短期間に終わった出会いの記憶に――片島紀男氏に
文化冊子『草茫々通信』6号「特集 片島紀男の仕事」
(2013年4月25日発行、書肆草茫々、佐賀市)掲載
片島紀男氏の存在を知ったのは、いつだったのか、覚束ない。著作も多いが、氏の主たる仕事が映像ディレクターであったことから、いま、氏が制作したテレビ作品一覧を眺めてみると、私が観たのはわずか2作品でしかない。1995年『埴谷雄高「死霊」の世界』と2001年『吉本隆明がいま語る 炎の人 三好十郎』である。自宅にテレビをおかない時期も長かったし、テレビを入れてからも帰宅が遅いこともあって、今なら見逃すはずのない戦争期に関わる記録番組も、井上光晴の番組も、トロツキー紀行もまったく知らずに生きてきた。埴谷・吉本のご両人は、テレビに出演すること自体が珍しい文学者なので、おそらく事前広報が行き届いたのだろう、私も放映以前に察知できた。加えて私が深い関心を持ち続けてきた二人の思想家なので、これを見逃すはずはない。観て、かつ(今は行方不明だが)珍しくも録画までしている。
二人の文学者が語りつくした内容も、もちろん、さることながら、こんな番組を制作するテレビのディレクターが存在することに驚きをおぼえた。『死霊』は、1960年代半ば私が学生であった頃は、冒頭の部分を収めただけの真善美社版が、わずかな古書店で入手できただけであったが、私は当時の生活感覚からすれば高価なそれを買い求めては読み耽り、手元不如意になると同じ書店に売り飛ばすという、わけのわからぬ行為を何度も繰り返していた。それほどまでして手元において、事あるごとに目を通したい書物の筆頭に『死霊』は位置していた。そしてその後長い時間をかけて書き進められていく経緯を同時代史として現認していたわけである。
『死霊』だけではない。埴谷が書く政治論も文学論も映画論も、さらにあらゆるジャンルの断簡零墨のすべてを収録した評論集の一冊一冊が、私の心を捉えた。若いころ愛読している作家や思想家が現存している場合、距離のとり方が難しい。会って一言でも話したいという願望と、読者としてはあくまでも文章を通してのみの、一方的なつき合いに留めておく方が賢明だという冷静な判断の間で揺れ動く。埴谷の場合、私は後者を選んだ。ある会合で近くに見かけたこともある。訪ねようと思えば、伝手はあった。それでも、敬して遠ざけた存在で、埴谷の場合は、あったほうがよい。それが私の選択だった。
敗戦50年後を迎えた1995年正月、実際の声は聴くまいと思い定めていたその人が、あろうことか、テレビに出演して喋りだした。『死霊』の世界を自ら語り出して留まるところを知らない風だ。構成、作品からの引用、ナレーション、質問の仕方――そのすべてに私は圧倒された。しかも、それは五夜にわたって続けられた。埴谷が拘泥した「存在の革命」の内実が解き明かされてゆくこんな番組を実現させたディレクターの手腕に、私は真底驚いた。それが、テレビ番組を通しての片島氏との最初の出会いだった。
番組の内容は、2年後の1997年には『埴谷雄高独白「死霊」の世界』(NHK出版)と題して書物にまとめられた。埴谷の死後5ヵ月目だった。その手際のよさにも感心したが、この本に添えられた第三者の文章を読むと、やはり埴谷にとってテレビに出演するなどとは、死後の放映でない限りあり得ないことだったようだ。その条件を呑むかのようにして、ともかく本人の口を開かせカメラを回してしまったディレクターの「迫力」を感じて、あらためて唸った。
こうした片島氏の存在を意識しながら、その後も毎年のように制作された氏のテレビ番組を観る機会が、なぜか私にはなかった。6年後に観たのが『吉本隆明がいま語る 炎の人 三好十郎』である。語る人も、語られる人も、私には魅力的だった。吉本の著作は埴谷のそれと同じような重量をもって、私の中に位置を占めていた。そして、学生時代にうまくは出会うことができなかった三好とは、20世紀末以降の政治・社会の激変のさなかで、私は必然的に再会していた。左翼思想と運動への加担、転向、戦時体制への翼賛、戦争責任論、戦後進歩派への懐疑――三好がその後半生を費やして拘った諸問題が、そのころ、新たな意味合いを帯びて私に迫ってきていた。三好の著作を読み、その戯曲の演劇公演があればできる限り観る日々を私が送っていたころに、時期的に重なり合って、前述の作品は放映された。
この番組もまた、その完成度において、深い印象を私に残した。番組には三好の伝記的な事実が巧みに織り込まれていた(それには、片島氏のNHK勤務の初任地が、三好の出身地の佐賀であったことにも与かっていたようだが、片島氏の初任地=佐賀勤務が14年間も続いた経緯などは後日になってから知った)。三好の人生の軌跡と作品の誕生およびその変貌の経緯が、京都・三月書房の宍戸恭一と吉本の的確な批評によって辿られていた。宍戸は、先駆的な三好論『現代史の視点』(深夜叢書社、1964年)と『三好十郎との対話』(同、1983年)の著者である。三好の生涯と作品を「悲しい火だるま」と呼んだという吉本が、テレビ・カメラを前に話す様子も初めて観た。講演は若いころから何度か聴いているが、変わることなく言い換えと繰り返しが多く、耳に入る言い回しは決して明快とは言えない。だが、吉本の発想と論理の骨格を知っていると、彼が言おうとしたこと自体は、私の中に明快な像を描いて、残った。それは、おそらく、番組の「構成」がすぐれていたことにも由来するものだろう。
こうして、私が接することができた片島氏の数少ない映像作品からは、作家の世界に深く分け入る独特の方法に学ぶところが多かった。「映像ディレクター=片島紀男」の名は、くっきりと私の中に刻み込まれた。放映から二年後、氏は『悲しい火だるま―評伝三好十郎』(NHK出版、2003年)を出版した。これは著作権抵触問題のために絶版回収されたが、氏は挫けることなく、改訂版『三好十郎傳―悲しい火だるま』(五月書房、2004年)を出版した。600頁近い大著だった。仕事ぶりはエネルギッシュで、徹底したものだった。いつか出会う機会があれば、と望まないではなかった。
意想外な理由から、その出会いは実現した。最初の出会いが、いつ、どこであったかの記憶はない。日記は、その年が終わると処分してしまう習慣を持つ私には、復元する術がない。片島氏が亡くなった年である2008年から逆算すると、2005年あたりの出会いであったろう。三鷹事件・帝銀事件など戦後史に関わる映像作品を制作し、著書も持つ氏は、やがて帝銀事件の死刑囚、故平沢貞通の無実を確信し、再審請求の活動に携わるようになった。私は私で死刑制度廃止運動に以前から関わっており、その場の共通性から、出会う機会に恵まれたのだった。初めて会ったときに交わした言葉も、埴谷と三好の映像作品に関する印象を私がそのとき伝えたか否かも、情けなく、そして無念だと思うが、覚えていない。二度目の出会いは、私の事務所がある渋谷で開かれた平沢貞通の個展会場においてであった。逮捕・幽閉される以前の平沢の作品の「発見」はなお続いている時期で、そこで初めて観る作品がいくつか、あった。作品をめぐってはもちろん、死刑廃止の実現のために今後も連絡を取り合って、いろいろな手を尽くそう、などという話を交わした。それから間もなく、片島氏は、私の渋谷の事務所へ訪ねて来られた。帝銀事件再審請求運動への協力を私にも要請し、その訴えをしかるべき人びとにも広めてほしいということだった。できる限りのことはします、と約束した。
その時だったか、それとも別な機会だったか、氏は私にもう一つの協力を乞うた。レオン・トロツキーを暗殺したラモン・メルカデルの弟が残している回想記を翻訳してもらえないか、という要請だった。1994年に『世界わが心の旅 メキシコ・トロツキー 夢の大地』という映像作品(未見のため、旅人は誰だったのかも、私は知らない)を持つ氏は晩年のトロツキーに関する書物を準備中で、暗殺者の近親者がスペイン語で書いたその回想記の重要性を感づかれたらしかった。私がスペイン語を解することも含めて、ある程度は私のことも理解されたうえでの申し出だったのだろう。
関心は大いにあるが翻訳するまでの時間はない私は、別な適任者に翻訳してもらい、半年後くらいだったか、できあがった訳稿に目を通したうえで片島氏に送った。それは『トロツキーの挽歌』(同時代社、2007年)に生かされた。読みながら、私は、60年安保闘争を軸とする学生運動へ関わって以降の課題のひとつに、片島氏はこれで「ケリ」をつけたかったのだろうと思った。
日常的に常に連絡を取り合っているという関係ではなかった。「死刑制度廃止」という課題の共通性はあり、そして何よりも、埴谷雄高や三好十郎、吉本隆明、ゾレゲ、トロツキーなど、共通の関心事項はあるのだから、いつかじっくりと語り合う機会はあるだろうと確信していた。その日は、放っておいても、いつか来る――いま思えば、何の根拠もなく、そう思い込んでいた。
だから、氏の逝去を報じる2008年12月24日の報道は衝撃だった。いまでも、悔しさはつのるばかりだ。私にとっての埴谷雄高がそうであったように、著作を通して知っていれば十分、という関係性は、もちろん、あり得る。そのひとと実際に知り合う機会を得ながら、それが不十分なままに突然断ち切られると、悔いと無念さが、いつまでも消えない。人間とは厄介な存在だ、とつくづく思う。
片島さん! 失礼ながら少しいかついが、人懐こいあなたの笑顔を思い浮かべならが、人間の「存在の革命」と、人間がその中で生きる「社会の革命」をめぐっての、あなたとの想像上の対話を続けたい。応えてください、私の問いかけに。(3月16日記)