太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[57]「戦争」と「テロ」を差別化する論理が覆い隠す本質
『反天皇制運動カーニバル』22号(通巻365号、2015年1月13日発行)掲載
宗教上の信仰が、ある種の「狂気」を帯びて表現されることがあることは、歴史上たびたび見られることである。スペイン王の資金援助で行われたコロンブスの大航海に始まる「征服」は、キリスト教を錦の御旗に立てて行なわれたが、それがどれほどの残忍な先住民の虐殺と奴隷化を伴っていたかは、よく知られている。いきなり現代に跳んで、オウム真理教に集う一部の人びとが確信をもって行なったいくつもの殺人行為も挙げることができる。最近でいえば、「イスラム国」なりイスラム教徒が絡んでいると伝えられる「テロリズム」行為が頻繁に起こっている。若いころをふりかえれば、それが宗教的な局面に限らずとも、我が身のことでもあったと思う人は少なからずいるだろうが、自らが信奉する理念に過剰な意味付与をして、自分の客観的な姿を見失い、その道をまっすぐに突き進む人びとは、絶えることはないのである。
去る1月7日パリで起きたばかりの新聞社襲撃事件も、むごい事件ではあった。事態の真相は今後の解明を待つしかないが、12人の中に風刺漫画家のシャルブことステファヌ・シャルボニエが含まれていることに、小さくはない衝撃を受けた。フランスのLCR(革命的共産主義者同盟)の創始者のひとりで、NPA(反資本主義新党)の創立にも参加したダニエル・ベンサイド(1946~2010年)に、ひたすら護教的であることの制約から解放された、いかにも現代的なマルクス入門書『マルクス〔取扱説明書〕』がある(つげ書房新社、2013年)。シャルブはこの書に、幾枚もの挿絵を寄せているが、その絵は、翻訳者もいうように「諧謔に満ちた痛烈な」もので、描き手が柔軟な精神の持ち主であることを思わせる。今回新聞社を襲撃した者たちは「預言者(ムハンマド)の復讐だ」と叫んだと伝えられているが、シャルブおよび週刊紙「シャルリー・エブド」がこれまでムハンマドを(というよりは、風刺画としては、ムハンマドを護教的に崇拝する者たちの在り方をこそ描いていたのではないか、と推測するのだが)どのように描いてきたのか、その「風刺性」がどんな水準で成立していたのか、大いなる関心を掻き立てられる。
今回の報道を見ながら、もうひとつ指摘しなければならないことがある。フランスのオランド大統領を含めて、口をきわめて「テロを非難」する各国の政治家たちの言動とメディアの報道の在り方に関して、である。「イスラム国」の現実やイスラムを標榜して行なわれている「テロリズム」が、仮にどんな非難に値するものであったとしても、それらが生まれてきた背景には、時間的に短く見ても、2001年の「9・11」事件以降、米国が主体となりNATO(北大西洋条約機構)加盟の各国などが加担してきたアフガニスタンおよびイラクにおける「反テロ戦争」があることに疑いはない。それが、どんな虚構に満ちた「戦争の論理」であるかということを、私たちは当初から批判してきた。この政策を推進した前ブッシュ政権で国防長官を務めたラムズフェルドも、国務副長官であったアーミテージも、今になって「歴史や文化が違う他国に、自分の国の統治システムを強いることができるとは思わない」とか「イラク侵攻は最悪の誤り」などと語っている(2014年12月30日付毎日新聞)。
彼らの常套手段は、国家が発動する「戦争」と個人か小集団が行なう「テロ」の間に万里の長城を築いて、差別化を図ることである。国家が行なう行為である以上、彼らの考えでは、「戦争」は非難を免れ得る。逆に「テロ」は国家という正統なるものを背後にもたないがゆえに、無条件に非難の対象となるのである。「戦争」とは「国家テロ」にほかならないのではないか、という疑念が彼らの頭の片隅をよぎることすらない。
昨今、オバマ大統領は、パキスタン、イエメン、アフガニスタン、イラク、イスラム国などで無人機爆撃を展開しているが、その結果地上にどんな惨劇が生じているかが、せめて今回のパリ事件のように大きく報道されるならば、「戦争」と「テロ」が相関関係にある現実が、人びとにくっきりと印象づけられるだろう。今回のパリの死者の場合、私が触れたシャルブのように12人のうち少なくとも5人の風刺漫画家は、写真とともに名前が明示された。アラブ世界のどこかできょうも、米国の無人機からの爆撃を受けて死んでゆく人びとの場合は、名前どころか死者の正確な数が報道されることすら稀だ。この「非対称性」こそが、問題の根源にあることを忘れるわけにはいかない。
(1月10日記)