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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで


『ガルシア・ロルカ生誕祭119』(2017年6月4日、広島のcafé-teatro Abiertoで開催)における講演

1)米西戦争

さてもさても、お集まりの皆さん、私はこの4年間、ガルシア・ロルカが生まれたこの季節になると、この舞台の上で、ロルカが書いた詩を原語でふたつ三つと朗読してまいりました。今年は趣向変わって、彼が生きた時代を背景に、その短かく終わった人生の足跡を辿ることに相なった次第。題して「ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで」。わずか30分に彼の生涯を凝縮してお話しするのは至難の業ですが、ともかくそれを試みるゆえ、とくとお聞きあれ。

スペインといえば、だれもが知っている名前をいくつか挙げましょう。「ドン・キホーテ」という名は、この国では安売り雑貨屋の名としてまかり通ってしまった風情なれども、もともとは、16、7世紀スペインが生んだ文豪、セルバンテスが書いた長編小説のタイトルこそが『ドン・キホーテ』。世界的に見ても時空を超えた大傑作というべき小説のタイトルが、21世紀の日本国ではこんな店の名として「盗用」されていることを知ったならば、天国にいるのか地獄にいるのか、名付け親のセルバンテスはびっくり仰天しているに違いありません。

さらには、絵画の世界を覗けば、古くは18世紀のフランシスコ・ゴヤ、20世紀の現代に来れば、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ジョアン・ミロなど、言い古された言葉なれども、まるで綺羅星のごとく天才的な画家たちが居並びます。あの奇怪にして魅力的な建築物を手掛けたアントニオ・ガウディ、その息遣いがチェロの音色と一緒になって聞こえてくるチェロ弾きのパブロ・カザルス、鬼才という形容がよく似合う、映画監督のルイス・ブニュエル、そして今日も、私たちの心を掴んで放さないカンテの歌やフラメンコの舞踏――ともかく、文化面からみれば、スペインという国は、妖しくも煌びやかな光を放っているのでございます。我らがガルシア・ロルカも、まぎれもなく、その中の一員だということをお忘れなく……。

さて、ロルカが生まれたのは1898年。今を去ること、120年前ということになります。ベン・シャーン、ジョージ・ガーシュイン、ルネ・マグリットなどが同じ年の生まれです。この年は、スペイン史においては忘れることのできない出来事が起きました。米西戦争、すなわち、スペインは、遠く大西洋を隔てた国、アメリカ合衆国との戦争を行なう破目に至ったのです。なぜか。

歴史を遡れば、スペインは世界史に植民地支配の時代を生み出した先駆けの国です。今から逆行すること5世紀ちょい、15世紀末に、スペイン女王の資金援助を得たコロンブスは大海原を西へ、西へと航海し、遂に現在のアメリカ大陸に到達しました。ヨーロッパには未知の土地であったこの大陸と周辺カリブ海の島々の大部分を、スペインは植民地としたのです。以来3世紀有余、スペインは、現在のメキシコからアルゼンチン、チリまでの広大な米大陸の支配者として君臨しました。ラテンアメリカの国々がスペインからの独立を遂げたのは19世紀初頭。したがって、いっときは海を伝って世界各地に植民地を築き上げたスペインは、米国との戦争が始まる19世紀末には、アジア太平洋のフィリピンとグアム、カリブ海のキューバとプエルトリコ、さらにはアフリカの一角のモロッコに植民地を遺すだけとなっていたのです。しかも、フィリピンとキューバでは、激しい独立闘争がたたかわれていました。

こうして、植民地帝国=スペインは追い込まれていた。一方、米国は1890年のサウスダコタ州ウーンデッド・ニーにおける先住民族スーの大虐殺によって、長年続いたインディアンの抵抗を最終的に圧し潰し、国内を「平定」することに成功した。だから、この時期以降の米国は、対外的に膨張する道を選び、まずは近隣のカリブ海に注目し、どこかの国に付け入る隙を虎視眈々と狙っていたのでありました。スペインに対して独立闘争を戦っているキューバこそ、絶好の機会を提供する場所。首都ハバナ沖に軍艦を派遣したところ、これが爆発・沈没した。歴史的に見ても、米国はフレームアップ、でっち上げの嘘を口実に戦争を仕掛けることが得意。米軍艦爆破はスペイン軍の仕業だとして、スペインに宣戦を布告したのです。落ち目の植民地帝国=スペインと、日の出の勢いの新帝国=アメリカの軍事力の差は歴然。アメリカはいとも簡単にスペインを負かしてしまったというのが、事の次第でございました。

スペイン人から見れば、世界に先駆けて植民地帝国となった15世紀末以降しばらくは「黄金時代」、それが見る見るうちに後発のヨーロッパ列強に追いつかれ、追い越されてきたのがスペイン近代史の流れでしたが、「黄金時代」から4世紀を経て、とうとう「(18)98年の不幸」と自嘲する時代に突入したのでした。スペインがなお支配していた植民地は、北アフリカのモロッコだけになりました。モロッコは、この後の歴史でも重要な地名として再登場します。覚えておかれますように。

さて、しかし、歴史的な「逆行」の時こそ、個々人の精神の深部では、とりわけ芸術家にあっては自らの真の姿に真っ向から向き合う時――先に触れた、ガウディの建築を筆頭にした文化的ルネッサンスの動きは、まさにこの時期を前後して始まっていたのです。かの有名な「サグラダ・ファミリア=聖家族教会」や「グエル邸」関連などの建造物は、この時代の真っただ中の仕事です。アフリカの彫刻に深い関心を抱いたピカソが、キュビズム革命の発端となる「アビニヨンの娘たち」を描いたのも1907年ですから、この時代の文化的な凝縮のほどが知れます。早熟にして多面的な才能に恵まれていたロルカは、まさにこの文化的ルネッサンスを養分として育ったのでした。

さて、しばらくは、その後のスペインの歴史の流れを一瞥しておきましょう。1898年にフィリピンとキューバ民衆の独立闘争によって長年にわたるスペインの植民地支配が打倒されたならば、それは、いわば、歴史的な必然であった、と言えましょう。スペインはその運命を甘受し、祖国再生の道を歩んだことでしょう。だが、この独立闘争は、スペインの後釜としてこれらの地に君臨しようとするアメリカの奇襲作戦によって、性格を一変させたのでした。フィリピンとキューバの民衆にとっては、自らの解放を賭けた独立闘争が、スペインとアメリカの2大大国の戦争になってしまったのですから、たまったものではありません。いつ変わることのない、大国の身勝手さに悔しい思いをしたことでしょう。この事件は、実は、世界全体から見ても重大な意味を持っていました。アメリカという国は、この戦争を通して、他国に軍事介入さえすれば、新たな領土や資源や労働力や軍事基地を獲得できるのだという価値観をもってしまったのです。だから、あれから1世紀以上も経ったいまなお、アメリカはそのようにふるまい続けています。72年も前に戦争が終わった沖縄に、新しい軍事基地を作ろうとしているのを見れば、この言い方が的外れでないことがお分かりでしょう。

ただ、どんな国にも、大勢に流されず、ひとりになっても抵抗の言説をやめないひとはいる。それを知ることも大事です。この時代のアメリカの場合、それは作家、マーク・トウェインでした。そうです、あの『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』の作家です。米西戦争の結果、アメリカは敗戦国スペインからフィリピンを買い取りました。新たな植民地にしたのです。大国間の身勝手な取引きに抵抗・反対して、フィリピン民衆は、やってきた米軍にゲリラ戦で闘いを挑みました。米軍はすさまじい弾圧をこれに加えました。これを知って、マーク・トウェインは言ったのです。「われわれは、何千人もの島民を鎮定し、葬り去った。彼らの畑を破壊し、村々を焼き払い、夫を失った女や孤児たちを追い出した。こうして、神の摂理により……これは政府の言い回しであって、私のものではない……われわれは世界の大国となったわけだ」

20世紀初頭の、忘れることのできないエピソードです。どんな時代にあっても、このような人物が実在することは、私たちへの励ましです。どんな社会も「ファシズム一色」「侵略戦争賛美一色」に塗り込められるのではないのです。

2)スペイン内戦

さて19世紀末のスペインに戻りましょう。スペインにとっては、アメリカへの軍事的な敗北は屈辱でした。政治的・社会的には、混乱と混迷が続きました。政党政治は立ち行かなくなりました。残された唯一の植民地モロッコでは、反スペイン暴動が頻発し、これを鎮圧するために軍隊を派遣する事態が度重なりました。この状況の中で、もともとスペインの土地に根を張っていたアナキズムの思想と運動が急速に育っていきました。とりわけ、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方の工場労働者と、万年飢餓状態に置かれていたアンダルシーア地方の農民は、権力から遠く、「土地と自由」を愛するアナキズムの理念を、いわば身体的に受容したのです。「土地」とは、そこに種を蒔き、貴重な農産物を手にすることのできる場所です。「自由」とは、人が生きる上で譲ることのできない絶対的な価値です。「土地と自由」とは、人が生きるための物理的・精神的な根拠地なのです。アンダルシーアは、ロルカが生まれ育った地でもあることを思い出しておきましょう。

さて1920年代にも起こったモロッコでの反乱を鎮圧するために出動しこれに成功した軍部がその後政治の実権を握り、軍事独裁の時代が誕生します。1930年、8年間にわたって口を封じられてきた民衆は、王政か共和制かを問われた地方議会選挙で、共和制を選んだ。国王は逃亡し、第2共和国が誕生した。これが、世界史的に見ても忘れがたい1930年代スペインの幕開けでした。これ以降、左右両派の対立が激化します。1936年の国会議員選挙で人民戦線派が勝利すると、ファシストたちが暴動を引き起こす。人民戦線派の労働者は、ストライキをもって対抗する。

さて、このころスペインが保有していた唯一の植民地、アフリカのモロッコには、暴動鎮圧のためにスペイン軍兵士が多数派遣されていたことには、先にも触れました。このモロッコの地で軍がクーデタを引き起こしたのです。指導者はフランコ将軍でした。時は1936年7月18日。同時に、スペイン各地の主要都市でファシストの武装蜂起がいっせいに起こりました。そして共和国に対抗したのです。ここに、スペイン内戦、スペイン内乱、あるいはスペイン市民戦争とも呼ばれますが、それが始まったのです。

当時、ヨーロッパには、すでに二つの国で、ファシズム体制が成立していました。ヒトラーはドイツで全権を掌握し、ナチス党の独裁が始まっていました。イタリアでもムッソリーニが権力を握り、エチオピアへの侵略を開始していました。アジアにおいては、日本が「大東亜共栄圏」建設の美名の下で、近隣のアジア諸国侵略の道を突き進めておりました。日本、ドイツ、イタリアのファシズム3国が「日独伊防共協定」を結ぶのは1937年です。このような世界情勢を背景に展開されたスペイン内戦は、考えるべき大事なことがいっぱい詰まっています。きょうはとても時間がないので、かいつまんで、いくつかの重要な点にのみ触れます。

この内戦は、1939年3月までの3年間にわたって続きました。

ファシストは強固に結束していました。国際的にはドイツとイタリアの支援を受け、首都マドリーの攻防戦では、イタリア軍の地上軍派遣が大きな役割を果たしました。バスク地方を含む北部戦線にあっては、反乱軍を支援したドイツの空軍部隊がゲルニカという小さな村で無差別爆撃を行ない、それが引き起こした惨状に怒りと哀しみを押さえきれなかったピカソは、即座にあの大作「ゲルニカ」を描くに至るのです。スペイン人の精神生活上重要な役割を果たしているカトリック教会が、フランコ指揮下の反乱軍は「無神論と共産主義」から祖国を救う十字軍だと称賛したことも、人びとを結束させるうえで計り知れない助けとなりました。

これに対して、共和国側はどうだったでしょうか。共産党からトロツキスト、アナキストなど、さまざまな潮流がおりました。考え方や政治路線の違いはあって当然ですが、その違いを内部矛盾として上手に処理する知恵を欠いていた、と言えます。とりわけ、官僚主義的な共産党、これはモスクワのソ連共産党からの指示に基づいて行動するのですが、当時ソ連ではトロツキストをはじめとするスターリンの「政敵」対する粛清の嵐が吹きすさんでいた頃でした。スペインではトロツキズムやアナキズムの運動が根強い大衆的な基盤を持っているのに、モスクワの指示に従ってこれを弾圧すれば、どんな結果が生じるかは自明のことだったのです。すなわち、共和国側には、異なる集団間の路線上の違いを解決する術がなかったのです。とりわけ、ソ連共産党のスターリン主義的な路線が果たした役割は犯罪的であったと断言しても過言ではないでしょう。

スペイン内戦は、それが孕んでいた「希望」と「錯誤」ゆえに、あの時代に生きていた世界中の人びとに大きな影響を及ぼしました。これをテーマに小説、ルポルタージュが書かれ、映画にもなりました。イギリスの作家、ジョージ・オーウェルは『カタロニア賛歌』を、アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書きました。スペインでは、ホセ・ルイス・クエルダが『蝶の舌』を、ビクトル・エリセが『ミツバチの囁き』を制作し、イギリスの映画作家ケン・ローチも『土地と自由』と題した作品でこのテーマを描いています。

ここで私は、忘れることのできない一人の女性の発言を記録しておきたいと思います。フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユの発言です。ヴェイユは、もちろん、その思想的・政治的な立場からしてファシストの敗北を願い、共和国側の勝利を願ったひとです。内戦が勃発した直後の1936年8月、共和国側に加担するためにスペインへ義勇兵として赴いてもいます。事故で火傷を負い、心ならずも2ヵ月で帰国することになったのですが、その彼女がスペイン戦争で現認したことは、「理性や信条を無意味化する戦争のメカニズムというものがある」ということでした。彼女は、共和国派の、とりわけ底辺の民衆の渇望や犠牲的精神に促された義勇兵への共感を決して放棄してはいない。同時に、味方の軍勢の中で吸い込んだ〈血と恐怖のにおい〉も記さずにはいられなかった。それは〈解放の主体〉であるはずの者が〈金で雇われた兵隊たちのするような戦争に落ち込んで〉いき、〈敵に残虐な行為の数々〉を加え、〈敵に対して示すべき思いやりの気持ち〉を喪失する過程であった。

スペインで内戦が勃発したことをパリで知ったヴェイユは、「勝利を願わずにはいられなかった」反ファシズムの側にも、このような現実があったことを知ったのです。私は、ファシズムとたたかった人びとの感動的なエピソードをいくつも知っていますが、同時に、この現実からも目を逸らすわけにはいかないのです。

スペイン内戦をめぐるこれらのエピソードから得られる教訓は明らかです。

ファシズムは、もうたくさんだ!

スターリン主義は、もううんざりだ!

ひとびとからモラル(倫理)を奪い取る戦争は、もうたくさんだ!

すべてが、現代を生きる私たち自身に関わってくる課題です。スペインを二分してたたかわれた内戦は、深い傷跡を残しました。独裁者フランコ将軍は1975年に死ぬのですが、実に35年近くその支配が続いたのです。共和国派の人びとは、そのかん一貫して、逮捕・投獄・拷問・軍事裁判による重刑判決・亡命などの運命を強いられました。30年もの間、自宅の「壁に隠れて」暮らしたひとの実話も残っているくらいです。スペイン内戦で問われた事柄は、遥か昔の話ではなく、過ぎ去った過去でもないのです。

3)ガルシア・ロルカの生死

さて、このような時代を駆け抜けたロルカの人生を簡潔に振り返っておきましょう。

120年前の6月5日、ロルカが生を享けたのは、グラナダ市に近いフエンテ・バケーロスという町でした。私は訪れたことがありませんが、広がる沃野の中に白壁の家々が立ち並ぶ、南スペインの典型的な小部落だと言われています。音楽と詩が好きだった母親の影響はよく言われるところですが、彼は、母、祖母、伯母、乳母たちに囲まれて、抱きかかえられるようにして大事に育てられたと言います。とりわけ、年寄りの召使ドローレスが語るアンダルシーアの伝説や、歌う土地の民謡を聞きながら眠ったようです。ロルカは、後年、アンダルシーアの民間伝承に深い関心を抱き、カンテ・ホンドや各地の子守歌を採集し始めるのには、この幼児体験が基盤にあるようです。

やがて、ロルカの一家はグラナダへ引っ越します。皆さんもご存じでしょう、グラナダは、アルハンブラ宮殿を初めとしてイスラーム文化の痕跡が数多く残る街です。ロルカは心から愛したこの町で大学へ通い、哲学・法律。・文学などを学びました。10代後半に熱中したのは音楽でしたが、師匠の突然の死に出会ってその道は挫折し、文学に方向を転換しました。ここで彼は詩作を始めます。

1919年、21歳になったロルカは、グラナダ大学の法律の教授で、社会主義者であったフェルナンド・デ・ロス・リーオスを敬愛していましたが、彼の勧めでマドリーの「学生館」

へ赴きます。若い芸術家や文学者のたまごが集まる場所です。ここで彼は、すでに名前を挙げたサルバドール・ダリやルイス・ブニュエルなどと知り合い、親友となったのです。およそ10年をここで過ごしました。土着的な詩的伝統に深い関心を抱いていたロルカは、ここで、友人たちが熱中するシュルレアリスムなどの近代的な感覚や表現に出会ったのでした。最初の詩集『詩の本』を先駆けとして、『カンテ・オンドの詩』『組曲集』『歌集』『ジプシー歌集』はすべてこの時代に書かれているのですから、充実した時期を過ごしていたことがわかります。戯曲も手掛けていましたし、遺されているデッサンの多くもこの時期に描かれたものです。

したがって、マドリーからグラナダに戻ったロルカの「名声」は高まっていた。だが、その名声にも疲れたのでしょう。リーオスと共にニューヨークへ発ったのが1929年でした。コロンビア大学に入り、一年間を過ごします。1929年とは、あの世界大恐慌の年です。資本主義市場が大混乱に陥るなかで、彼にはハーレムだけが落ち着く場所だったようです。そこではじめて聞いたジャズの向こう側に、故国のフラメンコのリズムの魅惑を再発見した、と言われています。ニューヨークの次には、キューバのハバナへ行きました。キューバはフィリピンと違って、米西戦争後独立は遂げていました。しかし、米国の海軍基地が強引に設けられ――驚くべきことに、そのグアンタナモ米軍基地は1世紀を超える115年が経った今もキューバに返還されることなく、米軍は居座り続けているのです!――、経済的にも米国企業の支配下に置かれていました。そのことへのロルカの反応は残されていませんが、ニューヨークのハーレムで会った黒人たちとジャズに深い印象を受けていたロルカは、キューバではまた別な黒人と出会ったことに心を動かされたと言います。つまり、アングロ・サクソンの文化ではなく、ラテン系の文化の中での黒人に出会ったのです。音楽好きであったロルカが、ハバナの街のあちらこちらから聞こえてくるキューバン・リズムに感興を掻き立てられたであろうことは、想像に難くありません。

ロルカがスペインに戻ったのは1930年でした。翌年の1931年には、国王が国外に逃亡し、共和制に移行したことはすでに触れました。政治的・社会的な激動は、一般的に言っても、文化・芸術表現の世界にも活況をもたらします。民衆文化を掘り起こし、これを再興しようとする機運が盛り上がったのです。それは、以前から、ロルカが求めていた道でもありました。ニューヨークへも同行した、敬愛するリーオスは、共和政府の教育相に任ぜられました。ロルカは古典劇の傑作を携えて、全国を巡回しました。移動劇団【La Barraca ラ・バラッカ=仮小屋、掛け小屋、バラック】プロジェクトです。演じるのは主として学生、トラックには簡素な舞台装置を積み込み、辺鄙な農村にまで出かける。「黄金世紀」の喜劇を即興的なセリフでアレンジし、ロルカの中に蓄積されていた古い民謡に関する知識を生かして編曲した音楽が盛り込まれる。自分の世界に近しい物語や音楽に触れることができた、観客となる農民たちの喜びが、目に浮かぶようです。

この時期、ロルカは、さすがに多作です。『血の婚礼』、『イェルマ』、『ベルナルダ・アルバの家』の代表的な戯曲の3部作を書き上げます。牛の角に刺されて死んだ親しい友人の闘牛士、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスを哀悼する詩集も出版します。また、グラナダの地に似つかわしくも、アラビアの詩型を借りた一連の短い抒情詩を『タマリット詩集』と題して出版する準備も始めました。まさに、脂の乗り切った時代の活躍ぶりと言えましょう。

1936年7月13日、恒例の家族の集まりに顔を出すために、ロルカはマドリーからグラナダに向かいました。先にも触れましたが、この3日後に、モロッコでは軍部のクーデタが起こりました。スペイン全土で、ファシストの蜂起がいっせいに起こりました。ロルカが戻った故郷=グラナダも、右翼ファシストであるファランヘ党員による制圧下にありました。ロルカは、直接に政治に関与していたわけではありません。しかし、移動劇団「ラ・バラッカ」は明らかに共和政府の保護の下で行なわれていました。また、共和派の側に立つことを公言していた彼は、こうも言っています。「私はすべての人びとの兄弟であり、抽象的な国家主義的観念のために自分を犠牲にしようとする人びとを憎む」と。また、「芸術家はただひとつのもの、すなわち芸術家であらねばならない。芸術家、とりわけ詩人は常に、言葉の最良の意味においてアナキストでなければならない」「僕は絶対に政治家にはならない。僕は革命家なんだ。だって、革命家じゃない本物の詩人なんていないからだよ」という言葉も残しています。

ロルカの立場は鮮明でした。1936年8月18日早朝、ロルカは友人の家からファシストたちに連れ去られました。オリーブ畑に運ばれたロルカは、連行された他の共和主義者と共に、自らの墓穴を掘らされた挙句、その場で銃殺されたのです。

享年38歳でした。

さて、私はここまで25分間をかけて、ガルシア・ロルカの生涯とその時代を駆け足で語ってきました。1898年に生まれ、1936年に死んでいったひとりの人物。スペイン現代史を画する年が、その生年と没年に刻印されています。いかにも、象徴的なことです。ここで、私の話を止めるべきでしょうか。否、私は止めません。止めるわけにはいかないのです。ファシズムが勝利し、その過程で我らが愛するひとりの詩人が殺されたところで話しを止めるわけにはいかないのです。このままでは、人間の歴史があまりに哀しすぎる。

最後に、ロルカの詩を読むのも一つの方法です。でも、それは今までも読んできました。きょうは、小さな子どもが大好きであった詩人のひとつのエピソードに触れます。親友サルバドール・ダリの故郷を訪ねた時のエピソードです。子どもたちが海辺で遊んでいると、そばにいたロルカは突然風に吹かれて飛んできた紙を掴むふりをした。「あっ、小さなマルガリータの手紙だ」と言ったロルカは、次のように続けたのです。「愛する子どもたち。私は、たてがみを風になびかせて、星を探している白い馬だ。星を探すために、どんなに走っているか、見てほしい! でも、見つからないんだ。疲れた、これ以上、走れない。疲労が私を溶かして煙にしてしまう。形がどう変わるかみてごらん」。

子どもたちは、やがて、馬のたてがみやシッポや、星までをも幻視したと言います。石を読んでと言って、ロルカに石を渡した子がいました。すると、ロルカは「愛する子どもたちよ。私は何年も何年もここに住んでいます。その間、一番幸せだったのは、蟻たちの巣の屋根になれたことです。蟻たちは、私が空だと思っていたので、私もその通り空だと信じ込みました! でも、今、私は自分が石だと気づいたので、この思い出は、私の秘密です。誰にも、この秘密を話しては、だめだよ」

ここしばらくのあいだ、ロルカの詩に親しんで来られた聴衆のみなさんは、これらの即興表現には、ロルカの詩的世界が横溢していると思いませんか。登場する生き物にも、使われているメタファーにも……。

子どもたちにこのように接したロルカの、詩人の魂に乾杯! です。

そして、ロルカの、このような即興の小さな物語を柔らかな心で受け止め、理解し、自分の心の中で大きく育てていくであろう、過去・現在・未来の世界じゅうの子どもたちがもつ可能性に希望と期待を抱いていることをお伝えして、私の話を終わります。

ありがとうございました。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[85]PKO法成立から25年目の機会に


『反天皇制運動 Alert』第12号(通巻394号、2017年6月13日発行)掲載

1992年6月、PKO(国連平和維持作戦)法案が成立した。今から、ちょうど、25年前のことである。法案審議が大詰めを迎えた攻防の日々には、ほぼ連日、国会の議員面会所なるところへみんなで出かけていた。野党議員の報告を聞き、「激励」するのである。私は、ソ連の体制崩壊と同時期に進行したペルシャ湾岸戦争(1990~91年)の過程でこの社会に台頭した「国際貢献論」(クウェートに軍事侵攻したイラクの独裁者フセインに対して、世界が挙げて戦おうとしている時に、この地域で産出する石油への依存度が高い日本が憲法9条に縛られて軍事的に国際貢献ができないのはおかしい、とする考え方)を批判的に検討しながら、戦後期は新しい時期に入りつつあると実感した。「反戦・平和」の意識を強固にもつ人は少数派になった、と思わざるを得なかったのである。

自衛隊の「海外派兵」の時代を迎えて、これを監視し、包囲するメディアとして『派兵チェック』が創刊されたのは1992年10月だった(2009年12月、200号目が終刊号となった)。このかん実施されたPKOへの自衛隊の参加実態は以下の通りである。

カンボジア(92年9月~93年9月)

モザンビーク(93年5月~95年1月)

ゴラン高原(96年2月~13年1月)

東ティモール(02年3月^04年6月)

ネパール(07年3月~11年1月)

スーダン(08年10月~11年9月)

ハイチ(10年2月~13年1月)

東ティモール(10年9月~12年9月)

南スーダン(12年1月~17年5月)

去る5月27日、南スーダンに派遣されていた陸自施設部隊第11次隊40人が帰国した。国連南スーダン派遣団司令部への派遣は来年2月末まで続けられるが、部隊派遣は現状ではゼロとなった。当初は、自衛隊が軍事紛争に関与することなく「中立性」を保つための5原則が定められた。「紛争当事者間の停戦合意、紛争当事者のPKO受け入れ同意、中立性の維持、上記の減速が満たされない場合の撤収、武器の使用は必要最小限度」である。前記年表からわかるように、南スーダン派兵が開始されたのは、民主党・野田政権時代である。民主党も海外派兵の流れに乗るだけだという政治状況を示しているのだが、当時はまだしも、道路建設などに従事し、紛争当事者間の停戦合意が成立した治安情勢が安定している国であることが、派兵の前提になっていた。だが、まもなく、安倍晋三が政権に復帰した。2015年9月に制定された安保法制=戦争法によって、自衛隊は任務遂行のためには武器使用が可能となって、「交戦主体」へと変貌した。

陸自の「日報隠し」にもかかわらず、南スーダン派遣部隊の任地=ジュバでは、2016年7月、「対戦車ヘリが旋回」したり、「150人の死者が発生」したりする事態が生まれていた。この時の状況を詳しく検証したNHKスペシャル「変貌するPKO 現場からの報告」(5月28日放映)によれば、次のことがわかっている。(1)政府軍と反政府勢力との銃撃戦は自衛隊宿営地を挟んで行なわれた。砲撃の衝撃波で自衛隊員はパニックに陥り、「今日が私の命日になるかもしれない」と手帳に記した者もいた。(2)近くの宿営地のルワンダ軍は銃撃戦からの避難民を受け入れた。政府軍はそこを砲撃し、バングラデシュ軍が応戦した。避難民は自衛隊宿営地にも流れ込み、警備隊員には「身を守るために必要なら撃て」との指示が下されていた。帰国した派遣隊員の言葉を通して、「宿営地内のコンテナ型シェルターに何度も避難した」こと、「平穏になっても1ヵ月以上も宿営地外で活動しなかった」ことがわかる。

安倍政権は、南スーダン派遣部隊が「現地の住民生活の向上」に寄与した、とその成果を誇っている。だが、昨年11月、南スーダン自衛隊部隊は、戦争法に基づいて、「宿営地の共同防衛」や「駆け付け警護」(救助のために武器をもって現場に駆け付ける)任務を付与されていた。これが実際には行なわれなかったことは、上に見た状況からいって、「不幸中の幸い」でしかなかった。

「反戦・平和」派が一見して少数派になっているとしても、軍隊(国軍)の存在と戦争(国家テロ)の発動に馴致されないこと――そこを揺るぎない場所に定めたい。 (6月2日記)