太田昌国のみたび夢は夜ひらく[111]「2002年拉致問題→2019年徴用工問題」を貫く変わらぬ風景
『反天皇制運動 Alert』第39号(通巻421号、2019年9月3日発行)掲載
「慰安婦問題」に関わる朝日新聞の過去の報道をめぐって、不当極まりないキャンペーンが繰り広げられた直後の2015年、私は『「外圧に抗する快感」を生きる社会』という文章を書いた【それは『〈脱・国家〉状況論』(現代企画室、2015年)に収録してある。】
新たな視点を加えて、再論したい。ブルジョワ国家はもちろん自称「革命国家」も、国家の名において積み重ねた悪行と愚行ゆえに、人びとの心が「国家」から離れ始めた時期を一九六〇年代後半と措定してみる。その根拠を、ベトナム反戦運動、パリ五月革命、プラハの春、全共闘運動、カウンター・カルチャーなどが孕んでいた思想的可能性に求める。ジョン・レノンは世界に広く浸透したその心情を捉えて、「国なんてものがないと想像してみよう。それは難しいことではない。そのために殺したり死んだりするようなものがないということは」という言葉に形象化して「イマジン」を創った。1971年のことだった。
強権的な「国家」の限界を見極めた人びとの間から新たな動きが始まったのは、この時期と重なっている。城内秩序の確立のために「国民」に強制力を働かせがちな個別国家の枠組みの中では解決が不可能な問題に関して、国際条約や規約によって枷を嵌める動きが具体化し始めたのだ。「国際人権規約」の「政治的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」や「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」などがそれである(1967年発効。日本も批准)。その後も、女性、子ども、障碍者、先住民族、拷問禁止・死刑廃止など従来の〈弱い〉存在の権利を確立するための国際条約が成立している。
1991年、ソ連邦が崩壊した。今度は「国家」の儚さが、人びとの胸に染み渡った。同時に、東西冷戦という戦後構造によって蓋をされてきた、つまり、地下に封印されてきた諸矛盾が吹き上がった。植民地支配・奴隷制度・人種差別主義・侵略戦争など、強大な国家が近代以降の長年にわたって国境を超えて犯してきた国家犯罪に対して、被害地域の個人が抗議の声を上げ始めたのである。遅すぎる、確かに。
だが、権力装置として圧倒的な優位に立つ「国家」を前にした個人の力は、これほどまでに微弱だと捉えるべきだろう。同時に、先に触れた「国際人権条約」は、国家による人権侵害を受けた人びとが「救済措置」を受ける権利を定めていること、および「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約」(1970年発効。日本は未批准)が存在していることに注目したい。2001年には「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」が、長年続いたアパルトヘイト(人種隔離体制)を廃絶して間もない南アフリカのダーバン市で開かれた。旧加害者側と被害者側の合意が簡単に得られるはずもないが、歴史を捉え返す作業は、21世紀を迎えてここまで来ているのである。植民地支配の責任を全面的にとった国は、歴史的先行者の欧米諸国でも一つもない。だが、被害国と加害国とのあいだで、個別には「謝罪・補償」が成立している実例があることは本欄でもたびたび触れてきた。それには、加害の側が従来固執してきた〈遥か昔のことを蒸し返すな〉〈植民地主義は、かつて時代精神そのものであった〉〈現在の価値基準で過去を裁くな〉などの一方的な立場を、〈少しは〉改めたことを意味している。
徴用工問題を、20世紀末から21世紀初頭にかけてのこの世界的な分脈の中においてみる。このような価値観と歴史認識の変革が未だなされていなかった1965年に成立した二国間条約を盾に、加害の側が「すべて解決済み」「非可逆的な解決方法」と言い募るのは、理に適っていない。2002年、朝鮮国の拉致犯罪(それは確かに酷いものである)に関わってあの一方的で排外主義的な情報操作を許した私たちは、2019年のいま、徴用工問題をめぐる官民挙げての反韓国キャンペーンに直面しているのだという繋がりの中で事態を把握したい。政府も官僚もメディアも民間も、いわば社会挙げて「宗主国」意識を払拭できていないからこそ、現在の状況は生まれているのだ。
(9月1日記)