現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

追悼・小田原紀雄さん


『救援』第546号(救援連絡センター、2014年10月10日発行)掲載

私が小田原紀雄さんともっともよく付き合ったのは、1980年代から90年代にかけての時期だったろうか。たとえば、1987年、東アジア反日武装戦線のメンバーに最高裁で死刑確定判決が出ることは必至と思われた時機を選んで、ひとりの仲間が抗議のハンガー・ストライキを行なおうとした。街角や公園を使っての行動が厳しく制限されている日本では、訴えを行なう適切な場所を見つけることが、なかなかに難しい。小田原さんが智慧を出したのだろう、外部にはあまり目立たない場所だが、西早稲田のキリスト教団内の敷地を使ってはどうか、ということになった。それがきっかけになってのことだったか、それまでは千駄ヶ谷、代々木上原、代々木八幡などの公共施設の会議室を取っては行なっていた、私が参加していたさまざまな運動体の会議は、ほとんどが教団施設を使うようになった。小田原さんがメンバーのひとりとして担っていたキリスト教団社会問題委員会の計らいである。

時代状況はその後すぐ、天皇代替わり、PKO(国連平和維持作戦)法案、それに基づいた自衛隊の海外派兵などへの抗議・反対の連続行動の時期へと移っていく。いくつもの課題に関わっていると、夜になると週に何度も教団通いをするという破目に陥っていた。私(たち)はキリスト者でもないのに、である。小田原さんともひっきりなしに会っていたのは、その頃からである。1993年からは、さらにもう一つの要件が加わった。首都圏に住むアイヌの人びとが、自分たちが自由気ままに集い、使うことのできるたまり場をつくりたいが、それには料理店がよいと思うので、それを設立するのを手伝ってくれないか、と私が依頼された。数年前から、先住民族としてのアイヌの権利を確立するためのいくつかの動きを私たちは展開していた。その枠を軸に、周辺で同じ問題意識を持つと思われる人たちに声をかけて、「アイヌ料理店をつくる会」を創設したのだが、そこでも協働することになった小田原さんの発案で、煩雑な事務作業をこなさなければならない事務局を教団においた。短期日の間に全国各地からカンパが素早く寄せられ、設立準備期間は一年足らずで終えたが、領収書発送などの事務作業は大変だったと思う。

そのアイヌ料理店「レラ・チセ」は、1994年5月に、キリスト教団の建物から近くの地下鉄駅に向かう途中の場所で開店した。すぐにお客がつくのは難しいかもしれないから、せめて諸々の市民運動団体がひっきりなしに会議で使う教団近くに立地を求め、会議から流れた客を迎えよう、つまりは自分たち自身が客になろうという考えだった。敗戦50年に当たる翌年1995年に向けての活動も始まったから、その当時は、週の過半の夜を小田原さんともどもそこで過ごした。「レラ・チセ」の運営は、お店で働くアイヌの人びとに私たち和人(シャモ)も加わって、行なった。仕入れ、献立、料金体系、スタッフの勤務時間割、待遇、全体的な収支をはじめ、複雑な人間関係などもすべて、その運営会議で討論した。私はいちおう代表者のようにふるまわなければならなかったので、難しい局面になると、小田原さんの低い声での発言に助けられた。

このような社会運動での現場とは別に、小田原さん独自の世界をもっている人でもあった。近隣の中高年の女性と日本古典の読書会をしているということを、楽しげに話す場面に何度か居合わせた。古典の読み方をめぐっての爆笑物のエピソードもあったように思うが、その中身は忘れてしまった。講師をしている塾の子どもたちに同行するサマー・キャンプの様子も楽しげに、よく語っていた。そんな異質な世界から得られたに違いないエネルギーを、小田原さんは社会運動に返していたのかもしれない。加えて言うなら、小田原さんが話す「キリスト業界」の内輪話も、その世界には無縁な私には面白かった。

21世紀に入って以降、活動する場が違い過ぎて、小田原さんと顔を合わせることはほとんどなくなった。2001年「9・11」以後は、私が行なう発言への「違和感」を他人を介して伝えてくるようになった。「9・11」の実行行為者たちが追い込まれていた、切羽詰った状況を客観的に理解できたとしても、「解放」の理念を逸脱しているその行為は肯定できないとした私に対して、小田原さんは、「帝国」内に生きる自分たちに、追い込まれた第三世界の人間の行為を批判できるものか、との思いを秘めているものらしかった。私にとっては、東アジア反日武装戦線の三菱重工ビル爆破の「過ち」を、行為者たちと共に克服していく作業の途上で必然的に行き着いた道だったが、小田原さんが感じたらしい、私への「違和感」をめぐって討論する機会は、彼の早すぎる死によって、永遠に断ち切られてしまった。

かくなるうえは、小田原さんとの〈想像上の〉対話を続けていくしか、ない――2014年8月23日、小田原さんの訃報を、「信原孝子さんを偲ぶ会」を終えた直後に聴いて、私は、そう、こころに誓った。

(9月25日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[54]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その2)


『反天皇制運動カーニバル』第19号(通巻362号、2014年10月7日発行)掲載

「本来なら躓いているはず」の首相A・Sらが、まるで論理的な傷を負っていないかのようにふるまうのは、素知らぬ顔で論議の次元をズラしているからである。そのズラしは、意図的に行なわれている。なにしろ、彼は「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」(2013年4月23日参議院予算委員会)と公言するような人物である。アジア太平洋戦争が日本のアジア侵略から始まったという、隠しようもない本質をごまかし、戦争から「加害・被害」の性格を消し去ること。彼の本意はそこにこそある。うぉっーという怒りの声が、国の内外から挙がっても当然な、恥知らずな言動である。恬として恥じずにそれを繰り返す人物が生き延びているのは、「内」からの批判・抗議・抵抗の声が小さいがゆえに、である。彼はこの国内的な状況を利用して、戦時下のもろもろの問題について述べるときにも、戦争をめぐるこの大枠の捉え方を壊すことなく、展開する。

この立場を「慰安婦」問題に応用するときにはどうするか。植民地の女性を「慰安婦」として働かせるにあたっての「強制性」をめぐる論議に、意味をなさない「狭義・広義」という分断線を持ち込むことである。首相A・Sは、第一次政権時に次のように語っている。「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」(2007年3月5日参議院予算委員会)。問題の核心はすでに、「長期に、かつ広範な地域に設置された慰安所は、当時の軍当局の要請によって設営され、その設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与」(1993年の「河野談話」から要約抜粋)したことの「強制性」にこそ置かれていた。問われれば、彼は答えるであろう、「広義の強制性があったことを否定したことは一度もありません」と。だが、それは「侵略を否定したことは一度もありません」との発言と同じく、問われなければ触れることもない、付け足しの物言いでしかない。彼は土俵を常に、自分に有利な場所に勝手に設置するのである。自分の見解が客観性を保つことに、彼は関心を持たない。彼が固執する論点を移動させなければならないからである。不利な場所に自らを置くことになるからである。

党首に返り咲いた5年後にも、次のように語っている。「そもそも、朝日新聞の誤報による、吉田清治という、まぁ詐欺師のような男が作った本がまるで事実かのように、これは日本中に伝わっていった事でこの問題がどんどん大きくなっていきました」(2012年11月30日の日本記者クラブ主催党首討論会)。2012年の段階でなお、この人物は、朝日新聞の「誤報」を頼りに、この問題についての発言をしていた、否、次のように言うべきだろう、この問題について発言するときには、唯一この観点でしか物を言っていない、と。当該の問題に関する研究・調査が、どこまで深化し進展しているかにも、彼は関心を持たないことを、この事実は示している。産経新聞と(最近では)読売新聞を日々の教科書にしている彼からすれば、旧来の図式をなぞるように発言する材料に事欠くことはないからである。

朝日新聞の紙面と、ETV特集「戦争をどう裁くか」で戦時性暴力を取り上げようとした2001年までのNHKの一部番組には、「慰安婦」問題をめぐる動きを、「内」(=加害)と「外」(=被害者側の視点、および世界的な人権意識の深化)の複眼で捉えようとする試みがあった。自国の近代史から侵略の史実を消し去るために「内」に籠ろうとする意識が、そこでは揺さぶられる。1997年に『歴史教科書への疑問』を刊行した「若手議員の会」の主軸メンバーであったA・Sは、まず2001年にNHKに圧力をかけて右の番組を改変させた。その延長上に、権力の前に全面的に屈した13年後の現在のNHKの姿がある。朝日新聞は、このNHK番組へ圧力をかけた政治家の名をA・Sの名入りで他のメディアに先駆けて報じたことでも、彼にとっては「許すべからざる」新聞である。こうして、現在の朝日バッシングの陰には、明らかに首相官邸の姿が見え隠れしている。

来年は日本の敗戦から70年目の節目を迎える。70年を経てもなお、戦時下の「記憶」をめぐるたたかいを、卑小な「敵」を相手に続けなければならないとは、情けなくも徒労感を覚える。人間がつくり上げている社会の論理と倫理、歴史意識とは、古今東西この程度のものが大勢を占めてきたという実感に基づいて、歩み続けるほかはない。(10月4日記)

死刑囚が描いた絵をみたことがありますか


『週刊金曜日』2014年9月19日号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子基金」が運営する死刑囚表現展の試みは、今年10年目を迎えた。現在、日本には130人ほどの死刑確定囚がいる。未決だが、審理のいずれかの段階で死刑判決を受けている人も十数人いる。外部との交通権を大幅に制限され、人間が生きていくうえで不可欠な〈社会性〉を制度的に剥奪されている死刑囚が、その心の奥底にあるものを、文章や絵画を通して表現する機会をつくりたい――それが、この試みを始めた私たちの初心である。

死刑囚が選択する表現は、大きくふたつに分かれる。絵画と、俳句・短歌・詩・フィクション・ノンフィクション・エッセイなどの文章作品である。すぐれた文章作品は本にして刊行できる場合もあるが、絵画作品を一定の期間展示する機会は簡単にはつくれない。それでも、各地の人びとが手づくりの展示会を企画して、それぞれ少なくない反響を呼んできた。日本では、死刑制度の実態も死刑囚の存在も水面下に隠されており、いわんやそれらの人びとによる「表現」に市井の人が接する機会は、簡単には得られない。展示会に訪れる人はどこでも老若男女多様で、アンケート用紙には、その表現に接して感じた驚き・哀しみ・怖れ、罪と罰をめぐる思い、冤罪を訴える作品の迫力……などに関してさまざまな思いが書かれている。死刑制度の存否をめぐってなされる中央官庁の世論調査とは異なる位相で、人びとは落ち着いて、この制度とも死刑囚の表現とも向き合っていることが感じられる。

獄中で絵画を描くには、拘置所ごとに厳しい制限が課せられている。画材を自由に使えるわけではない。用紙の大きさと種類にも制約がある。表現展の試みがなされてきたこの10年間を通して見ると、応募者はこれらの限界をさまざまな工夫を施して突破してきた。コミュニケーションの手段を大きく奪われた獄中者の思いと、外部の私たちからの批評が、〈反発〉も含めて一定の相互作用を及ぼしてきたとの手応えも感じる。外部から運営・選考に当たったり、展示会に足を運んだりする人びとが、一方的な〈観察者〉なのではない。相互に変化する過程なのだ。社会の表層を流れる過剰な情報に私たちが否応なく翻弄されているいま、目に見えぬ地下で模索されている切実な表現に接する機会にしていただきたい。

(9月10日記)

付記:なお、記事では、12人の方々の絵が、残念ながらカラーではありませんが、紹介されています。

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[53]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その1)


『反天皇制運動カーニバル』18号(通巻361号、2014年9月9日発行)掲載

8月5日~6日付けの朝日新聞が、いわゆる「慰安婦」問題に関する32年前の記事に過ちがあったことを認め、これを取り消したことから、右派の政治家、メディア、口舌の煽動家たちが沸き立っている。大仰な「嫌韓・反中」報道で民衆を悪煽動することが習慣化している一部週刊誌編集部が言うように、この種の記事を載せると「売れる」のだから止められない、という時勢の只中での出来事である。

一部の連中から「サヨク」とか「進歩派」と呼ばれる朝日新聞の中にも、きわめて従順な体制派の記者もデスクも編集委員もいるだろう。同じように、〈非〉あるいは〈反〉の志を個人としては持つ人間の中にも、焦りなのか未熟なのか功名心なのか、はたまた素質的に適任者ではないのか、その個人的な思いのままに突っ走り、事実の裏づけに乏しい記事を書いてしまう記者も、稀にはいるのである。それは、どの人間世界にあってもあり得るような、自然の理(ことわり)と言うべきことがらである。

「済州島で慰安婦を強制連行した」ことを自らの体験として語った元山口県労務報国会下関支部動員部長・吉田清治の「証言」を朝日新聞が取り上げたのは、1982年9月2日付け大阪本社版において、であった。この「証言」に関しては、済州新聞の現地記者が追跡調査を行なった結果、それが事実無根であることを1989年8月14日付け同紙で報道し、日本では1992年4月30日付け産経新聞が歴史家・秦郁彦の調査に基づいて、吉田証言=虚偽説を提起した。だが、秦説の説得力がメディア全体に浸透するには時間がかかり、その後もなおしばらくの間は、産経、毎日、読売の各紙とも吉田証言に一定の重要性を認めて報道していたことは、想起しておくべきだろう。朝日新聞は1997年3月31日付けで「慰安婦」問題特集を行なっているが、その段階では、吉田証言を根拠に「慰安婦強制連行」説を主張する言説は、どこにあっても、ほぼ消えている。すでに信憑性を失っていたのである。吉田清治が「慰安婦強制連行」の証言者として初めて登場してから15年の間、確かにその証言はさまざまな波紋を投げかけてきたわけだが、証言の「売り込み」を掛けられたジャーナリストの中には、当初からその信憑性を疑った者もいた。したがって、事実に迫り得るかどうか――82年に「スクープ」をした朝日新聞の記者も含めて、ジャーナリストは例外なく、確かに篩にかけられたのである。

82年の朝日新聞大阪本社版の記事取り消しは、97年のこの段階で行なわれるべきであった。91年には、元「慰安婦」金学順さんが被害者として名乗り出て、日本国家の謝罪と賠償を求めて提訴していた。国内情勢としては戦後史を長く支配した軍事独裁体制から解放されて発言の自由を獲得し、国際的には最大矛盾であった東西冷戦構造が崩壊して個々の国が抱える内部矛盾が顕わになった状況の中で、ようやくにして被害当事者が発言を始めたのだ。それが、何よりも「慰安婦」が制度として存在したことを明かしており、その証言を通して国家犯罪の実態が暴かれようとしていた。

右派メディアと極右政治家はいきり立った。左翼は――と、彼らは言った――91年にソ連が崩壊して社会主義の夢が消えたと思ったら、今度は植民地の元娼婦を持ち出してきて、反日策動を試みている、と。公娼制度が存在した時代状況の中で、彼女たちは商売としてそれに従事しただけだ、金を稼いだではないか、と。植民地下にあったのだから、日本国民である彼女たちを使っただけだ、と。

こうして、「慰安婦」問題に関わる論議は97年段階で、国家責任を「追及」する側も、「防御」にまわる側も、すでにして吉田証言にはまったく依拠することなく、沸騰していたのである。その意味では、朝日新聞の今回の措置はあまりに遅きに失した。しかも、極右政権下で問題の「見直し」が叫ばれている時期であるという意味では、あまりにもまずいタイミングであったと言わなければならない。このことは、だが、次の事実をも物語っている。「慰安婦」問題の本質は、連行の様態それ自体に「強制性」があったか否かではないこと、制度それ自体が孕む問題の根源へと批判的分析の眼を向けるべきこと。これ、である。今は元気溌剌にふるまっている首相A・Sや右派メディアが、本来なら躓いているはずなのは、ここである。【この項、続く】

(9月6日記)

ペルシャ湾岸への掃海艇派遣(1991年)から集団的自衛権容認(2014年)への道


『インパクション』誌196号(2014年8月29日発行)掲載

いわゆる集団的自衛権の行使なるものを閣議決定で容認するという動きが山場を迎えた6月30日夜、私は首相官邸前に立ち尽くしていた。仕事を終えて現場に着いたのは18時過ぎだったが、それから23時近くまでのほぼ5時間、立っていた。暑いさなか迂闊にも飲み水も持たず、空腹と疲れをまぎらす甘味も持っていなかった。だが、渇きも飢えも疲れも感じることもなく、立ち尽くした。私がいた官邸前から、六本木坂へ下る坂の両側の舗道には人があふれ、一時は、双方の人びとが警官隊の壁を越えて合流する寸前にまでいった。それは、原発事故後の2012年6月某日の同じ現場で、膨れ上がった人の勢いが警備の警官隊も警備車両も押し出して、両側の歩道と車道全体を抗議する人びとが占拠したあの事態を再現できるか、という寸前までいった。2年前の夜にしても、その後なにか劇的な事態の展開があったわけではない。さらに首相官邸に近づこうとする動きも一部にはあったが、20時を過ぎるとともに「予定の時間がきたので、今夜は解散しましょう」という「主催者」の言葉がマイクを通して響きわたったのだった。主催者がそう言っています、という警備の警察側からの慇懃無礼な呼び掛けの言葉が、それに続いた。解散に不満を持つ者も、身動きもままならない人びとの渦の中で、その大きな流れに身をゆだねるしかなかった。それでも、人びとには、ある目的をもって「広場」を占拠したときにおぼえる「感動」が心身にしっかりと刻み込まれたであろうと、私の個人的な体験に基づいて推定しても、それほど突飛なことではないだろう。その心身の記憶が、いつか「時を捉えた」機会にこそ、役立つのだ。世界史上で見ても、「広場」に集まった万余の群衆が、我/彼の間に通常は広がる実力の差を乗り越えて、歴史の大いなる転換点を画する行動を生み出した例は少なくない。

2年後のその夜、集団的自衛権行使容認策動に反対して集まっていた人の数は、2年前の反原発行動の夜と比較すると、決定的に少なかった。歩道の左右両翼から人びとが合流する寸前に、警官隊が規制に入ると、それを押し返すだけの力はなかった。生活があり、仕事もあるから、人びとは誰もがいつでも、国会前や首相官邸前に詰めかけるわけにもいかない。私とて同じだ。それにしても、迫りくる事態の決定的な節目の日であることを思えば、集まった人の「少なさ」の理由には正面から向き合いたいと思った。現場で幾人もの友人、知人に会った。そのひとりが言った。いま国会前で、ぼくの友人に会ったら、20年ほど前のPKO反対闘争のとき、宣伝カーの上から太田さんがやった演説を思い出すね、と言っていましたよ、と。

私もちょうど、この夜の首相官邸前の人の数の「少なさ」を、1992年の国連平和維持作戦(PKO)法案反対闘争のときの「少なさ」と比較したらどんなものだろうか、と考えていた。22年前の5月から6月にかけて法案審議の最終段階を迎えて、私たちは連日のように、議員面会所に通っては、共産党や(その時はまだ存在していた)社会党の議員から審議の状況報告を聞いていた。議会内抵抗勢力の数も脆弱になってはいたが、反戦・平和を求める外の大衆運動に人びとが大勢集まる時代ではなくなっていた。内では学生運動は壊滅状態になって久しく、戦後の一時期政治闘争にも取り組んだ総評は解体されていた。外では、東欧・ソ連の社会主義圏が次々と体制崩壊に至り、多少なりとも反体制運動の軸となっていた社会主義の理念は、少なくとも客観的には、地に堕ちていた。そこに起こったフセインのイラクによるクェート侵攻から湾岸戦争へと至る過程の中では、世界各国が挙げて「独裁国」への戦争を行っているとき、これに参加すべきであるという「国際貢献論」がこの社会では台頭していた。その結果、前年の1991年に、ペルシャ湾岸の機雷除去を名目として海上自衛隊の掃海艇が派遣されていた。さまざまな理由が重なり合って、民衆運動の活力は目に見えて衰えていた。

6月4日、いつものように国会に向かおうとする、さして大勢でもない私たちは、立ち塞がる機動隊に押しまくられて日比谷公園までの後退を余儀なくされた。三々五々、社会党本部のある社会文化会館に再結集した私たちは、そこで抗議集会を開いた。某氏の発案で、発言を要請された私は、ハッタリに満ちた国会議員の挨拶や、「PKO反対闘争は60年安保闘争を越えた」という労組幹部の発言や、デモの隊列のそこここでいまだに叫ばれている「護憲」や「平和憲法を守れ」というシュプレヒコールへの違和感も顕わに、要旨次のように述べた。――掃海艇の派遣に続けて、さらに自衛隊の海外派兵を公然化するPKO法案によって憲法9条が決壊しようとしているこの時に、護憲派の人びとにせよ、「平和憲法を守れ」などとは口が裂けても言えない私たちにせよ、合わせてもこれほどのまでの少数派になって、ここにいる。ここに至る過程と、今回顕わになっている事態が何を意味するかを考え抜いて、今後の共同闘争の可能性と不可能性を考えたい。

労組や党派の人びとが集っている塊のあたりから、激しいブーイングが起こった、と記憶している。思い返せば、この時点こそが、戦後史が大転換を迎えたときであった。「国際貢献論」なるものは、次のような「論理」を展開した――侵略者フセインの暴挙を前に、国連安保理決議に基づいて多国籍軍が編成され、各国の軍隊が汗を流し血も流して、「悪の権化」たる独裁者と戦っている時に、憲法9条の存在を理由に日本は自衛隊を現地に派遣できなかった。その代わりに、せめて米国の戦費負担を行なって、130億ドルを供出はした。だが、これではまるで、現金自動支払機の役割を果たしたに過ぎず、国際政治の現場からすれば、卑怯者と見做されるような屈辱的な事態である。ソ連なき時代の「国際貢献」の在り方に関して、大胆な発想の展観が必要である。

これは、主として、対米交渉の矢面に立っていた外務官僚の口から発せられたと記憶している。この「湾岸戦争トラウマ」を抱えた外務官僚たちが、今回の集団的自衛権行使容認なる決定を、閣議決定のレベルで行なうという暴挙の背後にいたことは想像に難くない(例えば、7月7日付け『東京新聞』の「こちら特報部」を参照)。彼らからすれば、「戦争ができる国」が「ふつうの国」であり、すでに触れた「1991年/掃海艇をペルシャ湾岸に派遣」「1992年/成立した国際平和協力法に基づいて、陸上自衛隊施設部隊をカンボジアに派兵」を実現した後は、「ふつうの国」になるために、次の「略年表」に見られるような動きを着実に積み重ねてきたのである。(新聞各紙及び『週刊金曜日』6月13日号などを参照)

1999年/周辺事態法成立→戦争を発動した米軍を日本が「後方支援」できるよう法制化。

2001年/テロ特措法成立→インド洋に派遣された海自艦船が、米英などの艦船に洋上給油を行ない、実質的に参戦。

2004年/イラク特措法成立→〈人道復興支援〉の名目の下、イラクに9600人の陸海空自衛隊員を投入。

2005年/「日米同盟:未来のための変革と再編」発表→日米安保条約に基づいて米軍が在日の基地を利用できるのは「極東」における事態に対して、と限定してきた枠を取り払い「世界における課題に効果的に対処する上で」と改編。「極東」が「世界」に拡大したのだ。

2007年/自衛隊法改訂→「専守防衛」路線が実質的に放棄され、自衛隊の性格は根本的に変化した。

2009年/海賊対処法成立→ソマリア沖での「海賊対処のための海上警備」の口実の下で海自護衛艦を同沖に派遣。ソマリアの隣国=ジプチには、戦後初の自衛隊海外基地が建設された。

こうしてみると、集団的自衛権の行使容認に向けた策動を、現政権の特異な性格にのみ帰して理解することは、これまでの経緯と異なることがわかる。米国、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダなど「G7」を日本と共に構成している国々は、例外なく「戦争ができる国」としてふるまってきており、それと同じレベルに並ぶことに価値を見出す者(勢力)たちは、長い時間をかけて、「現在」に向けた努力を積み重ねてきたのである。この経緯の中では、見逃すことのできない重大な変化が、民心内部に起こっている。それは、海外資産が年間予算を凌駕するようになった日々でもあり、米国に倣うように、海外の権益を守るためには軍隊の力に頼るしかないという意識が、人びとの中に浸透したということである。冷戦構造が今なお続いているかのような東アジアの緊張に満ちた政治・軍事状況も、人びとの「国防意識」に火をつけた。自らを省みることのない夜郎自大なナショナリズムに席捲された社会状況になっている以上、これに対する歯止めは利かない。

集団的自衛権行使容認が閣議決定されるという7月1日、その前夜の出来事に学んだ警備当局は、官邸前の坂道の片側の歩道を「立ち入り禁止地域」とした。抗議のために集まった人びとは、総理府を囲む四方の歩道に封じ込められ、「広場」に集まったときの一体感を持てないままに、「個」に孤立化させられた。

どこを見ても、楽観的な展望を語り得る状況ではない。私たちに求められることは、歴史的な経緯の中で事態を捉えることだ。現在の事態の依って来る由縁にたどり着くことがない限り、適切な対処法が見つかるはずもないのだから。(2014年8月3日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[52]政府・財界が一体化して進める軍需産業振興の道


『反天皇制運動カーニバル』17号(通巻360号、2014年8月5日発行)掲載

ふだんはまったく関心をもつこともない『週刊ダイヤモンド』の表紙の大見出しに目を奪われた。6月21日号の「自衛隊と軍事ビジネスの秘密」である。読んでみると、経済合理性の観点から問題を捉える記事が多く、時勢に対する批判的な分析がなされているわけではない。それだけに、現状分析としては手堅いのかもしれぬ。この数年をふり返って見ても、『週刊エコノミスト』や『週刊東洋経済』が時折見せる、力のこもった特集記事は、マスメディアがほとんど触れなくなった、この社会の深部で密かに進行する事態を調査報道していて、大いに参考になる。こころして注目したいと思う。

『ダイヤモンド』誌に触発されて、この間の顕著な動きを整理しておきたい。現政権は4月1日、武器の輸出を原則禁止してきた「武器輸出三原則」を廃止し、それを原則解禁する「防衛整備移転三原則」なるものを決定した。6月10日、産業競争力会議に出席した財務相・麻生太郎は、某ベンチャー企業の技術が軍事技術に繋がることを理由に東大が協力しなかったために、同企業がグーグルに買収された事例に触れて、「このような問題が今回改革されるとのことで、期待している」と語ると、6月19日には防衛省が「防衛生産・技術基盤戦略」(新戦略)を決定し、国内軍需産業の強化・支援方針を打ち出した。これまでの武器の「国産化方針」に代えて国際共同開発と輸出を基本指針とすることで、「乗り遅れ」「米国などに大きく劣後する状況」にあった日本の軍需産業の「維持・強化」が可能になると寿いだのである。

時制は前後するが、5月下旬アジア太平洋地域の各国国防相がシンガポールに集まったシャングリラ会議では、解禁される日本製の高性能武器に対する関心が高まったという。加えて6月中旬にパリで開かれた陸上兵器の国際展示会「ユーロサトリ」には、三菱重工業、川崎重工業、日立製作所、東芝などの日本企業13社が出展した。

首相A・Sは世界各国に次々と外遊しているが、その際には常に、経団連会長を含めた大規模な経済ミッションを引き連れていることにも注目しておきたい。7月のオーストラリア訪問に際して合意に至った「防衛整備品及び技術の移転に関する協定」に見られるように、どの国とも「防衛協力の強化」が謳われている。同行している経済ミッションの主流をなしているのは、いままで自衛隊の装備品の生産を担うことで防衛調達上位20社に入ったことのある軍需メーカーである。その幾社は、政府が進める原発輸出を歓迎している原発メーカーとも重なり合っている。

武器輸出解禁は、政府開発援助(ODA)の領域にまで及ぼうとしている。経団連はODA見直し論を主導しているが、その論理は「民生目的、災害救助等の非軍事目的の支援であれば、軍が関係しているがゆえに一律に排除すべきではない」というものである。そこでは「テロ対策、シーレーン防衛、サイバーセキューリティ」などを「国際公共財」と呼んで、それへの参画を提唱している。それは、まぎれもなく、ODAその他の公的資金の軍用活用をめざすものであろう。『ダイヤモンド』誌が、自衛隊将官の天下り先トップの10社が防衛大手と完全に一致していることを暴露している事実にも注目したい。

「金のなる木」=軍需産業の「魅力」は、兼ね備えた論理と倫理において日本の現首相とは雲泥の差のある、非凡なる政治家のこころも捉えて離さない。1994年、アパルトヘイト廃絶後の南アフリカの大統領に就任して間もないネルソン・マンデラは、国連による対南ア武器禁輸が解除された事実に触れて、南ア軍需産業は「もはや秘密の幕に隠れて行動する必要はなくなり、国内外の完全な合法性を得るだろう」と語った。7万人の雇用を生み出している国有兵器公社アームスコールが、「平和と安全に貢献する武器輸出」を保証する自主技術を開発したことを称賛したのである。マンデラですらが、国を率いる政治家としてはこの陥穽に陥ったことを思えば、人類がたどるべき「武器よさらば」の道が、いかに長く厳しいそれであるか、ということがわかる。それだけに、それぞれの時代を生きる人間に、その時代の諸条件に制約されながらも、「軍需と軍隊」の論理から抜け出る努力が要請されるのである。

(8月2日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[51]「自発的服従」の雰囲気の中で


『反天皇制運動カーニバル』第16号(通巻359号、2014年7月8日発行)掲載

新聞を読むのが怖くて、見たくないものを見るように、そうっと開く。「集団的自衛権の行使容認を閣議決定する」動きに抗議するために人びとが詰めかけた首相官邸前で、久しぶりに会った友が、そう言った。この一年間くらいか、私も同じ気持ちで日々を送ってきたし、親しい友人・知人の口から同じ台詞を聞いていたこともあって、一も二もなく共感した。新聞を丹念に読む習慣と熱意が薄れた。論理なき/倫理なき政治家の言動に、目も潰れる思いがするからだ。社会の基層に、これに対する抵抗力・批判力があるなら、まだしも、よい。それもまた儚いものであることが、メディアの在り方からも、社会の雰囲気からも察知できる。私たちは、そんな奇妙で、不気味な時代を生きている。

1990年代、私は『正論』や『諸君!』の誌面を占領していた右派言論を読んでは、これを批判する課題を自分に課した。右派言論は、ソ連型社会主義の敗北に乗じて、舞い上がっていた。彼らは、人類史がたどってきた歴史過程それ自体の内省的なふり返りを拒絶し、「勝利した」と彼らが豪語する資本主義が生み出している諸矛盾に対しても、目を瞑った。とはいうものの、私は同時に、広い意味で「社会主義的未来に加担してきた者」が、その敗北と向き合い、その克服のために努力しなければ、この困難な状況を突破することはできないことも、確信していた。誌面には、ほら、あいつは棄教して総括もしないまま逃げ去った、こっちの奴は失語症に陥っている、との揶揄が溢れた。元左翼が沈黙する間隙をぬって、自らの国が行なった近隣諸国に対する植民地支配と侵略戦争の史実を微塵も反省しない、かえって、そこに居直り正当化する議論ばかりが展開されていた。

当時その声は確かに大きくなりつつはあったが、まだ社会の片隅だけで語られていた。いまや、多様な変形が凝らされているとはいえ、その声は首相A・Sの声に重なり、各閣僚たちの声にも、政権党員はもとより多数の野党党員の声にも重なる。鶴橋や新大久保の街を震わす声も、その一亜種である。少なくないメディアも、その種の声に占領されている。その点が20年前との決定的な差である。

小泉政権時代に何度も書いたが、論理も倫理も媒介していない議論が横行すると、ひとは疲れる。小泉純一郎はその先駆をなした。それでいて、大衆的な「人気」はあった。多くの人びとがその道を選んだのである。現首相A・Sの場合もそうである。官邸前で会った友や私が罹っている「(新聞やテレビを)見聞きしたくない」病は、その疲れのせいだと思われる。理性は、別な道を歩めと囁くが、そんなものやってられるかという感情が勝る。街にあふれ出て「マルスの歌」を高唱する者たちには、当然にも、目を覆い耳を塞ぎたくなるのだ。

こころに鞭打って、「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」全文と首相の会見要旨を読む。紙面の一頁を覆い尽くしている。突っ込みどころは、あちらこちらにある。すでに多くの人びとがそれぞれに的確な批判をしている。だが、〈対話〉や〈討論〉の意味も知らず、論理も倫理も持たない人間だからこそ、A・Sはあの空虚な言葉を羅列することができた。恬として恥じることもなく。だから、どんな批判も通じることはない。

せめて〈討論〉に持ち込めるなら、A・Sの論理的な破綻はすぐに露呈する。議会がしかるべき野党を欠くことで〈討論〉の機能を失っていることは重大な欠陥だが、今後国会に提出される自衛隊法や周辺事態法などの「改正」案の討議の過程で、あるいは質問時間が極端に制限された記者会見の場で、A・Sの発する言葉がどんな事態を招き得るか――その可能性をあらかじめ放棄することもない。彼は自分のこの「欠如」を自覚しているからこそ、〈討論〉を避けるのだから。

正直な気持ちを言えば、小泉政権の時代もそうだったが、こんな水準の首相を相手に物言うことは虚しい。なぜか、こちらが恥ずかしくなってしまいさえする。だが、いまこの社会を支配するのは、このような大嘘を弄ぶ人間に対して「自発的に服従」(ラ・ボエシ)するかのような社会的な雰囲気である。私たちは、安倍一族批判を行なうことで、社会的に実在するこの雰囲気との〈討論〉を行なっているのである。ならば、それは、もちろん、むだなことではあり得ない。

(7月5日記)

ベトナムをめぐって、過去と現在を往還する旅


映画『石川文洋を旅する』公式パンフレット(大宮映像製作所+東風、2014年6月21日発行)掲載

1965年に米国が北ベトナム爆撃を開始してから、来年2015年で50年目になる。半世紀が経つということである。その65年から、解放勢力が占領米軍をサイゴン(現ホーチミン)をはじめ全ベトナム領土からの撤兵にまで追い込んだ75年までの10年間、私はほぼ20歳代の人生を送っていた。当時の私から見て、世界はベトナムを軸に動いているかのようだった。超大国=米国の巨大な軍事力を相手に、貧しい小国=ベトナムのたたかいぶりは際立っていた。南米ボリビアの山岳部で、反帝国主義のゲリラ戦の展開を図っていたチェ・ゲバラは「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」とのメッセージを発した。米国の侵略とたたかうベトナムは、これを支援すべき中国とソ連の対立で悲劇的に孤立しているが、世界各地の民衆が「ベトナムのように」たたかうならば、敵=帝国主義の力は分散され、われわれの勝利の時が近づくのだ、というのがこのメッセージの趣旨だった。世界各地では、ベトナム反戦闘争が激しくたたかわれていた。米ソの対立によって規定された東西代理戦争の枠組でベトナム戦争を意味づける考え方もあったが、それは、第三世界解放闘争の主体性を無視した暴論だと、私には思えた。私は、不可避的なたたかいのさ中にあるベトナムの民衆が軍事的に勝利することを心から願い、祈っていた。75年4月30日、ベトナムは勝利した。蟻が巨象を前に立ちはだかった事実に、世界じゅうが沸き立った。

それから40年が経とうとしている。残酷な時間の流れの中で、65~75年当時には想像もつかなかったことが、ベトナムをめぐって起こった。また、当時のベトナムのたたかい方をめぐって新たな解釈が現われた。いくつかを任意に挙げてみる。米国に対して「盟友国」としてたたかった隣国カンボジアに、ベトナムは軍事侵攻した。同じく「同盟国」中国と、ベトナムは戦火を交わした。それは、2014年のいまなお、西沙および南沙諸島をめぐる領有権争いとして続いている。65~75年当時のベトナムと米国の政治・軍事指導者たちは、1995年からベトナム戦争をめぐる総括会議を開き、互いの政策路線や軍事戦略を検討し合った。これに参加した、当時の米国国防長官、マクナマラは「ベトナム戦争は誤りだった」と『マクラマナ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』(1997、共同通信社)に記した。単一支配政党であるベトナム労働党大会では、党幹部や政府幹部の汚職や職権乱用をいかに食い止めるかが、もっとも重要な議題となって久しい。

磯田光一という文芸批評家は、ベトナムの解放勢力が米国と妥協点を見出し、米国の「占領政策を通じてベトナムの復興を意図したほうが、勝つにさえ値しない戦争に勝つよりも、はるかに賢明だったのでは」と論じた。300万人に及んだ「あの膨大な死者たち」を背景に置きながら。ベトナム戦争の真っ只中で、日本の「国民的な」作家・司馬遼太郎はここまで書いた――戦争は補給如何がその趨勢を決するが、自前で武器を製造できないベトナムは、他国から際限もなく無料で送られている兵器で戦っている。大国は確かによくないが、この「環境に自分を追いこんでしまったベトナム人自身」こそ「それ以上によくない」として、世界中の人類が「鞭を打たなければどう仕様もない」。北ベトナム軍の兵士としてたたかった経験をもつバオ・ニンは、その後作家となり、『戦争の悲しみ』(1997、めるくまーる。現在は河出書房新社)と題する作品を書いた。そこでは、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が、戦闘時にとったふるまいのなかには、戦争に疲れ慣れきってしまったがゆえに、他者のことを気遣ったり同情したりする余裕もないままに自暴自棄の行動に走る場合もあったことが、実録風に明かされている。

昨年10月、元ベトナム人民軍ボー・グェン・ザップ将軍の死の報に接した。ディエンビエンフーのたたかいの指揮ぶりや『人民の戦争・人民の軍隊――ベトナム解放戦争の戦略・戦術』(1965年、弘文堂新社、現在は中公文庫)という著作で、忘れがたい印象を残す人物だった。1911~2013年の生涯で、102歳という長命だった。この年号を見てふと思いつき、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユの生没年を調べた。1909~1943年であった。ザップとヴェーユは、少なくとも前半生は同時代人だった。早逝したヴェーユは、最後まで社会革命に心を寄せ、その実現を願いながら、恒久的な軍隊・警察・官僚組織が革命の名の下に永続することへの批判と警戒を怠らない人であった。このふたりの生涯と思想を、同一の視野の中に収め、今後の課題を考えることが重要だと思える。

すぐれた「戦場カメラマン」である「石川文洋」を「旅する」とは、ベトナム戦争がたたかわれていた65年から75年にかけての、この狭い時間軸の中に彼を閉じこめてしまっては、できることではない。映画が描いているように、石川はいまもなお、ベトナムへの旅を続けている。「ベトナムから遠く離れている」私たちも、過去と現在を往還するそれぞれの旅を、万感の思いを込めてなお続けなければならない。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[50]日朝合意をめぐって、相変わらず、語られないこと


『反天皇制運動カーニバル』15号(通巻358号、2014年6月10府発行)掲載

5月末、スウェーデンのストックホルムで開かれていた日朝両政府の外務省局長級協議が終わると、メディアは一斉に「焦点だった拉致問題の再調査については合意に至らず」との報道を行なった。加えて、日本側担当者は「相手方は拉致問題についての議論を拒否する姿勢ではなかった」と語り、朝鮮側は「朝鮮総連中央本部問題は必ず解決しなければならない」と強調したことも報道された。目に見える成果が得られなかったらしいことから、拉致被害者家族会メンバーの「落胆ぶり」も伝えられた(以上はいずれも、5月29日付各紙朝刊。テレビ・ニュースは見るに耐え難いので、第二次現政権が成立して以降、ほとんど見ない)。二国間協議である以上は「焦点が拉致問題」であるはずはなく、「国境正常化問題」だと捉えるべきであろうが、そのような姿勢を、政府・外務省、メディア、「世論」なるものに期待することは、今さら、できるものではない。

このような新聞報道がなされた同じ日の夜、帰国した外務省担当者から報告を受けた首相は、急遽、記者団に会い、「拉致再調査で日朝が合意し、その調査開始後に日本側が課してきた制裁を解除する」ことで一致をみた、と語った。首相のイメージ・アップにつなげようとするメディア戦略はありありと窺われるが、「合意」それ自体は好ましいことには違いない。そのうえで、どんな問題が残るかについて考えておきたい。

日朝協議合意事項全文や朝鮮中央通信による報道全文を読むと、今回の合意が、2002年の日朝平壌宣言を前提にしていることは明らかである。その指摘が、新聞報道の中にも、ないではない。たとえば、5月30日付朝日新聞で平岩俊司関西学院大教授が寄せているコメントのように。だが、日本での報道は、ほぼ「拉致一色」状態が、変わることなく続いている。この日、サンプル的に見たテレビ・ニュースのいくつかにも、その傾向が色濃く出ていた。それは、「報道側」が抱える問題点に終わるわけではない。29日の首相発言そのものに孕まれている問題である。「拉致問題の全面解決は最重要課題の一つだ」とする首相は、「全ての拉致被害者の家族が自身の手でお子さんを抱きしめる日がやってくるまで、私たちの使命は終わらない」という、得意の〈情緒的な〉言葉をちりばめながら「拉致」のことを語るのみである。官房長官会見の内容は「要旨」でしか読めなかったが、国交正常化にまで至る日本政府の「覚悟」を語る言葉も、それを質す問いかけも見られない。要するに、この社会には、政策・態度を改めるべきは相手側のみである、という牢固たる考えが貫いているのである。

これは、2002年9月17日、日朝首脳会談が行なわれ、平壌宣言が発せられて以降12年間にわたって日本社会を支配してきた「空気」である。歴史過程を顧みての論理にも倫理にも依拠することなく、いったん、この不気味な「空気」に支配され始めると、社会はテコでも動かなくなる。私は、2003年に刊行した『「拉致」異論』において、拉致問題に関わっての朝鮮国指導部の政治責任にも言及しながら、「相手側に要求することは、自らにも突きつけるべきだ」と主張した。拉致問題の真相究明と謝罪を相手側に求めるのはよいが、その前提には、植民地支配問題に関わる真相究明と謝罪・補償を日本側が積極的に行なわなければならないという課題が、厳として存在しているのだ。その構えが日本側にあれば、この12年間がこれほどまでに「無為」に過ぎることはなかっただろうというのは、私の確信である。ところが、家族会は「拉致問題解決優先」という、非歴史的な、いたずらな強硬路線を主張した。政府もメディアも「世論」も、家族会の方針に〈情緒的に〉反応するという「安易な」態度に終始した。したがって、相手側の「不誠意」や「不実」や「不履行」を言い立てるばかりで、自らを省みることのないままに、歳月は過ぎたのだ。この「空気」に助けられて、辛うじて成立している現政権が、今回の日朝合意から実りある成果を得るためには、自らが何を発言し、何を果たさなければならないかという「覚悟」が要ることは自明のことである。だが、それを指摘する者はごく少数派で、この社会は変わることなく「自己中心音頭」を歌い痴れ、踊り痴れるばかりである。

(6月7日記)

蜂起から20年、転換期を表明したサパティスタ民族解放軍


(一) はじめに

去る5月24日、メキシコは南東部、チアパス州のサパティスタ自治管区のひとつ、ラ・レアリダー村で、ひとつの声明文が発表された。「光と影の間で」と題されたそれは、サパティスタ民族解放軍の名で出されたものだが、末尾の署名は「叛乱副司令官マルコス」となっており、短くはない文中では、ときどき、マルコス自身を指す主語と述語の影がちらついている。基本は「この文書は、(私の)存在それ自体が消えてなくなる前に公に発せられる最後の言葉となるだろう」「サパティスタ民族解放軍の同志たちよ、私のことは心配しないでほしい。これがここでのわれわれの流儀であり、なお歩み、戦い続けるのだ」「この集団的な決定を知らしめる」などの言葉が見られる。反グローバリズムの旗を高く掲げた1994年1月1日の武装蜂起の直後から、その運動に注目し、その理念と行動の在りようから、世界的にいっても死に瀕している社会変革運動再生のための深い示唆を受けてきた私は、自らその分析を行ない、5冊におよぶサパティスタ文書を企画・編集・紹介し、1996年にはサパティスタが全世界に呼び掛けて現地チアパスで開催した「人類のために、新自由主義に反対する宇宙間会議」に出席し、その報告も書いてきた。(末尾の註に列記してある)。

サパティスタ蜂起から20年目の年の5月に発表された今回の文書は、どんな意味をもつのか。私なりの分析を、簡潔にだが、試みてみたい。

(二) 5月24日文書の概要

2014年5月24日文書は、何を語っているのか。それを順次、見ていこう。以下は、全訳ではない。原意から離れぬことを心がけての抄訳である。今後全訳する時間に恵まれるかどうかはわからない。大急ぎでの翻訳なので含意が取りにくいままに残した箇所もあり、試訳の段階とご理解いただきたい。

1、困難な決定――死と破壊を伴う、上からの戦争なら、それは敗者に押しつけられるものとして、われわれは幾世紀にもわたって耐え忍んできた。1994年に始まったのは、下の者が上の者に対して、その世界に対して挑んだ戦争のひとつであった。それは5大陸のどこにあっても、農村でも山岳部でも日々戦われている抵抗の戦争である。われわれは、たたかい始めることによって、近くからも遠方からも、われわれの声に耳を傾け、心を寄せてくれるという特権を授かった。問題は、次は何か、ということである。試行錯誤の果てにわれわれが選んだ道は、ゲリラ戦士、兵士、部隊を形成するのではなく、教育と医療の従事者を育てることであって、こうして、いま世界を驚嘆させている自治の基盤が形成されたのである。兵営を建設したり、武器を改良したり、防壁や塹壕を築いたりするのではなく、学校、病院、医療センターを建設し、われわれの生活条件の改善に取り組んだのだ。そして20年が経った。この間に、EZLN(サパティスタ民族解放軍)の内部で、共同体の内部で、何かが変わった。2012年12月21日、破局が予言されていたその日(註:マヤ暦に基づけば、世界が終末を迎える日かもしれないと騒ぐ「先進国」の人間たちが、メキシコはユカタン半島のマヤ遺跡に群がっていた)に、われわれは銃を一発も発することなく、武器を持たず、ただ沈黙によって、人種差別主義と侮蔑を育む揺り篭であり巣窟である都会の傲慢不遜さに挑んだのである。(註:この日、万余のサパティスタがチアパス州のサンクリストバル・デ・ラスカサス市などに登場して、沈黙の行進を行なった。その模様は、以下を参照→http://www.youtube.com/watch?v=qH8nxafgKdM)

軍隊は平和を担保できないという道を選んだわれわれは間違っている、と考えるひとは少なからずいるかもしれない。選択の理由はいくつかあるが、もっとも重要なことは、このままではわれわれは消え去ってしまうということである。死を崇めることなく、生を育む道を選んだわれわれは間違っているか? だが、われわれは外部の声に耳を傾けることなく、この道を決めた。死にゆく者が他者である限りは、死を賭して戦え、と要求したり主張したりする者たちの声は聴かずに。

われわれは反抗を選んだ、すなわち、生を、だ。

2、失敗?――サパティスタが得たものは何もない、と言う人びとがいる。確かに、司令官の子弟が外国へ旅行に行ったり私立学校に入学したりといった特権を享受してはいない。

副司令官が、どこの政治家たちもやっているような、血縁に基づいて子どもに仕事を継がせるといったこともない。外部からの援助資金の過半を指導部が占有し、基盤を形成している人びとには雀の涙ほどのものしか分け与えない、といったこともない。

そうなのだ、「われわれには何も要らない」というのは、スローガンや歌やポスターにこそふさわしい、格好の言葉に終わったのではなく、現実そのものなのだ。その意味でなら、われわれは勝利するより失敗することを選ぶのだ。

3、変化――20年間の間にはEZLNにあっても変化が起こった。ひとがよく言うのは、世代の交代だ。1994年の蜂起が始まったときには幼かったり、生まれてさえいなかった若者が、いま、たたかいのさなかにいたり、抵抗運動を指導したりしている。だが、それだけではない。

階級の変化――開明的な中産階級から、先住民の農民へ

人種の変化――メスティーソ(混血層)の指導部から、純粋に先住民の指導へ

いっそう重要なことは、思想の変化である。すなわち、革命的な前衛主義から「従いつつ統治する」へ、上からの権力の獲得から下からの権力の創造へ、職業としての政治から日常の政治へ、指導部から民衆へ、性的排除から女性の直接的な参加へ、他者への嘲笑から異なることへの賛美へ、といったように。歴史は民衆によってこそつくられると確信している思慮深い人が、どこにも「専門家」なる存在が見かけられない、民衆による統治が存在していることに直面するとひどく驚くのはなぜか、私には理解できない。統治するのは民衆であり、己の道を定めるのは民衆自身に他ならないという事実に怖れをもつのは、なぜなのか。「従いつつ統治する」と聞いて、あからさまに同意できないと首を横に振るのは、なぜか。個人崇拝は、そのもっとも狂信的な形として、前衛主義の崇拝となって現われる。まさにそれゆえにこそ、先住民が統治し、スポークスパースンかつ首長として先住民が存在しているという事実に、或る者は怖じ気づき、反発し、前衛を、ボスを、指導者を探し求めるのである。左翼の世界にも人種差別は根を下ろしているのだ、とりわけ、革命的であると自称する者の中にこそ。

EZLNはそうではない。誰もがサパティスタになれるものではないのだ。

4、変わりゆく、流行のホログラム

1994年の夜明け前までに、私は10年間を山で過ごした。

叛乱副司令官、同志モイセスの許可の下に、以下のことを言っておこう。良きにせよ悪しきにせよ、武装した軍事力、サパティスタ民族解放軍なくしては、われわれは何事もなし得なかった。それなくしては、悪しき政府に対して正当な暴力を行使して蜂起することもできなかった。上からの暴力に直面した時に、下からの暴力をもって。われわれは戦士であり、その役割を心得ていた。

1994年が明けた最初の月の最初の日、巨大な軍隊、すなわち先住民の叛乱軍が都会へと下りて、世界を揺るがせた。それから数日して、街頭に流されたわれわれの死者の血がまだ乾きもしないうちに、われわれは悟った――外部の人たちはわれわれを見ていないことを。先住民を上から眺めることに慣れきっていて、われわれを見つめてはいないことを。われわれを虐げられた者としてのみ見做して、尊厳ある叛乱の意味を理解できない心の持ち主であることを。その視線は、目出し帽を被ったたったひとりのメスティーソの上に注がれていたのだ。

わが指導者たちは言った。「彼らには、自分の器量に見合った小さなものしか見えない。その器量に合わせた小さな人物をつくりだし、それを通して彼らがわれわれを見つめることができるようにしよう」。そこで、気晴らしのような策を弄したのだ。現代というものの稜堡をなすメディアに挑戦するという先住民の智慧、そのいたずら心が生み出したもの、それが「マルコス」なる人物だったのだ。体制というものは、とりわけメディアは、有名人をつくり出すことが好きだが、それが自らの意図に添わなくなると放り出す。マルコスはスポークスパースンから、いつしか気晴らしの放蕩者に転じていった。

マルコスの目は青かったり、緑であったり、あるいは珈琲色、はちみつ色、黒のときもあった――すべては、インタビューを行ない、写真を撮るのが誰なのか次第だった。マルコスとは、躊躇うことなく言うが、いわば、道化師だったのだ。その間にもわれわれは、ここにいようといるまいと、われわれと共にあるあなたたちを探し続けていた。〈他者〉と出会うために、他の〈同志〉と出会うために、われわれが必要としている、同時にそれに値する〈見つめてくれる目〉と〈傾けてくれる耳〉と出会うために、われわれはさまざまな試みを行なった。それは失敗した。出会ったのは、われわれを指導しようとする人であり、われわれに指導されたいと願う人たちだった。利用主義的に近づいた人もいれば、人類学的な郷愁であれ戦闘的なノスタルジーであれ、過去を振り返るだけの人もいた。ひとによっては、われわれは共産主義者にされたり、トロツキストにされたり、アナキストにも毛沢東主義者にも千年王国主義者にもされたりした。自分の器量に合った「主義者」としてわれわれを名づけるとよい、と放っておいたが。「第6ラカンドン宣言」(註:2005年6月発表。メキシコ先住民運動連帯関西グループのHPで、その一部を読むことができる→

http://homepage2.nifty.com/Zapatista-Kansai/EZLN0506001.htm)まではそうだった。もっとも果敢で、サパティスモの真髄が詰まっているこの宣言によって、われわれは出会った。正面からわれわれを見て、挨拶を交わし、抱擁する人びとと。われわれが、導いてくれる牧者や約束の地に連れて行ってくれる存在を探し求めてなどいないこと、われわれは主人でもなければ奴隷でもないこと、地方ボスでもなければ頭(かしら)なき愚衆でもないこと――を理解するひとがついに現われたのだ。その間、内部にあって、民衆自身の前進には目を見張るものがあった。導きや指導を待望することなく、服従や付き従うなどといったふるまいとは無縁に、われわれと正面から向き合い、耳を傾け、話し合う世代が登場したのだ。

マルコスなる人物は、かくして、無用となった。サパティスタの闘争は、新たな段階を迎えたのだ。統治の変化は、病気や死によるものではない。内部抗争や粛清、追放によるものでもない。EZLNがこれまで蓄積し、同時に現在も経験しつつある内部での変化に応じた、論理に叶ったものなのだ。

私は病気でもなければ、死んでもいない。何度も殺されたり、亡き者にされたりしたが、私は、いまも、ここにいる。モイセス副司令官が「彼の健康状態が許せば」と言ったとしても、それは「人びとが望むなら」とか「アンケート調査の結果がよければ」とか「神のお赦しがあるならば」といった、昨今の政治世界ではよく使われる定番の文句に過ぎない。ひとつ、助言を差し上げよう。精神的な健康のためにも、身体的な健康のためにも、いくらかなりともユーモアのセンスを磨かれてはいかがか。ユーモアのセンスなくして、サパティスモを理解することなど到底できない。

以下のことは、われわれの確信であり、実践のあり方そのものである。叛乱したたかい続けるためには、指導者も地方ボスもメシアも救世主も要らない。たたかうために必要なものは、いささかの恥じらいと、多くの尊厳と組織である。上を見上げては誰かを待望し、指導者を探し求める者は、どうみても、観客に過ぎず、受動的な消費者であるしかないのだ。マルコス副司令官を愛した者も憎んだ者も、いまこそ知ろう、レーザーを使って記録された虚像としての立体画像を愛したり憎んだりしていただけだったことを。マルコスが生まれ育った場所を示す自宅博物館も金属プレートもあり得ない。誰がマルコスであったかを明かす者もいない。その名前と任務を継ぐ者もいない。旅費がすべて負担される講演旅行もあり得ない。豪華なクリニックに移送されることも、そこで治療を受けることもない。個人崇拝を促進し、集団的共有制を蔑ろにするために体制がでっちあげるもの、すなわち、葬儀も栄誉も銅像も博物館も授賞も、そんなものはあり得ないのだ。

この人物は確かにつくり出されたが、それをつくり出した者、すなわち、サパティスタ自身がこれを破壊するのだ。われらが同志たちが示したこの教訓を理解したひとがいるなら、そのひとはサパティスモの原則のひとつを理解したことになる。われわれは何度もこの機会をうかがってきた。ガレアノの死が、その時をもたらしたのだ。

5、痛みと苦しみ、つぶやきと叫び

(註:この章では、本文書が公表されるわずか3週間前の2014年5月2日、サパティスタ自治区ラ・レアリダーで、EZLNに敵対する者たちに殺された、サパティスタ学校の教師、ガレアノことホセ・ルイス・ソリス・ロペスに対する追悼の言葉にあふれている)。モイセス叛乱副司令官が言うには、「われわれはサパティスタ解放軍総司令部として、ガレアノを思い起こすために来たが」、ガレアノが生きるためには、われわれの誰かが死ななければならない。そこで、われわれは、今日を限りにマルコスが存在しなくなることを選んだのだ。彼は戦士の影を帯び、微かな光の中を行かねばならないが、道に迷わぬためには、カブトムシのドン・ドゥリートおよび老アントニオと手を携えていかなければならない。(註:ドン・ドゥリートと老アントニオが何者であるかは、末尾に記した参考文献を参照されたい)

サパティスタ民族解放軍が、私の声を通して語ることは、今後はないだろう。

これで十分だね。健康を、もはや二度と……否いつまでも。理解したひとには、わかるだろう、これは大して重要なことではないことを、いままでもそうだったことを。

サパティスタの「現実」から

叛乱副司令官マルコス

メヒコ、2014年5月24日

(陰の声で)

夜明けの挨拶です、同志たち。私の名はガレアノ、叛乱副司令官ガレアノです。

他にもガレアノはいるかい?(たくさんの声、叫びが上がる)

私が生まれ変わったら、集団的にやろうと言ったのは、そういうことかい。

そうだね。

よい前途を。気をつけて、気をつけよう。

メヒコ南東部の山岳部から

叛乱副司令官ガレアノ

メヒコ、2014年5月

(註:メキシコの「ウニベルサル」紙のサイトで、この時の動画を見ることができる→

http://www.eluniversal.com.mx/estados/2014/impreso/-8220muere-marcos-surge-galeano-8221-94879.html

(三) サパティスタ運動が問いかけるもの

私の記憶では、EZLNがマルコスの声を通じて、外部も含めた世界に語りかけるのは、5年ぶりのことと思われる。5・24文書を読むと、蜂起以後の20年間の経験に依拠して(蜂起以前の準備段階の期間を算入するとどれほどの年数になるのだろうか?)、自らが築き上げてきた自治的な統治のあり方に対する揺るぎない自信(確信)をうかがうことができると同時に、メキシコ政府および内外のマスメディアならびに一部社会運動体との関係が、もはや我慢ができないほどの段階に達していることも示しているようだ。政府やメディアとの関係がそのようなものになるのは、当然にも避けられないことと思われるが、内外の(と書かれてはいないが、サパティスタ運動が持ち得た世界的な影響力の大きさからすれば、明記されている反応は、メキシコ国内の運動体はもとより国外のそれからも寄せられていたと考えるのが妥当と思われる)一部の(であろうが)社会運動体がサパティスタ運動に要求してきたことがらが問わず語りに明らかにされていて、興味深い。その「要求」を要約的にまとめてみる。それは、サパティスタが

1) 軍事路線を放棄していることへの批判。

2) 指導部が持つべき指導性を放棄した「従いつつ統治する」路線への批判。

の2点に絞ることができよう。この種の批判が実際に行なわれてきたのだとすれば、私の観点からすれば、それは驚くべきことだと思える。1994年以降の20年間とは、各国で痩せても枯れても左翼の中軸に位置していた従来の正統派的な共産党が、1991年のソ連邦崩壊を前後に解党に追い込まれるか、大胆なモデル・チェインジを行なおうとしてもうまくいかずに立往生してしまった時期に重なっている。ヨリ左派の立場から既成の共産党やソ連体制を批判することで存在意義を保ってきた「新左翼」諸潮流も、ソ連崩壊のボディブロウが次第に効いてきた段階であって、従来なら何の躊躇いもなく主張してきたのかもしれない己の政治路線に関する見直しなり路線転換を否応なく迫られていた時期と言えるだろう。

1989年から91年にかけて起こった東欧・ソ連社会主義体制の連続的な崩壊現象の渦中にあって私が思ったのは、次のことだった――長きにわたって現実に存在してきた抑圧的な体制が無惨にも崩れ去っていくのは、資本主義を批判する理論的な武器としての、広い意味での社会主義の再生のためには決して悪いことではない。だが、人類社会の夢や理想が孕まれたこの思想の実践的な帰結が、粛清・収容所列島・言論の不自由・民主主義の欠如・経済的非効率性・党=政府=軍部が三位一体化した指導部の特権層としての形成などとなって現われたことで、人類社会にはしばらくの間、「高邁な」思想・哲学を弊履のごとく捨て去り、現行秩序を無限肯定する「現実主義」がはびこるだろう。この「現実主義」を批判しこれを克服するためには、今まで社会主義の理念に広い意味で荷担してきた者による過去の総括と、そのうえで新たな道を模索する態度が不可欠である。

そう心に決めての、私なりの模索を始めていた。実際に、社会主義の崩壊を前に、資本主義の擁護者たちは欣喜雀躍としていた。日本社会では、従来の歴史解釈の見直しや、歴史教科書から「自虐史観」を追放し「子どもたちが日本を誇らしく思えるような」教科書づくりを目指す動きが声高に始まった。極右雑誌『諸君!』(文藝春秋)や『正論』(サンケイ新聞社)の元気ぶりは、すでに1980年代から始まっていたが、それらがますます増長したのに加えて、豊富な資金源を持つらしい新興の右翼雑誌が次々と刊行され、書店の棚を占領するようになった。現在の書店の荒涼たる風景は、この時期に始まったというのが、私の実感である。それでも、たとえば、ソ連崩壊の翌年の1992年には、「1492→1992 コロンブス航海から500年」キャンペーンを行なって、ヨーロッパ植民地主義を登場させることに繋がった「コロンブス大航海」以降5世紀におよぶ世界近現代史が孕む諸問題を広く討議し、民族・植民地問題が人類史において決定的に重要な位置を占めることを明らかにするなど、新しい世界像と歴史像を生み出す作業に私たちは共同で取り組んだりしていた。

サパティスタ蜂起は、こんな雰囲気の中で起こった。上の問題意識に基づいて、私はこの運動に見られる注目すべき諸点を、当初から以下のようにまとめていた。

(1)先住民族が主体の社会変革運動であることから、メキシコのような人種差別が著しい社会にあって根本的な問題提起となり得るし、ひいては、すでに「1992年」以降世界的に開始されている、植民地問題を主軸に据えて近現代史の書き換えを推進する動きにもつなげていくことが必要だろう。

(2)蜂起が「ローカルな(地域的な)要求と「グローバルな(地球規模の)」要求を結びつけている点に注目しよう。仕事・住宅・医療・教育・水道・道路など日常生活に根差した要求を地方政府と中央政府に対して行なうとともに、蜂起の日=1994年1月1日に発効する北米自由貿易協定(スペイン語でTLC、英語でNAFTA)に抗議の意志を示していることで、世界を覆いつくしつつあるグローバリズムの推進者である「先進各国」・多国籍企業・国際金融機関などを厳しく批判している。とりわけ、この協定が「先住民族に対する死刑宣告にひとしい」と断言している部分に注目したい。

(3)止むに止まれず武装蜂起を行ないながら、1960年代までの左翼とは異なり、軍事至上主義路線ではないこと、したがって、蜂起後すぐにメキシコ政府を交渉の席に就かせた政治的な手腕に注目したい。「ほんとうは兵士であることを止めて」教師、農民、医師、看護婦などとして働きたいのだと語り、戦争亡き/軍隊なき未来を展望しているその姿勢を貴重なものとして捉えたい。その後、全国のもろもろの社会運動の団体に呼び掛けて「全国民衆会議」のようなものを開催するに当たっては、貧しい程度とはいえ武装しているサパティスタが、非武装の他の民衆に対して優越する位置に立つことを防ぐために、サパティスタの投票権をごく少数に限ったことも、彼らがいかにこの課題に自覚的であるかを明かしていると思う。

(4)前衛主義とはまったく無縁であることに注目したい。「我(党)こそは」という自党中心主義/自党絶対主義が、世界と日本の社会変革運動をいかに蝕んできたかということは、「運動圏」に身を置いたことのあるひとなら誰もが気づくことだろう。それこそが、すでに触れたように、党=政府=軍(よりによって、それは、革命軍とか、赤軍とか、人民解放軍と名づけられている!)の指導部が三位一体化して特権層を生み出し、官僚主義をはびこらせ、ひいては粛清の論理(日本的には、内ゲバの正当化)に繋がっていくのであるから、まこと、「党こそは諸悪の根源」(栗原幸夫)だと言える。

(5)前衛主義から解放されているということは、いわゆる「指導部」と、運動の基盤を形成している「大衆」の関係性のあり方に関しても、運動主体が深く考えていることに繋がる。「従いつつ統治する」という言葉自体が、上意下達的な組織運営を当然のことしてきた旧来的な左翼運動のあり方に対する批判となっている。

(6)健康で、頑強な、大人の「男」を軸に展開されてきた従来の社会運動のあり方に疑問をもち、これを改めようとする努力がなされている。そこでは、サパティスタ運動が、さまざまな人びとの日々の生活基盤をなしている村(共同体)に依拠した運動体であることのメリットが最大限まで生かされている。「革命国家」の樹立をめざす変革運動は、「若い」男の「職業的な」までの献身性に依拠して展開されることで、必然的に経験の度合や活動量のヒエラルキーを内面化してきた。サパティスタはこの「限界」を突破しようとしている。

(7)サパティスタが発表するコミュニケは、社会的・政治的なメッセージ性を帯びた文章にあり方に対する深い問題提起をなしている。硬直したイデオロギーに基づいて、無味乾燥な政治言語を駆使して書かれてきた、左翼の大論文に飽き飽きした経験をもつ人は多いだろう。それは、いまなお、守旧的な左翼によって書き続けられている。サパティスタ文書は、時に過剰な文学的な修辞にあふれている、と思われる場合もある。「お遊びか」と思われる表現も、ないではない。しかし、歴史と現状を的確に把握した上での表現であるという一貫性は貫かれている。広い意味での、マヤ先住民世界の民俗性(フォークロア)や神話的な世界の確固たる存在が背後にうかがわれることも、文書に深みと奥行きを与えている。

(8)マルコスが回想しているように、サパティスタ蜂起に先立つ10年ほど前、都市での革命運動に見切りをつけたマルコスら10人以下の都市インテリは、メキシコ最深部の貧しい先住民世界での「工作活動」をめざして、チアパスの山に入った。ヨーロッパ直輸入のマルクス主義で武装した彼らは「上からの」イデオロギー操作によって、貧しい農民を「覚醒させる」つもりだった。だが、チアパスの山の厳しい諸条件の下で生き抜くためには、そこで食することのできる動植物を含めて都会人こそが村人たちから学ぶべきことがらがたくさんあった。「学ぶ―教える」が一方通行的な形で完結することは、この段階でなくなった。そこで、都市のマルクス主義と、チアパス先住民の独自の哲学・歴史観が、相互主体的に出会う瞬間が生まれ、それが持続してきた。そのことが、上記(7)で触れたサパティスタ文書に見られる、独特の発想とことば遣いに表われている。

(四)おわりに

サパティスタの論理と実践から以上のような諸課題を受け取ってきた私からすれば、5・24文書で触れられている、サパティスタに対して外部からなされているという批判的な言辞には、あらためて書くが、驚く。20世紀型左翼運動の失敗は、仮にその時代の担い手から見ていかなる必然性に裏打ちされていたとしても、その組織論や軍事論に大きな誤謬が孕まれていたからこそ生まれたのだ、と私は思う。そのふたつの論点は、運動それ自体の性格を大きく規定する力をもつものであった。ソ連崩壊後の日々、そんなことをつらつら考えていた私は、それだけに、サパティスタが発することばのひとつひとつに、深い共感をおぼえていた。だから、私は、遠くメキシコ南東部の先住民村から発せられたメッセージに、同じ時代を生きていて、状況を近しい視点から捉えている人びとの存在を感じ取ったのである。

「左翼の世界にも人種差別は根を下ろしているのだ」というサパティスタの文言を読みながら、私は、いま私たちが各地で展開中の、ボリビア・ウカマウ集団/ホルヘ・サンヒネス監督全作品レトロスペクティブ【革命の映画/映画の革命の半世紀 1962~2014】のことを思い出してもいた。サンヒネスもまた、自らをも位置づけている左翼の中に、先住民に対する根深い差別のことばとふるまいを見出しており、この「劣性」の克服なくして左翼の再生はあり得ないと確信している映画人である。『地下の民』や『鳥の歌』に、そのような左翼的心情の持ち主をめぐるエピソードがさりげなく挿入されているのは、そのため、である。上に紹介したサパティスタのことばから、こうして、私たちはそれぞれの場所において、普遍性のある論点を取り出すことができる。

久しぶりに発せられたサパティスタのコミュニケを読みながら、変革のための社会運動再生に向けての試行錯誤=模索を始めていた20数年前の、原点の日々が蘇り、思いを新たにする。

(註)

私が企画・編集したサパティスタ文書には、以下のものがある。版元はすべて現代企画室。

太田昌国/小林致広=編訳『もう たくさんだ!――メキシコ・サパティスタ文書集1』

(1995年)

マルコス+イグナシオ・ラモネ『マルコス ここは世界の片隅なのか』(湯川順夫=訳、2002年)

マルコス『ラカンドン密林のドン・ドゥリート――カブト虫が語るサパティスタの寓話』

(小林致広=訳、2004年)

マルコス『老アントニオのお話――サパティスタと叛乱する先住民族の伝承』(小林致広=訳、2005年)

マルコス+イボン・ルボ『サパティスタの夢――たくさんの世界から成る世界を求めて』

(佐々木真一=訳、2005年)

私が書いたサパティスタ分析の文章は、時代順に、以下の書物に収録されている。

『〈異世界・同時代〉乱反射』(現代企画室、1996年)

『暴力批判論』(太田出版、2007年)

『【極私的】60年代追憶』(インパクト出版会、2014年)

(2014年6月3日記)