キューバの「週刊ニュース」の現代的な意義
「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」カタログに掲載
私が小中学校の子どもの頃――1950年代前半から後半にかけて――映画を観にいくと、本編に先だって必ずニュース映画が上映された。そのころ住んでいたのは北海道東部だったが、札幌のような都会へ行くと、ニュース映画専門の映画館があった。一時間足らずの時間のうちに、数週間分のニュース映画を上映するのである。時間潰しにも役立ったが、テレビが普及していない頃のことだから、ラジオと新聞でしか知らない国外と国内の出来事に映像と共に接することができることは、大変な魅力であった。生まれた時には当たり前のようにテレビがあり、いまやパソコンや携帯によっても映像ニュースに接することができる若い世代の人びとには、当時の私たちが持っていた、ニュース映画に対する焼けつくような飢餓感など、想像もつかないかもしれない。
私はその後1970年代半ばの数年間をラテンアメリカで過ごした。東西冷戦真っ只中の時代で、社会主義国キューバを包囲・封鎖するために、米国が支援して多くの国は軍事政権下にあったから、どの国も政治的許容度は厳しかった。私が一番長く滞在したメキシコは、相対的には自由で、多様な書物・映画・演劇・コンサート・講演会などに接することができた。キューバ映画をよく観た。『低開発の記憶』や『ルシア』なども忘れ難いが、ドキュメンタリー作品が強く印象に残った。革命勝利の年(1959年)の直後から、キューバでは20世紀初頭から半世紀以上に及んだ米国による政治的・経済的支配を断ち切るための諸政策が次々と実施された。濡れ手で粟の利権から排除された米国は反撃に出た。革命をつぶすための武力侵攻さえ試みられた――私はこれらの事実を文字面では知っていたが、キューバのドキュメンタリー作品を観ると、映像を伴っているわけだから情報量が格段に増えた。刺激的であった。
社会革命が成就した直後には、価値観の変革や新しい型の人間と才能の開花が見られ、それが文化面での活性化をもたらすことは、ロシア革命後のロシア・アヴァンギャルドの動きを通して知っていた。キューバの映画事情に詳しくはなかったが、革命が勝利した1959年まではハリウッド映画が市場を独占し、自前の映画人が輩出できる可能性がきわめて少なかったであろうことは容易に推察できた。だから、革命直後の1960 年や61 年の事態を、的確なカメラワークで撮影し、訴求力のある一つの作品としてまとめ上げる力に――しかも、それは1、2の作品に留まるものではなかったから、心底感心したのだった。
調べてみれば、革命後のキューバ映画を牽引することになる監督トマス・グティエレス・アレアとフリオ・ガルシア・エシピノサは、アルゼンチンのフェルナンド・ビリーやコロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスと共に、1950年代半ばにローマの映画実験センター(チェントロ)に学んだこと、ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)は革命勝利からわずか2ヵ月後の1959年3月に設立されたこと――などが分かってきて、キューバにおいて新しい映画表現が生まれてくる根拠も、それを制度的に保証する態勢も、確固として見えてきたのだった。
今回山形映画祭でその一部の上映が予定されているNoticiero ICAIC Latinoamericanos (字義どおりの訳では「ICAICラテンアメリカ・ニュース」だが、週ごとに制作されたので、以下では「週刊ニュース」と略記する)もそのときメキシコで観たかと問われると、覚束ない。35年以上も前のことで、記憶があいまいなのだ。しかし、その後ドキュメンタリー作品――例えば『革命』『ヒロン』『モンカダはなぜ?』――としてまとめられた作品を観ると、確かにメキシコでの既視感のある印象的なシーンがいくつか使われているように思われたから、ある程度は観たのかもしれない。
ある程度――と書いて、ふと立ち止まる。「週刊ニュース」は、1960年から1990年までの30年間にわたって、1493本も制作されているのである。平均時間は10分である。You Tubeからダウンロードされた23本と、関わったスタッフが「週刊ニュース」作りを回顧しているDVDなども鑑賞したが、総量から見れば、私が観ることができた作品はきわめて少ない。したがって、以下において「週刊ニュース」の意義を論じることには限界があるが、本文末尾に記す文献資料なども参考にしながら、できる限りのことを試みてみる。
先に触れたように、ICAICが創設されたのは革命の年=1959年であった。映画は「もっとも強力で示唆的な芸術表現の手段であり、教育のためのもっとも直接的な牽引車である」と位置づけられていた。「週間ニュース」が制作され始めたのは翌年からだが、世界的には家庭へのテレビの普及によって、ニュース映画が役割を終えていく時代と重なっていた。革命直後のキューバではテレビは庶民には高嶺の花であったことに加え、何よりも欧米メディアに独占されてきたニュース報道に代えて、自前の媒体を持つ必要性を革命指導部は感じたのだろう。制作された「週刊ニュース」は60本のコピーが作られた。それは全国500の常設館と、400の移動映画館で上映された。『はじめて映画を観た日』(オクタビオ・コルタサル監督、1967年、10分)を思い起こしてみても、とりわけ自家発電機を備えた上映グループが辺鄙な村に訪れて映画を上映したときの、子どもたちや大人の驚きや喜びの深さには、想像がつくというものだろう。
「週刊ニュース」の作品リストを眺めると、監督サンティアゴ・アルバレスの名が圧倒的に目立つ。この記録の、文字通りの創始者であるが、彼は医学・哲学・文学・心理学などを大学で修めた知的人物ではあったが、映像表現の訓練はまったく積んでいなかった。にもかかわらず、40歳のときに「週刊ニュース」の監督を引き受けた。周囲のスタッフにも、経験者はひとりもいなかった。だが、映画批評家ドレック・マルコムによれば、サンティアゴ・アルバレスの仕事ぶりは「迅速で、機材も、ふつうの映画人なら時代遅れだといって拒否するような代物だった。にもかかわらず彼は、ニュース映画としても、宣伝媒体としても、輝かしい即興的な映像表現としても、いまだに乗り越えられることのない一連のフィルムを60年代から70年代にかけて制作したのである」。
すでに触れたように、「週刊ニュース」はキューバ革命初期の記録映像として、きわめて重要であり、優れてもいた。米国系企業の国有化、銀行国有化、反革命軍のヒロン湾侵攻とこれの撃退戦、米国によるキューバ産砂糖買い付け量の削減と、これに対する米国市民の抗議デモ、ミサイル危機――リストからは、このようなテーマが取り上げられたことを知ることができる。もちろん、国内ニュースだけに特化していたわけではない。サンティアゴ・アルバレスらのチームは30年間に90ヵ国以上の国々を歴訪し、68年パリ五月革命、68年プラハの春、米軍のグレナダ侵攻などの歴史的な記録も撮影した。とりわけ、ベトナム報道には並々ならぬ力を入れたから、米国の侵略に抵抗したベトナム民衆が勝利した決定的な瞬間を撮影するなど、世界的にみても貴重な映像もある。また、コンゴ解放闘争への参与を企図してコンゴに滞在していた時期のチェ・ゲバラ(1965・4~11)の映像もあるようだが、現代史の価値ある証言記録であろう。加えて、ラオスやイエーメンのような知られざる小国の取材も重視した。これは、小国キューバの映画人であるという自覚なしには生まれ得なかったような視点であったのかもしれない。
私が視聴できた「週刊ニュース」のなかには、キューバの庶民の生活事情に関わるテーマもある。食料品などの物不足、住宅不足、ゴミ処理問題など、庶民にとっては切実で、身近な問題である。従来の社会主義社会では、指導部批判に繋がる表現が厳しい制約を受けるのが常であった。生活にまつわる諸問題は、直接的には「政治」や「イデオロギー」に関わる地点までは射程が届かない場合がある。仕事を迅速に進めないとか、たらい回しにするなどの官僚制の問題が見えてくる程度である。したがって、観た限りでは率直な取材や問題提起がなされているように思える。だが、キューバ革命の内実をいくらか詳しく知る者にとっては、革命当初から、ソ連型社会主義の諸方式をキューバへ持ちこもうとする内外の勢力と、ある段階以降のチェ・ゲバラのようにそれに疑問と批判を持つ人びともいて、両者の間では激しい論争も展開されていたわけだし、1967~68年の大転換期(ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死、カストロがソ連軍のチェコ侵攻を支持する演説を行なったことに象徴される)以降はソ連一辺倒の路線が定着してもいた。文学者の、革命から「逸脱」した表現が弾圧されることもあった。カストロは当初から、「革命の中ならすべてOK、外ならだめだ」と語ってきた。それを判断するのは誰なのか、についての説明はなかった。直接的に「政治」や「イデオロギー」の領域に関わるこれらの問題に関して、「週刊ニュース」の制作者たちは、体制に無批判的に寄り添うことなくどこまで切り込むことができたのかということは、今後の解明を待つ課題として残ることになる。
「週刊ニュース」が1990年で断ち切られたのは、キューバの経済事情によるものであった。あらゆる物資不足が目立つようになり、電力事情も悪化した。停電が繰り返された。人びとの生活を維持するための優先課題とは言えない映画制作は、ニュース映画も含めて、予算を切られた。ICAICにしてみれば、新作制作どころか、貴重なフィルムを良好な状態で保存すること自体が危機にさらされた。電力不足は、フィルム保存に重要な貯蔵庫の温度管理・湿度管理を不可能にし、複製・修理・修復などの作業をも麻痺させたからである。
この時期を見計らうかのように、「週刊ニュース」は、2009年、ユネスコの世界記憶遺産に認定された。記憶遺産といえば、今年、日本からも初めての認定を受けたものがあったが、それは、筑豊に生きた炭鉱夫画家・山本作兵衛(1892~1984)が描き遺した千点以上にも上る作品群であった。鉱夫たちが従事する鉱山労働の様子や日常生活のあり方をつぶさに描いた、無名と言っていい画家を取り上げたことを知って、私はユネスコもなかなかやるものだ、と思った。その後、この原稿を準備する過程で、キューバの「週刊ニュース」もすでに世界記憶遺産に認定していたことを知って、その見識のほどをいっそう再認識したのである。
キューバは革命後の半世紀有余の間、その人口数と国土面積の小ささからすれば信じがたいほどの存在感を世界に示してきた。K・S・カロルの言葉を引けば、キューバは「世界を引き裂いている危機や矛盾を集中的に体現」しており、「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかなる小さな動揺に対しても、まだどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」(K・S・カロル『カストロの道』、読売新聞社、1972年)。映画「週刊ニュース」は、まぎれもなく、20世紀後半の、キューバと世界の鼓動を、このような位置から伝える映像メディアであった。それは、「低開発」を強いられる小国が担う事業としては、奇跡的なまでの達成度を示したことを、中立的機関=ユネスコも認めざるを得なかったのである。
【参考文献】
Jorge Fraga, “Cuba’s Latin American Weekly Newsreel :Cinematic Language and Political Effectiveness”, in The SOCIAL DOCUMENTARY in LATIN AMERICA, ed. Julianne Burton, University of Pittsburgh Press, 1990.
Memory of the World Register: Original Negatives of the Noticiero ICAIC Latinoamericano ( Cuba), Ref No 2008-41, UNESCO
【追記】キューバ映画については、「NFC(東京国立近代美術館フィルムセンター)ニュースレター」2004年4~5月号にも、「ラテンアメリカ現代史の中のキューバ映画」を寄稿している。→http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2004/lcuba.html