映画『光、ノスタルジア』を観るために――チリ近現代史素描
『光、ノスタルジア』プレス資料+山形映画祭カタログなどに掲載
チリは、他のラテンアメリカ諸国と同様に19世紀初頭にスペインから独立した。小麦などの農産物に加えて銅と硝石の鉱山物資源が豊富で、いずれも19世紀末にかけての主力の輸出品となった。したがって、地主、大鉱山主、大商人などが力を蓄えた。ただし、銅と硝石の主要な産地は、映画『光、ノスタルジア』の舞台でもあるアタカマ砂漠地域なのだが、そこは、スペインからの独立の過程にあってはタラパカ地域がペルー領、アントファガスタ地域はボリビア領となっていたこと、チリがそのいずれに対しても領有権を主張し、そのために太平洋戦争(1879~83)を引き起こしたこと、それに勝利することでチリが新たに獲得したのがアタカマ砂漠一帯であることは、頭に入れておきたい。その後の19世紀末に世界的な硝石ブームが起こり、多くは英国資本の手にあったとはいえ、チリも莫大な収入を得たのである。
輸出によって経済力を蓄えた階級に加えて、支配階級に加わった社会層がふたつあった。ひとつは、国境紛争戦争を戦い抜き、植民地時代から支配層への執拗な抵抗を止めない先住民族=マプーチェ人への掃討作戦にも従事した軍部である。もうひとつは、国教としてのカトリック教会である。これらが一体となって、強力な少数支配階級を形成した。表面的には物質的繁栄を謳歌しながらも、貧農や都市貧民、鉱山労働者、先住民族は打ち捨てられていたから、貧富の差は激しかった。
主要産業が鉱業であるということは、鉱山労働者による労働運動が強力に展開されることをも意味した。前世紀末以来の硝石ブームに沸く1907年、劣悪な労働条件に苦しみ続けてきた北部の鉱山労働者たちは大規模なストライキに訴え、イキーケのサンタ・マリーア学校に寝泊まりしていた。これを鎮圧するために軍隊が派遣され、発砲によって3600人の労働者が虐殺された。これは「イキーケのサンタ・マリーアの虐殺」事件と呼ばれ、チリ社会の癒しがたい記憶となって、後世にまで語り継がれるものとなった。
その後、1917年ロシア革命の刺激などもあって、労働立法の制定をめぐっては、歴代政府と労働組合の間で、熾烈な攻防があった。20年代から30年代にかけては、他の諸国と同様に、共産党、社会党なども結成され、30年代後半には両党も参加して人民戦線政権が成立したことすらあった。
第二次世界大戦を経て1950年代も末になると、チリ社会には三大政治勢力が成立した。地主と大資本グループから成る旧来からの保守的支配層を基盤とする保守党・自由党。中小資本の経営者や公務員などの中間層に支えられ、修正資本主義を主張するキリスト教民主党。社会主義を志向する労働者や農民を支持基盤とする共産党・社会党――それぞれ、保守・中道・左翼を代表する3大勢力である。左翼の台頭を警戒して、保守・中道は連携する機会が多かったが、60年代にはキリスト教民主党政権が成立した。しかし、農地改革に手を付けて保守党の反発を買い、経済政策の失敗で左翼から厳しい批判を受けた。
1970年の大統領選挙は、チリ史上で見ても、世界的な意味からいっても、画期的な結果となった。50年代から何度も左翼統一候補として大統領選に立候補してきた社会党のサルバドール・アジェンデが当選した。世界史上はじめて、選挙によって社会主義政権が成立したのである。それはまた、1959年革命以来米国による一貫した孤立化策動にさらされてきたキューバが、ラテンアメリカという同一域内に友邦国を得たことを意味した。米国から見れば、米国の支配に抵抗する「第2のキューバ」の登場を阻止し得なかったのである。
アジェンデ政権は、銅産業の完全国有化、農地改革、銀行の国家管理、大企業への国家の介入などの改革政策を実施した。保守層と中間層は激しく反発した。銅企業を無償接収された米国もこれに報復し、援助を停止した。反対勢力に膨大な資金を与え、「不安定化」工作を煽った。1973年9月11日、陸海空三軍が軍事クーデタを起した。アジェンデ社会主義政権は、3年間で終わった。新たに成立したピノチェト政権はアジェンデ派を徹底的に弾圧した。映画『光、ノスタルジア』が描くアタカマ砂漠の強制収容所はその象徴である。他方、米国のテコ入れで新自由主義経済政策を全面的に採用した。それは貧富の格差を放置したまま、外国資本と国内特権層の利益を尊重する道であった。ピノチェトによる治世は1990年まで続いた。いま「ピノチェト以後」の時代を生きるチリの人びとは、「恐怖」が支配した軍事政権時代が遺した負の遺産を克服し、新自由主義路線によって混乱の極致におかれていた経済社会のあり方を変革する途上にあると言えよう。
(9月9日記)