津島佑子さんの思い出に
『津島佑子――土地の記憶、いのちの海』(河出書房新社、2017年1月20日)掲載
津島佑子さんとの付き合いは、アイヌの人たちとの関わり合いから始まった。20世紀末も近づいた1990年代、私は民族・植民地問題に関わる発言と活動を集中的に行なっていた。人類が直面しながら、なかなかうまい解決策を見出し得ないでいる厄介な問題の一つが、そこに凝縮していると考えたからだ。1992年には、「コロンブスの大航海と地理上の発見」の時代(1492年)から数えて500年目という時代的符合に注目して、「500年後のコロンブス裁判」という討議の場をもった。異民族同士の「出会い」が、大量虐殺・征服・植民地支配の始まりを告げることになった、近代の歴史的な大事件だったからだ。(のちに知ったことだが、津島さんもこの年、メキシコの山間部で開かれた国際会議に招かれて出席していたが、そこには各地の先住民が参加していたという。知らずして、画期的ともいえる〈時代の息吹き〉を感じ取る場に、等しく立ち合っていたといえよう)。
翌年の1993年には、その国内的な応用問題として、東京にアイヌ料理店を作る活動をしていた。同じ郷里=北海道釧路の出身で、関東圏に住むアイヌの女性たち(小学校時代の同級生や、その年長者の世代の)から、好きな時に集まり、働くことで生活の糧にもなる同胞の寄り合いの場所を作りたいと相談を受けた。日本=単一民族国家論に固執する当時の日本政府も地方自治体も、アイヌ民族のために特別な予算措置を講じることを忌避していた。北海道なら、行政の手で「生活館」が作られるが、東京ではそうはいかない。業を煮やした彼女らは、草の根の力でそれを実現したいと相談してきたのだ。早速そのためのカンパ活動を開始するために、呼びかけ人をお願いする人の人選を始めた。私がその作品の多くを読んでいて、底流にある「北方志向性」を感じとっていた作家・津島佑子さんは筆頭に挙げたいくらいの方だった。しかも、そのしばらく前にフランスに滞在していた津島さんが、アイヌの神話「カムイ・ユカラ」をフランス語に翻訳する手助けをしたと記したエッセイも読んでいた。未知の人だったが、思い切って手紙を書いた。意外と、あっさりと受けて下さった。
断続的な付き合いが始まったのは、それ以降のことである。私は、南米ボリビアの映画集団との付き合いがあり、その作品を自主上映したり共同制作したりする活動に取り組んできた。集団を主宰するホルヘ・サンヒネス監督は白人エリートの出身だが、アンデスの人種差別社会が自己変革を遂げるためには、先住民族の歴史哲学や自然観を学び、取り入れることが重要だと考えていた。彼が監督する映画では、先住民が主人公を演じ、スクリーンでは先住民の母語が飛び交っていた。物語も、先住民の生活・歴史意識・自然哲学を尊重して組み立てられていることが歴然としていた。それは今でこそ珍しくはないが、1960年代半ばから制作活動をしていた彼らがそうしていたことは、世界的に見ても先駆的なことだった。それは普遍的な問題提起でもあったから、日本での反響も大きかった。あるとき、津島さんならきっとこれらの作品に深い関心を持たれるだろうと思い、上映会にいらしていただいたり、ビデオをお送りしたりしていた。
まもなく、津島さんのエッセイでは、ボリビアの映画を観た感想が綴られるようになった。
2000年代に入って間もなく、福岡市の公的ホールがこのボリビア映画の上映会を企画してくれた。図書館が併設されている施設なので、どなたか作家と一緒に来福し、対談をしてくれないかという提案があった。津島さんに相談し、一泊しなければならないこの福岡行きに同行していただいた。この対談では、興味深い意見の違いが生まれた。知里幸恵編の『アイヌ神謡集』が岩波文庫に入ったのは1978年のことだった。同文庫独自の分類によって、外国文学のジャンルに属することを意味する赤帯が付けられたのだが、それはアイヌ語には日本語との類縁性がないからと編集部が考えたからだった。津島さんは、今までアイヌ民族を差別してきた日本社会が、アイヌ独自の口承文学を日本文学の枠組みから排除していることが、その差別構造の延長上にあると捉えて、心外のようだった。私は、言語上の区別に加えて、次のことを思った。人間(アイヌ)と動物・鳥・魚たちとの親和性を謳う『神謡集』の原形は、知里幸恵が「序」で言うような、「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の大地で」あり、「天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた」時代に創造されたのだろう。それは、蝦夷地に松前藩の部分的な支配が及ぶ遙か以前から、ましてやそこが明治維新国家の版図に強制的に組み入れられる以前から、アイヌの人びとの間で語り継がれてきたことを意味しよう。そのような時代に原形が作られた口承文学を、事後的に形成された日本「国」の文学(古典は黄帯、近代以降は緑帯)の枠内に収める理由はない――私はそう考え、岩波文庫編集部の判断は適切だと思うと言った。アイヌ民族およびその文化と歴史を、日本国のそれに包摂することなく、独自のものとして捉える方法に私は荷担していた。
要は、「国」をどう捉えるか、そして「国家社会」の責任をどのような位相で捉えるか、という点に帰結することのように思えた。この意見の「食い違い」が孕む緊張感は、心地よかった。
同じころ、出版の分野でも津島さんと仕事を共にした。津島さんが、他の文学者と共に、海外の文学者との交流に力を入れていたことはよく知られている。とりわけ、女性の文学者との間で。その頃は、「日印作家キャラバン2002」を経た時期で、まず出版したいという希望が出されたのは、インドのベンガル語文学者、モハッシェタ・デビの作品『ドラウパディー』だった。ガヤトリ・チョクロボルティ・スピヴァクが彼女の作品を高く評価することで、世界的な注目を集めつつある作家だということを、私自身初めて知った。幸いにも、よき翻訳者にも恵まれて(臼田雅之+丹羽京子)、しかも津島さんに加えて、同じく文学交流を続けていた松浦理英子、星野智幸両氏の「解説」も付して、この作品を出版することができたのは2003年のことだった(現代企画室刊)。
後年、津島さんは「日本女流文学者会」の責任者を引き受けていたが、会員の合意を得て「女流文学者会」そのものを解散するに際して、それまで交流してきたアジアの女性文学者の中から3人を選び、翻訳書として刊行したいとの相談があった。それは、2011年に、姜英淑(韓国)の『リナ』(吉川凪=訳)、陳雪(台湾)の『橋の上の子ども』(白水紀子=訳)、ムリドゥラー・ガルグ(インドのヒンディー語作家)の『ウッドローズ』(肥塚美和子=訳、いずれも現代企画室刊)として実現できた。原著者との翻訳権契約・翻訳・編集・刊行・関係者への発送などの諸過程で、津島さんとは何度も連絡を取って、すすめた。東アジアから南アジアにかけての、女性作家を主軸とした文学的な鼓動が伝わってきて、私にとっても忘れがたい企画となった。
この同じ年の「3・11」には、東北で大地震とその結果としての福島原発事故が発生した。責任省庁としての経済産業省を包囲して、原発の全面的な即時停止を求める行動が何度も取り組まれた。或る夜、その包囲行動で、偶然にも、津島さんと隣同士になったことがあった。その夜語り合った「不安」を、津島さんは「半減期を祝って」(初出、「群像」2016年3月号)と題した、見事な掌編に形象化した。この作品は絶筆となった。
最後にお会いしたのは、2014年5月だった。連休を挟んだ2週間にわたって、私たちは、ボリビア映画集団の全作品(長編11作品、短編2作品)の回顧上映を、東京・新宿のミニシアターで行なった。一夜、上映後の対談に出ていただいた。先住民族の存在が問いかけてくる諸問題について、多面的な光を当てる内容になったと思う。津島さんが、突然のように亡くなってしばらくして、津島さんの作品の英語訳をいくつか担当されたというジェラルディン・ハーコートさんが連絡をくれた。ユーチューブには、ボリビア映画上映時の津島さんと私の対談映像が流れているが、そこには津島さんの思いが非常によく表われている、津島佑子という作家をヨリ広く世界に知らしめるために、対話の部分を英語訳して流したいという希望を言ってこられた。
数ヵ月後、それは実現した。→https://www.youtube.com/watch?v=83pIj8FL1RY
そのしばらく前に、津島さんの最後のエッセイ集『夢の歌から』(インスクリプト)と遺作『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(集英社)が私の元に届いた。津島さんの晩年の小説世界は、地球上のさまざまな先住民族の神話や生活に着目することで、時空を超えた広がりを見せていた。遺作『ジャッカ・ドフニ』はそれをさらに徹底させて、オホーツク海、日本海、南シナ海、ジャワ海を舞台に、17世紀から21世紀にかけての物語が雄大に展開されている。時間と空間の規範から解放された自由自在さを得たこの作品を読む私たちは、現実には、この21世紀に(!)狭くも〈国家〉と〈民族〉を拠り所にして〈排外〉と〈不寛容〉の精神を声高に叫ぶ者たちが広く社会に浸透した時代を生きている。
「マルスの歌」の高唱があちらこちらから聞こえてくる時代状況の中で、私は、類い稀なこの作家の「文学的抵抗」の証としての作品を繰り返し読み、自らの中でそれをさらに豊かなものに育てたいと思う。