現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

この映画の完成は僥倖である――ワン・ビン監督『無言歌』評


『映画芸術』437号(2011年秋号)掲載

疲れ切った足取りの男たちが、風吹きすさび、砂塵が舞い上がる荒野を行く。緑の木々も緑野も拒絶しているかのような、荒涼たる風景だ。広大な中国の、西部に位置する甘粛省高台県明水分場。男たちがテントの前までたどり着くと、ひとりの男が命令口調で、誰それはどこそこへ行けと指示する。行き先は、近在に点在する壕だ。壕と言えば、まだしも聞こえはよいが、それはほとんど岩穴にひとしい。背をこごめて中へ入ると、もちろん電気とてなく、暗い。土床の上の、狭い通路以外の空間には木板が張りめぐらされている。男たちはひとりづつ、わずか2畳ほどの指定された空間で荷解きする。衣類などの乏しい身の回り品を置けば、そこが、貧弱きわまりない食事を摂り、重労働に疲れた身を休め、泥のように眠るだけの日々をおくる場所だ。

それでも、立派な名前がつけられている。「労働教育農場」。社会主義革命後の中国で、指導部から右派と名指しされた人びとが、その「農場」で日々過酷な「労働」に従事し、それが、己の反革命思想を改造する「教育」だというのだ。土壌改良を施さなければ役にも立たない痩せこけた「農場」。そこをただ掘り起こすだけの「労働」。本来の意味の「教育」とも無関係な、強制収容所といったほうが、現実を言い表していると言えそうだ。

映画は、そこに暮らすことを強制された男たちの日常を淡々と描く。穴倉の中の場面が多いから、カメラは、隙間から射す一条の光をたよりに、男たちの動きとことばを描き出す。あてがわれる食事はいつも、水のように薄い粥だけだ。飢えた男たちは、それぞれに、空腹を少しでもしのぐための努力をする。食べ物と交換できる衣類の乏しさを嘆く男がいる。荒れ果てた土地に生えるわずかな雑草から、タネの一粒でもないかと探す男がいる。ネズミを捕まえて、煮て食べる男もいる。何を食べて食あたりしたのか吐く者もいれば、その男が吐き出したものの中から固形物か何かを見つけ出しては自分の口に運ぶ男すらいる。飢えの極限的な形が、日々この農場では展開されている。過酷な労働、冬の寒さ、そして絶えることのない飢え――そのあとに来るのは「死」だけだ。遺体は、その男が使っていた布団でぐるぐる巻きされて、砂漠に埋められる。野晒しにされていた遺体からは、衣服がはぎとられ、尻やふくらはぎの肉が抉り取られていく。理由は説明するまでもないだろう。

これはフィクションではない。1957年から60年にかけて、中国で実際に起きたことに基づいて作られた映画だ。依拠した原作本もある。事の次第はこうである。

1956年、革命中国の友邦・ソ連では、スターリン批判が行なわれた。1917年ロシア革命の勝利後まもなく、最高指導者レーニンの死後に政敵トロツキーを国外に追放して全権を握ったスターリンは、1953年の死に至るまで、鉄の恐怖支配をソ連全土に布いた。批判者はことごとく抹殺されたから、彼に対する批判は死後ようやく可能になったのだ。社会主義とその中軸に位置する共産党および指導者の絶対的正しさが、ソ連でも中国でも強調されてきたが、その権威が激しく揺らいだ。毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」路線を直ちに採用して、共産党に対する批判を一定限度許容した。知識人を中心に官僚主義批判や党の路線に対する批判が沸き起こった。すると、毛沢東は翌年には路線を一転させ、「反右派闘争」なるものを発動した。13ヵ月間続いた自由な日々に、厳しい指導部批判を行なった者たちを次々と捕え、「労働教育」のために強制収容所に送り込んだ。特定の場所に収容された人びとの証言に基づいて、原作本が書かれ、映画も作られたのである。

この事態から50年が過ぎている以上、この政策の責任者だった者たちは、ほぼ鬼籍に入っているであろう。だが、「無謬の党」神話の延命工作が続けられているからには、過去の誤謬といえども、それがあまりに無惨で、あからさまである限りは、自由な批判の対象とはなり得ない。制作までは許されることがあっても、公開はできない。それが中国の偽らざる実情である。

故国の人びとに今すぐには観てもらえない映画を作るということ。ワン・ビン(王兵)監督の悩みと苦しみは、ここにあると思われる。しかし、古今東西、自由を奪われた表現者は、もっとも伝えたい人たちからの反応を直ちには期待できない状況にあっても――つまり、圧政下の故国を離れ亡命の身であっても、あるいは故国に踏みとどまって時に奴隷の言葉を使わなければならなくなっても――自らが逃れられないと考える必然的なテーマに立ち向かってきた。身構えて、政治やイデオロギーをテーマとすると力んでは、それは容易く失敗する。或る過酷な時代を生き抜いた一人ひとりの人間の在り方をヒューマン・ドキュメントとして記録し、癒しがたい記憶の形で後世に伝えるのである。ひとりの個人の悲劇的な物語を作り上げて観客をその閉鎖的な空間に閉じ込めてしまったり、観る者が主人公に距離感なく一体化してしまったりするような作劇法ではなく、複数の人物あるいは集団的な主人公を軸に、作品を観た者がそこに自ら介入線を引くことができるような、自由な余地を残しておくのである。そのとき、文化表現・芸術表現は、国境内に自足することなく、世界に普遍的な意味を持つものとして、国境を超えて出ていく。国際的な評価の高さは、国内での弾圧を避け得る十分条件ではないが、作品がいつか国内に「帰ってくる」下準備にはなるだろう。『無言歌』は、その要素を十分に備えた作品として成立している。

ところで、映画が背景としている「反右派闘争」で弾圧された人びとは、文化大革命終結後の1978年、一部の人びとを除いて「名誉回復」措置が取られた。だが、50周年を迎えた2007年には、中国当局は、反右派闘争に関する報道を禁じる通達を全国のメディアに出している。私の友人であるホルヘ・サンヒネス監督(ボリビア)の場合、一本の映画は、完成したネガの露出時間が旧西ドイツの現像所で故意に延ばされたらしく陽の目をみなかった。もう一本は、アルゼンチンの現像所に送る際にボリビアの税関で「紛失」させられた。完成した二作品が「事故」を装って無きものにされた彼のケースを思うと、この時代の中国の状況下で、中国政府の許可も得ずにゴビ砂漠で長期ロケを敢行したり、161本ものラッシュテープをフランスへ送ったりなど、よくぞ妨害を受けずに完成にまでもっていけたものだと、制作過程にも感心し、またその僥倖を喜ぶ。

中国の民衆に先んじて、私たちはこの作品に接することができた。何につけても「反中国」の宣伝をしたい人たちは、身勝手な利用価値をこの映画に見出すだろう。日本軍の中国侵略の歴史を反省し、1949年中国革命の勝利に何らかの「希望」を見出した人を待ち受けるのは、もちろん、別な課題である。資本主義が生み出す格差・不平等・疎外を廃絶したいという民衆の夢・希望・理想が託された社会革命は、20世紀にあってはほぼ例外なく、いつしか強制収容所に行き着いた。社会革命が必然的にここに行き着くものなら「そんなものは要らない」と誰もが答えるだろう。

だが、いま・あるがままの現代社会が生み出している数々の国内的・国際的な矛盾に我慢がならない人は、やはり、よりよい社会へ向けての希望を抱かずにはいられない。そのような人に向かって、『無言歌』は何を語りかけるのか。私はさしあたって、党=指導部の絶対化、イデオロギーへの過剰な信仰、これまた過剰な社会的な使命感情などを克服すること――が出発点だと考えるが、観客の誰もが、それぞれの課題を取り出すことだろう。

文学では、旧ソ連のソルジェニツィンの『収容所群島』があるとすれば、映画では、ワン・ビンの『無言歌』があると言えるほどに、20世紀の悲劇を考えるうえで必見の作品である。

(10月3日記)