ウカマウ集団の長征(8)1980年、『第一の敵』自主上映へ
さて、これからは、1980年に始まる、日本におけるウカマウ集団作品の自主上映運動に本題は移るのだが、これを書いているのは2014年――34年後の今も上映運動は続いており、全作品を回顧上映する「レトロスペクティブ」が各地で実施されようとしている。途中でのいくつかの作品は「共同制作」となって実現したことも含めて、思いもかけない展開となった、というのが偽らざる実感である。
ウカマウ集団の最高作だと私が考えている『地下の民』に登場する村の長老は、山の神々に供物を捧げながら「われらが過去は現在の内にあり、過去は現在そのものです。私たちはいつも、過去を生きつつ同時に現在を生きています。われらが古き神々よ。イリマニ山の神よ。古のワイナポトシの神よ。われらが未来を予見することを許したまえ」と語る。過去→現在→未来へと、時制が直線的に移行するのではなく、その時間概念は循環的・円環的で、時制は自在に入り混じるのが先住民の精神世界の特徴だとは、ホルヘ・サンヒネスがよく強調するところである。文学を読んでいても、私はそのような時制の世界に魅力を感じるが、上映運動開始以降の34年間の経緯を綴る以下の文章において、果たして私にそのような記述が可能かどうか、覚束ないままに書き始めてみる。
帰国当初は生活に追われた。3年半も不在にしていたのだから、生活の基盤作りが必要だった。部屋の片隅にある『第一の敵』16ミリ・フィルムのことは常に頭にあり、目にも入っていたが、手つかずのままだった。数年して、ある程度生活の目途がついてくると、やはり何とかしなければ、とあらためて思った。唐澤秀子が学生時代、オーケストラ部の先輩であった柴田駿氏がフランス映画社を運営していた。相談してみたが、この映画がもつ「政治性」ゆえに、日本では商業公開に向いていない、「敵」という言葉がタイトルに入るだけでアウトだが、自主上映という道があるよ、と教えてくれた。昔の仲間20人ほどに集まってもらって、字幕なしのまま『第一の敵』を観てもらった。いけるよ、おもしろい――そんな意見が多数を占めた。これで心が決まった――自主上映でいこう。1980年のことである。
まず紹介してもらったのは、テトラという名の字幕入れ会社である。東京の下町にあって、面倒見のよい、個性的な社長、神島きみさんがいた。私たちのように、配給会社を興す気持ちもなく、素人のまま「小国」の無名監督の作品を自主配給しようとする個人にも信頼を寄せてくれた。彼女はのちに『字幕仕掛人一代記』(発行=パンドラ、発売=現代書館、1995年)という本を出すが、この世界に関心のある方にはおもしろい本だ。作業手順を教えられる。映画フィルムの上に、字幕を書き込んだフィルムを焼き付けること(スーパーインポーズと呼ばれる)で、字幕スーパーは完成する。まず、フィルムの横に記録されている、光学変調された音声トラック部分、すなわちオプチカルを拠り所に、演技者が話している台詞の秒数を割り出し、日本語字幕に使用できる文字数を決めていく。この作業は「スポッティング」と呼ばれる。その際、フィルムには「ここからここまで字幕を入れる」というマーキングを、ターマトグラフを用いて施す。『第一の敵』の場合、このオプチカルを聞き取ることに高い障壁がある。ウカマウ集団からはスペイン語の台詞リストが送られてきている。画面で話されているのがスペイン語の場合は問題ない。字面と音声は合致する。ところが、先住民農民はケチュア語を話すが、台本ではその部分もスペイン語訳されている。字面と音声は合致しないから、その一致点を見出すのが一苦労である。ここに、アヤクーチョで求めた『アメリカニスモ辞典』やラパスで入手した『ケチュア語・スペイン語辞典』の出番がくる。たとえば台詞の中に「風」とか「石」とかの名詞が含まれているなら、そのケチュア語を調べ、その音が聞こえる一続きの台詞を特定していくのである。職人さんが持つ独特の勘に助けられながら、作業を進めた。ふつうは一日で終わる仕事が、二日も三日もかかったりする。
その点でふり返ると、34年間の時の流れは長い。『第一の敵』のフィルムは一本しかないままあまりに酷使されたので、20年近く経つと劣化も著しかった。一番貸し出しの多いフィルムなので、2000年には思い切って新フィルムを輸入した。その時点では、東京にケチュア語を解する人が生まれていたのである。ペルー・ケチュア語アカデミー日本支部のマリオ・ホセ・アタパウカル氏とお連れ合いの矢島千恵子さんである。新しいフィルムの字幕入れの際には、お二人の協力を得た。マリオさんはクスコ生まれだが、驚いたことには、『第一の敵』に出演している人物をふたりも知っていたのである。『第一の敵』がクスコ周辺で撮影されたことには、すでに何度も触れたが、そのことに由来する偶然のなせる業である。この貴重なエピソードに関しては、マリオさんに一つの文章を書いていただいた→「『第一の敵』で旧知の人びとに出会う――サトゥルニーノ・ウィルカとファウスト・エスピノサの想い出」(太田編『アンデスで先住民の映画を撮る』、現代企画室、2000年、所収)。
最初の長編『ウカマウ』に加えて、1989年の『地下の民』以降はアイマラ語を用いる作品が増えていくが、長いこと、私たちは『第一の敵』の最初の字幕入れと同じ作業を繰り返してきた。ところが、2014年の『叛乱者たち』の字幕入れの時には、アイマラ語を解する藤田護氏が助けてくれた。同氏はボリビアでの研究生活が長い。ケチュア語、アイマラ語などの先住民族言語も研究対象である。知人であるラパス在住の日本人青年たちが2005年に、在ボリビア日本人・日系人に向けてウカマウ映画の上映会を開いたことがあったが、藤田氏はその時のスタッフでもあった。私たちにとっての34年という歳月は、遥か彼方のアンデス地域の先住民族言語を解する人びとがこの地にも生まれた、ということを意味していて感慨深い。
さて、定められた字数に基づいて、翻訳する。推敲を繰り返し、訳稿を完成する。テトラに字幕は入れてもらった。独特のタッチで文字を書く字幕ライター「カキヤ」の仕事である――1980年春。続けて、チラシの作成、本上映の会場予約、試写会の開催など一連の準備が続く。お金がない。友人たちから100万円を借りた。会場は御茶ノ水の全電通ホールを予約した。6月末の2週連続で金曜日夜と土曜日の午後~夜である。1980年当時はまだ、大労組は自前の会館を一等地にもち、ホールをけっこうな高額で貸し出していた。試写会は順調に進んだ。当時大きな影響力を発揮し始めていた『ぴあ』『シティロード』『小型映画』などの情報誌の編集者も、一般紙の映画担当記者も、取り上げてくれた。イメージフォーラムが四谷三丁目にあったころ、そこも試写会場に使った。知人の松本昌次氏(当時、未来社編集者、その後影書房主宰)は、試写会場から出てくるなり「ブレヒトだ!」と叫んだ。演劇好き、ブレヒト好きの松本氏らしい感想だった。この言葉が意味する的確さについては、あとであらためて触れたい。朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、東京新聞も、映画欄でそれなりの大きさで取り上げてくれた。ボリビア映画、ゲリラと農民の共同闘争――そんな説明がなされていれば、人びとはまだ、13年前のことでしかない、1967年ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死を否応なく思い出す時代であった。記事の末尾に記された自宅の電話がひっきりなしに鳴り響いた。
前年の1979年、中米のニカラグアでは、サンディニスタ民族解放戦線が、1930年代から続いていたソモサ一族の独裁体制を打倒する革命に勝利していた。その過程で先住民族が果たした重要な役割に注目した私は、それを『第一の敵』に登場する先住民族像と重ね合せて論じた文章を『日本読書新聞』にペンネームで寄稿した。それは「反乱するインディオ――ニカラグア革命一周年に寄せて」と題して、上映日直前の同紙に掲載された。
このような反応をみているうちに、私は確かな手応えを感じ始めていた。友人、知人はもとより、観てほしいと思った作家、詩人、文化人類学研究者などにチラシと当日清算券を送る作業を重ねているうちに、上映当日が近づいてきていた。(4月25日記)