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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も12回目――第12回「大道寺幸子・赤堀政夫基金 死刑囚表現展」応募作品に触れて


『出版ニュース』2016年11月中旬号掲載

刊行されたばかりの『年報・死刑廃止2016』(インパクト出版会)の「編集後記」の末尾には「本誌も通巻20号、死刑が廃止にできず続刊することが悔しい。」とある。これに倣えば、「死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も第12回目。世界に存在する国家社会のおよそ3分の2に当たる140ヵ国近くでは死刑が廃止されているのに、私たちはいつまでこれを続けることになるのだろうかと慨嘆する」とでもいうことになるだろうか。同時に、次のことも思い出す。2014年秋、東京・渋谷で開いた「死刑囚絵画展」を観に来てくれた友人が言った。「ここまでの作品が寄せられているのだから、もう、辞められないね」。そう、死刑制度は無くしたい。同時に、実際に存在している死刑囚の人びとがここまで「表現」に懸けている現実がつくり出されている以上、少なくとも制度が続いている間は、表現展を辞めるわけにもいかない。私たちの多くもずいぶんと高齢になってしまい、どう継続できるかが大きな問題なのだが――そんな思いを抱きながら、去る9月中旬に開かれた選考会議に臨んだ。

加賀乙彦、池田浩士、北川フラム、川村湊、香山リカ、坂上香、そして私、の七人の選考委員全員が出席した。運営会のスタッフも10人ほどが傍聴している。

すでに私の頭に沁み込んでいた句があった。作品としてとりわけよいとは言えないが、死刑囚が外部に向かってさまざまな形で表現している現実を、ずばり(少しユーモラスな形で)言い当てていると思えたのである。

〇番区まるで作家の養成所

拘置所で収用者番号の末尾にゼロがつくのは重罪被告で、死刑囚が多い。そこから、それらの人びとが収容されている番区を「〇番区」と呼ぶことになったようだ。思えば、選考委員の加賀さんには『ゼロ番区の囚人』と題した作品がある。加賀さんは東京拘置所の医官を勤めていた時期があるから、その時の経験を作品化したのである。確かに、死刑囚表現展がなされる以前から、ゼロ番区からは、多くの表現者が生まれ出た。正田昭、島秋人、平沢貞通、永山則夫……。この句の作者は、そのことの「意味」を、あらためて確かめているように思える。

作者とは、兼岩幸男さんである。常連の応募者だが、昨年時事川柳というジャンルを開拓して以来、その表現に新しい風が吹き込んできた感じがする。掲句同様、ユーモアを交えて、死刑囚である自分自身をも対象化している句が印象に残る。

死刑囚それでも続けるこのやる気

就活と婚活してる死刑囚

拘置所へ拉致に来るのをじっと待つ

もちろん、昨年同様、社会の現実に向き合った作品にもみるべきものはある。

マスメディア不倫で騒ぐ下世話ぶり

選挙前基地の和解で厚化粧

日々の情報源は、半日遅れの新聞とラジオ・ニュースのみ、それでも、見える人には、事態の本質が見える。溢れかえる情報に呑み込まれて、情報の軽重を見失いがちな一般社会に生きる私たちに内省を迫る。ただし、他の選者の評にもあったが、直截的な社会句には、俗情に阿る雰囲気の句もあって、それは私も採らない。この人独自の世界を、さらに未知の領域に向けて切り拓いていくことを、切に望みたい。

高井空さんの「三つの選択し」は、ショートショートの創作。確定死刑囚が突然理由も知らされることもなく、航空機でどこかへ移送される。着いたところは、海外の戦場だった。自衛隊も含めて憲法9条の縛りで戦争には参加できない。その点「働きもせず、税金も納めず、ただで飯を食って、どうせ殺す死刑囚であれば」戦力になり得る、しかも「奴らは、既に、人を殺した経験がある」。国内的には、死刑囚・某の死刑が執行された、ということにしておけばよい――動員した側の言い分はこうだ。そんな世界に抛り込まれた死刑囚の心象がクールに描かれてゆく。確定死刑囚ならではの、迫りくる「戦争の時代への危機感」が吐露されていて、緊張した。後述する響野湾子さんの短歌にも、こんなものがあった。

裁判員制度のやふに 赤紙がいつか来るはず確定囚にも

獄にある確定死刑囚は、独特の嗅覚をもって、獄外で――つまり自らの手が及ばぬ世界で――進行する政治・社会状況を読み取っているのかもしれぬ。時代に対するこの危機意識には、獄壁を超えて連帯したいと、心から思った。高井さんが、別な名で応募された従来の作品については(とりわけ、自らがなした行為を振り返った作品については、読む者の胸に響くものが少ないがゆえに)ずいぶんと酷評した記憶があるが、この作品からは、今までになかった地点に踏み出そうとしている心意気を感じ取った。書き続けてほしい。

さて、常連の響野湾子さんである。短歌「蒼きオブジェ」575首、俳句「花リンゴ」250句、書き散ら詩「透明な一部」から成っていて、今年も多作である(「透明な一部」は、本名の庄子幸一名も連記した応募である)。短歌の冒頭に曰く「執行の歌が八割を占めています 意識的に詠んでいます 死刑囚徒だから 死刑囚の歌を詠わねば 誰れが?」。選者である私たちが、死刑執行をテーマにした作品が多く、重いとか息苦しいとかいう感想を漏らしたことへの応答だろうか。そう、言われる通りです、というしかない。この作品を読む前に、私は拘置所で或る死刑囚と面会した。彼はぽつりといった。「他人を殺めた者でなければ分からないことがある」。ふたりは、死刑囚としての同じ心境を、別々のことばで語っているように思える。そこで生まれるのは、贖罪の歌(句)である。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり

痛みなくばひと日たりとも生きられぬ壁に頭を打ちて耐えをり

生活と言へぬ暗さの中に生き贖罪(ルビ:つみ)てふ見へぬものと闘ふ

贖罪記書けず閉ず日や有時雨

短歌集の表題「蒼きオブジェ」に見られるように、「蒼」をモチーフとした作品に佳作が

目立った。

溜息は一夜で満ちる独房は 海より蒼し 私は海月

海月より蒼き体を持つ我れは 独房(ルビ:へや)で発光しつつ狂(ルビ:ふ)れゆく

絵心の無き性なれど この部屋を歌で染めあぐ 蒼瑞々しく

主題を絞り込んだ時の、表現の凝縮度・密度の高さを感じた。他に、私には以下の歌が強く印象に残った。

いつからか夜に知らぬ人現われて 一刷毛闇を我に塗りゆく

責任を被る狂気の無き人の 筆名の文学に色見えてこず

井上孝紘、北村孝、北村真美さんの作品は、もちろん、個別に独立したものとして読まなければならないのだが、関わりを問われた共通の事件が表現の背後に色濃く漂っていて、関連づけて読むよう誘われる。弟(孝紘さん)は兄(孝さん)と母親(真美さん)の無実を主張する文章を寄せており、孝さんは無実を訴える。真美さんはその点には触れることなく、10年の歳月、同じ拘置所の「同じ空間に居た」女性死刑囚が処刑された日のことを書く。「死刑囚が、空気に消える時、そこに涙は無い。死刑囚が、消える時、何も変わらない一日となる」。弟は、捜査員の誘導で、罪なき兄と母を「共犯」に仕立て上げる調書を取られたことを悔やむ。その心境を、こう詠む。

西仰ぎ 見えろと雲に 兄の笑顔(ルビ:かお)

各人の「表現」が今後いかにして事件の「闇」に肉迫してゆけるか。刮目して、待ちたい。

昨年、初の応募で「期待賞」を受賞した高田和三郎さんが、詩・詞編とエッセイ「若き日の回想」を寄せられた。詩篇もまた、利根川の支流に近い故郷を思う慕情に溢れている。エッセイの末尾には「この拙文は自分が少年であった当事に経験した非生産的な生活状況について、恥を忍びながら書かせていただいた」とある。身体的な障がいをもつことによって「非生産的」と見なした世間の目のことを言っているのだろうが、それは、今回の相模原事件と二重写しになって見える。その意味で、社会の変わらなさに心が塞ぐ。ただ、もっと書き込んでいただきたい。今回で言えば、郷里が近い石川三四郎に触れた一節があるが、思想史上に独自で重要な位置を占めるこのアナキスト思想家に、名前だけ触れて済ませるのは惜しい。なぜ、名前が心に残っているのか。郷里の大人たちがどんな言葉遣いで石川三四郎のことを語っていたから、高田少年の頭にその名が刻み込まれたのか。掘り下げるべき点は、多々あるように思われる。

さて、数年前、もやしや大根の姿を、黒地を背景に絶妙に描いた絵が忘れられない高橋和利さんは、今回は大長編『凸凹三人組』を応募された。自らの少年時代の思い出の記である。几帳面な方なのだろう、幼い頃からつけていた膨大な日記を、いったん差し入れてもらい、それを基にしながらこの回想記を記したもののようだ。だから、戦時中の焼夷弾の作り方など、記述は詳細を極めて、面白い。戦後も、子どもたちの要求によって男女共学が実現する過程など、今は何かと分が悪い「戦後民主主義」が生き生きと機能していた時代の息吹を伝えて、貴重だ。いささか冗漫にすぎる箇所はあり、唐突に幼い少女の腐乱死体が出てきて終わるエンディングにも不満は残る。推敲を重ねれば、戦中・戦後の一時代の貴重な証言文学足り得よう。添えられた挿絵がよい。あのもやしや大根を描いた才は、高橋さんの中に根づいている。

若い千葉祐太郎さんは、無題の作品を寄せた。四行か五行を一区切りとする詩文のような文章が続く。難解な言葉を使い、メタファーも一筋縄ではいかない。自らが裁かれた裁判の様子と処刑のシーンを描いているらしいことはわかる。供述調書の作られ方に納得できないものを感じ、自らがなしたことへの悔悟の気持ちも綴られている。本人も難解すぎると思ったのか、後日かみ砕いた解説文が送られてきた。こんなにわかりやすい文章も書ける人が、あえて選んだ「詩的難解さ」は、若さゆえの不敵な挑戦か。悪くはない。

いつも味わい深い作品を寄せる西山省三さんは、「天敵の死」という詩と川柳10首。「人の死を笑ったり喜んだりしてはいけませんよ」と幼い作者を諭した母に謝りながら歓喜するのは鳩山邦夫が死んだから。法相時代13人の死刑囚の執行を命じた人。母の教えを大事に思いつつも、ベルトコンベアー方式での死刑執行を口走った、「一生使いきれないお金を持った」人の早逝をめぐる詩を、作者は「天敵鳩山邦夫が死んだとさ」という、突き放したような語句で締め括る。論理も倫理も超えて溢れ出る心情。半世紀以上も前のこと、戦争をするケネディが死んだのはめでたいといって赤飯を炊いて近所に配ったら隣人に怪訝な顔をされたといって戸惑っていた故・深沢七郎を、ゆくりなくも、思い起こした。この種の表現は面白い、という心を抑えることはできない。だが、これは、やはり、おもしろうて、やがて、哀しき……か。

林眞須美さんは、その名もずばり「眞須美」と題したルポを応募。粗削りな文章だが、大阪拘置所で彼女がいかにひどい処遇を受けているかという実情は伝わる。日本の監獄がどんなところであるかを暴露するに、気の毒にも彼女はもっとも「適した」場所に――苛め抜かれているという意味で。しかも彼女はそれに負けないで、さまざまな方法を駆使して闘い続けているという意味も込めて――置かれているのかもしれない。

俳句・短歌・川柳を寄せる何力さんの表現に変化が見られる。「短歌(うた)不評俳句の方が無難かな」には、選者として苦笑する。広辞苑と大辞泉を「良友」として日本語を懸命に勉強している感じが伝わってくる。「死刑支持・中国嫌い同率だ 我の運命二重奏かな」は、日本社会に浸透している不穏な「空気」を、自己批評を込めて詠んでいて、忘れ難い。

音音(ねおん)さんからは、101までの番号を付した歌が送られてきた。言葉の使い方は、相変わらず軽妙だし、獄の外で進む新たな現象への関心も旺盛だが、例年ほどの「冴え」が見られないのはなぜだろうか。末尾に置かれた歌

被害者らの未来のすべて黒く塗り 何が表現ズルいと思う

にうたわれた思いが、作者の心に重い影を落としているのだろうか。これは、2014年の死刑囚絵画展(渋谷)の際のアンケートに一来場者が残した言葉からの一部引用歌だ。私がこの年の表現展の講評で、この批評に触れた。この問いかけから逃げることはできない。だが、向き合って、さらに「表現」を深めてほしいと望むばかりだ。

なお、河村啓三さんの長編「ほたるいか」は第7章まで届きながら未完に終わったので、選考対象外とした。ただし、娘の視点から父親である「自分」を語らせるという方法は、興味深いながらも、娘の感情を自分に都合よく処理している箇所があって、綻びが目立つ。

もっと深く書けるはずの人だという声があがったことを、来期には完成させて応募されるであろう作者のために書き留めておきたい。

絵画作品に移ろう。

伊藤和史さんの昨年の応募作品には、驚かされた。白い色紙に、凹凸の彫りが施されているだけだ。裸眼には、よく見えない。今年も同じ趣向だ。表現展運営会スタッフが、工夫してダンボール箱に作品を掛け、対面には紙製暖簾を掛けた。観る者は、用意されたライトを点灯して、暖簾をかき分けて暗い内部に入る。色紙に斜めからライトを当てると、凹凸が浮き彫りになって見える。この工夫と丁寧な作業ぶりに、あらためて驚く。

井上孝絋さんは、いつもの入れ墨用の彫りもの作品に加え、「独裁暴権」現首相の顔に「こいつが……ニクイ!」と書き込んだ。何を描いても、基本があるので、巧みだ。

加藤智大さんの「艦これ――イラストロジック65問▼パズル201問」は、昨年同様、私にはお手上げだ。だが、この集中力は何なのだろう。コミュニケーションの可能性や方法について、あれこれ考えさせられる、独自の密度をもった「表現」なのだ。

金川一さんの作品には、表現展のごく初期から惹かれてきた。「点描の美しさ」と題して、しゃくやくの花などを描いた今回の3点の作品にも、うまい、と思わず唸る。

奥本章寛さんは、初めての応募だ。「お地蔵さま」など5作品が、観る者のこころに安らぎを与えてくれるようなたたずまいで並んでいる。「せんこうはなび」の描き方には、とりわけ、感心した。

北村孝さんの「ハッピー」は、作者がおかれている状況を知っていると、胸に迫る。絵の中にある「再審」「証人」「支援」「新証拠」などの文字は、冤罪を訴える作者の切なる叫びだ。それぞれ星形に入れられてはいるが「希」と「望」の文字の間には大きな隔たりがある。このように表現した時の作者の思いを、及ばずながら、想像したい。

西口宗宏さんは、20点もの作品を応募。何らかのモデルがあって、それを真似しているのだろうが、「月見(懺悔)」のように、自らの内面の描写か、と思われる作品もちらほら。北川フラム氏が言うようにに、本来「グジャグジャな、本人の生理」が前面に出てくれば、化けるのだろうと思わせるうまさを感じとった。

風間博子さんは昨年、作家・蜷川泰司氏の『迷宮の飛翔』(河出書房新社)に挿絵を提供した。物語だけを読んで、想像力を「飛翔」させて描いた16枚の作品の豊かさに私は注目した。表現展への従来の応募作品に見られた「定型化」を打ち破るエネルギーが溢れる「命――2016の弐」の行方を注視したい。

紙幅が尽きてきた。高尾康司さん、豊田義己さん、原正志さん、北村真美さんからも、それぞれに個性的で、心のこもった作品が寄せられた。年数を積み重ねている人の作品には、素人目にも明らかな「変化」(「進歩」とは言いたくない)が見られて、うれしい。自らへの戒めを込めて言う、日々書く(描く)、これが肝心なのだ、と。

最後に、受賞者は以下の方たちに決まった。文字作品部門では、響野湾子さんに「表現賞」、兼岩幸男さんに「努力賞」、高橋和利さんに「敢闘賞」。絵画部門では、西口宗宏さんに「新人賞」、金川一さんに「新境地賞」、風間博子さんに「光と闇の賞」。

そして、さらに記しておかなければならないことがある。東京拘置所在監の宮前一明さんは、絵画作品を応募しようとしたが、拘置所側から内容にクレームがつけられ、とうとう出品できなかった。また、名古屋拘置所在監の堀慶末さんは、応募しようとした長編作品が、拘置所側に3ヵ月間も留め置かれ、9月3日になってようやく発信されたが、選考会の日までには届かなかった。拘置所が採った措置については、何らかの方法によって、その責任を追及していきたい。

以前にも触れたことのある人物だが、ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏が今春来日した。1960年代~70年代に活動していた同国の都市ゲリラ組織トゥパマロスに属していた人物だ。長期にわたって投獄され、2度脱獄もしている。民主化の過程で釈放され、同組織も合法政党となって、国会議員となった。やがてその政策と人格が認められ、一般選挙で大統領にまで選出された。「市場は万能ではない」「質素に生きれば自由でいられる」などの端的な言葉で、世界全体を支配している新自由主義的な市場原理に「否!」を唱え、その発言は世界的な注目を集めている。日本を支配する、死刑制度を含めた行刑制度の頑迷さに嘆息をつくたびに、「元武装ゲリラ+獄中者+脱獄者」を大統領に選ぶ有権者が住まう社会の豊かさと奥行きの深さを思う。刑罰を受けて「獄」にある人びとの表現は、どの時代・どの地域にあっても、私たちが住む社会の〈現実の姿〉を映し出す鏡なのだ。

「時代の証言」としての映画――パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』を観る


『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載

2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。

前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。

いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。

73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。

この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。

従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。

グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。

自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。

軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。

追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[78]コロンビアの和平合意の一時的挫折が示唆するもの


『反天皇制運動Alert』第5号(通巻87号、2016年11月8日発行)掲載

国際報道で気になることがあると、BSの「世界のニュース」を見たり、インターネットで検索したりする。今年9月から10月にかけての、南米コロンビア報道はなかなかに興味深かった。50年もの間続いた内戦に終止符を打ち、政府と武装ゲリラ組織との間に和平合意が成る直前の情勢が報道されていたからである。ゲリラ・キャンプが公開されて、各国の報道陣が入った。ゲリラ兵士の家族の訪問も許された。名もなきゲリラ兵士が「これからは銃を持たずに社会を変えたい」と語っていた。幅広い年齢層の女性の姿が、けっこう目立った。FARC(コロンビア革命軍)には女性メンバーが多いという報道が裏付けられた。「戦争が終わるのを前に、FARCがウッドストックを開催」というニュースでは、ゲリラ兵士が次々と野外ステージに立っては歌をうたい、さながらコンサート会場と化した。平和の到来を心から喜ぶ姿が、あちこちにあった。

キューバ革命の勝利に刺激を受けて1964年に結成されたFARCは、闘争が長引くにつれて初心を忘れ、麻薬の生産や密売で資金を稼いだりもしていた。彼らによる殺害、誘拐、強制移住の犠牲者は民間人にまで広がり、数も多かった。それでもなお、若いメンバーの加入が途絶えることがなかったのは、絶対的な貧困が社会を覆い、働く者の手に土地がなかったからである。9月26日に行われた和平合意文書への署名式で、ゲリラ指導者は「我々がもたらしたすべての痛みについてお詫びする」と語った。対するサントス大統領にしても、前政権の国防相として行った苛烈なゲリラ壊滅作戦では事態が解決できなかったからこそ、大統領就任後の2012年以降、キューバ政府の仲介を得ての和平交渉に臨んできたのだろう。

私が注目したのは、和平合意の内容である。FARCは政党として政治参加が認められ、2018年から8年間、上・下院で各5議席が配分される。犯罪行為を認めた革命軍兵士の罪は軽減される(8年の勤労奉仕)。FARCの側でも、土地、牧場、麻薬密輸や誘拐・恐喝で得た資金の洗浄に利用した建設会社などすべての資産を、内戦の犠牲者への賠償基金として提供する。合意成立後180日以内にすべての武器を国連監視団に引き渡す――などである。

中立的な立場からして、政府は大きくゲリラ側に譲歩したかに見える。ここに私は、政治家としてのサントス大統領の資質を見る。同国を長年苦しめてきた悲劇的な内戦を終結させるためには、この程度の「譲歩と妥協」が必要だと考えたのだろう。歴代政府とて、そしてそれを支える暴力装置としての国軍や警察とて、無実ではない――そう思えばこその妥協点がそこにあったのだろう。サントスはブルジョア政治家には違いないが、こういう態度こそが、あるべき「政治」の姿だと思える。

サントスは、政治家としての責任感から、人びとより「先」を見ていた。果たして、合意から1週間後に行われた国民投票で、和平合意は否決された。投票率は低く、僅差でもあったから、この結果が「民意」を正確に反映しているかどうかは微妙なところだ。だが、「ゲリラへの譲歩」に納得できないと考える被害者感情が国民投票では勝ったのだ。

教訓的である。アパルトヘイトを廃絶した南アフリカの1990年代半ば、従来のように報復によってではなく、真実の究明→加害者の謝罪→犠牲者の赦し→そして和解へと至るという、画期的な政治・社会過程をたどる試みがなされた。南アフリカにおいても、加害者にあまりに「寛大な」方法だとの批判は絶えずあった。それでも、その後、かつて独裁・暴力支配などの辛い体験をしたさまざまな国・地域で、同じような取り組みがなされて、現在に至っている。コロンビアの人びとが、この重大な局面での試練に堪えて、和平のためのヨリよき道を見出すことを、心から願う。

日本社会も応用問題を抱えている。南北朝鮮との「和平合意」をいかに実現するかという形で。「慰安婦問題」や拉致問題の解決がいまだにできないのは、過去の捉え返しと、それに基づく対話がないからである。責任は相互的だが、「加害国」日本のそれがヨリ大きいことは自明のことだ。コロンビアの和平合意の過程と、その一時的挫折は、世界の他の抗争/紛争地域に深い示唆を与えてくれている。(11月5日記)