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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[21]「無主地」論理で勃興し、「無主物」論理で生き延びを図る資本主義


反天皇制運動連絡会『モンスター』第23号(2011年12月6日発行)掲載

権力機構としての国家=政府なるものに対して、私は根本的な懐疑と批判を抱いてきた。それは、資本主義であることを標榜する国家体制に対してばかりではない。20年前に無惨にも自滅したような、自称社会主義国家体制に対しても、同じである。

また、資本主義的企業の論理と倫理に関わる不信と疑念が、私の心から容易に消えることはなかった。それは、プルードンやマルクス(ふたりの名を並列することにこだわりたい)以降積み重ねられてきた資本主義批判の論理に依拠するばかりではない。水銀を垂れ流して水俣病を発生させたチッソやカドミウムを排出してイタイイタイ病を発生させた三井金属など大手会社の企業活動の実態を、同時代的に目撃したことにも基づいている。

さらには、アカデミズムという砦の内部で培養された「専門知」から繰り出される高説に対しても、一九六〇年代後半に試みられたそれへの徹底的な批判の時代を共有しているだけに、十分な警戒心をもって対してきた。

「3・11」の前であろうと、後であろうと、そのこと自体には、何の変りもない――と、いつ頃までだろうか、私は考えていた(ように思う)。甘かった。「3・11」以降9ヵ月が過ぎ去ろうとしている今ふり返ってみるならば、この日付以前の日々に私が抱いていた国家=政府、企業及び知的専門家に対する疑念と不信の思いは、まだまだ牧歌的で、甘かった。これらの者たちの思想と行動にも、究極的にはせめても、いくらかましな論理性と、ないよりはましな程度の倫理性くらいは孕まれている、あるいは、孕まれたものであってほしい、と私は考えていたようなのだ。自分のことなのに「いたようなのだ」とは、はて面妖な、と思われるかもしれない。だが、推測するに、このような思い――それが深いか浅いかは別として――を持つ人は、けっこうな数に上るのではないだろうか。

「3・11」以降の9ヵ月間、国家=政府、企業体=東京電力、原子力および医学の一部専門家から、私たちが否応なく見聞してきた言動をふりかえってみて、そう思う。〈私たちの〉国家=政府は、〈私たちの〉企業は、〈私たちの〉専門家は、ここまで論理を欠くものであったのか、倫理的にかくまで低劣で無責任であったのか――と嘆息せざるを得ないような日々であった。それぞれの人びとが直面している重大な問題、重要だと考えている問題に即して、無数の例が挙げられることだろう。

こんなことをつらつら考えていたところへ、さらに重要な問題が浮かび上がった。朝日新聞が10月17日以降連載している「プロメテウスの罠」は、マスメディア上の言説としてはもっとも重要な情報と論点を提出してきている。その第4シリーズは「無主物の責任」と題されて、11月24日に始まった。それによれば、二本松市のゴルフ場が東電に汚染の除去を求める仮処分を東京地裁に申し立てたのは8月だった。東電の答弁書曰く「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」。なぜなら放射性物質は「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」からである。「所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者が放射性物質を所有しているわけではない」。10月31日、地裁はゴルフ場の訴えを退けた。私が迂闊だったのか、この事実を知らなかったが、調べてみると報道自体もかなり遅く、かつ小さめなものであった。東電と地裁の言い分に孕まれる「事の本質」の重大性に照らすなら、即時に、大きく報道されるべきものであった。

「無主物」と聞いて思い起こすのは「無主地」である。15世紀末、異世界征服に乗り出したヨーロッパは、「無主地」の先占は「実効的占領」を要件として成立し得るという近代国際法を創出した。植民地主義をこうして正当化した欧州は、それによって得た〈蓄積〉をも根拠にして資本主義を発達させた。それから5世紀有余後の現在、世界を制覇したグローバル資本主義は、「核開発」にルネサンスを見出して生き延びようとしている。ここでは、自らの製造物が事故によってどこへ飛散していこうと、それは「主なき」物質だから、責任を問われる謂れはない、と居直るのである。「無主」なるものを、融通無碍に解釈して、かつて資本主義は勃興し、今は生き延びようとしている。ここに問題の本質がある。

(12月3日記)