2019年5月31日
『反天皇制運動 Alert』第36号(通巻418号、2019年6月4日発行)掲載
多面的な視点を失い一元化された情報で埋め尽くされた日の新聞を読むのは辛い。そんなことが、とみに多くなった。もちろん、テレビニュースは論外だ。そうなるときのテーマははっきりしている――天皇制、対米関係、近隣諸地域との間で継続している植民地支配をめぐる問題などだ。いずれも、深く考え、正面から向き合って論議し、解決のための歴史的かつ現実的な手立てを取ることを、社会全体として怠ってきた問題だ。その結果が、「2019年という現在」のあちらこちらにまぎれもなく表れている。ツケは大きいものだとつくづく思うが、時すでに遅し、の感がしないではない。
そんな日はできるだけ小さな記事を探す。大文字で埋め尽くされた新聞の一面や政治面はほぼ読むに堪えないからだ。最近では、5月中旬、ドイツが植民地支配への反省を強調し、ナミビアへ石柱を返還するという〔ベルリン=時事〕の小さな報道が胸に残った。石柱は高さ3・5メートル、重さ1トンで、ナミビアが持つ海岸線のどこかに建てられていたが、ドイツ統治下の1893年に持ち去られたという。そして、欧米諸国や日本のように植民地主義を実践した国ではそうであるように、この「略奪美術品」は旧宗主国の首都の歴史博物館に麗々しく飾られていたのである。独文化・メディア相は返還を発表した記者会見の場で、「植民地支配は、過去と向き合う中で盲点になってきた」と語ったという。
個人的にはナミビアを含めた南部アフリカに深い思いがある。1980年代後半から90年代初頭にかけて、南部アフリカ地域に続く人種差別体制の歴史と現実に迫るために「反アパルトヘイト国際美術展」に関わり、同時に「差別と叛逆の原点を知る」一連の書物を企画・刊行した。1994年にはアパルトヘイト体制が撤廃されるという現実の動きを伴ったこともあって、忘れ難い記憶だ。なかに『私たちのナミビア』(現代企画室、1990年)という書物があった。独立解放闘争をたたかうナミビアの人びとと、植民地支配の歴史を自己批判したドイツ人とが協働企画として実現した社会科テキストである。戦後史の中で「教科書問題」が常に争点になってきている日本の現実を思うとき、示唆に満ちた本である。
2018年8月には、独政府がナミビアを植民地支配していた1884から1915年にかけて、優生学上の資料として持ち帰った先住民19人分の頭蓋骨などをナミビア政府に返還したという報道もあった。だが、持ち去られた頭部は数千体に及ぶとする説もある。それは、1904~08年にかけてドイツ領南西アフリカ(ナミビアは当時こう称されていた)で植民地政府の暴政に対し蜂起したヘレロ人とナマ人が虐殺された出来事と深く関わっていよう。上記教科書によれば、ヘレロ人の80%、ナマ人の50%に当たる総計7万5千人が犠牲となった。その頭部が持ち去られたというのである。
その後のドイツの20世紀前半の歩みを私たちは知っている。第一次大戦で敗北したドイツは海外植民地の多くを失うが、ドイツ軍守備隊がアフリカ植民地で使用していた褐色の軍服をナチ党が買い入れて突撃隊(SA)の制服にしたこと、SAは1920年にバイエルン評議会共和国を押し潰した反革命軍事力の内部からこそ生まれたが、その指揮を執ったのは、ナミビアの植民地叛乱鎮圧の手腕を認められたフランツ・フォン・エップ将軍であったこと。そして、優生学研究が行き着いた地点も……。過去の植民地叛乱鎮圧と現代史との接点が、生々しくも見えてくるのである。
日本の遺骨返還問題をここで思い出さざるを得ない。1930年代、北大らの学者は、北海道各地・サハリン(樺太)・千島列島にあったアイヌ墓地から、人種特定のために遺骨を掘り出した。同じことは、同じ時期の琉球諸島でも行われた。返還訴訟を2012年に始めたアイヌの場合は、一定の「成果」をみている。琉球の場合は、遺骨を保存している京大が調査と返還を拒否したために係争中である。加害者側がしかるべき言動を行なわない限り、植民地支配問題に「終わり」(=真の解決)の時は来ないと知るべきだろう。(5月31日記)
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『反天皇制運動 Alert』第35号(通巻417号、2019年5月7日発行)掲載
去る4月28日、天皇明仁の伊勢神宮参拝時に登場した「三種の神器」にまつわる、忘れるわけにはいかないエピソードがある。
1945年8月9日、ポツダム宣言受諾か否かを迫られた「最高戦争指導会議」に臨んだ天皇裕仁は、敗戦を挟んだ半年後の46年3月、側近に対してその時の心境を次のように語った。「当時私の決心は第一に、このまゝでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護する事が出来ない。第二には国体護持の事で、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」(寺崎英成『昭和天皇独白録』、初公表=1990年、現在=文春文庫)。
この発言を知らないはずはない明仁は、この言葉が吐かれてから40数年後の1989年、別な言い方をするなら今から30年前の即位後の「朝見の儀」に際して、次のように語った。「大行天皇(裕仁のこと)には、御在位六十有余年、ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され、激動の時代にあって、常に国民とともに幾多の苦難を乗り越えられ、今日、我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました」。裕仁自らが、ポツダム宣言を受諾したのは、「国体護持のために不可欠な三種の神器を確保する」道はそれ以外になかったからだとあけすけに語っているのに、明仁は「ひたすら国民の幸福を祈念する」虚像としての裕仁像を創り上げてしまった。歴史過程における裕仁の役割に関するこれ以降の明仁の言動は(一見したところ、安部晋三の路線と微妙に対立しているかに見えるものを含めて)この大枠を外れることはない。
そして冒頭に書いたように、去る4月天皇夫妻は退位の事前報告のために「皇室の祖先の天照大神がまつられる」(NHK・TVニュースの表現のママ)伊勢神宮の内宮に参拝したが、その際に、裕仁によってかくまで「大事に守られた」三種の神器のうち剣と勾玉を、持参した。それは「皇位を継承する証し」だから、徳仁に受け継がせるために、である。
ここ2ヵ月間ほどかけて私たちが見せつけられている「退位・即位」に関わるいくつもの行事では、歴史的な実在性が疑わしい人物が登場したり、神話性に彩られた振る舞いが堂々と罷り通ったりしている。それが最終的には、明確な神道儀式に他ならない、今秋11月に予定されている大嘗祭へと繋がっていくのである。すでにその座を去った天皇夫妻は、身についた現代的な発想とふるまい、「開明的な」その姿勢のゆえに、意外なまでに多くの人びとの心を捉えてきたことは認めなくてはならないだろう。その「開明的な現代性」は、「退位・改元・即位」行事に貼りついている拭い難い神話性・宗教性と好対照をなしつつも、ふたりの言動にあっては平和的に共存している。神話や宗教には、具体的な現実から自由に飛翔を遂げている点において、人びとの心に迫り、これを突き動かす初源的な力が秘められている。それが、社会の統治形態とは無縁なところで浮遊している限りは問題とするには当たらない。だが、日本の天皇制にまつわる神話性と宗教性は、明らかに、人びとにその力を及ぼす統治形態と密接な関わりを持っている。ひとが本来的に持ちうる論理と知恵に基づけば、眼前に展開されている代替わり行事に孕まれているごまかしと虚偽をいくつも指摘できようが、それを暴露したところで、私たちは、その虚構にいっそう深く拘束され、支配されてゆく人びとの群れを見るばかりである。
『文藝春秋』誌5月号には、天皇皇后と交流をもった123人の証言が載っている。私がその作品に少なからず親しんできた詩人の吉増剛造や高橋睦郎の二人も、天皇ではなく皇后との触れ合いに力点を置いて書いている。高橋は「私たち日本国民は何という優雅で深切な国母を持ち、皇室を持っていることか」とまで書く。人をして、批評精神を喪失させてしまう天皇制の「呪縛の構造」を克服する道を探り続けたい。
(5月4日記)
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