太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[55]四、五世紀の時間を越えて語りかけてくる、小さな本
『反天皇制運動カーニバル』第20号(通巻363号、2014年11月11日発行)掲載
現在のように、あまりに虚偽に満ちた言説が大手を振って罷り通る時代には、これを批判するためには目を背けたくなる言動とも付き合わなければならない。「慰安婦」問題はその最たるものだ。だが、それだけでは心が塞がれる。いしいひさいちの『存在と無知』『フラダンスの犬』『老人と梅』『麦と変態』『垢と風呂』(挙げていくと、きりがない)などの漫画本で気を晴らしたりもするが、気晴らしではない小さな文庫本を幾冊も手元に置いて、落ち着いて読みたくなる。そのうちの数冊からは、拾い読みでも、この耐え難い「現在」を生き抜くうえでの智慧と力を与えられる。歴史の見通し方を教えられる。いずれも幾世紀も前に書かれ、本文だけなら文庫本で百頁にも満たないか、せいぜい200頁程度の小さな書物だ。誰でもそんな本をお持ちだろうが、最近の私の場合について書いてみる。
1冊目は、今までも何回も触れてきた書だが、スペインのカトリック僧、ラス・カサス(1484~1566)の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原著は1552年刊、岩波文庫。A5版の単行本だが現代企画室版もある)である。彼はコロンブスの米大陸到達後に行なわれ始めた「征服」の事業に参加し、その行賞で先住民の「分配」にも与かった人物だが、やがて同胞が行なう先住民虐殺や奴隷化の実態に気づき、先住民が強いられている悲惨きわまりない状況を目撃することで、「征服」の批判と告発に晩年を捧げた。ヨーロッパの植民地主義を内部から批判した古典的な書物である。1960年代、米軍がベトナムで繰り広げる虐殺を見ながら、ドイツの作家、エンツェンスベルガーはラス・カサスのこの書を想起した。私たちも刊行から460年近くを経たいま、アフガニスタンやイラク、そして無人爆撃機による攻撃に晒される土地と人びとの現実と二重写しにしながら本書を読むことができる。強者にとっては、昔も今も「植民地は美味しい」のだ。
2冊目は、フランスの思想家、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530~63)の『自発的隷従論』(執筆は1546年あるいは48年と推定、ちくま文庫)である。モンテーニュの友人として知られるラ・ボエシは、16歳か18歳のころの著作と言われる本書で、いつ、どこの世にも圧政がはびこるのに、その下で生きる人びとが忍従に甘んじているのかなぜか、と問い、人間の集団的心理がもたらす倒錯をするどく考察する。これまた、現代日本社会を活写しているかのような生々しい印象を受ける。翻訳版で特筆すべきは、ラ・ボエシの著作に深い示唆を受けていた思想家、シモーヌ・ヴェイユと、南米パラグアイの先住民族社会の在り方を深く研究した政治人類学者、ピエール・クラストル(『国家に抗する社会』水声社、『グアヤキ年代記』現代企画室などの翻訳がある)の掌編が収められていることである。いずれも30歳代の若さで生涯を終えた3人の論考の前に頭を垂れる。
3冊目は、対馬藩で対朝鮮外交に携わった雨森芳洲(1668~1755)の『交隣提醒』(執筆は1728年と推定。平凡社東洋文庫)である。私は先年、芳洲の故郷=琵琶湖北東岸の町・高月で記念館を訪れた時に、私家版で出ていた本書を入手し読んでいたが、平凡社版は「解読編(読み下し文)」「原文編」及び長文の「解説」から成っていて、読み応えがある。二度にわたる秀吉の朝鮮侵略の傷跡深い17世紀から18世紀にかけて、対朝鮮外交(=交隣)の先頭に立った芳洲が、どんな考えに基づいて何を行なったか、が明らかにされている。芳洲の考えの真髄は、「誠信と申し候は実意と申す事にて、互に欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」とする点にある。日朝ともに、ことさらに相手側の非を鳴らすことなく、互いの実態をよく知ったうえで交わるべきだとの論理だが、主観的な国内向けの論理を振り回すのではなく、客観的な国際常識に則った行動をと訴える主要な相手は、もちろん、藩主であり対馬藩全体の人びとだ。朝鮮通信使の受け入れをめぐって起こる困難な事態にもいくつも触れている。秀吉の戦役の際に切り取った朝鮮人の耳鼻を収めた耳塚を「日本の武威を示す」ために通信使に見せようとする役人を厳しく批判する。現在、対韓・対朝外交に当たる者にこの識見あらば! とつくづく思う。
重厚な大著にも大河小説にも、もちろん、よいものはあるが、掌編と言うべきこの3冊の小さな文庫本に漲る歴史意識・論理・倫理に、目を瞠る。(11月8日記)
【追記】エンツェンスベルガ―論文は「ラス・カサス あるいは未来への回顧」といい、現代企画室版『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(石原保徳=訳)に、田中克彦訳で収められている。
ピエール・クラストルの『グアヤキ年代記』はこちらで。
クラストルの翻訳には、もうひとつ『大いなる誇り』(松籟社刊)がある。「グアラニーの神話と聖歌」についての著作で、私は刊行直後の1997年4月に書評をしているが、このブログに記録されているのは同年後半以降に書いたものなので、ネット上では読めない。『日本ナショナリズム解体新書』(現代企画室、2000年)には収録されている。