いま植民地責任をどう考えるか
ピープルズ・プラン研究所『季刊ピープルズ・プラン』第52号(2010年12月発行)掲載
世界で
1、継続する植民者意識
今世紀が明けて一年目の2001年、米国が「反テロ戦争」なる名目の下に、アフガニスタンに対する一方的な攻撃を開始して間もないころ、「国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が聞こえてきた。米国の政治・軍事指導部から出てきた言葉だ、と当時のメディアは伝えていた。大国の政治指導者が「無意識に」抱え込んでいる本音がむき出しになったこの言葉を聞いて、植民地主義を肯定する植民者の意識の根深さを思った。
このような意識が根拠づけられる素材は、日常性のいたるところに転がっているように思える。これはアフガニスタンをめぐって吐かれた言葉であっただけに、私はすぐ、コナン・ドイルの第1作『緋色の研究』(1887年)を思い出した。この作品の冒頭では、やがてシャーロック・ホームズに出会うことになるワトソン博士は、イギリスがすでに植民地化していたインドに派遣されたのだが、イギリスはアフガニスタンの植民地化をめざして第2次アフガニスタン戦争(1878〜80年)を開始していたためにその戦争に従軍し、そこで負傷して帰国した、という設定になっていたことが頭に浮かんだのである。久しぶりにこれを再読してみると、負傷したワトソンは、「献身的で勇敢な部下」が「私を駄馬に荷物のように乗せて、ぶじに英軍の戦線まで連れ帰ってくれたから助かったようなものの」、そうでなければ「残虐きわまりない回教徒戦士の手におちてしまっていただろう」という表現も出てくるのだった(創元推理文庫、1960年、阿部知二訳)。侵略行為の罪は不問に付して、相手側の「残虐」性を言うこの倒錯!
この作品には、カンダハルやペシャワールなどの地名も出ており、19世紀後半当時7つの海を制覇していたイギリス帝国の内部における世界認識が、植民地支配を通していかに広がりをもっていたかを、言外に語るものでもあった。このあと書き続けられることになるシャーロック・ホームズの一連の作品においても重要な脇役を演じるワトソンの履歴に、「植民地獲得戦争で負傷して帰国した」という味付けを施すことで、同時代に生きるイギリス人読者から「国民」としての一体感が得られるだろうという計算を、巧妙にも、コナン・ドイルはしたのであろうか。
他方、同じ事態を異なる視点から捉える人物も、同時代的に存在する。ドイツに生まれたカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスはコナン・ドイルとほぼ同時代人であったと言えようが(三者の生年はそれぞれ順に、1818年、1820年、1859年)、エンゲルスには、1857年8月頃に執筆したとされる「アフガニスタン」と題する論文がある(大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』第14巻所収)。
翌年『ザ・ニュー・アメリカン・サイクロペディア』に発表されたものであるが、それは当時の米国の進歩的ブルジョアジーが企画した百科全書的な媒体であったから、またその原稿を書くことは当時のエンゲルスにとって(マルクスにとっても)重要な生計手段であったから、目的に即した客観的な地誌・民族・宗教・歴史の叙述となっている。19世紀に入って、この地を支配しようとした帝政ロシアとイギリスの角逐にも当然触れているが、すでにインド大陸を植民地支配していたイギリスがインダス河を越えてアフガニスタンに軍事的展開をする段(1839~42年の第1次アフガニスタン戦争のこと)の記述に至ってもエンゲルスは場を弁えて客観的な立場に徹してはいるが、イギリスのアフガニスタン征服の策動が(エンゲルスがこの論文を執筆した時点では)失敗に終わっていく過程を鋭く分析して、記述を終えている。
後世の目で見れば、当時のマルクスとエンゲルスには、イギリス資本主義による、たとえばインドに対する植民地支配の「非道なやり口」という批判的な分析はあっても、頑迷なインドの共同体構造をイギリスが破壊することによって、インド近代化の道が開けるという「資本の文明化作用」に期待を寄せていた点が、批判の対象となっている。私も、この批判的な捉え方に部分的には共感する者だが、それでもなお、19世紀後半のアフガニスタンにわずかなりとも触れた世界的に著名な著作として、コナン・ドイルとエンゲルスのそれを対照的に取り上げること、そこから、当時すでに相当な程度まで世界に進出していたヨーロッパ地域の人間たちが、意識的にか無意識的にか抱えていた「進出対象」の異境に対する捉え方を導き出すこと――「帝国」内の意識は継続していると考えられる以上、それは重要な、過去へのふり返りの方法だと思える。
2、植民者と被植民者
2001年の「反テロ戦争」を「植民地主義の継続」(註1)という問題意識で思い起こすとき、触れるべきもうひとつの課題がある。それは過去に遡及するものではなく、まさに同じ年の2001年8月31日から9月8日まで、南アフリカのダーバンで開かれていた国連主催の国際会議について、である。「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(以下、ダーバン会議と略称)がその会議の呼称なのだが、「人道に対する罪」というべき奴隷制、奴隷貿易、植民地主義に対する歴史的な評価を下す場であった。
この会議については、日ごろは国際的に重要な課題に対するアンテナの精度が高くはないと私が考えている日本の新聞各紙でも、一定のスペースを割いた報道が連日なされていた。この会議が開催されることを事前には知らなかった私は、事態はここまで進んだのか、と感慨深いものがあった。
思えば、この種の課題に関して、世界的にみて潮目が変わったのは、1992年だというのが私の考えである。それは、1492年の「コロンブス航海」から500年目の年であった。500年前のこの出来事を決定的な契機として、ヨーロッパによる異世界征服の「事業」が開始された。先駆けて進出したのは、ヨーロッパの「辺境」に位置し、大西洋に面するイベリア半島のスペイン・ポルトガルの両国で、差し当たっての具体的な征服対象はアメリカ大陸諸地域であったが、やがて、ヨーロッパ全域がアメリカ、アフリカ、アジアに対する植民地支配を拡大していくことに繋がっていく。常に勝者によって書き綴られてきた世界史は、この出来事を「大航海時代」とか「新大陸の発見」と名づけてきた。いわば、それが偉大なる「事業」だとするヨーロッパ的な視点で解釈されてきたのである。
だが、「コロンブス航海」から500年目を迎えた1992年――世界じゅうで、人びとの歴史意識は現実から大きな挑戦を受けていた。前年末、74年間続けられてきたソ連型社会主義体制は崩壊した。20世紀を生きた人びとの価値意識を大きく規定してきた「資本主義 vs 社会主義」の対立構造は、この段階でいったん終わりを告げた。資本主義の担い手たちは、当然にも、資本主義システムの勝利を謳歌した。あらゆるものを商品化し、それらを単一市場での自由競争の試練に曝し、すべての欲望を解き放つことへの、手放しの賛歌! 合唱隊に加わる者も多かったが、その価値観を懐疑し、批判し、疑問を提起する者が絶えたわけでもなかった。解消できない南北格差、全地球的な環境問題の深刻化――その根源を追求しようとする「南」の世界の人びとが声を挙げ始めた。ソ連の崩壊によって「東西冷戦」構造が消滅したことで、いままで隠蔽されてきた矛盾が誰の目にも明らかになった、とも言える。
他方、欲望のおもむくままに人びとを消費に駆り立ててきた高度産業社会の中心部に広がる空虚な疲弊感――「北」の世界でも、産業社会そのものに対する懐疑が広範に生まれていた。それは、資本主義的発展が可能になった根拠までをも問い直す懐疑であった。
「南」と「北」は、20世紀末に人類が直面している諸問題の根源にまで行き着く共通の問いかけを持った。資本主義が世界を制覇するきっかけとなった「コロンブス航海」の時代にまで遡って歴史過程を総括すること、これである。アメリカ大陸の民衆は、この期間を「インディオ・黒人・民衆の抵抗の500年」と捉えて、ヨーロッパによって剥奪されてきた権利を奪い返す運動を開始した。欧米諸国や日本などの産業社会では、私たちが東京で開催した「500年後のコロンブス裁判」のように、植民地支配・奴隷の強制連行と奴隷制などを通して実現された資本主義近代を問い直す催し物が開催された。それは、世界に共時的な動きであった。「潮目が変わった」と私が表現したのは、このことを指している。
この延長上で注目されるべき2001年ダーバン会議の成果は、閉幕3日後に起きた「9・11」事件とそれに引き続く「反テロ戦争」の衝撃によって、世界じゅうに十分には浸透しないままに終わった。植民地支配や奴隷貿易などの「人道に対する罪」が、初めて世界的な規模の会議で討議されてから間もないころに、いまなお植民地主義的ふるまいを続けている超大国の為政者内部では、自国が無慈悲な一方的爆撃を実施しているアフガニスタンを指して、「いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が吐かれていたのである。
こうして、植民地主義を歴史的根源に遡って批判することを通してその理論と実践を廃絶しようとする動きと、なおそれを延命させ継続させようとする動きとは、21世紀初頭の世界的現実の中で対峙している。しかし、時代状況は、もはや揺り戻しの効かない地点にまで来たのではないだろうか。今年10月には、名古屋で国連生物多様性条約第10回締約国会議が開かれたが、そこでの討議においても、「大航海時代」以降と植民地時代に行なわれてきた動植物資源収奪に対する賠償・補償の必要性をアフリカ諸国の代表は主張した。先進諸国は、そんな過去にまで遡って賠償だ、補償だ、と言い出したら、世界は大混乱に陥る、と悲鳴を挙げている。だが、列強が異境を植民地化し、奴隷を強制連行した時点で、それらの現地は大混乱に陥ったことを忘れるわけにはいかない。
解決の方法は、私たちの/そして今後来るべき人びとの知恵に委ねるほかはないが、植民地支配がもたらしたものをめぐる問題設定は、揺るぎなくなされるに至った、と言える。それは、「人類」という意味での私たちが獲得している、決して小さくはない歴史的成果のひとつである。
東アジアで
1、秀吉の朝鮮侵攻を引き継ぐ意識
「韓国併合」から100年目の年を迎えた今年、過去をふりかえるためのさまざまな文献を参照した。その時どきの、さまざまな社会層の象徴的な発言をいくつもメモしたが、紙幅の制約上から傾向を2,3に絞って挙げると、16世紀末の1592年と1597年に行なわれた豊臣秀吉による朝鮮侵攻と結びつけて、自らがなした行為の意義を浮かび上がらせる表現が、近代日本の軍人あるいは軍人兼政治家の中に目立った。
有名な逸話だが、併合した際の「祝宴」の場で、朝鮮総督・寺内正毅は詠んだ。
小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらむ
小早川、加藤、小西はいずれも秀吉が朝鮮侵攻のために動員した巨万の軍勢を率いた大名たちの名前である。寺内は、その後1916年には首相に就任し、成立したばかりのロシア革命に干渉するシベリア出兵を1918年に強行した。それを引き継いだ宇垣一成は、職業軍人としてやがて国家総動員体制の確立に努めることになる人物だが、シベリア撤兵の日(1922年10月25日)の日記に書き記した。
「大正十一年十月二十五日午後二時十五分は之れ浦潮(ウラジオストック)派遣軍が愈々西伯利(シベリア)撤兵最後の幕切れでありた。神后以来朝鮮に占拠せし任那の日本府の撤退、太閤第二次征韓軍の朝鮮南岸の放棄を聯想して実に感慨無量、殊に渾身の努力を以って西伯利出兵に尽したる余に於ては一層痛切なり。(……)捲土重来の種子は此間に蒔かれてある。必ずや更に新装して大発展を策するの機到来すべきを信じて疑わぬ。又斯くすべきことが吾人の一大責務である!!
偉人英傑の偉大なる力にて捲起さるる風雲は、人間生活を沈滞より活気の中に導き、弛緩より緊張の世界に躍進させ得る。」(『宇垣一成日記』1、みすず書房、1968年。原文ママ。括弧内のみ引用者)。
宇垣の場合には、神功皇后→任那日本府→太閤秀吉→シベリアの諸経験を時空を超えて結びつけ、すべてに共通する「撤退」への無念の思いを吐露している。
これと対照的な表現をなした同時代の人物を挙げるなら、芥川龍之介だろう。「金将軍」(1924年)はわずか数頁の小品だが、小西行長が「征韓の役」の陣中に命を落したという朝鮮での虚偽の言い伝えに示唆を得て、緊張感にあふれた伝説の世界を作り出している。言わずもがな、のことだろうが、そこからは寺内や宇垣とは対極にある歴史意識を感じとることができる。芥川はまた、日露戦争の「英雄」にして日本軍国主義の「軍神」=乃木希典を「将軍」(1922年)で取り上げ、残酷な行為の果てに勲章に埋まる人間に対する懐疑を表明した。芥川が、寺内や宇垣などの政治・軍事指導者が表明する価値観に強く同調しながら形成されてゆく当時の「世論」と一線を画し得た事実から、私たちが学ぶべきことは多いだろう。文学者で言えば、夏目漱石の朝鮮観については、すでにいくつもの重要な分析を行なった書が出ているが(註2)、漱石は一時期、1895年日本軍兵士と壮士が韓国王妃を殺害したことを「小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」(1895年11月13日付正岡子規宛て書簡)とまで述べて、やがて韓国を植民地していく日本社会の風潮にしっかりと同調していた。隣国の王宮に押し入った日本の兵士が王妃を虐殺するという驚くべき事件を、漱石がこのように受けとめたという帝国内部の「意識の日常性」は、現在にも引き続くものとして問い直すべきだろう。同時に、その漱石の価値観は、日露戦争を経て揺らぎ始め、晩年には戦争や侵略をめぐって別な世界に歩み出ようとしていたと思われる表現もあって、その「可能性としての」変貌の過程は、漱石が近代文学史上でもつ重要性に鑑みて、再検討されるに値すると思われる(註3)。
2、領土抗争をめぐって急浮上する植民地主義の継続
寺内正毅が秀吉軍の大将たちが抱いた朝鮮征服の夢を思い浮かべた歌を詠んでから百年後の今年、日本社会は改めて、自らの植民地主義を継続するのか否か、の問いに向かい合っている。だが、問われているのがそのような問題であるという自覚は、私たちの間に広く浸透しているとは言えない。それは、かつて植民地を保持した「帝国」が、それをはるか以前に失ってからも、例外なく抱え続けている問題である。
この年、日本ではまず、日米安保条約と憲法九条の関係性如何という問いが、沖縄の米軍基地問題をめぐって提起された。この課題に関わっての民主党政権の迷走と、それに随伴した「民意」を分析してみると、平たい言葉で表現するなら「戦争は厭だが、中国や北朝鮮の脅威があるから日米安保で守られているほうがよい」となるほかはない。
憲法9条が成立し得る根拠は沖縄に米軍基地があるからだ。それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国も良しとしてきた――という趣旨のことを語ったのは、2005年の新川明だった(「世界」20045年6月号、岩波書店)。新川はさらに言う、沖縄は戦後60年間ずっと「国内植民地」だったのだ、と。私は「植民地」の前に「国内」を付することだけは留保して、新川の分析方法に基本的に納得するが、そうだとすれば、問題はここでも「植民地主義の継続」なのだ(註4)。
さらに今年九月に入って、中国との間で尖閣諸島(釣魚島)領有権問題まで発生することで、「植民地主義」という問題性を帯びた問いはいっそう切実感を増している。なぜなら、民主党政権は「尖閣は明白に日本に帰属」と主張しているが、日本国が尖閣の領有権を主張したのは日清戦争後の1895年で、それは下関条約に基づいて台湾を植民地化した時期に重なっていることが明らかになるからだ。さらに、沖縄の人びとの生活圏の一部として尖閣を位置づける場合には、今度は、1879年に明治国家が行なった「琉球処分」という名の沖縄植民地化の過程を問い質す課題が必然的に生まれてくるからだ。
こうして、すでに60年前に終焉の時を迎えたはずの植民地主義支配の遺制は、「帝国」を、抜け出ることのできない蜘蛛の巣に絡め取っている。その遺制が、旧植民地主義支配国と被支配国との間の、現在における力関係(政治・経済・文化的影響・開発と低開発などの面で)の落差を規定している以上、支配された側はその遺制の撤廃と解決を求めるのが当然だからである。最近の国際会議の場における「南」の諸国の主張は、その線に添ってなされていると解釈できる。問いかけが発せられたからには、植民地主義が生み出した諸問題を解決するためのボールは、いまは、支配した側の手中に握られている。
(註1) この表現をそのまま表題としている著書に、次のものがある。岩崎稔ほか編著『継続する植民地主義――ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社、2005年)。また同じ問題意識に貫かれた著書に、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青き書店、2009年)がある。
(註2) 最近でも、小森陽一『ポストコロニアル』(岩波書店、2001年)、同『漱石――21世紀を生き抜くために』(同、2010年)、金正勲『漱石と朝鮮』(中央大学出版部、2010年)などがある。
(註3) 松尾尊兊「漱石の朝鮮観 手紙から探る」(朝日新聞2010年9月17日付け)に示唆を受けて、未読だった漱石書簡集に目を通した。
(註4) この問題を多面的に深く分析したのが、中野敏男編『沖縄の占領と日本の復興――植民地主義はいかに継続したか』(青弓社、2006年)である。