書評:本田哲郎『聖書を発見する』(岩波書店、2010年11月刊、2500円+税)
著者はこの20年来、大阪の日雇い労働者の街・釜ケ崎でカトリックの神父をしている。神父であると名乗るよりは、「釜ケ崎反失業連絡会」などでの社会活動に重点を置いている。三代続くキリスト教徒の家に生まれ、生後二ヵ月で幼児洗礼を受けた著者は四代目となる。70年近い人生のほぼ全体をキリスト者として生きてきた。著者の述懐によれば、長いこと、聖書の翻訳文にしても神学者たちの聖書解釈にしても、伝統的なものを疑うことはなかった。
釜ヶ崎にあるアパートの二畳間に居を移し、日雇い労働者と日々接するようになってから、キリスト者としての著者の確信は揺らいだ。そこは、仕事も住む家も持たず、路上生活を強いられる「小さくされている人たち」がおおぜいいる街だ。憐れみや施しの感情を接点にして、食べ物や寒さしのぎの毛布を配布して、著者が満足感を覚えた時期はやがて終わる。難民というべき労働者が耐え忍んでいる受苦の本質とも、自立したいという彼らの熱望とも、自分の行為は噛み合っていない事実に気づいたからだ。
そこで、著者は労働者とともに聖書を読み直し、その神髄を「発見」する。その過程を行きつ戻りつたどったのが本書だ。信仰者ではない私でも知っているような、聖書の中の有名な表現が、原語に基づく著者の再解釈によって読み直されていく。そこにこそ、本書の読みでがある。伝統的な訳業および解釈と、著者のそれとは、価値観において真っ向から対立する。だからこそ、同じキリスト者の名において、一方では十字軍や米大陸の征服のような無慈悲な事業がなされ、現代にもブッシュのような好戦主義者もいれば、他方に解放神学者や著者のような理念と生き方も生まれる。