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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団と日本からの協働――歴史観と世界観を共有して


眞鍋周三編『ボリビアを知るための73章』【第2版】(明石書店、2013年2月刊)所収

ボリビアの映画作家、ホルヘ・サンヒネスらが形成する「ウカマウ集団」の作品は、1980年以降、そのすべてが日本で公開されている。基本的には、非商業レベルの自主上映形式である。国際的には一定の知名度をもつ映画集団であり監督ではあるが、小さな国の映画集団であることを思えば、あまり例を見ないことである。ここでは、そこへ至る過程を述べるものとする。

ラテンアメリカの歴史と文化、実際に行なわれているさまざまな文化表現に関心を持つ唐澤秀子と私・太田昌国が、ラテンアメリカ遍歴の道程でエクアドルに滞在していたのは1975年のことである。ある日、キトの街を散策していると、街頭の壁に貼られた一枚のポスターに気づいた。切羽詰った表情をしたひとりの先住民青年が銃を手に構えている。エクアドルではすでに何万人が観たとか、いくつかの惹句が添えられた『コンドルの血』というボリビア映画の宣伝ポスターであった。この地域を理解する鍵のひとつは、先住民に関わる諸問題だと痛感していた私たちは、その足で会場へ向かった。

衝撃的な作品であった。アンデス先住民の農民がスクリーンで話しているのはケチュア語で、まったく理解はできない。都会の人間が話すスペイン語や米国人の英語の一部が聞き取れるだけだ。だが、物語の筋は十分に見える。とあるアンデスの寒村が舞台だ。結婚したカップルが幾組もあるのに、村ではここ数年子どもの誕生がない。なぜだろう、と訝しく思った首長は、数年前から米国の医療チームが低開発国援助の名の下で診療活動をしている診療所をのぞく。そこでは、地元の若い女性に対して、本人の同意を得ない不妊手術がなされていた。真相を突き止めた村人たちは怒り、医療チームの住み家を襲うが……と物語は展開する。

米国の平和部隊が何らかの理由でボリビアやペルーから追放された1970年前後の出来事は、日本にいた頃に知っていた。明かされた事実の衝撃性もさることながら、見慣れた日本や欧米の映画とは異なるカメラワークなどの映画作法も新鮮だった。会場にはチラシも何もない。係に乞うと、それはないが、映画の監督がいま亡命者としてキトにいるという。私たちの連絡先をおいて、その日は去ったが、翌日逗留先のホテルに現れたのが監督のホルヘ・サンヒネスとプロデューサーのベアトリス・パラシオスだった。私たちは映画の感想を語り、広くさまざまなテーマについて語り合った。歴史観や世界観に著しい近さを感じる人たちであった。

その後、亡命先を転々とする彼らと、旅を続ける私たちは、幾度となく会う機会をつくった。コロンビアで、メキシコで。その間に、今までの作品をすべて見せてもらった。ウカマウの作品群は、単にアンデス地域に限定されることのない、広く帝国―第三世界の諸問題を、歴史的・芸術的に提起している優れたものであるとの確信を得た。帰国する私たちに、彼らは一本の16ミリ・フィルムを託した――『第一の敵』。日本での上映の可能性を探ること。それが双方の約束事であった。

1970年代後半、その頃、小国の無名作家の映画を商業公開する可能性はまったくないことが、すぐわかった。自主上映する方針を決め、字幕用の翻訳をはじめとする多くの作業を自力でやることにした。不足する資金は、友人たちから借りた。1980年6月、2週連続の週末4日間、定員400名ほどの会場で6回の上映を行なった。入場者総数2000人。驚くべき数であった。ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死から十数年、まだその記憶が鮮明な時代であった。初公開されるボリビア映画は、ゲリラと先住民貧農の共同闘争をテーマとしているとの情宣を行なったので、それが効いたのかもしれぬ。

東京上映成功の報を聞いて、全国各地から上映計画が寄せられた。名古屋・京都・大阪・那覇・広島・札幌・神戸・仙台・博多・水俣・佐世保――わずか一本の16ミリ・フィルムが全国を旅し始めた。生業を別にもつ私たちは、上映収入から最小限の必要経費(フィルム代・字幕入れ代・チラシ印刷費・会場代など)を落とした残りはすべてウカマウに還元するという方法を原則とした。当時ボリビアは民主化の過程を迎えており、長い間亡命していたサンヒネスらはそのたたかいの過程を記録している時だった。日本からなされる送金が次回作の制作資金の一部となるという、当初からの構想が具体化し始めた。その後数年のうちに、既存の作品はすべて輸入して、次々と上映会を行なった。送金額も順調に増え続けた。5年後の1985一年、次回作を共同制作しないかという提案がウカマウからきて、あらすじも送られてきた。力不足を自覚しつつも同意し、シナリオの検討、資金の調達などに力を尽くした。上映時には入場券となる前売り券を多くの人びとが買って、支えてくれた。数人のスタッフが撮影現場に参加する計画も立てたが、現地の政情不安定ゆえにロケ日程が確定できず、これは不可能だった。

その作品は四年後『地下の民』となって完成をみた。サン・セバスティアン映画祭でグランプリを獲得するほどの優れた作品だった。東京・渋谷の仮設小屋でのお披露目公開では、連日長い行列ができた。その次の作品『鳥の歌』でも一定の共同作業を行なった。シナリオ段階で意見を出し、ほぼ完成状態で送られてきた作品の、一部のストーリー展開や音楽の用いられ方に異見を出した。それらは採用され、手直しされたものが最終的には送られてきた。

サンヒネスは、2000年、私たちの招待で来日した。東京・木曽・名古屋・大阪で「上映と討論」の夕べを開いた。20年間、ウカマウ映画を見続けてきたフアン層の厚みを実感できる集まりとなった。

ウカマウと私たちとの協働作業は、30数年を経た今も続いている。激動の現代史の展開の中にあって、出会いの当初感じた歴史観と世界観の共通性を双方がぶれることなく持続してきたからこその関係性であった、と私たちは考えている。

◎参考文献

太田昌国=編『アンデスで先住民の映画を撮る――ウカマウの実践40年と日本からの協働20年』(現代企画室、2000年)

ドミティーラ『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人びとの物語』(現代企画室、唐澤秀子訳、1994年)

ベアトリス・パラシオス『「悪なき大地」への途上にて』(編集室インディアス、唐澤秀子訳、2009年)