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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

――天皇「生前退位」を考える|「主権」も、民主主義もない|もう、たくさんだ!


『週刊金曜日』2016年7月29日号掲載

知る人ぞ知る、敗戦直後の年代記から始めよう。

1946年4月29日 東條英機らA級戦犯容疑者二八人起訴

1946年5月3日 連合国による極東国際軍事裁判開廷。

1946年11月3日 新しい「日本国憲法」公布。

1947年5月3日 日本国憲法および新皇室典範施行。

1948年12月23日 東條英機ら七人の死刑執行。

敗戦国・日本の占領統治の主導権を握ろうとした米国は、1945年8月30日マッカーサー連合国軍最高司令官が厚木飛行場に降り立ってから、翌年46年4月5日に第一回連合国対日理事会が開かれるまでの7ヵ月有余の間に、日本国支配のための「暦的な」イメージをほぼ固めていたと思われる。たかが暦、という勿れ。上に挙げた事項の月日が何に符合しているかを見れば、米国の意図は明快だ。戦犯としての訴追は辛くも免れ得た昭和天皇はもちろん、48年当時は15歳でしかなかった皇太子・明仁にも、父親の「戦争責任」を一生涯意識させ続けるという、米国の揺るぎない意思が、これらの日付の選択からは窺われる。

戦中から敗戦直後にかけての時期を奥日光や小金井で過ごし、父親の処刑と占領軍による自らの拘束および米国への強制埒という「悪夢」をさえ幻視したであろう皇太子(現天皇)が生きた苛烈な戦後史を思う。82歳の現在、「疲れた」でもあろう。米国が仕掛けた「罠」にも無自覚に、戦争責任を忘失したまま皇室への崇拝を止めないありがたい「国民」は、同時に、現憲法からの脱却を謳う極右政権を支えていることに、もしかしたら、天皇は「危うさ」も感じているかもしれぬ。だが、天皇という地位に留まったままで、彼が何を言おうと何をしようと、それは、真の民主主義に悖る天皇制を護持し延命させるための口実としてしか機能しない。「生前退位」の意向とて、その例外ではない。

何事にせよ、ある問題をどう考えるか――選択肢は多様にあろう。だが、マスメディアでそれが取り上げられる時、本来なら10件あるかもしれない可能性の回答例は、往々にして、3つか4つに絞られて、提起される。しあも、巧妙に排除される選択肢がある。天皇制に関わる問題は、その最たる一例である。天皇制廃絶という意見と立場があり得ること――この選択肢はあらかじめ除外されて、メディア上での議論は踊る。

しかも情報は確たるものでもないのに、錯綜している。そもそも、生前退位の「意向」が、いつ、誰に、どのような形で伝えられたのか、それが、まずNHK を通して報道されてよいとしたのは誰か。皇室報道につきものの「情報源のあいまいさ」が消えないままに、あれこれの言動が飛び交っている。私はいやだ。民主主義の根幹に関わる天皇制をめぐる問題なのに、情報源が不明なまま、解釈や論議を強いられることが。この状況を創り出している張本人が、極右の首相との対比で「善意のひと」と見なされる風潮が。

外に向かっては、この国は米国に首根っこを掴まされたままだ。皇族も、政治家、官僚も、ウチナンチュー以外の「国民」も、その支配からの離脱など夢見ることすらせずに、日米「同盟」にしがみついている。内にあっても、この体たらくだ。「主権」もない、民主主義もない。もう、たくさんだ! と叫びたい。(7月25日記)