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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

「死刑囚表現展」の13年間を振り返って


『創』2017年12月号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が運営する「死刑囚表現展」は今年で13回目を迎えた。始めたのは2005年。その前年に、東京拘置所に在監する確定死刑囚、大道寺将司氏の母親・幸子さんが亡くなった。遺された一定額の預金があった。近親者および親しい付き合いのあった人びとが集い、使い道を考えた。筆者もそのひとりである。幸子さんは、息子が逮捕されて以降の後半生(それは、54歳から83歳までの歳月だった)の時間の多くを、死刑制度廃止という目的のために費やした。

息子たちが行なったいわゆる「連続企業爆破」事件、とりわけ1974年8月30日の三菱重工ビル前に設置した爆弾が、死者8名・重軽傷者385名を出したことは、もちろん、彼女の胸に重く圧し掛かっていた。本人たちが意図せずして生じさせてしまったこの重苦しい結果が彼女の頭を離れることはなかったが、息子たちは、マスメディアがいうような「狂気の爆弾魔」ではないという確信が揺ぐことはなかった。この確信を支えとして、彼女は「罪と償い」の問題に拘りつつ、同時に死刑廃止活動への関わりを徐々に深めていった。息子以外の死刑囚とも、面会・文通・差し入れ・裁判傍聴などを通して、交流した。人前で話すことなど、およそ想像もつかない内気な人柄だったが、乞われるとどこへでも出かけて、息子たちが起こした事件とその結果に対する自らの思いを話すようになった。死刑囚のなかには、自らが犯した事件・犯罪について内省を深め、罪の償いを考えているひとが多いこと、また、国家の名の下に命を最終的に絶たれる死刑事件においても冤罪の場合があることなどを彼女は知った。

幸子さんは、晩年の30年間を、獄外における死刑廃止運動の欠くことのできない担い手のひとりとして、死刑囚と共に「生きて、償う」道を模索した。この辺りの経緯は、幸子さんへの直接の取材が大きな支えとなっているノンフィクション作品、松下竜一の『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線“狼”部隊』(初出「文藝」1986年冬号、河出書房新社。現在は、単行本も同社刊)に詳しい。

彼女の遺産の使い道を検討した私たちは、そのような彼女の晩年を知っていた。遺されたお金は、「死刑廃止」という目標のために使うのが彼女の思いにもっとも叶った道だろうという結論はすぐに生まれた。さて、どのように使おうか。討論の結果、次のように決まった。

死刑囚の多くは、判決内容に異議をもち再審請求を希望する場合でも、経済的に困窮していて、それが叶わないこともある。一人ひとりにとってはささやかな額ではあろうが、「基金」は一定の金額を希望者に提供し、再審請求のための補助金として使ってもらうことにした。毎年、5人前後の人びとの弁護人の手にそれは渡っている。

もうひとつは、死刑囚表現展を開催することである。死刑囚は、多くの場合、外部の人びとと接触する機会を失うか、ごく限られたものになるしか、ない。「凶悪な」事件を引き起こして死刑囚となる人とは、身内ですら連絡を絶つこともある。ひとは、自分が死刑囚になるとか、その身内になるとかの可能性を思うことは、ほとんどないだろう。だが、振り返れば、死刑囚がなした表現に深い思いを抱いたり衝撃を覚えたりした経験を、ひとはそれぞれにもっているのではないか。永山則夫氏の自己史と文学、永田洋子および坂口弘両氏が著した連合赤軍事件に関わる証言や短歌、苦闘の末に冤罪を晴らした免田栄氏や赤堀政夫氏の証言、そして、いまなお冤罪を晴らすための闘いの渦中にある袴田巌氏の獄中書簡やドキュメンタリ―映画、当基金の当事者である大道寺将司氏の書簡と俳句など、実例は次々と浮かぶ。世界的に考えても、すべてが死刑囚ではないが、マルキ・ド・サド、ドストエフスキー、金芝河、金大中、ネルソン・マンデラなど、時空を超えて思いつくままに挙げてみても、獄中にあって「死」に直面しながらなした表現を、私たちはそれぞれの時代のもっとも切実で、先鋭なものとして受け止めてきたことを知るだろう。それらに共感を寄せるにせよ批判的に読むにせよ、同時代や後世の人びとのこころに迫るものが、そこには確実に存在している。

日本では、死刑制度の実態が厚いヴェールに覆われているにもかかわらず、死刑を「是」とする暗黙の「国民的な合意」があると信じられている。刑罰の「妥当性」とは別に、死刑囚といえども有する基本的な人権や表現の自由についての認識は低い。「罪と罰」「犯罪と償い」をめぐっては冷静な議論が必要だが、「死刑囚の人権をいうなら、殺されたひとの人権はどうなるのだ」という感情論が突出してしまうのが、日本社会の現状だ。死刑囚が、フィクション、ノンフィクション、詩、俳句、短歌、漫画、絵画、イラスト、書など多様な形で、自らの内面を表現する機会があれば、そのような社会の現状に一石を投じることになるだろう。死刑囚にとって、それは、徹底した隔離の中で人間としての社会性を奪われてしまわないための根拠とできるかもしれない。

そのような考えから表現展を実施することにしたが、死刑囚の表現に対してきちんと応答するために、作品の選考会を開くこととして、次の方々に選考委員をお願いした。加賀乙彦氏(作家)、池田浩士氏(ドイツ文学者)、川村湊氏(文芸評論家)、北川フラム氏(アートディレクター)、坂上香氏(映像作家)。基金の運営会からは私・太田昌国(評論家)が加わった。第7回目を迎えた2011年には、ゲスト審査員として香山リカ氏(精神科医)を迎えたが、香山さんにはその後常任の選考委員をお願いして現在に至っている。

「死刑囚表現展」と銘打つ以上、応募資格を持つのは、当然にも死刑囚のみである。この企画が発足した2005年ころの死刑囚の数は、確定者と未決者(地裁か高裁かで死刑判決を受けているが、最高裁での最終判決はこれからの人)合わせて百人程度だった。それから12年を経た昨今では、125人から130人くらいになっている。このうち、表現展に作品を応募する人は、平均15%から20%くらいの人たちである。

例年の流れは、以下のとおりである。7月末応募締め切り。文字作品はすべてをコピーして、選考委員に送る。その厚みはだいたい30センチほどになるのが普通だ。9月選考会。絵画作品はその場で見て、討議して選考する。10月には「死刑廃止集会」という公開の場で、改めて講評を行なう。

「基金」のお金は、参加賞や各賞の形で応募者に送られる。「賞」の名称(名づけ)には、いつも苦労する。「優秀賞、努力賞、持続賞、技能賞、敢闘賞」などはありふれているが、獄中にありながら現代的な言葉遣いに長けた人には「新波賞」(文字通り、「ニュー・ウェーブ」の意味である)が、また周囲の雑音に惑わされず独自の道を歩む人には「独歩賞」とか「オンリー・ワン賞」が与えられた。肯定・否定の論議が激しかった作品には、「賛否両論賞」が授与されたこともある。この「賞金」がどのように使われているかは、外部の私たちは、詳しくは知る由もない。少なからぬ人びとが、来年度の応募用のボールペン、色鉛筆、原稿用紙、ノート、封筒、切手などの購入に充てているようだ。お金に困らない死刑囚など存在しているはずはないし、物品制限も厳しい中で、なにかしらの糧になっているならば、「基金」の趣旨に叶うことだ。

応募者には、選考会での各委員の発言内容をすべて記録した冊子が送られる。公開の講評会の様子も、死刑廃止のための「フォーラム90」の機関誌に掲載されるので、それが差し入れられる死刑囚のみならず、希望するだれの目にも触れる。これは、精神的な交流を、一方通行にせずに相互交通的なものにするうえで大事なことであると痛感している。選考委員の率直な批判の言葉に、応募者が憤激したり、反論してきたりすることも、ときどき起こる。ユーモアや諧謔をもって応答する応募者もいる。常連の応募者の場合には、明らかに、前年度の作品への選考委員の批評を読み込んで次回作に生かしたと思われる場合も見られる。

この13年間に触れてきた膨大な作品群を通して考えるところを、以下に記しておきたい。自らが犯してしまった出来事を、俳句・短歌などの短詩型やノンフィクションの長編で表現する作品が目立つ。前者の場合、短い字数ゆえに、本人の心境をごまかしての表現などはそもそもあり得ないもののようだ。自己批評的な作品は、ずっしりと心に残る。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり  (響野湾子)

振り捨てて埋めて忘れた悲しみを思い出させる裁判記録 (石川恵子)

一読後、その人が辿ってきた半生がくっきりと見えたような感じがして、ドキリとする作品も散見される。作品の「質」を離れた訴求力をもって、こころに呼びかけてくる作品群である。

父無し子祖母の子として育てらる吊るされて逝きて母と会えるや (畠山鐵男)

弟の出所まで残8年お互い元気で生きて会いたし        (後藤良次)

両親を知らずして育ち、高齢を迎えたいま、獄中に死刑囚としてあること。2人、3人の兄弟が全員刑務所に入っていること――そんなことを読み取ることができる表現に、掲句に限らず、ときどき出会う。ここからは、経済的な意味合いだけには還元できない現代社会の「底辺」に澱のように沈殿している何事かを感受せざるを得ない。ひとが残酷な事件を犯すに至る過程には、社会的な生成根拠があろう。貧困、無知、自分が取るに足らぬ存在と蔑まされること、社会全体の中での孤独感、根っことなるものをことごとく引き抜かれていること――それらすべてが、一人の人間の中に凝縮して現われた時に、人間はどうなり得るか。永山則夫氏の前半生は、まさにそのことを明かしている。同時に、永山氏は自らが犯した過ちを自覚したこと、それがなぜ生まれたかについて「個人と社会」の両面から深く追求する表現を獲得しえたこと、それが書物となって印税が生じたとき、自らが殺めた犠牲者の遺族に、そして最後には「貧しいペルーの、路上で働く子どもたち」に金子を託すという形で、彼独自の方法で「償い」を果たそうとしたこと――などが想起されてよいだろう。

ノンフィクションの長編で自らの犯罪に触れた作品からも,時に同じことが読み取れる。同時に、「凶悪な犯罪」というものは、たいがい、絵に描いたように「計画的に」行なわれるものではないようだ、ということにも気づかされる。作品が真偽そのものをどこまで表現し得ているかという問題は残る。だが、文章そのものから、物語の展開方法から、事実が語られているか、ごまかしがあるかは、分かるように思う。その前提に立てば、実際の犯行に至る過程のどこかで、複数の人物の「偶然の」出会いがなかったり、車や犯行用具が一つでも欠けていたりしたならば、ここまでの「凶行」は起こらなかったのではないか、と思われる場合が多い。逆の方向から言えば、「偶然」の出会いに見えるすべての要素が、たがが外れて合体してしまうと、あとは歯止めが利かなくなるということでもある。その過程を思い起こして綴る死刑囚の表現からは、ひたすらに深い悔いと哀しみが感じられる。

問題は、さらにある。被疑者は逮捕後に警察・検察による取り調べを受ける訳だが、死刑囚が書くノンフィクション作品においては、その取り調べ状況や調書の作り方への不満が充満しているということである。冤罪事件の実相に触れたことがある人は、取り調べ側がいかに恣意的に物語を作り上げるものであるかを知っておられよう。「物語」とは、ここでは、「犯行様態」である。捜査側の思い込みに基づいて、現場の状況と数少ない証拠品に合わせるように「自白」を誘導する手口も、犯人をでっち上げることで初動捜査の失敗を覆い隠すやり口も、根本的にご法度なのだ。だが、実際には、それがなされている。このようなシーンが、十分に納得のいく筆致で書かれていると、死刑囚にされている表現者がもつ怒りと悔しさが伝わってくる。

絵画作品の応募も活発だ。選考会でよく話題になることだが、幼子の時代を思い起こしてみれば分かるように、文章を書くことに比して、絵を描くことは、ひとをしてヨリ自由で解放的な空間に導いてくれるようだ。人を不自由にすることに「喜び」を見出しているのかとすら思われる、拘置所の官僚的な規則によって、獄中で使用できる画材には厳しい制限がある。だが、その壁を突破しようとする死刑囚の「工夫の仕方」には、舌を巻くものもある。常連の応募者の画風に次第に変化が見られる場合があることも、楽しみのひとつだ。最近は、立体的な作品が生まれている。着古した作務衣を出品するという意想外な発想をする人も現われた。或るひとが漏らした「まるでコム・デ・ギャルソンだ」とは、言い得て妙な感想だった。極限的に狭い空間の中から、ここまで想像力を伸ばし切った作品が生まれるとは――と思うことも、しばしばだ。

この企画を始めて13年――11年目には、1980年代に冤罪を晴らした元死刑囚の赤堀政夫さんが、自分もこの企画に協働したいと申し出られて、一定の基金を寄せられた。以後、「基金」の名称には赤堀さんの名も加わることとなった。初心を言えば、当初は10年間の企画と捉えており、その間にこの日本においても「死刑廃止」が実現できればよいと展望していた。残念ながら、政治・社会状況は悪化の一途を辿り、それは実現できなかったからこそ、現在も活動は続いている。この間には、無念にも、かつての応募者が処刑されてしまったこともある。獄死した死刑囚もいる。このように、私たちには力及ばないことも多いが、この表現展は、死刑囚と外部社会を繋ぐ重要な役割を果たしていると実感している。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[92]願わくば子供は愚鈍に生まれかし。さすれば宰相の誉を得ん


『反天皇制運動Alert』第19号(通巻401号、2018年1月9日発行)掲載

今年は明治維新(1868年)から150年に当たる年なので、政府や地方自治体がそれを記念する行事を企画し始めているようだ。年頭の新聞各紙でも、その種の記事が目立った。ただし、この言い出しっ屁が現首相であると私が知ったのは、年頭1月6日付け毎日新聞掲載の編集委員・伊藤智永のコラム「時の在りか」によってである。

戦後70年に当たる2015年に山口県に里帰りした首相は、明治50周年(1918年)は長州軍閥を代表する寺内正毅、同100周年(1968年)は叔父の佐藤栄作が首相だったと紹介したうえで、「私は県出身8人目の首相。頑張って平成30年までいけば、明治維新150年も山口県の安倍晋三が首相ということになる」と語ったという。地元有権者の心をくすぐるリップサービスだったのだろうこの発言から、長期政権への野心を忖度した現官房長官が国の記念行事に位置づけた、と伊藤記者は言う。

現首相は、元来、まっとうな歴史意識や歴史認識の持ち主であることを期待しようもない人物ではあるが(首相の在り方として、ほんとうに、これは哀しく、情けなく、恥ずべき事実として私は言っている)、彼が肯定的に例示した寺内正毅は、「元帥陸軍大将」位をはじめとしていくつもの勲章を胸中に付けた肖像写真で有名な人物である。[勲章をぶら下げた人間を見たら、「軍人の誇りとするものは、小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう」と『侏儒の言葉』に記した芥川龍之介の言葉を思い起こすくらいの心を持ち続けていたい。それは、「革命軍」や「人民軍」や「解放軍」の兵士や司令であっても、変わることはない。躊躇いもなく人びとを殺す残虐な行為の果てに、胸を勲章で埋めるのが「軍人」、とりわけ「将軍」だからだ]。

ともかく、寺内正毅という軍人政治家の在り方を近代日本の歴史の中に位置づけておくことは、現首相の立場とは正反対の意味で、私たちにとっても必要なことに違いない。

1852年生まれ(ペリー艦隊「来襲」の前年である)の寺内は、明治維新の年=1868年に御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦したことで、軍人としての生涯を始めている。わずか16歳であったことに注目したい。その後の西南戦争でも、とりわけ田原坂の戦いで負傷して右手の自由を失うわけだから、いわば明治維新前後の政治的・社会的激動の中で生きたという背景がくっきりと刻印されている人物である。その負傷によって以後実戦の場を離れたとはいえ、日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を、日露戦争時には陸相を務めていた事実に当たれば、いかにも「坂の上の雲」を目指して明治期前半の時代を生きた典型的な人物と知れよう。だが、その天を目指す群像を肯定的に描いた司馬遼太郎ですらが、寺内は自らの無能さを押し隠すように愚にもつかぬ形式主義に陥り、軍規にやかましく、偏執的なまでに些事に拘泥して部下を叱責した人物として描いている。その寺内が、1910年の「韓国併合」と共に陸相兼任のまま初代朝鮮総督となり、一般歴史書でも「武断政治」と称されるような苛烈な朝鮮統治の方法を編み出し、あまつさえ1916年には首相にまで「上りつめた」のである。

中国北宋代の政治家、詩人にして書家・蘇東坡の、有名な一句を思い出す。

「願わくば子供は愚鈍に生まれかし。さすれば宰相の誉を得ん」

日本国の現首相は言うに及ばず、世界中の現役宰相を眺めて思うに、「政治」「政治家」の本質は、やんぬるかな、古今(11世紀も、21世紀も)東西を貫いて、この一語に尽きるのかもしれぬ。

さて、寺内に戻る。彼は「韓国併合」の「祝宴」で次のように詠った。

「小早川 加藤 小西が世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」

固有名詞の3人はいずれも、16世紀末、秀吉の朝鮮出兵に参画し「武勲」を挙げた武将たちである。「歴史の評価は歴史家に委ねる」と公言する現首相が、心底に秘めている歴史観に共通する心情が謳われていることは自明のことと言えよう。

かくして、今年一年を通じて、明治維新150周年の解釈をめぐる歴史論争が展開されよう。ここ数年来、産経新聞はこの種の論争に敢えて「歴史戦」と名づけたキャンペーンを繰り広げている。『諸君!』『正論』などの右翼誌には1980年代後半以降とみに劣化した言論が載るようになったが、30年近くを経てみれば、その水準の言論が社会全体を覆い尽くすようになった。偽り、ごまかし、居直りに満ちたこの種の言論の浸透力を侮った報いを、私たちはいま引き受けている。「愚鈍な」宰相の言葉とて、甘く見るわけにはいかない。

(1月7日記)

書評:萱野稔人『死刑 その哲学的考察』 


『出版ニュース』2017年12月中旬号掲載

国家や暴力に関わって刺激的な問題提起を行なってきている哲学者による死刑論である。

最初に目次を紹介しておくことが重要な意味を持つ本だと思う。死刑について考える道筋をつけながら、議論が核心に迫っていく方法を、著者が自覚的に選び取っているからである。第1章「死刑は日本の文化だとどこまでいえるか?」、第2章「死刑の限界をめぐって」、第3章「道徳の根源へ」、第4章「政治哲学的に考える」、第5章「処罰感情と死刑」。

第1章は、2002年、欧州評議会主催の国際会合に出席した当時の森山法相が、「死んでお詫びをする」という日本の慣用句を引きながら「死刑は日本の文化である」と発言し、死刑制度の存置に批判的な欧州各国で大きな波紋を呼んだ事実の指摘から始まる。EU(欧州連合)は、死刑制度を廃止していることを加盟条件としているほどだから、この死刑擁護論への驚きは大きかっただろう。著者によれば、問題はこの発言の当否そのものにあるのではなく、死刑に関わる考え方は、森山発言のような文化相対主義を脱し、普遍的なロジックに基づいて披歴されなければならない。

第2章のタイトルは、「自分の人生を幕引きするための道連れ」として大量殺人を行なう、つまり死刑になるために凶悪犯罪に走った実際の事件を前に、死刑の「限界」を論じるところから来ている。死刑になることを望んでいる加害者を死刑にしたところで、刑罰としてどんな意味があるのか、という問いである。「一生刑務所から出られない刑罰」としての終身刑の導入(論理的には、これには死刑の廃止が前提となる)が論じられるのは、このあとである。「死ぬつもりなら何をしてもよい」という挑戦を前に、道徳的な歯止めをいかにかけるか。次に来るのは、この問いである。

第3章は、「人を殺してはいけない」という究極的で根本的な道徳をめぐっての論議である。死刑とは、処罰のためとはいえ人の命を奪うことであり、前記の道徳に反する。それでも多くの人が死刑を肯定しているのは、「人を殺してはいけない」という道徳が、多くの人にとって絶対的なものではないことを明かしている。ここでは、道徳を絶対的で普遍的なものだと捉えた哲学者のカントが死刑を肯定した論理構造を詳しく論じながら、しかし、道徳的には死刑の是非を確定することができないという結論が導かれていく。

犯罪による死と応報としての刑死における死の「執行者」はまったく異なるのだから――後者には、国家(権力)が貌を出すのだから――、それに触れないままに応報論に多くの頁を割いた第3章の議論に苛立ちを覚えた評者を待ち受けたのは、第4章である。ここでは、死刑を執行する公権力の在り方が論じられている。「合法/違法を決定する権力が、処罰のために人の命を奪う権限を保持している」死刑制度の本質が分析される。公権力の存在を望ましいと考える著者は、「国家なき社会」や「政府なき世界」を夢想する知識人を批判したうえで、公権力が過剰に行使されて起こる冤罪の問題を次に論じる。「冤罪の可能性は、公権力が犯罪を取り締まり、刑罰をくだすという活動そのもののなかに構造的に含まれて」おり、「権力的なもの」に由来すると考える著者は、道徳的な議論では死刑の是非に決着をつけることはできない以上、冤罪こそが、その是非を考える上で最重要な論点だと強調する。死刑に反対する人でも、冤罪の危険性を廃止論の核にここまで据える場合は稀なだけに、この議論の展開方法に、私は注目した。

最後の第5章で著者が改めて論じるのは、「凶悪犯罪は厳しく罰するべきだ」とする人びとの処罰感情の強さが死刑肯定論を支えている現実について、である。冤罪による刑死を生み出す危険性をいかに声高に訴えたところで、広い関心は持たれない。凶悪犯罪の被害者家族の処罰感情は別として、社会を構成する圧倒的多数としての第三者の人びとが抱く処罰感情は、現在の日本にあっては、メディア(とりわけテレビ)の無責任な悪扇動によるところが大きいと評者は考えるが、それにしても、この処罰感情に応えることなくして、死刑廃止の目途は立たない。著者はここで、処罰感情を「無条件な赦し」(デリダ)によって、つまり寛容さで克服しようとする死刑廃止論の無力さを衝きつつ、哲学の歴史において初めて死刑反対論を展開した18世紀イタリアの法哲学者、チェ-ザレ・ベッカリーアを引用する。刑罰としての効果が薄い死刑に代えて、終身刑を課すほうが望ましいという考え方を、である。著者は、処罰感情に正面から向き合ってなお死刑否定論の根拠を形成し得る議論として、ベッカリーアの考え方に可能性を見出して、叙述を終える。

社会を構成する個人や集団には許されない「殺人」という権限が、ひとり国家という公権力のみに許されるという在り方は、死刑制度と戦争の発動を通して象徴的に炙り出されると評者は考えている。敗戦後の日本で新憲法が公布された当時、戦争を放棄した以上、人を殺すことを合法化する死刑も当然廃止すべきだという議論が沸き起こったという証言もあるように。その関連でいうと、第1章が触れる欧州の国々の中には、死刑の廃止は実現したが、現在も「反テロ戦争」には参戦していることで、戦争における「殺人」は容認している場合があることが見えてくる。日本の公権力は、現在、死刑制度を維持する一方、「放棄」したはずの戦争をも辞さない野心も秘めているようで、世界的にも特殊な位置にあろう。「公権力」の問題をそこまで拡張して論じてほしかったとするのは、無いのもねだりか。

死刑問題の核心に向き合おうとしない死刑廃止運動の言動に対する著者の苛立ちが、随所に見られる。当事者のひとりとして、その批判には大いに学ぶものがあった。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[91]代議制に絶望して、おろおろ歩き……


『反天皇詠運動Alert』第18号(通巻400号、2017年12月6日発行)掲載

かつて必要があって、1965年当時の日韓条約締結に関わる国会審議の様子を新聞記事に基づいて調べたことがある。不明なことが多く、議事録を取り寄せたら、質疑内容に関する印象は一変した。戦後「反戦・平和勢力」の、国会における重要な担い手であった社会党議員が、対韓植民地支配責任を問う形での「戦後処理」を求めるのではなく、敗戦時に在韓していた日本人植民者が混乱の最中で彼の地に放置せざるを得なかった「財産」の回復・確保が、締結すべき条約に関わっての主要な関心であったことに一驚した。これに関しては、植民者を動員した日本国家が負うべき責任はあるだろうが、対韓請求の問題ではないだろう。

時代は下って1990年代後半、オウム真理教教祖の公判での弁護側と検察側のやり取りを、某紙一面の全面を使う記事で読んだ。全面を使っているのだから、さぞ詳しく、的確にまとめられているのだろうと思い込んでいた節が我ながらあった。後日、その応酬を引用するために公判記録を読むと、新聞に掲載されていた要旨とはまったく異なる印象を受けた。同紙の要約記事は、法廷における教祖の、「異様」かつ「不真面目な」ふるまいに関するト書き的な叙述が多く、弁護人の重要な発言を軽視ないしは無視していたようだった。

当然のことながら、国会や裁判で交わされた当事者間の問答・論議を検証するには原資料に当たることの重要性を学んだ。その意味では、テレビやラジオの中継は、質疑・問答のありようをじかに確認できて、本来ならよいのだが、時間の関係上それはできない場合が多く、加えて、昨今の国会審議の惨状を思うと、そもそも見聞きするに堪えられないという思いが先に立つ。機会あって稀に見聞きしたりすると、両者の言動に対する賛否以前に、「言葉を交わす」こと自体が不可能な人間がここまで大量に登場している事実を知って、こころが塞ぐ。だが、ネット上のツイッターやフェイスブックでは、忍耐力のある人が、あまりにひどいケースを動画入りで報告してくれる場合が、昨今はある。今次臨時国会での「討論」に関しても、それを通して、いくつかの「シーン」を垣間見た。野党議員の持ち時間を大幅に削ってまで質問をしたいと望んだ与党議員と閣僚たちが、驚くべき「醜態」をさらしていた。

青山繁晴や山本一太などが行なった質問はここに引用するのも憚られる内容(正しくは、無内容)なので、それはしない。したくない。この間、私自身もそう思い、何度か書いたこともあったが、連中の狙い目は、有権者が国会審議のひどさに呆れ、もはや、今まで以上に政治への、国会への関心を喪失し、政府・与党のやりたい放題でこの国の運営ができる状態を出来させたいのではないかと呟く人を、今回はちらほらと見かけた。さもありなん。

「ひどさに呆れ」と言えば、否応なく思い出すひとつの文章がある。テーマが若干変わるが、以下に引用してみる。「天皇というものは本来純粋培養で、貴族同士の結婚によって段々痩せ衰えてゆき、ひとつの生物の標本となる。ジガ蜂のようにグロテスクになってしまい、国民がそれを見て、なるほど俺たちの象徴というのはこんなんなんだナというふうに眺めるようになってほしかった。ところが、民間の女性と結婚することになった。これは困ったことである。なぜならたいへん健康な子どもが生まれるであろうから」

これを書いたのは、作家・深沢七郎。時期は、現天皇夫妻が結婚して間もない1960年。掲載誌は、講談社が現在も刊行を続けている文芸誌『群像』。深沢が書いた高級落語(吉本隆明による命名)「風流夢譚」とほぼ同じ時期に書かれたエッセイだったと知れよう。深沢の、この暗喩的な表現は何を語ったのか。この国では、自覚的な意識化作業による精神革命を経ての天皇制の廃絶も、他国ではありふれた歴史的事象であった物理的な処断=「王」の処刑による王政廃絶も、いずれも不可能なのではないかという、いかにも彼らしいニヒリズムの表現であったように思われる。

私はここで天皇制のことを書こうとしているのではない。あまりにひどい代議制に対する私たちの絶望の度合いは、天皇制に関わる深沢のこの吐露に近いものに達していると考えている私は、この先どうしたものかとおろおろ歩いているさまを、そのまま記しておきたかったのである。(12月3日記)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[90]山本作兵衛原画展を見に来たふたり


『反天皇制運動Alert』第17号(通巻399号、2017年11月7日発行)掲載

数年前のことだった。東京タワーの展示室で「山本作兵衛原画展」が開かれた。筑豊の炭鉱で自らが従事した鉱山労働の様子や、労働を終えた後の一時のくつろぎの仕方までを絵筆をふるって描き、深い印象を残す人物である。筑豊は谷川雁、上野英信、森崎和江などの忘れ難い物書き(関連して、後述する水俣の石牟礼道子も)を生んだ土地であり、私はそれらの人びとへの関心の延長上で作兵衛の作品にも画集では出会っていた。

原画にはやはり独特の趣があって、来てよかったと思った。原画展の会場を去る時、ひとりの友人とすれ違った。その彼女が深夜になってメールをくれた。あのあと会場で作品を見ていると、今日は緊急に閉場しますというアナウンスがあったので、そんなことは展覧会案内のホームページにも書いていない、まだ見終えていない、と抗議していると、どこからともなくわらわらと大勢の黒い服の男たちが現われ、見る見るうちに会場を制圧した。そしてその奥から、天皇・皇后の姿が現われた……と。

作兵衛画の鑑賞を突然断ち切られた友人の怒りは当然として、同時に、作兵衛展を見に行くとは、皇后もなかなかやるな――と私は思った。この展覧会の少し前に、ユネスコは作兵衛の作品を世界記憶遺産に指定していた。この年には、チェ・ゲバラが遺した文書(日記、旅行記、ゲリラ戦記など)も、キューバ・ボリビア両政府からの申請で同じ遺産に指定されており、それぞれの国では自国に縁のある文物が記憶遺産に指定されることに〈自民族至上主義的に〉大騒ぎする。日本社会も、描いている主題からして日頃はさして注目もしていない山本作兵衛の作品が、世界的な認知を受けたといって盛り上がっていたとはいえ、このような社会的「底辺」に関わる表現にまで目配りするとは、さすが皇后、と思ったのである。(この展覧会に来るという「見識」を持ち得るのは天皇ではなく皇后だろうという判断には、大方の賛同が得られよう。)

こんなことを思い出したのは、去る10月20日、83歳の誕生日を迎えた皇后の文書が公表されたからである。2ヵ月早く今年の回顧を行なった感のある同文書を読むと、神羅万象に関わる皇后の関心の広さ(あるいは、目配りのよさ)がわかる。震災の被災者や原爆の被害者への言及を見て、「弱者に寄り添う」という表現もメディア上では定番化した。今回は特に、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞したことにも触れており、これには明らかに、核廃絶への取り組みに熱心ではない安倍政権への批判が込められているとの解釈もネット上では散見された。学生時代の彼女は(1934年生まれの世代には珍しいことではないが)、ソ連の詩人、マヤコフスキーやエセーニンの作品を愛読していたという挿話もあって、〈個人としては〉時代精神の優れた体現者なのだろう。

だが、ひとりの人間として――というためには、他の人びととの在り方と隔絶された特権を制度的に享受する立場に立たない、という絶対条件が課せられよう。作兵衛展に出かけるにしても、一般人の鑑賞時間を突然に蹴散らしてでも自分たちの来場が保証されるという特権性に、彼女が聡明で優れた感度の持ち主であれば、気づかぬはずはない。自分たちが外出すれば、厳格極まりない警備体制によって「一般人」が被る多大な迷惑を何千回も現認しているだろうことも、言うを俟たない。「弱者」に対していかに「慈愛に満ちた」言葉を吐こうとも、己の日常は、このように、前者には叶うはずもない、そして人間間の対等・平等な関係性に心を砕くならば自ら持ちたいとも思わないはずの特権に彩られている。その特権は「国家」権力によって担保されている。この「特権」と、自らが放つ温情主義的な「言葉」の落差に、気が狂れるほどの矛盾を感じない秘密を、どう解くか。

凶暴なる国家意志から、まるで切り離されてでもいるかのように浮遊している「慈愛」があるとすれば、それには独特の「役割」が与えられていよう。彼女が幾度も失語症に陥りながらも、皇太子妃と皇后の座を降りようとしなかったのは、自らの特権的な在り方が「日本国家」と「日本民族」に必要だという確信の現われであろう。

高山文彦に『ふたり』と題した著書がある(講談社、2015年)。副題は「皇后美智子と石牟礼道子」である。そのふるまいと「言霊」の力に拠って、後者の「みちこ」及び水俣病患者をして心理的にねじ伏せてしまう、前者の「みちこ」のしたたかさをこそ読み取らなければならない、と私は思った。「国民」の自発的隷従(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)こそが、〈寄生〉階級たる古今東西の君主制が依拠してきている存立根拠に違いない。

(11月4日記)