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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

社会の中の多数派と少数派をめぐる断章――選挙結果を見て


『労働情報』第854/855号(2013年1月1/15日号)掲載

社会を変えたいと思ったのは若いころのことだが、それを実現するために多数派を形成する場に自分をおこうと考えたことは、ほとんどない。現存する体制を変革したいと思う運動体・組織体の中にも、自覚的にか無自覚的にか、強権・暴力・専制をふるい、少数者や力弱きものに対して抑圧者として立ち現れる多数派や、それを上から取り仕切って自らが揮う権力の恐ろしさを疑うことすら知らない指導部がいる。それとの一体化は避けたうえでなお、社会変革運動への関わり方を模索しよう。私は、そう考えた。

だから私には、多数派であることを誇る態度に対する、根本的な懐疑がある。米国の公園占拠運動が掲げた「1%対99%」というスローガンは、格差問題に焦点を当てた判りやすいものだと感心はするが、同時に、米国の99%と言えばアフガニスタンとイラクに対する殺戮戦争を熱烈に支持する人間も含まずにはおかないのだから、この数字を強調することは内部矛盾を糊塗してしまう場合もある、などと言わずにはいられないのである。

首相官邸前や国会前で巨万の人びとと共に「原発再稼働反対!」と叫んでいても、この中で、日米安保条約破棄や死刑制度廃止などの、私が近未来に展望している課題を共有できる人は極端に少ないことを経験的に知っているから、そこにいる多数派に丸ごと同一化している実感が私にはない。巨万の人びとが持つ「反原発」の熱意を軽んじるわけでは、もちろん、ない。反原発運動の盛り上がりが、沖縄に集中している軍事基地への怒りに結びつかないことがもどかしいのだ。総人口の1%でしかない少数派の琉球人が、1947年に天皇が占領軍に発した「沖縄切り捨てメッセージ」の延長上で65年後の今なお米軍基地の重圧に喘ぐ現実を因果関係で見ると、これをつくり出しているのはヤマトの多数派の意志に他ならないとしか言いようがないのだ。だから、ヤマトの人間たちは憲法9条の護持を言いつつ日米安保にも安住しているという沖縄からの指弾を受け止めなければ、と思うのである。多数派が、少数派の強いられている現実に気づくことは、かくも難しい。

この社会の中で保守言論が次第に力を得はじめる出発点は1990年前後だったと言える。それは、「革命・革新」を掲げる言論と運動が、世界でも日本でもその影響力を急速に失い始めた時期に重なっている。私は、保守言論が根を張る社会的な基盤の問題としては軽視すべきではないと考え、それらの言論を読み込み、批判する作業をしばらくの間続けた。歴史・論理・倫理などの面から見て支離滅裂な議論を相手にするのは、深い虚しさを伴うことだった。その歴史観が若者の間に浸透しつつあるようだということが、私がその作業の虚しさに堪え得た唯一の理由だった。だが、それから20数年が経って振り返ってみれば、その言論傾向は社会全体を浸しているのであった。

決定的な契機はあった。小泉時代である。政治・社会の中で論理が機能しなくなった例を日本現代史に探るなら、すぐに行き当たるのは小泉政権時代である。思い出すことも忌わしい数々の非論理的で、無責任な発言をこの男は行なった。それが大衆のレベルでは人気上昇の契機にもなった。非論理的な決め台詞が大衆的な喝采を浴びるという状況は、この社会では議論や討論が成り立たなくなったことを意味している。〈政治〉は、テレビスタジオで声の大きな政治屋が芸人相手に与太話に興じるものと化し、投票行動もまたそのレベルで行なわれるようになったのである。

国内には、先行きに対する不安と不満が渦巻いている。その解決に向けた地道な討論よりは、外部にいる、目に付きやすいものを「敵」に仕立て上げればよい。東アジア地域には、その意味では「恰好な敵」が多い。

私たちはいつのまにか、衆寡敵せず、の状況に追い込まれていたのである。

今回の選挙結果に見られる「危機的な状況」に即呼応できる指針があるわけではない。政治とは、つまるところ、議会内の議員の数のことだと観念するなら、確かに、危機は深い。絶対無勢ながら〈議会外〉から議会内に対応しなければならない期間が、少なくとも数年間は続く。他方、選挙とは、もっとも性悪な人物を自らの代理人として選ぶ儀式と化している、というのが私の確信だ。それが、もっとも悲劇的な形で実現してしまった今回の選挙の当選者の顔写真を一瞥すれば、納得する人も多いだろう。私たちが獲得すべき〈政治〉は、ほんとうに、こんな醜悪な連中の手中にすべて握られているのだろうか? 〈政治〉とは何か、という哲学的・現実的な問いを、選挙の結果とは別に、永続的に自らに突きつけて私たちは歩みたい。その時、「危機」はひたすら外在化されることなく、主体内部のものとしても自覚されるのだ。

(2012年12月18日記)