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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

「どう向き合う? 原発・震災・安保・沖縄」


「9条改憲阻止の会」合宿での講演(2011年8月27日、東京・本郷にて)

『情況』2011年10・11月合併号(2011年10月1日発行、情況社)に掲載

いただいたタイトルは「どう向き合う? 原発・震災・安保・沖縄」ということでした。3・11からまもなくまる6カ月が経つわけですけれども、その間に、心に残る様々な言葉とかあるいは忘れることのできない現実とか、そういうものをたくさん目にしたり耳にしたりしてきました。その中から、ごく最近の、二つのことがら、すなわち一つの言葉と一つの現実をきっかけにして今日の問題を考えたいと思います。一つ目は、8月10日付けの毎日新聞夕刊に出たアンゲロプロス監督の言葉です。彼は「旅芸人の記録」など非常にすぐれた映画を作ってきているギリシャの映画監督ですが、毎日新聞記者のインタビューを受けていました。短いものだったのですが、そこでは、三陸の震災と福島の原発事故の現実を目撃した後の気持を語っておりました。ご存知のように、現在ギリシャはEUの経済危機を引き起こしている一つの要因として、国際金融市場によって低い格付けをされています。それは、イタリアやスペインも抱えている問題ですから、ドイツのメルケルなどに言わせれば、地中海の人間はもう少ししっかり働けという、そういうふうに名指しされている国であるわけですけども、アンゲロプロスはそのギリシャの現実に関わって、こう言うのです。自分たちはあの60年代から70年代にかけての軍事政権のもとにあってさえ、なにか、いつかはもっとよい時代を迎えることができるということを確信することができた。ところが、今は、次の物語が全く見えない。未来が見えない分、最悪の時代だという、そういうことを語っていたわけですね。これは、あえて言えば、私自身がこの間感じていることと重なります。私の場合は、10年前の9・11以降の10年間の世界情勢、それに随伴した日本の情勢を見ながら感じてきたことで、そのような意味では非常に共鳴するものを感じました。ですから、あえて、まず触れておきたい言葉です。かつての武装闘争とは異なる形を取るだろうが、何かが爆発せずにはおかないだろう、という気持ちも私はアンゲロプロスと共有しています。

もう一つは、福島県南相馬市小高区にある、埴谷雄高と島尾敏雄の名前をとった記念文学資料館のことです。埴谷さんが生まれたのは台湾ですし、島尾さんは横浜ですから、生地という意味では違うわけですが、二人とも本籍地をここに持っています。二人は、生前仲がよかったから、一緒に相馬を訪ねたりしているわけですね。ですから、その後、現在に至るまで、二人の名前をとった記念文学資料館が作られていて、埴谷さんの書き込みがある蔵書などもそこに収められているわけです。しかし、そこは、南相馬市小高区ですから、原発事故のために立ち入り禁止区域になっています。震災の影響もありますし、中にある様々な展示物を持ち出すことが出来ない状態になっているわけですね。私は埴谷さんにはいろいろな意味で、直接知りあうというかたちではなくて、本を通して文学的にして思想的な影響を受けた人間だと自覚しています。ついにボルシェヴィズムの道に足を踏み入れず、思想的にアナキズムに親しい感情を持ち続けてきたのは、埴谷さんの影響だと思っています。島尾さんも戦後文学の中では不可欠な人物ですし、歴史・文化論的には「ヤポネシア」論の提起が忘れ難い仕事でした。ですから、震災と原発事故の一つの結果として、彼らの記念館がこういう状況になっているということに関わっては、いろいろと思いが深いものがあるわけですね。今月末まで池袋のジュンク堂書店では、この文学館を原発事故から救うために小さな展示即売会が行なわれています。その企画をした書店員の企図を代弁するなら、福島県の一部地域は行政によって立ち入り禁止区域とされ、今後さらに拡大されるだろう状況にあるわけですけれども。思想や文学の問題領域には「立ち入り禁止区域」というのはないだろう、あるべきではないだろうという立場から、どこまで物を言い続けることができるのか。そういう課題を考えている次第です。

以上を前置きにして中身に入っていきます。世界が大きく変わった、自分たちが生きている現代世界が大きく変わったという指標は、時期的にいくつか取り出すことが出来ると思いますが、時間的に間近な過去を振り返れば、あと2週間たらずで10周年を迎える9・11、ニューヨークのワールド・トレード・センターとワシントン郊外のペンタゴンに対して、ハイジャック機が突入していった、あの事件以降の10年間ということで、いろいろな問題を考えることが出来るだろうと思います。3・11とあえて対比的に9・11が私たちに持った意味を考えてみましょう。

そのちょうど10年前に、つまり1991年の12月、ソ連邦は解体しました。そして、当時は、父親ブッシュが米国大統領であった時代ですが、これで、ソ連、すなわち悪魔のようなソ連共産主義が敗北した。いよいよ資本主義というシステムが唯一、人間の理性にも本能にもかなった社会システムであることが実証された――この言葉をきっかけにして、グローバリゼーションという言葉が世界的に深く浸透していきました。市場原理が唯一絶対の真理である。その中で競争し合って敗北するものは仕方がない。勝利するものの繁栄によって世界全体の生活水準が上がっていけばそれでよい――そういう考え方が全面的に非常に大きな浸透力をもって、世界に及び始めた。そのような時代が約10年間続いた後、2001年9月11日にあの事件が起ったわけです。私は、あの作戦それ自体について共感をもつとか賛成するとかいう気持ちは、当時も今もありません。様々な疑問と批判を持つわけですけれども、しかし、一方で考えることは、資本主義、現代資本主義がグローバリゼーションというかたちで勝利を謳歌する中で、いったいこの世界の中にどんなマイナスの現実をもたらしているかということに関して、その担い手たちはまったく無頓着であった。なんら顧みることはなかった。そういうことに対する一つの絶望的な抵抗の表現であったとは思うわけです。ですから、もし、当時の米国社会が、あるいは米国の為政者が、あの9・11に至る悲劇を一人占めにするのではなくて、ほかならぬ米国自身が20世紀の1世紀を通じて世界各地で行って来た政治的・経済的・軍事的な振る舞いが、様々な9・11を世界各地に生みだしてきたこと、つまり、3千人規模の死者を生みだすような軍事作戦は、米国社会の近現代史を振り返ると枚挙にいとまがないぐらいあるわけです。そういう意味では、あの悲劇を、かれらが独占するわけにはいかない。歴史を冷静に振り返る視線があれば、このようなことは出来ないというふうに考えました。あの時代に戻れば、ソ連の崩壊によってグローバリゼーションの勝利を謳歌してきた過去10年間を振り返ると、別な道を探すことはできた。しかし、ブッシュはそうしなかったわけですね。それを支える米国世論も別な道を選ばなかった。そして、アフガニスタン・イラクに対する攻撃が始まり、10年後の現在、今のような惨憺たる状況があるわけです。米国の立場から見た戦争のあり方としても散々なものであるし、もちろんアフガニスタンやイラクの民衆の側からすれば、それはあまりにもひどい殺戮であるという現実があるわけです。

私は、この10年間の事態を見ながら、先程の問題意識に戻れば、それでもなおかつ、このような悲劇的な現実を見た上でもなおかつ、それは人間がなしていることである。現実的な自分の意思で選んでいる道であるから、それを阻止する、あるいは、正す、変革する、そういう方法はある。そういう意味では、この現実は、社会運動あるいは政治運動の中で、我々の場所から言えば、我々が展開しうる社会運動・政治運動の中で、このような悲劇的なあり方を変革することは十分出来るだろうという確信は捨てていない、あるいは捨てたくないなと思ってきました。

それとの対比で言えば、今年3月11日に三陸沖で発生した震災とその大津波、それにともなって起き、今なお終息の見通しがまったく誰にもついていない福島原発事故を見ながら、これはまた、ちょっと違うな。9・11で起きた社会的・政治的レベルで変革が可能である対象、そのような事件とは違った性格を帯びていると思うわけです。これは、私たちが、あるいは個人としての私がもってきた自然観に関わっての自己反省とか自己批判をも迫られるような事態であるわけです。地震や津波という、そういう現象を含めて、自然の現象であるという、そのことを前提とした自然との付き合い方を再考しなければならない。そういう契機に今回の悲劇的事態はなっていかなければと思います。そして原発について言えば、事故が起きた場合それがもたらす結果について人の力ではなすすべがないことが明らかになった。それは、武器としての核兵器に関しても、あるいは原子力の平和利用というふうに謳われてきた原子力発電所に関しても、そのような恐るべき結果をもたらすものであるということが明らかになった。そのことの警鐘を鳴らす人と運動は以前からありましたが、不幸にして、それが現実となったということです。もちろん、地震や津波は自然そのものによるものであり、兵器としての核や原子力発電所というのは人工物ですから、生まれてくるレベルは違いますけれども、いずれも、とにかく、人が、人為によって、自分たちの力によって制御しうる範囲をこえたものであるということが歴然としている。

この6ヵ月間の事態の中で、私が何度も思い浮かべたのは、ブリューゲルの有名な絵です。怪魚というべき顔をもつ、口を開けた大きな魚の中に、小さな魚がどんどん呑みこまれていっているあの絵を思い出すわけですね。つまり、自然や原子力というものの関係で言えば、私たち人間の社会というのは、自然という大きな魚、原子力という大きな魚になすすべもなく呑みこまれている。そういう図といいますか、構造を思い浮かべるしかなかった。それは、場合によっては、ある種の無力感というものが、そのままでいけば忍び込みうる、そういう要素もあるわけですけれども、必ずしも私自身が無力感に打ちひしがれているという意味ではなくて、どうしてもそのような側面も含めて考えなければ今のこの事態に立ちうちすることが出来ないのではないか。ヒューマンスケールを超えてしまった、制御できなくなってしまった自然や人工物としての原子力エネルギーのすさまじさというものをそのようなかたちで感じるということです。この時、それでは、いったい今後どうすればいいのだろうかという、そういう問題につながっていくのだろうと思います。ですから、これは、9・11のように、なかなか、今までの論理的な枠組みの中で、社会的なあるいは政治的な運動領域の中で、なんとか変革対象である、この現実を変えることが出来るというふうに主張するには、少し違った局面の問題がある。この自然の猛威、原子力エネルギーの制御不可能な事態の中からは、自分たち人間との関係ではこのように見えてしまうところがあるということです。ですから、だから、諦めるという結論ではもちろんなくて、そのように人の心を追い込んでしまうものとの関係の中で、今後、その二つの問題、自然と原子力エネルギー・核という問題に関して、それでもなお対していく道がいかにあるのか、そういうこととして考えなければならないだろうという問題意識です。

次に設定されましたのは、「何が明らかになっているか」という問題でした。これは、国家の冷酷さ・非情さが露出してきたという、端的に言って、こういう問題だと思います。「国家」というのは必ずしもその時々の政府とイコールというふうにはなりませんが、この場合は一応現政府というふうに考えた上で、なお最終的には、どんな政府であろうと、国家という権力を成り立たせていること自体が抱えてしまう必然的な問題だというところまで、射程は最終的には伸ばしていかないといけないと思います。政府の冷酷さは、今回の様々な震災報道・原発報道の中でも、露呈しているわけが、それでもなお、圧倒的多数の人々は、なぜか国民国家なるものへのゆるぎない信頼を持って生きているというのが普通です。この日本社会をとってみても、何に価値を置いて生きていくかということに関わって、非和解的な対立がある人間同士が生きているわけですし、どうしようもないナショナリストもいるし、エセ左翼もいるし、いろいろな存在があるわけですね。それらをまとめて、国家社会の中でひとまとめにして、社会が大事である、国家が大事である、日本国家はすばらしいなどということが言えるはずがないというのが、常日頃の私の基本的な考え方です。国家を強調したり、日本社会をことさらにほめそやしたりする言動には警戒する。どんな国家であろうと常に違和感を持つし批判を持つわけですけども。今回もまた、世界の人々は、この大震災を前にした日本人の冷静・沈着なことに賞賛の言葉を送っているというようなことが、震災直後には、メディア上に溢れ出ました。われわれは、そのことを誇りにしていいというようなことをわざわざ言うようなニュースキャスターや評論家たちも大勢いました。しかし、よく言われるように、個別具体的にいくつかの地震でもハリケーンでもいいのですが、様々な震災に襲われている世界各地の人々がいて、その直後の状況を少しでも知っていれば、民衆的な知恵としては、そのような大多数を襲う不幸があった時に、相互扶助の精神が出てきたり、連帯・協働の精神で或る地域社会の復興が企てられるということは、世界のどこをとってもごく自然なあり方としてことであるわけであって、ことさら日本の国民なるものが、落ち着いたり、沈着であって、助け合いの精神に富んでいるわけではないですね。それは、世界のどこをとっても等価である。そういう基本的な考え方からすれば、そのような言論操作そのものが非常に不愉快であったわけです。それはそれとして、ともかく、この5ヵ月半目立つのは、政府というものが、いかに被災地に対して、また福島原発の事故に対する対応においていかにこれもまた無為無策であるか、ということです。そして、意図的な安全情報を垂れ流すことによって、人々の生命を脅かす危機を永続化させている。こういう現実が、この5ヵ月半の政府および企業としての東電、それから専門家たち、米倉を先頭とする経団連の連中たちの言葉、そういうのに全て現われているということだと思います。これほど冷たくて非情な言葉を、こいつらは今にいたっても吐き続けることが出来るのかというぐらいに、今回の事態を前になんら心も動かされていない様子に満ちた言葉が、居直りに満ちた言葉が、この連中からは聞かれました。私は日ごろから、この連中の言動はそれなりに冷静に見聞してきたつもりで、何の幻想も抱いてこなかったのですけれども、それでもここまでひどいか、ということを痛感しました。国家というものは、64年前までの日本国家がそうであったように、必要とあれば、他民族の地を侵略してでも戦争を行い、他国民衆・兵士の殺戮を自国兵士に命じ、帰ってきたら軍人恩給を与えて手厚く保護する、そのような意思を示すものであるということはわかっていましたが、このような日常的な空間の中で――被災と原発事故というのは極めて異常な事態ですけども――日本で起こっている一つの事態に対して、冷酷・非情な政策しか展開できないものなのか。国家という問題を考える上で、私は、今回改めて付け加えざるを得なくなった一つの認識であると思います。国家というものは、普通、例えば、私個人では、あるいはオウム真理教を含めた宗教集団には、あるいは様々な政治的な小集団にも、認められていない殺人の権利を独占しているところがあります。それは先程ふれた戦争という行為を発動することによって自国兵士に他国での兵士と民衆の殺戮を命ずることが出来る。「出来る」というのは括弧つきです。日本のように死刑制度が存在している国では、担当の検事や刑務官を通じて、死刑囚の絞首刑を命ずることが「出来る」。なぜ国家がこのようなかたちで殺人行為を犯しながら、個人や小集団のようには処罰されないのかというのが、国家というものが持つ秘密の鍵だというふうに思ってきており、国家なる存在への批判の鍵はその点だというふうにこの間考えてきました。しかし、先程から言っているように、日常的なこの時間・空間の中でも、国家は無為無策によって人を死に追いやることができる。それが今の震災対策や原発事故対策における無能性だというふうに思うわけです。そのことを痛感することによって、国家というもの、それを時々において代行する形で成立している政府なるものが持つ政治権力の問題、それについてもう少し深めたところで考えなければならないのだということを痛感しました。

国家なるものへの無前提な信頼、それは、異論を持つ者の意図的な排除という形で機能してきました。日本社会は、同調性、同調への強制力が強い社会です。しかし、今度こそそれとは異なる社会へ向かっての転機にしたい。震災被災者と原発事故被害者に対する迅速かつ的確な政策を放棄し、犠牲を拡大しつつあるという現実に、国家=政府の本質を見い出すという思考・態度が、今度こそ生まれるのではないか、と夢想するのです。

今まで述べてきたのは、主に国内における被災地と放射能汚染地域に対する政策の問題ですが、これと表裏一体の関係で、対外政策においてもまた、この日本国家の冷酷さ・非情さが現われる事態が、この5ヵ月半の間にも次々と起りました。一つは、日本政府も企業体としての東芝も計画を推進中ですが、米国との共同計画で核処分場をモンゴルに建設する計画があります。これは、去年の秋に始まったのですが、モンゴルに20年前まで駐屯していたソ連軍の駐屯跡地が核処分場として絶好の場所であるとするものです。この間にも、いったい何万年・何十万年ものあいだ密封保管しておけば安全なのかという論議が絶えることのない核処分場をモンゴルに作ろうとしている。東京には作れない原発を福島につくる、という構造とまったく同じです。これが一つです。もう一つは、民主党政権が「原子力ルネッサンス」の政策を当初から推進してきましたから、菅首相自らが乗り込んで、ベトナムとの原発建設交渉をまとめたり、ヨルダン、トルコ、その他いくつかの国々との原発協定を結んでいます。菅は、自分の国内においては脱原発だと語りつつ、国外に対する輸出に関しては一切態度を明らかにしなかった。その程度の脱原発方針であったということを見ておかなければならないだろうと思います。昨日の国会では、ヨルダンの原発協定推進が決議される寸前までいっていますが、社民党が招請した参考人の意見が、議員たちに強い印象を遺したといいます。つまり、ヨルダンがいかに原発建設に危険な場所であるかということを諄々と説くことによって今議会での議決は見送られました。そういう一定の揺り戻しもありますけれども、政府の方針としては見送っておらず、ここ数日中に成立するであろう民主党新総裁には、菅以上によい線が出るとはまったく思われない人間たちが立候補していますから、その問題はさらに今後とも続くと思います。

それから、今まで加盟していなかった原発事故賠償条約に参加することを政府は検討し始めました。これは、事故による外国からの「巨額」請求を防ぐためというのが魂胆ですから、今後もなお原発輸出を続行するという前提で、日本製品が国外の原発において事故を起こした場合に、その過大な、括弧つきの「過大な」請求をどのように防止するかという、そういう観点からの国際条約への加盟を考えているという、そういう体たらくですね。最後に、これは一番最初に生じた問題なのですが、東電は福島原発の集中廃棄物処理施設にたまった、かれらの言う「低レベル」汚染水を4月4日に海洋に投棄しました。その際、放射性物質の海洋投棄というのを禁止したロンドン条約という国際条約があるわけですが、これとの整合性を聞かれた時に、政府関係者は次のように答えたわけですね。ロンドン条約というものも、核実験を大っぴらに行い、あるいは原発をやめようとはしていない国々が集まって、国際的な妥協として出来ているものですから、それが出来のよい条約であるとは言えないわけですけれども、その妥協の産物としての条約は、もちろん、原発を肯定する立場からすれば、何らかの事故が起って陸上から海洋に汚染水を流すようなことはあり得ないものとして想定しているわけです。ですから、船から放射性物質を海に棄てる、飛行機から棄てる、そういうことを想定とした国際条約なものですから、陸上から汚染水を海洋に投棄すること自体は禁止していないというのが、その時の日本政府の詭弁でした。その程度の「非論理」によって、なにかやり過ごすことが出来るんだと思っているわけです。大気汚染にしても海洋汚染にしても、これは地球的な規模の問題ですから、それを、4月4日段階でどうしても迫られたとすれば、それは、近隣諸国と世界の人々に対する事態の詳細な説明なり謝罪なりを伴わなければならない、そのような大変な事態であったと、私は当時も考えました。ですから、このようなことを行なっておきながら、ロンドン条約に違反はしていない、陸上からの投棄は規制していないなどというふうに語るのは、まさに、法務省や外務省の官僚たちが考えそうな詭弁にほかならない。一体こういうもので通用すると信じてるんだろうかという不信感を持つわけです。

悲劇的な事故を前にして、生命体の安全確保という優先課題に取り組まない国家=政府が存在している。国内に対しても、国外に対しても、そうである。これが、私のいう、国家の冷酷さ・非情さの証しです。

主催者から最後の問いとして出されたのは、「今後何が問われるか」という問題でした。例えば、今回の事態と日米安保を重ね合わせて、沖縄の観点から考えた場合にどうなるのか。私は4月に仕事の関係から一週間ほど沖縄にいましたが、その時、例えば、「沖縄タイムス」なり「琉球新報」で読者からの投書欄とか、様々な新聞記事の中で目立ったのは、ヤマト、特に東京の人間たちが、いかに福島原発の事故の深刻さに右往左往しているか、という受け止め方でした。これは別に、冷ややかな目で見ている、冷たく見ているというのではなくて、自分たちの身近であのような事故が起ることによって、ようやく東京の人間たちは、このような事故の大変さを痛感し始めているようだ。そういう、ある意味で冷静な観察です。それは、福島を沖縄に置き換えた時に、はっきりします。ヤマトの人間、東京の人間、霞ヶ関、国会、あるいは私たちのような住民を含めて、東京の人間、ヤマトの人間たちは、沖縄にこれほどの米軍基地を押し付けておいて、そして、それでよしとしてきた。自分の場所から遠くにあるから、本当は存在しているのに見て見ぬふりをしていた。しかし、さすが、今回は、軍事基地の問題ではないけれども、福島原発はあまりにもかれらの身近で起こっているから、見て見ぬふりができなくて慌てふためいている、そういう意味での、ある種の冷静な観察です。このような観点があることを、私自身がそうですが、ここにおられるのが主に東京及び東京周辺にお住まいの方たちだということを前提として言いますけども、捉えておかなければならないのではないか。この問いの先にある問題を引き出し解決を図るのは、もっぱらヤマトの人間の課題です。

別な観点からも考えます。鳩山元首相は、かれらが言う普天間基地の「移転先」の問題をめぐって、辺野古という案が日米合意であったところへ、少なくても県外へ、できれば国外へというような案をもって登場しました。しかし、外務官僚とも防衛官僚とも、つまり「二プラス二」の日米会議に出ているような官僚たちと闘うことが出来ずに、昨年5月末に自滅していった。それに代わった菅は、野党時代の言い方、つまり地位協定を見直す、首相に就任したらすぐワシントンに詣でるようなことはしない、そのような言い方を一切やめて、日米合意を前提とした安保条約、安保同盟の強化を就任直後に語った。辺野古案も推し進めようとした。鳩山と菅のこの二つの態度を見ながら、それからそれに関わっての世論の動向を見ながら、ああ、戦後66年間の多数世論の動向はついに今回も変わらないまま来てしまったということを痛感しました。

つまり、鳩山の迷走に関しては世論は非常に厳しかった。鳩山は沖縄に対する同情の素振りをみせながら、なぜ言ったことを実行しないのかというかたちで、鳩山は不人気になった。辞める時の支持率は20パーセントを切っていた。しかし、それに代わって菅が日米同盟強化を謳いながら新しい首相に就任した時に、彼の支持率は60パーセントに上がっていた。鳩山と菅の態度は論外です。深刻なのは、二人を批判したり支えたりしている日本=ヤマト世論の大多数にとっても、沖縄に存在する米軍基地によってもたらされている現実はどうでもよくて、ただただその時のムードで鳩山をけなしたり菅を支持したりしているに過ぎないのだ、ということです。つまり、戦争は嫌だけども、中国や北朝鮮のような軍事的脅威となる存在が周辺にある以上、われわれは止むを得ず日米安保の枠組みの中で生きて行くしかないのだという基本的な日本世論の戦後の動向は、ここに至っても、変わっていないのです。55年体制下でも、社会党はついに3分の1以上の議席を獲得することが出来なかった。自民党が、世界でもまれなことに、選挙を通じての一党独裁を続けているような不思議な日本社会が出来てきた。そのことを改めて考えざるを得なかったわけです。

新川明さんは10年程前のインタビューで、憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ、それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国もよしとしてきた、というかたちでヤマトのあり方を批判して、政治のあり方とそれを支える世論の在り方を批判しています。この構造に改めて想いを及ぼさなければならないだろうと思います。先程から言っているように、原発事故にあわてる中枢部=東京を見つめる沖縄の視点ということを考えた場合に、それは、地方と中央ということになり、それはそのまま今回の原発事故に現われている福島と東京となり、あるいは三陸と東京となる。そういう視点を導入して、この問題の本質に迫らなければならないと思います。

最後に、まとめの言葉です。ここで出てくるのは、「継続する植民地主義」という問題意識であると思います。日本の近代の歴史を考える場合に、日清戦争による一つの「戦果」としての台湾領有、そこに近代日本最初の植民地支配の出発点を見るというのが左翼を含めた今までの公認の歴史観ですけども、私自身は、明治維新直後の1869年の蝦夷地の北海道としての糾合、その10年後の1879年のいわゆる「琉球処分」、この二つを近代日本の植民地支配の出発点として考えるべきであると考えてきました。その考え方は変わりませんが、例えば、戦後史の過程の中でも、あるいは近代化の過程の中での、「非」東京、今回は福島および三陸というかたちで、それが顕在化したわけですが、そのような本州内の地域との関係を、植民地構造分析そのものをそのままスライドさせるわけにはいきませんけれども、捉え返す必要があるだろう、と思います。そのような問題意識で分析することによって、中央=東京に権力が集中して、それが思うがままに社会構造全体が作られているという、日本社会の存立構造そのものに対する批判的な分析を行なわなければならないのではないか。この視点を、今回の悲劇的事態の中から得た感じがしています。終わります。