太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[59]東京大空襲報道から見てとるべき戦後社会の全景
『反天皇制運動カーニバル』第24号(通巻367号、2015年3月17日発行)掲載
去る3月10日、米軍による東京大空襲の日から70年目を迎えた。例年より少しは関連報道が多いように思えた。6日浅草で開かれた、空襲被害者などの民間人の戦争被害問題の解決を求める集会で、一連のA・S政権の政策に危機感をおぼえて以来、本来の氏の保守的な立場を超えた発言の目立つ憲法学者の小林節が、集会実行副委員長として「いままでこの世界を知らず、人生観が変わるほどのショックを受けている」と語ったという報道(3月7日付け「赤旗」)が目についた。その正直なもの言いに倣うと、私は私で、空襲による朝鮮人犠牲者を追悼する集いもあったという記事の中(3月8日付け「朝日新聞」と「赤旗」)で、10万人を超える犠牲者のうち朝鮮人は1万人以上だと「言われています」という「赤旗」の記述に衝撃を受けた。犠牲者の一割を朝鮮人が占めていたようだ、という推定に。「朝日新聞」は、東京の下町には軍需工場などで働く朝鮮人が多く住んでおり「空襲で相当数の人が亡くなったとされるが、人数ははっきりしていない」と記している。関東大震災とその後起きた、6千人以上と「推定」される朝鮮人虐殺という恐るべき事態は、空襲の時点からふりかえると23年前のことだ。日本近代史には、人為による死者、とりわけ異民族のそれの場合には、「おおよそ」とか「推定される」とかしか言えないような〈暗闇〉がある。そのことに私たち自身が無自覚であることで、私たちはいまなお、その場に留まり続けているのだと改めて思った。
私もスタッフとして参加している「死刑映画週間」(例年、2月に開催)では、昨年に引き続き今年も『軍旗はためく下に』(深作欣二監督、1972年)を上映した。戦没者名簿に載る夫の欄には、ニューギニア戦線で敵前逃亡した罪のゆえに処刑されたと記されており、したがって1952年に施行された戦没者遺族援護法の対象外であると厚生省に説明された妻が、夫の死の真相を求めて彼が属していた部隊の生存者を訪ね歩くうちに、事の真実が明かされるという物語である(原作は結城昌治、1971年)。戦争と戦場の恐るべき実態が明らかになる本筋もさることながら、物語の背景にある「全国戦没者追悼式」の開催と「戦没者遺族援護法」の制定という史実が、これまた〈暗闇〉の中にある戦後史の解明のために、深く示唆的であると私は思う。
敗戦国=日本の占領統治を始めることになる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、早くも1945年11月24日に、戦前の日本軍国主義を支えた基盤を断ち切る二つの措置を採用している。一つは「軍務に服した者に特権的補償を与える制度の廃止」であり、二つ目は「戦争利得の除去および国家財政の再編成」である。前者は、日清戦争、韓国義兵闘争への弾圧、日露戦争、韓国の植民地化を挟んで、第一次世界大戦、ロシア革命後のシベリア出兵など、明治維新以降の近代国家=日本が「戦歴」を積み重ねていくうえで「お国のために戦った」軍人に報いる恩給制度の根を断つ布告である。後者は、軍需会社に関わる補助金・損失補償金・工場疎開費用などを国家負担する約束を反故にする措置である。GHQの指令は、それ自体として見れば冴えており、適確だと思われる。逆に言えば、延命できた日本の戦前体制の護持者――退位しなかった天皇とその周辺者、政治家、軍関係者、官僚たち――からすれば、近代国民国家には不可欠な「戦死者を殉国者として顕彰する」装置である軍事恩給制度を禁じられたのだから、その「口惜しさ」と「屈辱感」も一入だったと思われる。
戦後においても、戦争責任を追及されることなく支配体制の中軸に居座り続けた彼らは、果たせるかな、占領下にありながら、占領体制解除=独立後の社会の準備を怠ることはなかった。1952年4月28日サンフランシスコ講和条約公布の2日後の同30日に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布された。1回目の「全国戦没者追悼式」は、5日後の5月2日に実施された。戦争被害に関わる補償制度は、この段階で、旧軍人およびその遺族を特権的に遇し、民間人の被害は「受忍」させる原則が定められた。同時に「国籍による外国人の排除」も確定した。旧軍人であった本人と遺族に対する支給金は、52年以降現在に至るまでに総額54兆円となった。それは、明らかに、身内の死を〈金目によって癒す〉作用としてはたらいた。それは、自らの社会が総体として行なった植民地支配と侵略戦争に対する反省の契機を私たちから奪い去った、大きな理由の一つをなした。
東京大空襲をめぐる報道から、私たちはこのような戦後社会の全景を見て取るのである。
(3月14日記)