この3冊 太田昌国・選 「テロ」
「毎日新聞」2015年9月13日読書欄掲載
(1)テロリズムと戦争(ハワード・ジン著/大月書店/1944円)
(2)テロルと映画(四方田犬彦著/中公新書/820円)
(3)新潮世界文学49 『カミュⅡ』(アルベール・カミュ著、渡辺守章ら訳/新潮社/品切れ)
14年前の「9・11」に遭遇して、米国は世界にまたとない悲劇の主人公のようにふるまった。確かに悲劇ではあった。同時に、私は世界の近現代史を思い、米国の理不尽な軍事・政治・経済的な介入が世界各地で多くの犠牲者を生み出してきた史実に目を瞑るわけにもいかなかった。それを省みず、テロに戦争で報いる「反テロ戦争」なるものは必ず失敗する、かえって世界を混乱の極地に陥れるに違いない、と確信した。
(1)の著者は、第二次大戦時には米軍の優秀な爆撃手だった。のちに歴史家となり60年代ベトナム反戦運動の強力な推進者だった。9・11以後の米国で、彼は考える。テロと戦争の因果関係を。口を極めてテロを非難する国家指導者が、それに対抗して発動する戦争とは何か。戦争とは最悪の「国家テロ」ではないのか。戦争をテロから切り離し国家の崇高な行為だと見せかけるのは、詐術である。テロに対抗する戦争を肯定するのではなく、テロと戦争の双方を廃絶する道はどこにあるのか。いつ/どこにあっても、ためらうことなく軍事力を行使する米国に果てしなく追従する政権下にある私たちが手離したくはない視点である。テロが起こりやすいのは、すぐに戦争を仕掛ける国が強い影響力を及ぼしている地域なのだ。
9・11事件は、大都会の通勤時間帯に起き、すぐテレビ中継されたことで、劇的に効果を増した。テロとは、すぐれて映像的な行為である。現場で多くの人に目撃され、映像で世界じゅうの人びとが見ることで、行為は完結する。いわば見世物である。世界の映画に通じた(2)の著者は、「スペクタクルとしての暴力」であるテロの本質に着眼して、本書を著した。ブニュエル、若松孝二、スピルバーグらの作品を通して、テロの問題が内包する、意外なまでの現代的な広がりと切実性が浮かび上がる。
啄木が「われは知る、テロリストのかなしき心を!」と謳いえた昔はよかったのだろうか? 啄木が書物で知った帝政ロシア下のナロードニキ(人民主義者)は、皇帝によって奪われた言葉の代わりにわが身や爆弾を投げつけた。それは後年、(3)の中の戯曲「正義の人びと」を著したカミュの心をも捉えた。無差別攻撃ではなかったテロの初源的なあり方は何を物語るのか。それが、どこで、どう間違えると、ドストエフスキーが『悪霊』(光文社古典新訳文庫など)で描いた隘路に至るのか。
テロが投げかける問題は、かくも深く、広い。