太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[54]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その2)
『反天皇制運動カーニバル』第19号(通巻362号、2014年10月7日発行)掲載
「本来なら躓いているはず」の首相A・Sらが、まるで論理的な傷を負っていないかのようにふるまうのは、素知らぬ顔で論議の次元をズラしているからである。そのズラしは、意図的に行なわれている。なにしろ、彼は「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」(2013年4月23日参議院予算委員会)と公言するような人物である。アジア太平洋戦争が日本のアジア侵略から始まったという、隠しようもない本質をごまかし、戦争から「加害・被害」の性格を消し去ること。彼の本意はそこにこそある。うぉっーという怒りの声が、国の内外から挙がっても当然な、恥知らずな言動である。恬として恥じずにそれを繰り返す人物が生き延びているのは、「内」からの批判・抗議・抵抗の声が小さいがゆえに、である。彼はこの国内的な状況を利用して、戦時下のもろもろの問題について述べるときにも、戦争をめぐるこの大枠の捉え方を壊すことなく、展開する。
この立場を「慰安婦」問題に応用するときにはどうするか。植民地の女性を「慰安婦」として働かせるにあたっての「強制性」をめぐる論議に、意味をなさない「狭義・広義」という分断線を持ち込むことである。首相A・Sは、第一次政権時に次のように語っている。「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」(2007年3月5日参議院予算委員会)。問題の核心はすでに、「長期に、かつ広範な地域に設置された慰安所は、当時の軍当局の要請によって設営され、その設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与」(1993年の「河野談話」から要約抜粋)したことの「強制性」にこそ置かれていた。問われれば、彼は答えるであろう、「広義の強制性があったことを否定したことは一度もありません」と。だが、それは「侵略を否定したことは一度もありません」との発言と同じく、問われなければ触れることもない、付け足しの物言いでしかない。彼は土俵を常に、自分に有利な場所に勝手に設置するのである。自分の見解が客観性を保つことに、彼は関心を持たない。彼が固執する論点を移動させなければならないからである。不利な場所に自らを置くことになるからである。
党首に返り咲いた5年後にも、次のように語っている。「そもそも、朝日新聞の誤報による、吉田清治という、まぁ詐欺師のような男が作った本がまるで事実かのように、これは日本中に伝わっていった事でこの問題がどんどん大きくなっていきました」(2012年11月30日の日本記者クラブ主催党首討論会)。2012年の段階でなお、この人物は、朝日新聞の「誤報」を頼りに、この問題についての発言をしていた、否、次のように言うべきだろう、この問題について発言するときには、唯一この観点でしか物を言っていない、と。当該の問題に関する研究・調査が、どこまで深化し進展しているかにも、彼は関心を持たないことを、この事実は示している。産経新聞と(最近では)読売新聞を日々の教科書にしている彼からすれば、旧来の図式をなぞるように発言する材料に事欠くことはないからである。
朝日新聞の紙面と、ETV特集「戦争をどう裁くか」で戦時性暴力を取り上げようとした2001年までのNHKの一部番組には、「慰安婦」問題をめぐる動きを、「内」(=加害)と「外」(=被害者側の視点、および世界的な人権意識の深化)の複眼で捉えようとする試みがあった。自国の近代史から侵略の史実を消し去るために「内」に籠ろうとする意識が、そこでは揺さぶられる。1997年に『歴史教科書への疑問』を刊行した「若手議員の会」の主軸メンバーであったA・Sは、まず2001年にNHKに圧力をかけて右の番組を改変させた。その延長上に、権力の前に全面的に屈した13年後の現在のNHKの姿がある。朝日新聞は、このNHK番組へ圧力をかけた政治家の名をA・Sの名入りで他のメディアに先駆けて報じたことでも、彼にとっては「許すべからざる」新聞である。こうして、現在の朝日バッシングの陰には、明らかに首相官邸の姿が見え隠れしている。
来年は日本の敗戦から70年目の節目を迎える。70年を経てもなお、戦時下の「記憶」をめぐるたたかいを、卑小な「敵」を相手に続けなければならないとは、情けなくも徒労感を覚える。人間がつくり上げている社会の論理と倫理、歴史意識とは、古今東西この程度のものが大勢を占めてきたという実感に基づいて、歩み続けるほかはない。(10月4日記)