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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

戦後日本国家と継続する植民地主義


2012年4月28~29日 反「昭和の日」連続行動「植民地支配と日米安保を問う」における講演

反天皇制運動連絡会『運動〈経験〉』誌第35号(2012年8月15日発行)掲載

●三つの論点

きょうのテーマは、「戦後日本国家と継続する植民地主義」というものですが、時間が50分間ですので、非常に端折った話になると思います。三つの点に分けてお話ししたいと思います。

まず一つ目の問題です。戦争なり植民地主義の問題に関して、侵略戦争あるいは植民地支配に対する謝罪をいつまでも外部から強いられたり、首相や天皇が謝罪をし続けているのは日本だけである、という言い方がよくされます。これに対して有効に反論する言い方はいくつかありますが、戦争と植民地支配に関わる議論は、世界的なレベルではどのあたりまで来ているのかという問題を考えてみたいと思います。いま言ったようなことを言う人たちは、欧米諸国は日本に先駆けて世界各地に植民地を作ったけれど、未だかつて彼らが謝ったという話は聞いたことがないとよく言います。確かに、今から30年前、1980年代の初頭までだったらそうだったかもしれません。けれども、少し幅を狭めて見てみると、1990年、冷戦崩壊以降今日までの20年間に、侵略戦争と植民地問題をめぐる世界の問題意識は、格段に変貌を遂げたのです。もちろんそれは十分な形ではありません。この点についてはあとでふれます。しかし、他の国は謝っていないなどと言うような認識は、今の世界がこの問題にたいしてどう取り組んでいるかということに対して、正確な把握をしているとは言い難いということを、最初にお話ししたいと思います。

二つ目に、戦後日本国家において、植民地意識が継続しているという問題意識を私たちが持つとすれば、それはどのような形で継続しているのかという問題です。これは、ここにお集まりの皆さんには、すでに了解点に至っているようなことで、特に新しい知見があるわけではありませんが、現段階での整理をしておきたいと思います。

三つ目は、一番目と二番目の課題を知ったうえで、一体これからどのように問題を捕えていくべきなのか。それを思想的な課題として、あるいは歴史認識の課題としてお話ししたいと思います。その後で何をやるかという具体的な問題は、また別の場所の課題になるだろうと思います。

●コロンブスの大航海を起点として

まず最初の、植民地支配、植民地主義の問題に関して、現代世界の認識はどこまで来ているかという問題を、歴史的に少し振り返っておきたいと思います。

植民地支配の歴史は古いですが、古代・中世のそれは、現代の私たちが手にしている、あるいは強いられている世界秩序の問題からすれば、その継続性において問題にするには足らない。私たちの現在的な課題ではないということで、脇においていいだろうと思います。それでは、私たちが生きてきた20世紀、および21世紀の世界秩序に大きな影響を与え続けているその結果を、支配した方も統治された方も受け取らざるを得ないでいる、そういうものとしての植民地支配という問題の起点はどこだったか。

私たちは20年ほど前から、それは15世紀末のコロンブスの大航海に始まるアメリカ大陸の征服であると主張してきました。このことは、ヨーロッパ人が一挙に世界へ出て行くきっかけになった。ソ連崩壊後、私たちはグローバリゼーションという言葉を、いかにも新しい言葉のようにとらえてここまで流布させてしまったわけですが、あの15世紀末は、第一次グローバリゼーションの時代であったと言えます。あの段階で、世界がいわば全球化、一つの球と化したわけです。

その時、先頭に立ったのは、スペインでありポルトガルであり、イベリア半島の大西洋に最も近い海洋諸国であったわけです。しかしそれらは急速に、ヨーロッパ列強との戦いの中で衰退を遂げていく。その次に台頭したのが、北ヨーロッパのイギリス帝国です。イギリスは、カリブ海地域をインドと誤認してインディアスと名付けてしまいました。ですから、そちらを西インドと呼び、その後あらためて自分たちが到着したアジアのインドを東インドと名付けます。そうして1600年に設立したのが東インド会社です。

それ以降、フランスやオランダ、一部地域に関してはポルトガルも含めて進出し、東南アジアはヨーロッパの植民地主義の大きな荒波に洗われるということになります。

もう一つ忘れてならないのは、アフリカ地域です。世界史を学ぶと、19世紀末のアフリカの地図は、広大な大陸が隈なくヨーロッパ列強のいずれかの植民地と化した「アフリカ分割図」となっている。そういう地図を見せられるわけです。

●植民地の「消滅」

このように、15世紀から19世紀の末にかけての4世紀の間に、ヨーロッパ列強は、今で言うアジア・アフリカ・ラテンアメリカのほぼ全域を、隈なく植民地支配することになりました。この体制が大きく崩れるのは、あとで触れる、1945年8月の日本帝国主義の敗戦を契機にしてです。

その前にちょっと触れておかなければならないのは、19世紀初頭、ちょうど今から200年くらい前、ラテンアメリカの諸国がスペインやポルトガルから次々と独立したことについてです。これが、独立運動の最初の狼煙であったと、そういうふうに言っていえないことはありません。ですが、この段階はすでに、白人による征服と植民地統治から3世紀も経っていた段階です。この地域には、征服者であった白人の末裔たちが、政治・社会・軍事的な権力をすでに確立していました。ですから19世紀初頭のラテンアメリカ諸国の独立というのは、そこにもともと住んでいた先住民が主体となった独立ではなくて、現地に作られた新たな白人支配層を中心とした独立であったわけです。そうした意味では、真の独立とは言えない、という内部からの批判が、今日まで一貫して行われているのはご存じのとおりです。

ですから、やはり明治維新以降、東アジアばかりではなくて、南アジア・南太平洋海域の諸島にまで侵略の爪痕を残した日本が軍事的に敗北することによって、それまでの欧米と日本による植民地支配体制が崩れていく一つのきっかけが初めて与えられたということを見ておかなければなりません。もちろんベトナムのように、日本が敗北した後、なおフランス植民地支配との戦いを続けなければならず、そしてフランスの敗北後はまた、新たにアメリカ帝国との戦いを続けなければならなかった地域もあるのです。けれども、大きく言えば、第二次大戦以降の過程の中で、アジアにおける植民地支配はだんだんと消えていくわけです。

アフリカの場合は、1960年が、「アフリカの年」と言われたぐらいに、次々に独立を果しました。そこは主にフランス領でした。そしてイギリス領の植民地も、最後にはポルトガルの植民地も、独立していきました。

●冷戦の崩壊の過程で

このように、1945年以降の時期を通じて、植民地主義はほぼ潰えたというふうに言われてきたわけです。ところが、にもかかわらず、なぜ私たちはいま、「継続する植民地主義」という問題意識を持たざるを得ないのか、ということです。

1945年の日本の敗北は、それ以前のイタリア・ドイツの敗戦と繋がって、ファジズム三国の敗戦というふうに理解され、それは同時に連合国側の勝利を意味したわけです。けれども、その結果成立した戦後世界において、世界は新しい状況に入りました。東西冷戦構造ですね。それが崩壊する1991年までの約45年間、戦後世界においては東西冷戦構造というものが、最も大きな矛盾として私たちの世界を支配していたわけです。ですから支配された側も、それまであった植民地支配という問題について、これをどのように捉え総括するのかという問題提起を行うきっかけをなかなか掴むことができなかった。支配した側はもちろん、場合によっては自らの傷口を開けてしまうような問題提起を、自らするはずがありません。その結果、第二次大戦後長い間、植民地主義の問題、植民地支配の問題は、世界的にきちっと論議されないままできました。たとえば日本は、かつての交戦国に加えて、植民地支配を行った国に対しても、国交正常化、国交回復という過程を取るのですけれど、その過程の中でも植民地の問題がきちっと提起されて、二国間の間で十分な討議をして解決の道を探る、そういう道もほぼ閉ざされていました。

ところが1989年から91年にかけて、東ヨーロッパおよびソ連の社会主義体制――強靭だと思われた共産党・労働党の独裁体制が次々と崩壊するという事態になりました。その段階で、東西冷戦構造は消滅したわけです。東西冷戦構造という戦後世界を規定した構造が消滅することによって、今まで覆い隠されてきた矛盾が噴出しました。

例えば国家間、特に支配・被支配、侵略・被侵略という関係があった場合には、不十分な形であれ賠償などが問題になってきます。しかしいったん国交正常化の条約を結べば、それは国家間の問題としては解決済みということになってしまうのです。1965年の日韓条約がまさにそうでした。ところが韓国は、東西冷戦体制が倒れていくのと前後して、非常に強権的な軍事独裁政権が倒れ、民主化の過程を辿っていきます。そういったなかで、言論空間が一定の自由を獲得し、今までの独裁政権の下では自由な発言ができなかった個人が、発言をしはじめたわけです。韓国では、1991年12月に金学順さんという、旧日本軍の「従軍慰安婦」とさせられた人が、初めて自ら名乗って、日本国家に賠償を請求した。そのような動きが具体的に出始めたわけです。国交正常化交渉によって国家間の補償問題というのは解決がついたと両国政府は言うかもしれないけれども、私個人に関して日本国家は何ら補償を行っていない。そのような論理によって、一個人が、かつての支配国である現在の日本国家を訴えるという、具体的な動きが出てきたわけです。それは、今まで国家間の関係の中で、またその国の中においても抑圧されていた個人の声が、国境の壁を越えて噴出し始めた、そういう段階であるというふうに捉えることができるだろうと思います。

またドイツは、ナチズムに対する深刻な反省がありますから、もっと早い時期からユダヤ人に対して様々な戦後補償を行ってきました。それだけではなく、ジプシーと呼ばれていたロマ人、あるいは同性愛者、医学実験の犠牲者とされた人々にたいしても、補償の枠を広げるということを、1980年代にドイツは行ってきています。さらに、ドイツもたくさんのヨーロッパの国々を占領していますから、その占領地で強制労働させた人々に対しても補償すべきであるという声が高まって、政府と、当時の強制労働に関して責任のある企業が共に国家予算と企業経費を使った基金を創設するというような動きも出ています。1990年前後という時間に、こうした動きがはっきりと出て来ているということを、確認しておくべきであると思います。

●ダーバン世界会議の到達点

先ほど触れたように、私たちはコロンブスの大航海が近代植民地支配の起点であると主張してきました。そして、1992年10月に、私たちは「五百年後のコロンブス裁判」という催しを2日間にわたって東京で開きました。コロンブスの大航海が、近代ヨーロッパのその後の隆盛と、アメリカ大陸における先住民の奴隷化とがセットになった歴史的な史実であったという事実から、ヨーロッパ近代はあのコロンブスの大航海によって何を得ることができたのか。そしてそれはその後のヨーロッパの繁栄にとって、どれほどの意味を持ったのかということをめぐって討論を行ったのです。特に呼応してやったわけではないのですが、同時期に各国で、様々な動きがあって、世界的に「五百年」の問い直しが実現したわけです。つまり、ヨーロッパ近代をどう捉えるかという問題に関しては、二十年前に非常に大きな転換が世界規模で始まり、それがこの20年間ずっと続けられているというふうに考えるのがよいと思います。

ラテンアメリカでは、この五百年を、自分たち先住民や黒人や民衆が抵抗する五百年であったという問題意識で主体化するキャンペーンが行われました。これは余りに大きなキャンペーンであったことによって、その土地に住んでいる人々の歴史を現実に変えるために寄与したわけです。四百年前ではできなかったことが、五百年後のラテンアメリカで実現し、それと呼応するような形でヨーロッパでもアメリカ合衆国でも日本でも、世界の様々な地域で歴史観の変革が進んだわけです。これは、植民地問題ということが、近代以降の世界を考えるうえで避けられない問題であったということを普遍化していく、一つの大きなきっかけであったと思います。

そして、1990年前後からの幅を持って20年間の動きを見た場合、この動きはさらに深まります。

2001年8月から9月にかけて、「人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に反対する世界会議」というものが、南アフリカのダーバンで開かれました。最も凶暴な人種差別制度であったアパルトヘイトが廃絶されて十年足らずのうちに、国連も係わった国際会議が南アフリカで開かれたわけです。ここで初めて欧米諸国と、植民地主義・奴隷貿易・人種差別の犠牲になった地域の政府代表及び民間代表が一同に会して、この問題を21世紀初頭に生きる我われがどのように考えるべきかという討論が行われました。もちろん対立がありました。奴隷貿易をやり、人種差別を行い、植民地主義を実践した側は、その歴史的な過ちを言葉の上では認めたとしても、補償問題が出されると、「3世紀・4世紀も前のことを、そんなふうに言い出したら世界はとんでもない無秩序になる」と言って反対したのです。「パレスチナ占領地のイスラエルによる占領形態は、現在なお続く人種差別の典型的な現れである」という演説が行われた時には、イスラエルとアメリカ合衆国の代表が怒って席を立ちました。このように様々な対立と矛盾を抱えた会議ではあったけれども、少なくとも国連が関わった国際会議で、このようなことがまともな討議の対象になったのは画期的なことです。このような段階まで、つい11年前の世界は来ていたわけです。しかし、この会議が終わって3日後、いわゆる「9・11」が起こりました。アメリカの資本主義グローバリズムの典型である超高層ビルと、軍事グローバリズムの象徴であるペンタゴンなどが、ハイジャック機によって攻撃されました。それが余りにも大きく報道されたことによって、ダーバン会議の意義について、報道がほぼ絶えてしまいました。一部研究者などの手によって詳しい報告書などは出ていますが、残念ながらもっと広いレベルでこの会議の意義が私たちの中に浸透していくことは妨げられたわけです。

それでも、11年前はそのような段階になっていたのです。

たとえば、2007年にブッシュがアフリカ・セネガルのゴレ島という奴隷貿易の根拠地として非常に有名な島を訪れて、「奴隷貿易は歴史上の最大の犯罪であった」と、あの人でさえ言ったんです。アフガニスタンとイラクに対する、あの酷い攻撃をやっている最中のブッシュが。奴隷制度については、少なくともこのようなことは言わざるを得ない、そういう段階になっていたわけです。同じ年、ブレアも奴隷貿易にイギリスが国家として参与したことを謝罪しました。奴隷貿易は、イギリスが最も富を蓄積した事業でした。ですから歴史認識の問題として、あのブッシュと共にイラク・アフガニスタンに凶暴な軍事攻撃をやっていたブレアも、この段階では、奴隷貿易に関しては言葉の上ではこのように言わざるを得なかった。そしてまた、女王のエリザベスも出席したウエストミンスター大寺院の式典で、ウィリアムズ・カンタベリー大司教はこのように言いました。「奴隷所有者、奴隷貿易国家の子孫である我われは、歴史的繁栄の大部分がこの残虐な行為の上に築かれたという事実に向き合わなければならない」と。一方的な軍事攻撃は絶対止めるつもりのない米英首脳でさえ、歴史的過去としての奴隷貿易については、このように認めざるを得なかった。もちろん言葉の上の謝罪であると批判することも可能だし、補償という問題が提起された時には絶対呑むはずがないという批判も十分できるし、それをしなければならないと思います。しかしながら世界は、過去の歴史的な犯罪、人類が行った犯罪に関して、このような言葉で語らざるを得ないような時代に入っていたということです。

●日本の植民地支配の起点

繰り返し言いますが、遺憾の意の表明とか言葉の上での謝罪と、具体的な補償の間にはまだ深い溝があります。しかしそれは、今後の様々な討論なり行動によって、もう一段階飛躍していくことで、そういう歴史が現実に書かれるのだろうというふうに思います。

ハンナ・アーレントという有名な政治学者がいますが、彼女の主著『全体主義の起源』が書かれたのは、1957年、今から半世紀ちょっと前です。彼女はこの本の中で、20世紀の全体主義、主にナチズムの分析を行いました。「20世紀の全体主義というのは、19世紀の帝国主義、植民地主義、人種主義に起源を持つものである」という分析です。この1990年前後から20年間の、世界で同時代的に進んだ植民地主義や奴隷制度に対する捉え返しの時代というのは、アーレントが50年前に言ったことがようやくこのような問題意識の中で問われ、討論される時代になっているということを意味している。

それで、私たちはこの問題を、敗戦後日本の現実の中でどのように考えるかということです。はじめにも言ったように、例えばこのような集会に集まる人々の中では、この点はかなり共有されていると思うので、ごく簡単に触れることにします。

明治維新以降の近代国家、日本の植民地支配の問題として起点をどこにおくかという問題は、今後もっと問題提起がされた上で論議されるべきであると考えています。一般的な歴史書、社会的通念からすれば、日本の最初の植民地支配は、1894年の日清戦争後の台湾の領有であり、1910年の朝鮮の併合であるというふうに極めて自然に語られ、そう信じられています。けれども僕は別な考え方を持っています。起点は明治維新の翌年、1869年の蝦夷地の併合であるというのが、僕の観方です。蝦夷地が北海道と名前を変えられて、近代国家日本の領域圏として包摂された。その10年後、1879年には、恐ろしい言葉ですが「琉球処分」によって、独立王国であった琉球をやはり明治維新国家に包摂しました。この二つの歴史的事態を、近代日本の植民地主義の具体的な始まりであるというふうに捉えるのがいいのではないかと思います。松前藩によっても島津藩によっても、蝦夷地も琉球も全面的には支配されていなかった。一定の独立性を持って自分たちの地域圏を、アイヌの人たちも琉球の人たちも持っていたわけです。しかし、あたかも松前藩によって蝦夷地が全的に支配され、また島津藩によって琉球が全的に支配されていたかのように見なして、近代明治国家による植民地主義の具体的実践として北海道や琉球の領有を捉えない。それはおかしいのではないかと思うのです。

同時に、朝鮮支配にしても、1910年という併合の年が突然現れたのではないわけで、アメリカ帝国によって浦賀沖で砲艦外交が行われた22年後の1875年、日本は江華島へ行って同じ砲艦外交を繰り広げて、朝鮮に対する一方的な様々な外交的な要求を行った。このとき以来、35年を費やして韓国を併合したという歴史過程があるわけです。つまり、1895年という日清戦争後の台湾領有によって、いよいよ日本は外に向かって行くことになったのだという近代の捉え方をするのではなくて、維新前後からそのような動きが始まっていたととらえなければならないと思います。米国や、それに追随したほかのヨーロッパ諸国によって行われた砲艦外交や不平等条約の強要を、日本がアジア近隣諸国に対して自分たちの責任において行った、そのような出発点が維新前後にあったのだというふうに捉える必要があると思います。

●転換がなかった戦後

続いて1945年の敗戦の問題です。私自身も何度も触れましたし、今まで多くの人々が触れてきたことです。なぜ日本は断絶なき戦後の始まりを迎えてしまったのか。なぜあの戦争犯罪を自分たち民衆の手によって裁くことができず、植民地支配の問題を自らの手によって提起することができず、なぜダラダラと天皇制の体制と官僚制を頂点とした体制が戦後も続いてしまったのか。

これも客観的な背景は、当然私たちは知っています。ドイツのように、ソ連赤軍がドイツ本土に攻め入ったわけではなかった。首都決戦に入ったわけではなかった。ヒトラーのように、最高責任者が自殺せざるを得ないような窮地に追い込まれたのでもなかった。議事堂にソ連の旗が翻ったのでもなかった。ドイツはあれだけ徹底的な戦いを首都においても経験したことによって、自分たちの無謀な戦争、ナチズムによって実践された戦争が本当に敗北したのだという事実を、否が応でも認めざるを得なかったわけです。それに比べると日本は、天皇や官僚体制中枢部はもとより、空襲を受けて悲惨な目に遭った住民も多かったはずの首都圏の大多数の人間も、自分の身に染みて敗戦の傷みを感じることはなかった。これは語弊のある表現だとは思いますが、戦後責任の取り方の問題として言っているのです。戦場の悲惨さは、地上戦を経験した沖縄と原爆を経験した広島・長崎に他人事のように押しつけておいて逃れる術があったということが、決定的な違いであったわけです。

そのような形で始まった戦後において、中国では内戦が続き、韓国では1948年に済州島蜂起が起こり、50年には朝鮮戦争が始まり、ベトナムではフランス軍とその後アメリカ軍に対する熾烈な戦争がありました。戦火はなお、ベトナムの場合、30年続くわけです。そのようなアジア情勢がありながら、日本は戦後の平和を、繁栄を、戦後民主主義を享受することができた。そのような関係の問題として、東アジアにおける戦後の日本を考えなければならないだろうと思います。

このことは、今日の集会のテーマであるサンフランシスコ体制・安保体制について考えることに他なりません。この時期の問題については、豊下楢彦さんの『安保条約の成立』(岩波新書、1996年)と『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫、2008年)という仕事によって、対日平和条約と日米安保条約がセットになった体制が、当時のどんな政治の力によって実現されたのか、十分信頼できる資料に基づいてわかるようになりました。これはもちろん、よくぞ持ちこたえた吉田外交という話ではなくて、天皇ヒロヒトが、度重なるマッカーサーとの会見の中で、自分の保身のために、日本の占領統治、憲法、沖縄統治についてアメリカにすすんで協力したという問題と繋がっているわけです。しかし、日本社会の中では、このような史実は十分に伝わってはいません。それはメディアの問題でもあるし、歴史教育の問題でもあるけれども、これからの私たちの課題となって残っているのだと思います。

●時間的なスパンを抱えつつ

60年安保の時代、僕は高校生でした。その後いろいろな本で、敗戦後の時代のことを学びました。しかし今振り返って思えば、この時代の学び方というのは僕の中でも非常に大きく欠落していたものがあったわけです。当時の僕にとって、主要な関心は、やはり、全学連を中心とした学生たちの国会突入闘争を初めとする、今まで見たこともないような新しい闘争形態に対する驚きや、共感であったし、あるいは左翼になれば共産党という時代が終わって、左翼になっても共産党ではない、別な考え方や動きがあるということの魅力であった。僕は当時から、党派的な場所を活動の場としては自覚的に選んでこなかった人間ですが、それにしても新左翼という思想と運動の台頭があって、この中には何か今までの、ソ連共産党や、それとイコールであった日本共産党に見られるような、どうにもならない考え方とは違う新しい考え方が出て来るかもしれないという期待を部外者ながら持った。そのような新しい運動形態の問題として、60年安保というものを見るきらいがあったわけです。その場合、60年安保が、その八年前にサンフランシスコ条約と一緒に結ばれた日米安保の何を変えて、どのような新しいものにしようとしたのか。そしてこの60年の安保改定によって、いわゆる本土の米軍基地は減ったけれども、沖縄の基地は倍増したという事実。こういうことについて知り、考えるようになったのは、もっと後になってからでした。

ある過去の時代をどのように捉えるのかというのは、やはり全体的な視野を持っていないと非常に一面的であったり、本質を見ないで、ある現状的な目新しさに目を奪われるものであるというのが、今の僕の感慨ですけれども、最後にまとめとして、これからどのように、というところをちょっとでも触れて終わりたいと思います。

さる都知事とか、二つの大都市の市の市長とか、固有名詞を口にすると口が腐るような気がするので、できるだけ固有名詞を言わない形で言及するように普段からしているのですが、この人たちに典型的なように、帝国主義は侵略戦争において何があった、こういう事件があった、こういう史実があったという、既に歴史的に立証されており、これを覆す事は至難の業であるというような問題に関して、彼らは、別に史実と対峙するわけではなく、くずしていくんですね。例えばさる市長のように、自分の爺さんだか親父さんは「君たちが言う虐殺の直後に南京に入っているけれども、大歓迎を受けている。もし虐殺が起こっていたらそんな事があり得ただろうか」というようなことを言う。82年の歴史教科書の問題が起こった時もそうです。例えば「朝鮮人大虐殺というけれども、関東大震災、1923年。日本人の巡査の中には、追われてきた朝鮮人を匿った立派な人もいたではないか」と言う。絶対的な事実を覆すことができないものだから、本当にその隅っこにあったかもしれない個人的なお話、エピソード、そういうものに依拠して何かものを言う。それがまるで既に立証されている歴史的事実に拮抗できるかのような演出をする。メディアの批判力がないので、それを突くことができないんです。それが非常に苛立たしいところなんですけれども。

これらの市長たちが言っている、あるいはそれに追随している一般書店の雑誌部門を占領している、手に取るのも嫌な雑誌たちの問題提起というのは、そのような水準のものです。しかしこれが今の社会の中では多くの人々の心を捉えているのは事実であるので、これに対して一体どういう有効な反論の仕方があるのだろうということは、共に考えたいと思います。決して軽視してはならない。

小林よしのりが、歴史教科書や慰安婦問題についていろいろ言い始めた時も、これはぜったい軽視すべきではないと思いながら僕もいろいろ読みました。当時も書きましたが、本当に嫌な漫画です、あいつの漫画は! 絵柄が嫌です。だから目を背けて、字だけ読んでいたんですね。そうすると今のような問題点がはっきり出て来るわけです。しかしあの絵に目を奪われ、心を奪われて読んでいる若い人たちが、同時代に大量に存在したことは事実です。それが何万部何十万部という売れ行きによって実証された。そこは私たちが逃げるべき場所ではないだろう。そこでどう有効に闘うかということを考えたいのです。

いろいろな活動も理論的な問題提起も、実るまでには時間がかかるので、本当にめげることがありますけれども、先程の新垣さんのお話にあったような、沖縄の闘争をずっと見ていても、あるいは世界各地の様々な侵略戦争や植民地支配に関わっての復権の活動を見ていても、弛まず問題提起することが、どこかで、何十年後かに──残念ながら何十年後かでしょう。五十年後であったり六十年後であったり、問題によっては十年後くらいに実を結ぶものがあるかもしれない。なかなか人間はそれほど賢くなくて、同じ過ちを何度も繰り返してしまう。これはもう前提の事実として認めなければならない。しかしそれでも問題提起を続けることによって、活動を続けることによって、その時期を少しでも早めることができる。冒頭に触れた侵略戦争と植民地支配、奴隷貿易、奴隷制度に関する遅々たる人類の歩みは、あきらめてはいけないということを呼びかけていると、僕は思うのです。問題提起を続ける人がいたから、世界の水準で、そこまでようやく来たんです。「ここまで来たんだから」というところで、僕たちは常に問題を前向きに捉えて、これからも様々な努力を続けたいと思います。