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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[96]板門店宣言を読み、改めて思うこと


『反天皇制運動 Alert』第23号(2018年5月8日発行)掲載

去る4月27日の朝鮮半島南北首脳会談に際して発表された板門店宣言の内容を知って、「日本人拉致問題への言及がない」という感想を漏らしたのは、拉致被害者家族会の会長だった。置かれている立場は気の毒としか言いようがないが、見当外れも甚だしいこのような見解が紙面に載るというのも、2002年9月の日朝首脳会談以降16年の長きにわたって日本政府が採用してきた過てる対朝鮮政策の直接的な結果だろう。自ら問題解決のために動くことなく、他国の政府に下駄を預けるという方針を貫いてきたからである。多くのメディアもまた、その政府の方針に無批判で、日本ナショナリズムに純化した報道に専念している。長い年月、分断され非和解的な敵対関係にあった南北朝鮮の2人の指導者が「民族的な和解」のために会談を行なう時に、なぜ「日本人」に関わる案件が宣言文に盛られるほどの重要度をもち得ると錯覚できるのであろうか。藁にも縋りたい家族会の人びとをこのような迷妄的な境地に導き入れてきた政府とメディアの責任は大きい。

金正恩朝鮮労働党委員長は「いつでも日本と対話する用意がある」と文在寅韓国大統領に伝えたという。日本政府は絶好の機会を捉えてすぐ応答することもせずに、首相が中東地域歴訪に出かけるという頓珍漢な動きをした。あまつさえ、去る1月に対朝鮮国断交を行なったヨルダン政府の方針を高く「評価」した。事ほど左様に、およそ確たる外交方針を持たない日本政府ではあるが、日朝間にも何らかの交渉の動きが近いうちに始まるのではあろう。会談の結果明らかになる拉致問題に関わる内容如何では、両国間にはさらなる緊張状態が高まるかもしれず、今の段階から、その時代風潮に対処するための準備が必要だろう。

私は16年前の日朝首脳会談直後から、あるべき対朝鮮政策の在り方を具体的に述べてきているので、ここでは違う角度から触れてみたい。対朝鮮問題に関しては一家言を有する元国会議員・石井一氏が「約束を破ったのは北朝鮮ではない、日本だ」とする発言を行なっている(『月刊日本』2018年5月号)。氏は日朝議員連盟会長を務め、1990年の金丸訪朝団の事務総長の任にも当たり、先遣隊の団長でもあった。自民党、(まだ存在していた)社会党、朝鮮労働党の3党合意が成ったこの会談に関する氏の証言は重要だろう。朝鮮ではまだ金日成が存命中だった。金丸・金日成の2者会談を軸にしながら、「国交正常化」「植民地時代の補償」「南北分断後45年間についての補償」の3点の合意が成った。だが、日本国内にあっては、金丸氏に対して「売国奴」「北朝鮮のスパイ」との非難が殺到した。国外にあっては、日本の「抜け駆け」を警戒する米国からの圧力があった。自民党の「実力者」金丸氏にして、自主外交を貫くまでの力はなかった。かくして1990年の日朝3党合意は、日本側の理由で破棄されたも同然、と石井氏は言う。

2002年の日朝首脳会談も「平壌宣言」の合意にまでは至った。拉致問題に関わって明らかになった事実が、被害者家族にとってどれほど悲痛で受け入れがたいものであったとしても、また社会全体が激高したとしても、この事実を認め、「拉致問題は決着した」との前提で、宣言はまとめられた。家族会の怒りに「無責任に」同伴するだけの世論と、それを煽るメディアを前に、訪朝と国交正常化までは決断していた小泉氏も屈した。日本の独自外交を嫌う米国からの圧力が、ここでも、あった。平壌宣言を無視し、国交正常化交渉を推進しなかったのは、小泉氏を首班とする日本側だった――石井氏の結論である。世上言われている捉え方とは真逆である。

石井氏は2014年に「横田めぐみさんはとっくに亡くなっている」と公言して、家族会の反発を喰らっている。「被害者全員を生きて、奪い返す」とする安倍路線が破綻していることは、石井氏にも私にも明らかなのだが、今後の事態がいざそれを証明するように展開した場合に、日本社会の「責め」は改めて朝鮮国に集中するだろう。拉致問題をナショナリズムの高揚と自らの政権基盤の維持に利用しただけの政権をこそ批判しなければならない。この雰囲気が醸成された2002年以降の過程で、民衆に対する国家的統制を強化し、戦争に備える悪法がどれほど成立したかを冷静に見つめなければならない。

(5月5日記。200年前、カール・マルクスが生まれたこの日に)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[95]現首相の価値観が出来させた内政・外交の行詰り


『反天皇制運動 Alert』第22号(通巻404号、2018年4月11日発行)掲載

我慢して、安倍晋三氏が書いた(らしき)本や対談本、安倍論などを読み始めたのは、2002年9月17日の日朝首脳会談を経て、数年が過ぎたころからだったか。その数年間には、彼が拉致問題を理由にした対朝鮮強硬派であるがゆえにメディア上での注目度が上がった歳月や、2001年に「慰安婦」問題を扱ったNHK番組に関して、「勘ぐれ」という言葉を用いてNHK幹部に改竄するよう圧力をかけたことが明るみに出た2005年の日々が含まれている。やがて2006年、小泉氏の後継者をめぐる自民党総裁選が近づくと、件のNHKニュースは、安倍氏に「国民的人気が高い」という形容詞を漏れなく付けるようになった。それ以降現在にまで至る経緯は、もはや、付け加えることもないだろう。

最初の本を目にした時から、とんでもない人物が台頭してきたものだとつくづく思った。論理がない、倫理もない、歴史的な知識も展望もない、あるのは、ギラギラした、内向きで排外主義的なナショナリズムだけだ。昔の「保守」はこれほどひどいものではなかった、と独り言ちた。1980年代後半以降、『正論』『諸君!』などの極右雑誌に目立ち始めた、歴史の偽造を厭わない低劣な文章群は、とうとう、こんな政治家を生み出す社会的な基盤を造成したのかと慨嘆した。そうは思いつつも、拉致問題の捉え方を軸にその言動の批判的な分析は続けてきた。だから、関連書を読み続けたのだ。そのとき思った――右翼がここまで劣化すると、左翼も危ないぞ、と。まもなく、ソ連的社会主義体制が崩壊して、左翼は危ないどころか、理念的にはともかく運動としてはほぼ消滅した。

批判的な左翼が消えた時代に、安倍的な価値意識に彩られた社会が花開いた。5年有余が経ち(わずか1年で瓦解した第一次政権の成立時から数えると12年が経ち)、その結果を私たちは日々見ている/見せられている。改竄・隠蔽・捏造が公然と罷り通る内政の荒廃ぶりは、かくまでか、と思うほどだ。幼稚園の子どもたちに教育勅語を暗唱させ、軍歌を歌わせ、首相の妻を前に安保法制の議会通過を喜ぶ台詞を斉唱させて彼女を涙ぐませるような「愛国主義教育」を行なうことを目指した私学経営者に、首相とその取り巻きが肩入れし、国有地の安価な払い下げと設立認可を急いだ――森友学園問題のこの原点に、強権主義的な安倍政治の本質がまぎれもなくにじみ出ている。

米国頼み一本鎗が「方針」であったかのような外交の行き詰まりぶりも、内政同様、見苦しい。今年度初頭の金正恩氏の路線転換以来、朝鮮半島情勢はめざましい進展ぶりをみせている。対朝鮮外交における「対話ではなく圧力」路線の盟友であったトランプ米大統領は来る5月の米朝首脳会談を決意する一方、日本に対する輸入制限も発動した。「日本ひとりが蚊帳の外」という印象がぬぐい難い。

あるジャーナリストの調査によると、首相がこの5年間、「拉致問題は、安倍内閣の最重要課題であります」と本会議や委員会で語ったのは54回に上るという。1年に10回以上もこんな発言をしていることになる。その実、解決のための努力を少しもしていないことは、蓮池透氏や私が夙に指摘してきたとおりである。拉致問題あったればこそ首相に上りつめた彼は、自らが煽った「朝鮮への憎悪感情」が社会に充満していることが政権維持の必要条件なのだから、日朝関係は現状のままでよいのだろう。去る2月の日韓首脳会談において、「米韓合同軍事演習を延期するな」と主張した首相に、「我が国の主権の問題」とする韓国大統領は反発した。160ヵ国との外交関係を持つ朝鮮との断交を国際会議で求めた日本国外相の演説は、あるべき外交政策を知らぬその無知無策ぶりに、心ある外交官の失笑を買っただろう。この期に及んで外相は韓国へ行き、4月の韓朝首脳会談で拉致問題に触れるよう、韓国外相に要請するという。首相は「盟友」トランプに会いに行き、5月の米朝首脳会談での同じふるまいを頼むのだという。自力解決の意図も能力もないことを自白したに等しい。河野外相はさらに、3月31日に「北朝鮮は次の核実験の用意を一生懸命やっているのも見える」と語った。私も時々見ている米ジョンズ・ホプキンズ大学の朝鮮分析サイト「38NORTH」は、逆にその動きは激減しているとして、外相発言の根拠に疑問を投げかけている。中国外務省は、各国が東アジアの緊張緩和に向けて努力を積み重ねている時に「その過程から冷遇されている日本は、足を引っ張るな」と不快感を示した。

かくも無惨な外交路線があり得ようか。内政・外交ともに進退窮まっている現政権の現状は確認できた。次は何か、が私たちの課題だ。            (4月7日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[94]戦争を放棄したのだから死刑も……という戦後初期の雰囲気


『反天皇制運動 Alert』第21号(通巻403号、2018年3月6日発行)掲載

死刑廃止のためには、犯罪に対する刑罰のあり方、死刑という制度が人類社会でどんな役割を果たしてきたのか、国家による「合法的な殺人」が人びとの在り方にどう影響してきたのか、犠牲者遺族の癒しや処罰感情をどう考えるか――など多面的な角度からの検討が必要だ。死刑に関わっての世界各地における経験と実情に学び、日本の現実に舞い戻るという往還作業を行なううえで、2時間程度の時間幅で、それぞれの社会的・文化的な背景も描きながら「犯罪と刑罰」を扱う映画をまとめて上映すれば、大いに参考になるだろう――そう考えて始めた死刑映画週間も、今年で7回目を迎えた。死刑廃止の目標が達成されたならやめればよい、将来的には消えてなくなるべき活動だと思うから、持続性は誇ることではない。だが残念ながら、情勢的にはまだ、やめる条件は整っていないようだ。

7年間で56本の映画を上映してきた。思いがけない出会いが、ときどき、ある。外国の映画を観れば、映画とは、それぞれの文化・社会の扉を開く重要な表現媒体だということがわかる。韓国映画が、死刑をテーマにしながら奇想天外なファンタジーにしてしまったり、あからさまなお涙頂戴の作品に仕上げたりするのを見ると、ある意味「自由闊達な」その精神の在り方に感心する。加えて、軍事政権時代の死刑判決と執行の多さに胸が塞がれた世代としては、制度的には存続しつつも執行がなされぬ歳月が20年も続いているというかの国の在り方に心惹かれる。社会が前向きに、確実に変化するという手応えのない社会に(それは自らの責任でもあると痛感しつつも)生きている身としては。

日本映画、とりわけ1950年代から60年代にかけての、映画の「黄金時代」の作品に触れると、冤罪事件の多かった時代だから、それがテーマの映画だと驚き呆れ、憤怒がこみ上げてくると同時に、骨太な物語構成・俳優陣の達者さと厚み、そして何よりも高度経済成長以前の街のたたずまいや人びとの生活のつましさに打たれる。深作欣二監督の『軍規はためく下に』(1972年)には驚いた。私も、周囲の映画好きですらもが、未見だった。敵前逃亡ゆえに戦地で処刑された軍人の妻が遺族年金を受給できないという事実から、軍人恩給制度・戦没者追悼式・天皇の戦争責任・帝国軍隊を支配した上意下達的な秩序と戦犯級の軍人の安穏とした戦後の生活ぶり――などの戦後史の重要項目に孕まれる問題点が、スクリーン上で語られ、描かれてゆく。1960年前後の深沢七郎による天皇制に関わる複数の作品(創作とエッセイ)もそうだが、表現者がタブーをつくらずに、自由かつ大胆に己が思うところを表現する時代はあったのだ。

今年の上映作品では『白と黒』(堀川弘通監督、橋本忍脚本、1963年)が面白かった。妻を殺害された死刑廃止論者の弁護士が、被告とされた者の弁護を引き受けるという仕掛けを軸に展開する、重層的な物語の構造が見事だった。証拠なき、自白のみに依拠する捜査が綻びを見せる過程もサスペンスに満ちていて、映画としての面白さが堪能できる。

死刑反対の弁護士の妻が殺された事件は実際にあったと教えられて、調べてみた。1956年、磯部常治弁護士の妻と娘が強盗に殺害された事件が確かにあった。明らかな冤罪事件である帝銀事件の平沢貞通被告の弁護団長も務めた人だ。事件直後にも氏は、「犯人が過去を反省して誤りを生かすこと」が真の裁判だと語り、心から済まぬと反省して、依頼されるなら弁護するとすら言った。氏は、56年3月に参議院に提出された死刑廃止法案の公聴会へ公述人として出ている。曰く「自分の事件についていえば、犯人は悪い。だが、あの行為をなさねば生きてはいけぬという犯人を作り上げたのは何か。10年前、彼が17、8歳のころ日本が戦争をして、彼に殺すことを一生懸命に教育し、ほんとうに生きる道を教育しなかったことに過ちがある」。この言葉は、作家・加賀乙彦氏が語ってくれる「新憲法で軍隊保持と戦争を放棄した以上、人殺しとしての死刑を廃止しようという気運が戦後初期には漲っていた」という証言と呼応し合っている。残念ながら法案は廃案になったが、その経緯を詳説している『年報・死刑廃止2003』(インパクト出版会)を読むと、時代状況の中でのこの法案のリアリティが実感できる。諦めることなく、「時を掴む」機会をうかがうのだ、と改めて思った。(3月3日記)