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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

9・11から10年目の世界


『インパクション』181号(2011年8月31日発行)掲載

東欧・ソ連型社会主義体制の無惨な崩壊(1989年〜1991年)を見届けた現代資本主義の信奉者たちは「グローバリゼーション」の掛け声の下で、勝利=歓喜の歌の合唱を始めた。20世紀が終わるまでに残る歳月は、すでに10年を切っていた。前世紀には不吉印の象徴ともいえた「世紀末」なる呪縛的な概念は彼らの頭からすっかり消え失せて、歴史的な世紀の変わり目には赫々たる未来が待ち受けるばかりだ、と信じて疑わない人びとであった。昨日まではこれとは対極的な立場にいた者のなかからさえも、指針を失い、確信も失って、こっそりと、あるいはあからさまな形で、立場を移し替える者が輩出した。マルクス主義文献は書店の棚から消え、やがて多くの古典すら絶版にされた。隆盛を誇っていた大学のマルクス主義経済学の講座も、いつのまにか、その多くが姿を消した。

それでも、諦めない者もいた。1994年1月、メキシコ南東部ではサパティスタを名乗る先住民族組織が、まさにグローバリゼーションの一象徴でしかない自由貿易体制の強要に抗議する蜂起を開始した。蜂起の主体が先住民族であるがゆえに、それは必然的に、植民地支配によって可能になった/したがって「先住民族」という存在を生み出した資本主義的近代に対する歴史的・現在的な批判を孕むものであった。この蜂起は、第三世界にも、高度消費社会にも深い共鳴者を見出し、その後の世界的な反グローバリゼーション運動の原動力の役割を果たし始めた。サパティスタは政治的に成熟した戦術を取って、ただちに政府を交渉の場に引き出したので、武装蜂起という初期形態は強く印象づけられることはなく、社会が武装蜂起という形態からすぐ連想しがちな「テロ」という問題は、重大なものとして浮かび上がることはなかった。それは、また、武装することも、兵士であることも、ましてや戦争することなどは、できることなら無くしたいと根底において望んでいると語るサパティスタの理念とも不可分の、受容のされ方であった。

1996年~97年にかけては、ペルーの日本大使公邸を占拠し、大勢の人質を取って、日系人のフジモリ大統領が採用してきた、これまたグローバリゼーションの基盤をなす新自由主義経済政策に対する抗議の意思表明を行なったゲリラ運動があった。人質の中に外交団がいたこともあって、事態は国際的な関心の的となり、「暴力=テロ」に対して国家はいかに対処すべきかという問題が、大国政府とメディアの主要なテーマとなった。日本が深く関わっている事態であったために、この社会でも事情は同じだった。国家が行使する手段の中に「テロ」があり得るという問題意識はかけらもなく、非国家集団が行使する暴力のみを「テロ」と名づけて、その非難・撲滅を図ること――この意図のみが、そこにはあった。

大勢に逆らおうとするこれらの運動は、しかし、散発的にしか起こらなかった。むしろ、社会主義圏の崩壊とほぼ同時代的に進行したペルシャ湾岸戦争がこの時代を象徴していた。一地域的な小覇権国家=イラクのクェート侵攻という対外政策が正しいわけではなかったが、それは、超覇権国家である米国とソ連が世界各地でたびたび行なってきたふるまい方を真似したにすぎなかった。米国は、ソ連という「主敵」が消滅しつつある過程のなかで、それに代えてイラクのフセインを悪魔のごとき敵に見立てて、これを徹底的に叩いた。とはいっても、米国が発動した戦争という名の「国家テロ」の犠牲になったのは、ミサイルの攻撃にさらされたイラクの一般民衆であった。

超大国の横暴な振る舞いは、軍事の面でのみなされたのではなかった。グローバリゼーションは、何よりも経済的な側面でこそ、その本質を露わにした。経済的な格差が激しい途上国経済を社会的公平さに向けて是正を図るのとは逆に、ますますその歪みを拡大するしかない新自由主義経済政策を、超大国を筆頭とした先進諸国と国際金融機関は途上国に押しつけるばかりであった。大国に本拠を持つ多国籍企業は、自らの自由放埓な企業活動を何よりも(各国の憲法その他の国内法規にも!)優先させることのできる国際的な経済秩序構造を作り出すために、全力を挙げた。かつての植民地時代には、西洋の国家が主体となって他者の領土を征服した。いまや、一握りの企業グループや金融資本が地球上のすべてのモノとヒトを商品化することで、世界の全的征服をめざす時代がきていた。傍に追いやられた者から見れば、現代資本主義の勝利を謳歌する者たちの傍若無人なふるまいは極限に達していた。具体的にはわからずとも、これに叛逆する何かが起こるに違いない、何かが起こらないでは済まない、と感じるものは少なからずいた。私もそのひとりだった。

そして、2001年9月11日はやってきた。米国経済の繁栄を象徴する建物=ニューヨークのWTC(世界貿易センタービル)にハイジャック機が2機突っ込んだ。世界各地における圧倒的な軍事力の行使を指揮するワシントン郊外の米国防総省(いわゆるペンタゴン)ビルにも、ハイジャック機が突入した。合わせて、3千人以上の人びとが死んだ。米国が誇る経済と軍事の要衝を攻撃したという意味では、攻撃者たちの意図は明確だった。だが、WTCをあのように攻撃した場合には、不特定多数の一般人を数多く巻き込む結果にしかならないことを行為者たちがどう考えていたのかは不明のままである。

米国社会は、この衝撃的な事件を、せめても、自らが世界の各地で過去において積み重ねてきた/現在も積み重ねている行為をふりかえる機会にすればよかった。ある軍事行動によって数千人の死者を生み出すこと(それどころではない、長期化した戦争の場合には数十万単位の死者を相手側に強いたり、化学兵器を用いることによって後世の人びとを今なお苦しめたりしている例も加える必要がある)を、米国は20世紀現代史の中で幾度も繰り返してきた。日本軍国主義を免罪する意図は持たずに、この犠牲の地に広島と長崎の例を付け加えてもよいだろう。

賢明で公正な経済学者が米国にいたならば、米国が余剰農産物を売りつけるために自由貿易を他国に強いれば、その国の貧農たちは乏しいたつきの道を断たれ、一家は農村を離れて山野は荒れる一方、離村した人びとが首都周辺に密集していって、典型的な第三世界のいびつな社会構造を作り上げていることに気づいてもよかった。唯我繁栄の独善的な経済活動の果てにニューヨークに林立する豪華なビル群を透視すれば、世界の悲劇的な南北格差構造が浮かび上がるという想像力をもっていてもよかった。

少数派ながら、いたであろう、米国が軍事と経済の双方で繰り広げてきたあまりに大きな負の面に気づいている人が。奢り高ぶった自国のふるまいが、その下で苦吟する人びとの怒りと憎しみを育てている、と知覚できる人が。だが、それは、哀しいほどに少数派だった。9・11の事態をうけて、この国の大統領は「反テロ戦争」によって行為者たちへの報復を呼びかける、その程度の人間だった。国家主義的な情動は、こんな水準の言動によって煽られるものなのだ。自らを顧みることのない、それとはもっとも無縁な「愛国主義的な熱狂」が米国全土を覆った。米国社会は9・11の悲劇を独占した。こんなひどい仕打ちを受けた国は、米国がはじめてだ――この思い込みのなかで、他ならぬ米国の軍事的・経済的行為によって生み出されてきた「無数の9・11」に思いを馳せる態度は生まれ得なかった。

9・11から1ヵ月も経たないうちに、米国は、9・11の「陰の」指導者たちが潜んでいると判断したアフガニスタンへの攻撃を開始した。それから1年半後には、大量破壊兵器をもっているがゆえにこの地域の不安定要因となっていると一方的に判断して、イラクに対する攻撃も始めた。9・11の悲劇を、この国が「大好きな」戦争を始める口実にしたのだった。

欧州各地でときどき起る「過激派のテロ」にもっとも敵愾心を燃やしてきたイギリスの労働党員の首相と、宗教集団が起こしたサリン事件やペルー人質事件を経験して「テロ」に対する警戒心が極点に達している社会状況を利用した、新自由主義志向の日本の首相が、率先してこの「反テロ戦争」支持の名乗りを上げた。「テロか、反テロか」――単純極まりない二分法が、まるで世界基準であるかのように機能した。それは、思考の堕落であり、政治の敗北だった。それを知る者にとっての、苦い季節が始まった。

それから10年。アフガニスタンでもイラクでも、膨大な数の死傷者が出ているであろうが、その正確な数はわからない。死者は、いずれの国でも、万単位になると推定されている。劣化ウラン弾などの化学兵器を米軍は使用している。したがって、米軍が全土に枯葉剤を散布したベトナムと同じく、両国の人びとの苦しみは後代までも続くと見られる。自軍から、無視できぬ数の死傷者が出ている米軍は、最近は無人爆撃機を使って空襲を行なっている。「反テロ戦争」は、こうして、他国における大量死を生み出している。「国家テロ」としての戦争を廃絶しようとする強固な意志が大国のふるまいには、見えない。そこから国家としての利益を得てきたことを、当事者が知っているからである。軍隊不保持・

戦争放棄を謳う憲法を持つ国は、「反テロ戦争」の10年間の過程で、「戦争好きな」米国との軍事的結びつきを強化した。二大経済大国が、軍事面でも共同作戦を展開するのは、世界の他の地域の民衆にとっては「悪夢」でしかないことを、両国の為政者も選挙民も知らない。それを「思い知らせよう」とする行動を――仮に、それが「テロ」と呼ばれようとも――試みる人や小集団が消えてなくなることは、不幸なことだが、ないかもしれない。少なくとも、後者の「テロ」を、前者の「国家テロ」との相互関係の中で捉えること――

事実認識上の、このような変化くらいは、私たちのなかで獲得したいものだ。

アフガニスタン戦争は、米国が戦ったもっとも長い戦争になった。「建国」以来、対インディアン殲滅戦争に始まり、戦争に次ぐ戦争によって領土を拡大し、両大洋への出口を持つ帝国に成長し、戦争に勝利することで経済が活性化し、超大国としての地位も確保できていると信じて疑わないこの国は、戦争を止める術を知らない。アフガニスタン戦争の戦費は、10年間で4430億ドル(およそ34兆円)となった。イラク戦争では8055億ドルを費やした。世界各地の米軍基地の安全強化対策など広義の「反テロ戦争」費用は1兆2833億ドルと推定されている(数字はいずれも、2011年8月3日付け東京新聞による)。ここ数年の日本の年間予算をはるかに超える額が、米国の10年間の「反テロ戦争」に費やされた。

当然にも、米国の軍事と財政は破綻した。「戦意高揚」していた10年前の雰囲気は、今の米国には、ない。オバマは、過重な戦費負担に耐えられないと判断して内政重視へと路線切り替えを図った。にもかかわらず、戦況の好転が見られなかったアフガニスタンへは兵員の増派を行なった。現在は順次撤退の段階にはなったが、米国から見て軍事的な展望が開けているわけではない。資本主義の勝利に浮かれてマネーゲームに興じた挙句、大手投資銀行リーマン・ブラザーズは経営破綻した。サブプライム・ローンも、理の当然として、総崩れとなって、貧しい犠牲者を多数生み出した。いまや。デフォルト(債務不履行)の瀬戸際にも立たされている。10年前の9・11によって瓦解したのは、経済と軍事の、外形としての象徴的な建造物だった。その後の10年間は、それが内部から自己崩壊していく過程であった、と言えるかもしれない。

他方、「反テロ戦争」に自衛隊まで派遣して参戦した日本は、9・11から10年目の震災・津波によって引き起こされた原発事故の結果「放射能テロ国家」として世界に糾弾されても弁明の余地がない立場に追い込まれている。ここでも、当事者にその自覚は薄い。

軍事と経済の両面で世界を征服しようとするグローバリゼーションの、この10年間の大きな流れは、ほぼこのように把握できるだろう。そこには「自滅」的な要因もないではなかったが、もちろん、この趨勢に抗議の声を発し、具体的な抵抗を試みた、いくつもの理論と実践があったからこそ、10年後のこの状況は導かれたのだと言える。何が有効だったのか、何が欠けていたのか――その検証を通して、いま・ここで、なすべきことを明らかにする課題が私たちには残る。(8月9日記)