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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[66]国連で対照的な演説を行なったふたりの「日本人」


『反天皇制運動カーニバル』第31号(通巻374号、2015年10月6日発行)掲載

戦争法案の参議院「可決」が異常な形で演出されて間もない九月下旬、1週間ほどの間隔をおいて、ふたりの「日本人」が国連演説を行なった。21日に国連人権理事会(ジュネーブ)で演説したのは、戦争法案成立の脅威をどこよりもひしひしと感じざるを得ない沖縄県の、翁長知事である。与えられた時間はわずか2分間だった。知事は、軍事基地問題をめぐって日米両国政府から自己決定権と人権を蔑ろにされている沖縄の人びとの現状に的を絞って訴えた。短い発言とはいえ、大いなる関心を世界的に掻き立てたかに見える。

その論点は、同じ日にジュネーブで行なわれた国際シンポジウムおよび翌日の記者会見、さらには帰国した24日に日本外国特派員協会(東京)での会見における発言によって、ヨリ詳しく展開された。それらを総合すると、知事が依拠した主要な論点が見えてくる。私は特に、知事が「沖縄は136年前までは、人口数十万人の小さな独立国だった」と語った後、併合・戦争・占領・返還の歴史に簡潔に触れてから「私たちは琉球王国のように、アジアの懸け橋になりたいと望んでいる」と述べた箇所に注目した。1879年の「琉球処分」時までは沖縄が独立国であったことを主張することは、歴代日本政府の主張と真っ向から対立する。沖縄も他県と同じ日本民族に属するとするのが、政府の変わることのない考え方だからだ。独立国が他国に支配されることはすなわち植民地化であり、そこへ植民者(コロン)が入り込むことによって「先住民」が生み出されるのは、世界各地に共通に見られることだ。自民党沖縄県連は、出発前の知事に対して「先住民の権利として辺野古基地反対を言うな」と釘を刺した。近代化の「影」の存在であることを強いられてきた先住民族の権利を回復する動きが、国連に象徴される国際社会の水準では具体化しており、それが「日本国家の統合性」を危機に曝すことに彼らは気づいているのであろう。

1980年代、沖縄も重要な拠点として『分権独立運動情報』という思想・運動誌が刊行されていた。近代国民国家の脆さを見抜いた、早すぎたのかもしれないその問題意識は、いま、スコットランドやカタルーニャなどにおける自立へ向けた胎動および沖縄の現在の中でこそ生きていると思える。同時に、9月末には、地主が米軍への貸与を拒否した軍用地の強制収容手続きをめぐり、沖縄県知事(大田昌秀)が国に求められた代理署名を拒否してから20年目を迎えたという報道に接すると、あのとき県を訴えて裁判にした国側を代表する首相は社会党の村山富市であったことを思い出す。そこからは、ヤマトにあって沖縄差別を実践している主体を「保守・革新」で明確に分けることはできず、「革新」派も含めた「ヌエ」的な実態であることをあらためて確認しなければならない、とも思う。

国連の場に登場したもうひとりは、29日の国連総会(ニューヨーク)で一般討論演説を行なった首相である。戦争法案をめぐる国会質疑で幾たびも答弁不能の醜態を曝しながら恬として恥じないという「特技」をもつこの男は、その演説で、どこからも要請されていない日本の「常任理事国入り」を力説したと知って、私は世界に向かって恥じた。シリアからの難民の一女性がわずかに手にしていた物の中に、日本政府がアラブ地域の女性たちに配布してきた「母子手帳」があったようだが、そのことを「わが援助の成果」として誇らしげ気に語るその姿に、〈殺意〉をすら感じた。首相の無恥な言動は、日本国に何らの責任も待たない私をすら恥じ入る気持ちにさせてしまう。加えて、記者会見で難民を受け入れるかどうかをロイター記者から問われた首相は、「人口問題で申し上げれば、移民を受け入れるよりも前にやるべきことがある。女性、高齢者の活躍だ」と答えたという。この呆れ果てた問答を、つまらぬ内閣改造のことは大々的に扱ったメディアがほとんど報道しないとは、はて面妖な、と私は思う。私が使う辞書にはない「国辱的」とか「売国奴」という表現は、首相のこの言動に対してなら使えるか、とすら思えてくる。

私が言いたいことは、こうである――2015年9月下旬、日本社会で進行する諸情勢を正確に反映した、このふたりの「日本人」国連発言に注目している外部世界の人が、もしいたならば、メトロポリス(東京)ではなくローカル(沖縄)にこそ、論理と倫理と歴史意識の担い手が実在していると考えるだろう。それも知らぬ気に生きているのは、「内国」に住む私たちだけなのだ。(10月2日記)