犯罪とは無縁な「一般人」の間に高い垣根をつくって、これを暗黙の裡に認める「民意」がこれを後押ししている。

「国」の内部に固まって、恐るべき言葉を「外部」に投げつける人びと。「死刑囚」や「犯罪者」を遠巻きにして、悪罵の石を投げつける人びと――自らは決して傷つくことのない安全地帯をおいて行なわれているこの行為は、国家が安んじて「人を殺す」基盤を形成する。戦争を通して、そして死刑制度を通して。この社会は、ほんとうに、きわどい地点にまできた。今回上映される8本の映画を通して、この状況を客観視する縁にしたい。

マンデラと第三世界 


『現代思想』(青土社)2014年3月臨時増刊号「総特集 ネルソン・マンデラ」掲載

1、武装闘争

ネルソン・マンデラの死が報じられた日、この国では「特定秘密保護法」なる、驚くべき時代錯誤の法案が参議院で強行採決された。これを主導した首相A・Sは、マンデラ逝去への思いを記者団に問われ、「アパルトヘイト撤廃のため強い意志を持って闘い抜き、国民和解を中心に大きな成果をあげた偉大な指導者だった。心からご冥福をお祈りしたい」と述べた。この発言に限らないが、自らが発する言葉の〈白々しさ〉にこれほどまでに無自覚かつ無神経な人間も珍しい。米国大統領をはじめ欧米諸国の政治指導者からも、マンデラ賛歌の言葉が途切れることなく溢れ出た。それは、あたかも、ネルソン・マンデラを27年間ものあいだ、ロベン島の独房やケープタウン郊外のポルスモア刑務所に閉じこめたアパルトヘイト体制を支え続けていたのが、自らが属する日欧米の20世紀資本主義列強であったことなど知らぬ気の、何の痛痒も感じられない、あっけらかんとした言葉遣いでなされた。

マンデラの全体像のうち、自分に都合のよい一部分だけを切り取った過剰な賛辞が氾濫する中で、各国首脳の弔辞においてもメディア報道においても、徹底して無視されているいくつかの史実に注目すること自体が意味をもつだろう。

ひとつ目は、マンデラの初期の出発点を「非暴力主義」の殿堂に封印するのではなく、結果的には未完に終わりはしたが、同時代のフランツ・ファノン、パトリス・ルムンバ、ベン・ベラ、クワメ・エンクルマ、アミルカル・カブラル、そしてチェ・ゲバラなどが、個別にではあったが多様な形で構想していた「アフリカ革命」へと向かう、解放の思想と運動の大きなうねりの中に位置づけることである。同時に、彼が生涯もち続けた「非暴力主義」の信念にもかかわらず、次のような一時期をもったことを、その閲歴の中に刻印することである。

1961年12月16日、南アフリカはジョハネスバーグとポート・エリザベスの発電所、郵便局、官庁など10ヵ所で同時爆発事件が起こった。それと同時に、各地で武装抵抗組織「ウムコント・ウェ・シズエ(民族の槍)」の創設を宣言するビラが貼り出された。前年の1960年3月21日、ジョハネスバーグ南の工業都市フェレニギア郊外のシャープビルでは、アパルトヘイトを支えるパス法の廃止と最低賃金を要求する5000人ほどの人びとが集まっていた。そこへ、警備の警官隊が突然発砲した。発砲は複数回続き、最後は狙い撃ちで、69名が即死、186名が負傷した。平和裡に行なわれていた示威行動が、このような仕打ちを受けたことが、伝統的に非暴力主義を堅持してきたアフリカ民族会議(ANC)が武力闘争に転換した大きなきっかけとなった。武力闘争が行なわれた日の声明は述べている。「われわれは、流血と内戦なしに解放を達成しようと終始努力してきた」が「人民の忍耐には、かぎりがある。いかなる国民の生活にも、ただ二つの選択――屈服か戦いか――以外にない秋がくる」。

マンデラは、のちの法廷で陳述するように「ウムコント・ウェ・シズエの創設を手伝った一人であり、1962年8月に逮捕されるまでは、そこで指導的役割を果たしていた」。

しかも、マンデラは、ウムコントの活動開始から1ヵ月足らずの1962年1月、南アフリカを密出国し、エチオピアのアジス・アベバで開催された「中央・東・南方アフリカのパン・アフリカ解放運動(PAFMECA)」会議に地下のアフリカ民族会議を代表して出席している。1960年の西アフリカ地域での旧フランス領植民地17ヵ国の独立、アルジェリア解放闘争の進展などを具体的な背景として、確かにこの時期には、「アフリカ革命」が「後退不可能な状況」を創り出している(これは、フランツ・ファノンが『革命の社会学』で用いた表現である)という状況認識が、解放・革命のために活動する人びとの中でひろく共有されていたことが分かる。会議への出席以外にも、マンデラはいくつかの任務を果たしている。アフリカ諸国を回りゲリラ兵の訓練基地をつくること、闘争資金を獲得すること、解放後に行政任務を担う若者の留学を要請すること、などである。マンデラがこのような構想を共に担う、総体としてのアフリカ解放運動の枠内にいたこと、この事実を確認することが、1960年代初頭の時代認識として決定的に重要だと思われる。

ふたつ目は、マンデラがキューバやパレスチナに対して抱いていた思いを浮かび上がらせることである。マンデラは監獄から釈放されて間もない1991年、革命記念日の7月26日にキューバを訪れている。キューバは1975年から91年にかけて総計42万5000人に及ぶ兵士を、南アフリカ共和国の近隣国・アンゴラに派兵している。長い闘争の果てにポルトガル領植民地から独立を遂げた社会主義国・アンゴラに、まだアパルトヘイト体制下にあった南アフリカ共和国政府は兵を送り込み、体制の転覆を企てた。近隣国における革命的な高揚は、自国のアパルトヘイト体制をも揺るがす可能性を秘めていることを、彼らは敏感に察知したのである。内戦も激化し、アンゴラ政府は友好国・キューバに派兵を依頼し、これにキューバ政府が応えて支援部隊を派兵した。この派兵問題については多角的な観点から検討したい重要課題がいくつもあるが(そのための萌芽的な問題提起を、私は1998年に書いた「第三世界主義は死んだ、第三世界主義万歳!」で行なった。『チェ・ゲバラ プレイバック』所収、現代企画室、2009年)、それは別な機会に譲り、ここではマンデラの観点からのみ書くに留めたい。

マンデラは、キューバ革命が帝国主義による度重なる妨害を克服して、とりわけ医療、教育などの分野で重要な成果を上げていることを強調した後で、キューバが一貫して国際主義的な任務を果たしていることに注目している。とりわけチェ・ゲバラの革命的な遺訓に触れて、「他ならぬ我が大陸における活動も含めて、あまりにも力強いものだったので、検閲に勤しむ獄吏といえどもすべてをわれわれから覆い隠すことはできなかった」。

「にわかには信じられないような規模のキューバの国際主義者たちが、アンゴラ人民支援のために派遣されたと最初に聞いたとき、私は獄中にいた。アフリカにすむわれわれは、いつも、われらが領土を侵略したり主権を転覆しようとしたりする国々の犠牲にさらされてきた。われわれを擁護しようとする、他地域の人びとがいたなどとは、アフリカ史上初めてのことである」。アパルトヘイト体制がアンゴラに派遣した軍隊をキューバの部隊が打ち破ったキート・クアナバールの戦闘が、アンゴラの勝利とナミビアの独立にとっての決定的な要素であったことを強調した後で、同時にそれは「白人抑圧者の不敗の神話を打ち砕く」ものであり、「南アフリカの内部でたたかう人びとを鼓舞した。あそこで人種差別の軍隊が敗北したからこそ、われわれは、今日、こうしてここにいるのだ」。キューバ兵のアンゴラ派兵に関しては 先に述べたように、私には総合的に分析したい問題が残っている。しかし、マンデラからすれば、それは、南アフリカ民衆がアパルトヘイト体制から解放される道を、速度を速めて用意したのである。

パレスチナ解放闘争に寄せた支援も含めて、マンデラの思想と実践には、このように、日欧米諸国の首脳には本質的に受け入れがたい性格のものが確固として貫いている。それを明確に押し出し、彼らによる囲い込みからマンデラを救い出すこと。それが、ここでの第一義的な課題となる。

2、真実究明・赦し・和解

20世紀に現実に存在した社会主義体制(あるいは、社会主義を自称しないとしても、第三世界のいずれかの国がいわゆる民族解放なり独裁体制打倒を成し遂げた後の体制)下で生じて、私の関心を惹く問題のひとつは、それが旧体制の指導部をいかに処遇したかということである。とりわけ、民衆および反体制活動家に対する弾圧を指示・命令した大統領や首相、弾圧の先頭に立った軍隊と警察の治安部隊員に対して。

作家・埴谷雄高は、政治の本質を考察した文章で次のように述べている。

これまでの政治の意志もまた最も単純で簡明な悪しき箴言として示すことができるのであって、その内容は、これまでの数十年のあいだつねに同じであった。

やつは敵である。敵を殺せ。

いかなる指導者もそれ以上卓抜なことは言い得なかった。

「政治のなかの死」(『中央公論』1958年11月号)

私は、1969年に始まり70年代じゅう続いた、いわゆる新左翼党派間の陰惨きわまりない「内ゲバ」の実態をメディア報道で見たり、当該党派の機関紙でその「赫々たる戦果」が高揚した調子の文章(それは、革命軍の「軍報」と呼ばれていた)で書かれていたりするのを読んで、胸も潰れる思いを抱えていた。私は、それらの党派の発想や行動に共感を覚える立場にはなかったが、それにしても、「社会革命」の初心から始まったはずの活動がそんな地点へ行き着いていることへの絶望感は感じていた。

だが、同じころ、たとえば、ボリビアの小さな村の農民、オノラト・ロハスの死の報を知って、「それは当然だろう」という思いを私が抱いていたことを隠すつもりはない。1967年、オノラト・ロハスは、自分が住む村の周辺に見かける「怪しい人間たち」の存在を政府軍に通報した。それは、チェ・ゲバラ指揮下のゲリラ隊員であった。これをきっかけにボリビア政府軍はゲリラ隊への包囲網を狭め、次第に彼らを「敗北」へと追い込んでいった。のちに、残存していたゲリラ隊員たちがオノラト・ロハスに対する報復的な処刑作戦を実行した報に接して、当時の若い私は上記の感想を抱いたのである。

だが、考えてみれば、オノラト・ロハスは、ひとりの貧しい農民であった。遠く離れた国に住む私が、その生活の実態も知らずに、イデオロギー的な立場から「やられたら、やりかえせ」とばかりに断罪できるようなことがらではなかった。私がこのような陥穽から抜け出るきっかけとなった理由はいくつかあるが、わけても、1979年以降、革命のニカラグアから届いたひとつのニュースは印象的だった。政権に就いたサンディニスタが、旧独裁政権時代の弾圧や拷問の実行者たちを前に、死刑を廃止するという宣言を行なったというのだ。古参のゲリラ兵で、革命後は内相の座にあったトマス・ボルヘの言葉によって説明してみる。「戦いが終わって、私を拷問した者が捕えられたとき、私は彼らに言った。君らに対する私の最大の復讐は、君らに復讐しないこと、拷問も殺しもしないことだ。私たちは死刑を廃止した。革命的であるということは、真に人間的であるということだ。キリスト教は死刑を認めるが、革命は認めない」。ニカラグアではさらに、もっとも長い刑期は30年、受刑者によっては塀も鉄格子もない解放農園に「収容」される者もいるという行刑制度の改革が行なわれたのである。

私は、旧体制の指導者と内部の反対派の粛清の物語に満ち溢れたソ連および中国型の社会主義に対する、深い疑問と批判を抱いてきた。それだけに、1974年、ソモサ独裁体制下での訪問以来深い関心を持ち続けてきたニカラグアにおける革命が、このような新しい次元を切り拓いていることに感銘を受けた。

それから20年後、アパルトヘイト体制を廃絶して新しい社会への歩みを開始した南アフリカからも、瞠目すべきニュースが届いた。民主化後、同国では「真実和解委員会」が結成された。目的は、アパルトヘイト時代の「重大な人権侵害」に関して、これを裁判で「裁く」ことではなかった。加害者・被害者双方の証言を基に事実を解明すること、それを公に承認して記録すること、犠牲者に補償を行なうこと――これを通して、長いあいだ続いた人種差別主義の歴史に終止符を打ち、もって全社会的な和解を実現すること。これである。注目すべきことには、免責規定もあった。加害者が出頭して、自らが犯した犯罪と、組織的な背景を告白するならば、刑事責任を免れることができるというのである。

真実和解委員会の構想が初めて生まれたのは、白人政府によって長いこと非合法化されてきたアフリカ民族会議(ANC)が合法化され、白人政府との間で新たな政治体制に向けての交渉を行なう準備過程においてだった。ANCは、公の組織として登場できるようになった段階において、自らが反アパルトヘイト闘争を展開するために国外に維持してきた軍事キャンプにおいて拷問や虐待が行なわれていたという告発にさらされた。マンデラを引き継いで、のちに大統領に就任するターボ・ムベキの証言によれば、ANC内部には、もちろん、「(アパルトヘイト体制の中枢にいた)極悪非道な奴らを一刻も早く捕まえて死刑にしろ」との声が渦巻いていた。だが「もしそのようなことを行なったなら、平和で民主的な社会へと生まれ変わろうとすることなど到底出来ないことにわれわれは気がついたのだ。もしアパルトヘイト体制の責任者たちをニュールンベルグ裁判の形で裁くようなことをしていたら、我々は平和的な国家へと移り変わる経験をすることは出来なかっただろう」。

この変化には、ANCが内部調査委員会を設立して、まずは自組織内部で起きた人権侵害事件の調査を被害者からの聞き取りを通して行なったことが大きな役割を果たしたと思われる。証言者たちが望んだのは復讐ではなかった。むしろ、真実を明かし、犠牲となった愛する者の思い出が傷つけられたり忘れ去られたりすることがないこと、悲惨な出来事が二度と起こらないこと――これであった。軍事独裁政権が長く続き、その下での深刻な人権侵害事件が多発したチリ、アルゼンチン、グアテマラ、エルサルバドルなどでは、すでに真実究明の努力が始まっていた。隠されていた真実には「社会を浄化する力」があることを、南アフリカの人びとは、これらの具体的な例から学んだ。

真実和解委員会における被害者の、とりわけ女性たちの証言には、内容的には深刻だが、ひろく人間社会全体に通じる、無視しがたいものが孕まれている。「女性が自らの状況を語るというよりは、夫、父、兄弟や息子などの家族や友人に起こった出来事を語ることが多く、社会全体がジェンダー規範により女性を第二次的存在としてとらえていたことを示している」「家父長制のもとで男性が公的領域の活動、つまり政治活動をし、女性は私的領域である家庭で責任を負い、男性を支え、自らを主張しないという〈沈黙の文化〉が内在化している」「反アパルトヘイト運動を担った男性指導者からも性暴力を受けていた実態が明らかになった」(楠瀬佳子)。これらは痛切な思いを引き起こす証言だが、ここまで踏み込んだ、内在的な証言が生まれたことによって、南アフリカにおける「真実和解」の道は地に足のついたものになり得たのだと言える。

ここには、人間の社会が無縁のままでいるわけにはいかない「罪と罰」という問題をめぐって、従来のように加害者を「裁く」のではなく、被害者の傷を「修復」することに重きを置いた、真剣な取り組みが見られる。試行錯誤には違いない。だが、これが果てしのない「復讐」と「報復」の連鎖を断ち切る、一つの方法であることは否定できない。

本稿の冒頭で、私は日欧米各国の政治指導者たちが口にしたマンデラ追悼の美辞麗句の〈白々しさ〉に触れたが、この文脈においてみると、事態ははっきりする。被害者が寛大にも「裁き」を求めず「免責」の手を差し伸べている一方、アパルトヘイト時代の加害者がそれをよいことに、自らの罪を「自白」せず、「赦し」も乞わず――すなわち、「修復」のための努力をいっさいすることもなく、マンデラの「聖人化」に励むばかりであったというのが、あの言葉の本質であったのだ。これは、真実和解委員会が調査の対象を、もっぱら南アフリカ国内で行なわれた人種差別的な犯罪行為に限定したことからも、きているように思われる。「アパルトヘイトが植民地主義の極端な形態であり、その歴史的起源がはるか以前にあるにもかかわらず、委員会は、広く植民地主義のもとでの暴力や不正義を扱うことはしなかった。今日の南アフリカ国家は、イギリスの植民地支配の歴史を根本から問うことにつながる調査を避けたのである」(永原陽子)。後者の課題を追求するためには「国際法廷」的なものが当然にも必要となり、おのずと、真実和解委員会とは性格を異にした組織を必要としただろう。それがなかったために、アパルトヘイトの犯罪に南アフリカの国境の外から加担した「先進諸国」の首脳たちは、自らを問うことなく、安心して「穏健主義者」マンデラへ賛辞を浴びせたのである。

国内での「和解」を優先課題に据えて始まった、新しい社会の建設過程においては、問題の本質からして、それは一国では担いきれない課題であったのだろう。この課題は、その後、国際的な場において取り上げられることになる。2001年8月~9月、他ならぬ南アフリカのダーバンで開かれた「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」において、である。私はここに、南アフリカの真実和解委員会の経験に学びながら、植民地支配・奴隷制度・人種差別主義などの諸問題を、避けることのできない人類普遍のそれとして設定しようとする、国境を超えた努力の成果を見る。私たちは、歴史の鼓動をここに確かに聞き取っているのである。この課題は、何よりも当事国(民族)間同士での「対話→真実追求→謝罪→赦し→和解」の過程をたどらなければならないが、それを側面から援助する国際的な普遍的原理の確立が求められるのだろう。

南アフリカに戻るなら、重要なことは、この問題の追究の過程において、ネルソン・マンデラがひとり屹立して主導しているわけではない、ということである。むしろ、ANC指導者としての彼は、デズモンド・ツツ大主教から、一般市民の死傷者が生じたANCによる南アフリカ空軍本部爆破事件の現場で公式に償いをするよう求められもしている。「真実和解」のこの過程は、多くの人びとと組織の協働によって担われた。そこに最も注目すべき性格があるように思える。

3、新自由主義への拝跪

本稿では、まず、1960年代初頭におけるネルソン・マンデラたちの闘争が、アフリカ大陸南端部に孤立したものではなく、「アフリカ革命」という、闘争の担い手たちによって当時は共有されていたリアリティに基づいて展開されていたことを見た。次に、アパルトヘイトを廃絶したのちに、多くの疑問や批判も受けながら試みられている「和解」のための努力の意義を、その「限界」も見据えながら確認した。紙数は尽きたが、残るのは、「解放」後の社会・政治・経済過程をいかに見るか、という問題である。私が今回参照できたのは、資料としてはわずかなものでしかないが、ここには当然にも、解放後・革命後の第三世界諸国のいずれにしてもが、決して免れることのできなかった問題が立ちはだかっている。南アフリカは、旧宗主国、多国籍企業、国際金融機関、「先進」諸国によって経済的に包囲されているという現実である。世界有数の投資家、ジョージ・ソロスは2001年のダボス経済フォーラムにおいて「南アフリカは国際資本の手中にある」と語った。人種アパルトヘイトは終わったが、いまや南アフリカは「経済アパルトヘイト」の下におかれていると皮肉って、一向に改善されない経済格差を指摘する声もある。もちろん、これらは、南アフリカ一国が背負うには過重な重荷である。世界の貿易秩序と国際的な経済秩序の対等性、多くは第三世界に存する天然資源の開発をめぐる公正な関係――その確立に向けた協働の努力が実ってこそ、の課題である。多国籍企業や国際金融機関や「先進」諸国の側から、従来の不平等性を「修復」する動きが起こってはじめて、この問題は解決の端緒につく。「修復」という問題は、ここでも重要なものとして浮上してくるのだ。

最後に、マンデラの、既存のありふれた政治家と変わらぬ姿も確認しておこう。1994年、首相就任間もないマンデラは、国連による対南ア武器禁輸が解除された直後に、南ア軍需産業は「もはや秘密の幕に隠れて行動する必要はなくなり、国内外の完全な合法性を得るだろう」と語った。国有兵器公社アームスコールが「平和と安全に貢献する武器輸出」を保証する自主技術を開発したことを称賛した(「赤旗」1995年1月7日付)。7万人の雇用を生み出す、同国最大の機械輸出産業である南アの軍需生産を簡単に縮小できるものでないことは、誰にでもわかる。だが、マンデラのこの「現実主義」的な側面が、日欧米諸国の首脳にとっては安心できる場所であるという「構造」は、同時に見据えておく必要があるだろう。その意味でも、マンデラを彼らの空虚な賛辞の網から解き放ち、現代世界が直面する困難な課題を共に考え、その解決を模索する場所へと招き入れる必要があるのだ。

【付記】本稿で引用しているマンデラの言葉は、野間寛二郎『差別と叛逆の原点――アパルトヘイトの国』(理論社、1969年)と、1991年キューバ訪問時の演説内容を伝える複数のインターネットサイトなどに拠っている。ニカラグアについては、現地を取材した野々山真輝帆「サンディニスタ――革命と殉教のはざまで」(『世界』1986年6月号)、「ニカラグア――二つの到達点から見た現実」(『朝日ジャーナル』1987年4月10日~同17日)に拠っている。他にも、峯陽一『南アフリカ――「虹の国」への歩み』(岩波新書、1996年)、楠瀬佳子「女たちの声をどのように記憶し、記録するか――真実和解委員会と女たちの証言」(宮本+松田編『現代アフリカの社会変動』、人文書院、2002年、所収)、アレックス・ボレイン『国家の仮面がはがされるとき――南アフリカ「真実和解委員会」の記録』(第三書館、2008年)、阿部利洋『真実委員会という選択――紛争後社会mの再生のために』(岩波書店、2008年)、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青木書店、2009年)、アンキー・クロッホ『カントリー・オブ・マイ・スカル――南アフリカ真実和解委員会〈虹の国〉の苦悩』(現代企画室、2010年)などを参照し、一部を引用した。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[46]アメリカ大陸の一角から発せられた「平和地帯宣言」


『反天皇制運動カーニバル』第11号(通巻354号、2014年2月4日発行)掲載

1月29日、アメリカ大陸の一角から「平和地帯宣言」が発せられた。武力の不行使と紛争の平和的解決の原則を明記した諸国間文書が採択されたのである。

この発表は、キューバの首都ハバナで開催されていた「ラテンアメリカ・カリブ海諸国共同体(CELAC)」の第二回首脳会議においてなされた。CELACは、同地域のすべての独立国33ヵ国で構成される地域機構である。2010年2月に創設されたばかりで、域内総人口はおよそ六億人になる。この地域には、伝統的に、1951年に創設された米州機構(OAS)が存在している。米ソ冷戦下に成立しただけに、事実上は、米国の圧倒的な影響力が及ぶ「反共同盟」的な性格を有し、したがって1962年には、革命後3年目を迎えたキューバを除名した。キューバを域内で徹底的に孤立させ、経済的に締め上げる機構として、米国はこれを十二分に利用してきた。

しかし、多くは軍事独裁政権下にあって、大国主導の新自由主義経済政策という「悪夢」を世界に先駆けて経験せざるを得なかったこの地域の諸国は、20世紀末以降、次第に「民主化」の過程をたどり始めた。そこで成立した各国の政権は、かつてなら稀に存在した根本的な社会改革を志す政権ではない場合であっても、その社会的・政治的任務にまっとうに取り組もうとする限りは、新自由主義経済政策が残した傷口を癒し、ヨリ公正な経済的秩序を作り上げる努力をすることとなった。そのことは、もちろん、米国が変わることなく強要する新自由主義路線に反対し、それとは異なる原理に基づいた自主・自立的な政策を採用することを意味する。米国からの「離反」は次第に拡大し、ついには4年前に、米州機構とは逆に、同じ大陸に位置する米国とカナダを除外し、キューバが加盟するCELACが成立したのである。

国家間紛争の平和的な解決・対等な国際秩序の構築など、大まかに一致している共通目標はあるが、各国間で政体は異なる。端的に言えば、左派政権もあれば、右派もいる。そのような地域機構が、創設後四年目にして、政府・経済・社会体制の違いを越えて、他の諸国との間で友好と協力の関係を促進する立場を宣言したのである。「平和地帯宣言」はテーマ別文書のひとつだが、もちろん、全体的な最終文書「ハバナ宣言」も採択された。そこでは、途上国に一方的に不利な条件を課すことのない国際経済体制を作り上げること、この地域に多い天然資源を国有化したり、自国産業を保護する政策を採用したりすると、そこへの介入を企図する多国籍企業から訴訟を起こされる例が増えていることから、外国企業を一概に排斥するわけではないが、進出先の国の政策と法制を理解して責任ある態度を取ること、各国の主権を尊重して受け入れ先の国民の生活向上に資するよう心がけることなど、外部から関係してくる経済大国と企業の責任を問う条項もある。

域内協力の課題としては、持続可能な開発によって貧困と飢餓を一掃する経済政策の推進、CELAC加盟国間での「相互補完・連帯・協働」関係の強化などが謳われている。一時期、新自由主義経済政策に席捲された後遺症なのだろう、いまだ非正規雇用が目立つことから「正規雇用の恒常的な創出」の必要性が強調されていることも印象的だ。いったん発動され定着した不当な政策を矯正するのは、こんなにも時間がかかることなのだ。

仮に歴史を40年でも遡ると、この地域の33ヵ国間で、このような合意文書が採択されることはおろか、会議そのものが開かれることすら不可能だった。キューバの存在を軸に、対立と抗争に明け暮れていたからだ。事態の変化の鍵は、各国が超大国=米国への依存度を減らしたこと、代わって対等な域内協力関係を強化したこと、それによって米国の存在感が希薄になったことが挙げられよう。約めて言えば、米国の軍事的プレゼンスがなくなれば地域は平和になり、多国籍企業の活動が規制されれば(現状では、まだ不十分なのだが)経済は安定化へと向かう――という方向性を見出すことができよう。

この宣言が発表された同じ日、国連安保理では「戦争、その教訓と永続する平和の探求」と題した討論が行なわれていた。中国と韓国の代表が「戦争についての審判を覆し、戦犯を擁護する」日本政府のあり方を厳しく非難した。東アジア情勢の異様さと、その主要な責任はどの国が背負うべきかは、国際的に明らかになっていると言えよう。(2月Ⅰ日記)

社会全体に浸透した排外主義的風潮の中で


『支援連ニュース』(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議、第365号、2014年1月25日発行)掲載

虚しさに耐えながら、いわゆる右翼の言論誌を熱心に読み、そこで展開されている議論に対する批判を書き続けていたのは、1990年代だったか。文藝春秋の、いまはなき『諸君!』と産経新聞社の『正論』に掲載されている文章を相手にして、である。その後、社会総体が「右傾化」を確実に深めるにつれて、この手の雑誌は増え続けた。いま、駅前の小さな書店でさえ、雑誌コーナーにはそんな雑誌が小山をなしている。

私がこの種の雑誌の立ち読みを始めたのは1980年代前半だった。私は学生時代に、竹内好や村上一郎や橋川文三などの著書を導きにして、日本の右翼思想に触れていた。そこでは、私には同意もできず共感をおぼえることもできないことが、さまざまに展開されていたが、にもかかわらず、それを思想書として冷静に読むことは可能だった。ここを潜らなければ、近代日本が抱えた暗闇を理解することはできない、などと考えながら。

戦後も40年近くを経た段階で右派雑誌に現われた言論は、それと好対照をなしていた。

ただひたすらに、罵倒と罵詈雑言だけがそこにはあった。誰に対して? 国内の左翼に対して、そして、近隣のアジア諸国に対しての――歴史意識も、論理も、倫理も持たずに、「仮想敵」に対する悪罵に満ちた議論が商業雑誌上で大手をふってまかり通っていることに、私は「異様な」なものを感じたのである。日本国内の「進歩的知識人」や左翼に対してなら、どんなに汚い言葉で批判しても、まだしも、よい。だが、「外」に向かっての、この悪意の深さはなんなのか? 底知れぬ憎悪と悪意の根拠はなんなのか? 見過ごして、いいものだろうか? 学生時代に私が読んだ右翼の思想書には、「日本文化・歴史中心主義」は確固としてあったが、他者存在に対する悪罵はなかった。自国文化中心主義は、否応なく「排他性」をもつものだから、その点を批判的に読めばよかった。

1980年代から90年代にかけて現われた事態は違っていた。私は見過ごすべきではないと考えて、立ち読みで済ませることを止めて雑誌を買い求め、彼らが何を言っているかを紹介しながら批判を始めたのが、1990年前後だったのである。だが、市民運動の小さな機関誌に私が書くものなぞ、蟷螂の斧に等しいものだったろう。それから20数年が経って、現在の状況にまで立ち至った。

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現在のこの傾向には、いますぐにも隣国との間に戦火を交えよ、と煽動するかのような見出しが新聞広告に踊る週刊誌も加わる。産経新聞と読売新聞などの新聞メディアも加勢する。そして、体制批判的な言論人をことごとく排除した地点で成り立っているような、テレビの報道番組なる茶番劇が、この一連の情報包囲網を完成させる。そこへ政治的に登場したのが現首相A・Sであり、社会的に登場したのが在特会である。前者の第一次政権が成立したのは2006年だった。後者は2007年に社会的に公然化した。社会の最高の政治権力者である首相に、自分たちの排外主義的な思いを代弁してくれるような思想を持つ人物が就任した。違いは、あからさまにそれを語るか、それともオブラートに包んで語るか、にしかない。この事実は、在特会に大きな安堵感・安心感をもたらすものであり、自分たちが「社会的に認知された」と考えたのではないか。

得意の絶頂にあったA・Sは、わずか一年で政権の座を降りた。降りざるを得なかった。だが、3年間に及んだ民主党政権の不甲斐なさと、それを受けての自民党内部の権力争いに関わる事情から、2012年末、A・Sは首相に返り咲いた。これにふたたび勇気づけられたのか、在特会はその翌年の2013年、それまでは右に触れた右翼雑誌上にだけ留まっていた(インターネット時代を迎えた20世紀末からは、ネット上にも溢れていることは、付け加えておきたい)、外部の「仮想敵」に対する憎悪表現を社会的に「解き放った」。街頭で、民族排外主義のスローガンを公然と叫ぶ、いわゆる「ヘイト・スピーチ」によって、である。首相A・Sは国会答弁でこの在特会のふるまいに眉をひそめてみせたが、近代日本の歴史過程に関わる彼の言動の「本音」を見れば、両者はそれほど違わない位置にあることは、先にも述べたように、誰にでもわかることだろう。

この「空気」は現在行なわれている都知事選挙にも表れている。自民党都連がこの選挙において、元厚生労働相M・Yの支援を決めると、「自衛隊元航空幕僚長T・Tこそが現首相A・Sの立場に近いではないか」と主張し、支援先の変更を求める抗議のメールが多数寄せられているというニュースである。(もっとも、「T・T=A・S」という等式は、国際的には知られてはまずい「特定秘密」かもしれぬ。)

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これらすべてのことは、ひとしく物語っている――ひと握りの、愚かな保守政治家だけが諸悪の根源なのではない。社会全体が、何かの感情に駆り立てられるようにして、生き急いでいる。そのような時代が始まっているのである。そのとき「国民」内部の団結を求めるならば、その拠りどころが偏狭な民族主義になることは目に見えている。他者(他国)にひたすら悪罵を投げつけること、国内にありながらそれに付和雷同しない者がいるならそれを炙り出し、抑圧すること、これである。

繰り返し確認しなければならない。30年前、税金によって生活が保障されている国立大学教授も含めた極右の者たちが、目を疑うような悪煽動の排外主義的文章を『諸君!』誌などに発表し始めたとき、それは奇矯に見えないことはなかった。あくまで少数の復古主義者たちの心を捉えるに留まるであろう、あまりに愚かしい議論にしか思えなかった、という私自身の当時の印象も書いておこう。それは、いつしか、保守政権党内部に浸食し、リベラル派を根絶やしにしてしまった。そして、いまや、社会的にも浸透し、この社会の「雰囲気」を大きくつくり変えてしまった。この現象を、私は昨年来「〈外圧〉に抗することに〈快感〉をおぼえる」雰囲気と呼んでいる。「外部」からの批判があればあるほど、それを利用して、ナショナリズムが沸騰するのである。

2014年初春――私たちが直面している現実は、このようなものである。相手が盤石なわけではない。あまりに「極右」の道をゆくA・Sを警戒する動きが、都知事選挙などを通して、保守政治・経済の世界でも蠢いている感じがする。最近、天皇・皇后が憲法に関わる発言を何度か行なっているが、その中身を読み取ると、A・S路線への警戒心が透けて見える感じもする。「外圧」は近隣諸国のみならず、首相が頼みの綱とする、大洋の彼方の超大国からも押し寄せている。

そして最後に。以下は、この間の私の持論だが、現在の「敗北状況」をもたらした責任の、小さくない一端は、広い意味での「進歩派」と「左翼」の理論と実践の在り方にある。

それが何であり、いかに克服するかをここで述べるには、紙数が尽きた。すでに機会あるたびに触れており、今後もそのための試行錯誤を続けたい。(1月23日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[45] 対立を煽る外交と、「インド太平洋友好協力条約」構想


『反天皇制運動カーニバル』10号(通巻353号、2014年1月14日発行)掲載

首相の靖国神社参拝に「失望した」との考えを表明した在日米国大使館に対して、「米国は何様のつもりだ」という抗議のメールが多数寄せられているというラジオ・ニュースを年明けになってから耳にした。いわゆる振り込め詐欺をテーマに『俺俺』という秀作を書いた作家の星野智幸は、2、30年ぶりに旧友たちと会うと、声、性格、たたずまいなどにおいてお互い「変わらないなあ」という過去との繋がりが見えてくるのに、話題が韓国や中国のことに及ぶと一変し、相手国へのあからさまな嫌悪と侮蔑の感情を示しては国防の重要性を説く人が少なからずいることに打ちのめされた、と書いた(2013年12月25日付朝日新聞)。昔は政治に何の関心も示さず、ナショナリスト的な傾向の片鱗すら持たなかった人に限って、と。

私は昨年の当欄で、日本の現状を指して『「外圧」に抗することの「快感」を生き始めている社会』と書いたが、上の二つのエピソードは、確かに、そんな「気分」がすっかり社会に浸透してしまったことを示しているようだ。この「気分」の頂点にいるのは、もちろん、現首相であり、政権党幹部たちである。靖国参拝を行なって内外からの厳しい批判にさらされている当人は、年明けのテレビ番組で「誰かが批判するから(参拝を)しないということ自体が間違っている」と語っている。かつてなら(第一次内閣の時には)、安倍自身が、「大東亜戦争の真実や戦没者の顕彰」を活動方針に掲げる「日本会議」(1997年設立)や、靖国神社内遊就館内に事務所を置き、天皇や三権(国会、内閣、裁判所)の長の靖国参拝を求めている「英霊にこたえる会」の主張するところにぴったりと寄り添ってふるまうことは避けていた。本音では同じ考えを持つ者同士だが、7年前の安倍には、首相としての立場を表向きだけにせよ弁えるふるまいが、ないではなかったのである。それが、極右派からすれば、安倍に対する不満の根拠であった。

政権党幹事長・石破茂の暴走も停まらない。昨年は、「自衛隊が国防軍になって出動命令に従わない隊員が出た場合には最高刑は死刑」とか「単なる絶叫戦術はテロ行為と変わらない」という本音を言ってしまった。年明けには「(集団的自衛権の行使容認に向けた)解釈改憲は絶対にやる」と公言している(私はテレビ・ニュースを見ないので、事実の抽出は、新聞各紙の記事に基づいて行なっている)。安倍と石破のこの間の言動は、この社会における「民意」の動向を踏まえたうえで行なわれていると思える。

経済的な不安定感、震災や原発事故に伴う喪失感、文明論的にも先行きの見えない不安感――国内で、私たちを取り囲む諸問題はこんなにも深刻だが、このとき「日本人」であることに安心立命の根拠を求めるナショナリズムが、こうしてひたひたと押し寄せている。

昨年12月、東京で開かれた日本・ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議において、中国による防空識別圏の設定に的を絞って「中国包囲網」を形成しようとする日本政府の動きがあった。メディア報道もそれを主眼においてなされた。それは、社会の現状に添った偏狭なナショナリズムに制約された視点であって、重要な点は別にあった。

インドネシアのユドヨノ大統領は、国家間紛争に武力を行使ないことを約束する「インド太平洋友好協力条約」の締結を呼びかけた。どの国にせよ駆け引きと術策に長けた国家指導者の言動をそのまま信じる者ではないが、共同声明には日本が主張した「安全保障上の脅威」や「防空識別圏」の文言は入らず、日本は「孤立」したのである。海洋への中国の軍事的進出にASEAN諸国にも警戒心があるのは事実だが、それを利用して中国と後者の緊張を煽る日本政府の目論みは失敗した。領土・領海問題や地域的覇権をめぐって対立や抗争もあった(あり続けている)東南アジアから、現在の日本政府の方向性と対極的な、平和へのイニシアティブが取られつつあることに注目したい。そこには、世界で唯一冷戦構造が継続しているような東アジア世界への「苛立ち」、とりわけ加害国でありながら、その反省もないままに「ナショナリズム」に凝り固まって、排外主義的傾向を強める日本社会全体への不審感が込められていると捉えるべきであろう。(1月11日記)