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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

1979→2014年 或る雑誌に併走した精神的スケッチ


『インパクション』第197号(休刊号、2014年11月25日発行)掲載

『インパクト』誌(後の名『インパクション』誌)が刊行されてきた1979年から2014年までの35年間に及ぶ事柄を、ある程度この雑誌の内容に即して併走しながら思い起こすことで浮かび上がってくる、この時代の普遍的な精神史があるように思う。いささかならず私的な記述が混じってしまうが、それがどこかで普遍性に繋がっていることを願いつつ、その思いを書き綴ってみたい。

1 イランとニカラグア

『インパクション』誌の前身である『インパクト』誌が創刊された1979年の記憶は、当時の世界情勢との関連で、いまも鮮明だ。この年には、2月に、イランで長く続いたパーレビ国王(当時は、こう表記されていた。いまでは、バフラヴィーと書くのがふつうになった)体制を打倒する革命が成就した。ここに至る社会運動の主力になったのがイスラム教徒であったことから、イスラム革命と呼ばれた。私は彼の地の歴史や情勢にさして詳しいわけではなかったが、無知ゆえに掻き立てられる関心なり興味というものもあり、注視していた。同年11月に起こったテヘランの米国大使館占拠・人質事件には、それまでの米国の介入の事実を知っていれば、学生たちの怒りの発露として当然だろうとの思いしか起きなかった。

7月19日には中米ニカラグアで、1930年代から続いていた、一族支配のソモサ独裁体制を倒す革命が勝利した。私は、ニカラグアに、そのつい数年前の74年末と76年半ばの2回、それぞれ1ヵ月間ほど滞在していた。独裁体制からの解放闘争をたたかうサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の共鳴者であろう幾人もの作家や詩人たちと国内で会い、講演や詩の朗読も聴いていた。コスタリカやメキシコなどの亡命先で、この解放闘争をさまざまな形で支援するニカラグア人とも会っていた。1回目の滞在時は、サンディニスタ民族解放戦線が元農相の豪邸で行なわれていたクリスマス・パーティの場を襲い、大勢の要人(米国石油企業代表や、前年の軍事クーデタを起こしたチリの大使など)を人質に取った軍事作戦の時に重なった。要求は以下の4点だった。(1)獄中の同志14人を解放しキューバへの出国を認めること。(2)最低賃金を引き上げること。(3)1万2000字から成るコミュニケを新聞・テレビ・ラジオを通じて報道させること。(4)600万ドルの資金を提供すること――人質の「重要度」から行って、ソモサ政権はこれを飲まざるを得なかった。私は、ちょうど乗っていた長距離バスの中で、ラジオを通じてコミュニケが放送されるのを聴いた。満員の乗客が息を潜めてそれに聞き入っている姿が印象的だった。ソモサにとってはかつて味わったこともない屈辱であり、客観的には鉄壁を誇った抑圧体制が崩れゆく予兆でもあった。翌日、バスで隣国コスタリカへ向かう出国手続の場でニカラグアの税関吏たちは荒れた。独裁体制下では、軍・警察と共に税関には独裁者にもっとも忠実な官吏が配置されている。ソモサが前日強いられた恥辱を晴らすかのように、荷物を乱暴に扱い、新聞・雑誌を隈なく点検した。コスタリカへ移ってからでもニカラグアの新聞は入手できた。私は掲載されていたサンディニスタのコミュニケを大急ぎで翻訳し、友人を通じて『情況』誌に送ってもらった。それは同誌75年6月号に掲載された。

このような経緯もあって、ニカラグアは、中米・カリブ海における超大国の支配を断ち切る革命の可能性を感じて、現地でも、帰国後にも、大いに注目していた土地だった。歴史過程もそれなりに研究していた。解放戦線の指導部の中のひとりのメンバーは、『ニカラグアの反植民地主義闘争における先住民の根』と題した書物を著していて、先住民族の存在を軸に、この大陸の歴史過程を捉える方法を模索していた私には、深く示唆的だった。だから、サンディニスタ革命勝利の報に接すると、具体的に思い浮かべることのできる、その渦中にいるであろう人びとの貌がいくつもあって、こころが躍った。

この年の7月に創刊された『インパクト』誌には(9月刊の第2号にも)、このイランとニカラグアの最新情勢に触れた文章が載っていた。研究者の厚みも、まだ、なく、一般的な関心もさほど高くはないと思われた地域に関して、深みのある分析を行ない得る書き手を素早く見つけて関連論文を掲載していることに、少し驚いた。台頭する第三世界の政治・社会・文化の鼓動を聴き取るだけの素地が、この社会にも出来つつあるのかと感じた。

2 政治犯への死刑判決

未知であった『インパクト』編集人から連絡をもらったのは、それからしばらく経った頃だった。私は当時から、東アジア反日武装戦線被告の救援活動に携わっていたが、1979年末には第一審の判決が迫っており、戦後史で初めて政治犯に対する死刑判決が下されることは、公判過程を見ていれば必至だった。これに対する反撃の特集を組みたいので協力を、という要請だった。仲間と手分けして、いくつかの観点から、東アジア反日武装戦線の思想と実践が提起した諸問題と、これに対する死刑判決が意味するものを分析する文章を書いた(同年11月刊の第3号で「死刑制度を問う」特集が組まれた)。『インパクト』誌および『インパクション』誌が、ひいてはインパクト出版会が、死刑制度廃絶という明確な目標の下に〈死刑〉をテーマにした企画と単行本をかくまで積み重ねてきている出発点は、ここにあったのか、といまにして思う。

当時、大衆運動の場で〈反日〉の名は、ほとんど、禁句にひとしかった。つい4、5年前のことでしかない、実践された「テロリズム」の記憶は、人びとの中でなお鮮明だった。それが生み出した甚大なる死傷者の存在が、遺族ではないとしても、癒しがたいものとなって人びとの脳裡には残っていた。学生時代に、サヴィンコフの『テロリスト群像』や、またの名、ロープシンの『蒼ざめた馬』を読み、また啄木の「ココアのひと匙」の影響もあったりして、私などはそれまで「テロリスト」という語の響きにどこかロマンティシズムを感じないではなかったのだが、実際に発動された「テロ行為」の結果は、あまりに無惨だった。

この行動形態には反対だが、その基底にあった植民地支配と侵略戦争への批判の志は受け止めたいと考える人が、よしんばいたとしても、それを口にしただけで、まわりの世界は凍りついたほどだった。公安警察の動きも執拗だった。救援のメンバーが駅前に置いた自転車が「何者か」によってパンクさせられたり、どこかへ持ち去られたりすることは、日常茶飯のことだった。自宅周辺に公安警察のアジトがあって、四六時中監視下に置かれていたメンバーもいた。周辺のシンパにも嫌がらせの手は伸び、あなたの恋人は爆弾魔=〈反日〉のメンバーと親しく付き合っているよ、と垂れこみがなされる場合もあった。

それでも、〈テロリズム〉への批判から〈反日〉救援者を排除していた人びととの間にも、やがて、対話の契機は生まれる場合もあった。救援者が、〈テロリズム〉の問題に正面から向き合い、それへの批判を明らかにしつつも〈救援〉の論理は確固として立てた場合には。

逆に、それを曖昧なままに放置すると、そのぶん、公安警察が布いた「分断線」は効き目を発揮した。そのとき公安警察の嫌がらせと脅しによる、見えない恐怖と怯えがもたらす波及効果は大きかった。そんな時期の只中になされた『インパクト』誌第3号特集「死刑制度を問う」は、左派や進歩派の間では敬して遠ざけられるきらいのあった死刑というテーマが、避けては通れぬ課題として次第にせり上がってくる上で、ひとつの重要な役割を果たしたものであったと言える。

3 ニカラグア、そしてイラン、ふたたび

その後の事態の展開の中で、ニカラグアと死刑制度の問題とは、私にあっては互いに出会うことになった。ニカラグア革命は、基本的には社会主義的方向をめざすものではあったが、その意味では先達というべきロシア、中国、キューバなどの諸革命とは違う方向性をいくつか示した。その最たるものは、複数政党制を維持したこと、および死刑制度を廃止したことである。先行した社会主義革命はいずれも、ここで躓いた。唯一絶対の権威を誇りたがる前衛党指導部は、どこにあっても、政治・社会・文化・経済・軍事などあらゆる分野の全権を握ることが、〈反革命〉勢力の跳梁を許さないためには不可侵の正義であるとの「論理」に基づいて、社会を統制した。サンディニスタ指導部はその道を選ばなかった。事実、11年後の大統領選挙では、サンディニスタは破れて下野した。米国は革命政権を打倒するために、コントラ(旧独裁体制時代の軍人や多国籍の傭兵を組織した反革命軍)を支援してニカラグアを内戦状態に陥れたために、79年の革命成就後長く続く内戦に疲れた民衆は、90年の選挙でサンディニスタを見限ったのだ。レーガン政権時の米国政府はこのコントラに対する支援資金を、イランに対する武器輸出の代金から工面していたことが後日(86年)わかって、このスキャンダルは「イラン・コントラ事件」と呼ばれた。スキャンダルというのは、イラン革命後に学生たちによってテヘランの米国大使館が444日間にも渡って占拠され、それに対してなす術もなかった屈辱を味わった相手国=イランに対して、その後80年に始まったイラク・イラン戦争に際しては支持せざるを得ず、したがって武器輸出も行なう立場に追い込まれたうえ、それによって得た収入をニカラグアの内政に干渉するコントラ戦争に振り向けていたことを指している。東西冷戦構造(米ソ対立)を最大の矛盾として成立していた戦後世界にあっては、このような複雑怪奇な現実が、たびたび生み出されたのだった。

ニカラグア革命が、従来の革命との差を著しく示したもう一つの特徴は、革命直後から死刑制度を廃止したことである。社会主義を名乗る革命においては、それまで、旧体制を支えた政治家、軍人、弾圧機構の主要人物たちに対する報復処刑が行なわれるのが常であった。それは、まっとうな裁判の過程をくぐることもないままに、新たな革命権力の恣意性の下に強行された。それを認めること/許すことは、一事が万事を意味した。「摘発」の矛先は、次第に、自らの新体制内部の「政敵」や「反革命の煽動者」にも向けられるようになり、「粛清の論理」が社会主義革命を貫く特徴であるかのような現象にまで至った。「新左翼」を名乗る日本の多くの党派のなかにも、この論理は浸透した。党派間で、政治路線なりイデオロギー的な基盤なりに食い違いが起こると、それを直ちに「敵対矛盾」と解釈して、凄惨な殺し合いに全力を挙げる者たちが登場した。社会主義が本来的に内包していたはずの「崇高な」理念は、このような愚かにも醜悪な現実によって、世界的にも国内的にも裏切られてゆくばかりであった。

この現実の中でニカラグア革命において死刑制度が廃止されたことは、未来へ向けての確かな指標であると私は感じた。サンディニスタの古参兵士であり、独裁政権時代には何度も投獄され拷問も受けたトマス・ボルヘは、革命後に内相として語っている。「戦いが終わって、私を拷問した者が捕えられたとき、私は彼らに言った。私の君らに対する最大の復讐は、君らに復讐しないこと、拷問も殺しもしないことだと。私たちは死刑を廃止した。革命的であるということは、真に人間的であるということ。キリスト教は死刑を認めるが、革命は認めない」。旧弾圧機構=国家警備隊隊員は5700人もが革命後に逮捕されたが、刑務所は復讐の場ではなく、赦しと再教育の場であるから、次の五段階に分けて設けられた。閉鎖施設・労働施設・半解放施設・開放施設・監視付き家庭復帰。最長期刑は30年が限度とされた。「力の論理に、善意の論理は対抗しうるか」と問われたボルヘは答える。「革命家とは夢想家だ。夢がなければ、われわれが建設するものは死の海にすぎぬ」(野々山真輝帆『ニカラグア 昨日・今日・明日』、筑摩書房、1988年)。

解放/革命闘争の途上ならば、〈敵〉の負傷兵や捕虜兵への処遇において、運動主体が人道主義的な態度を貫いた事例に事欠くことはない。だが、いったん〈勝利〉した革命権力は違うのだ――無念にも、そんな実態を見せつけられてきた私の眼に、ニカラグアの実例は新鮮に映った。私は当時、ニカラグア革命の意義に関していくつかの文章を書いたが、死刑制度の廃絶に関しては「死刑を認めぬ革命――ニカラグアの〈可能性〉」と題した文章を書いた(日本死刑囚会議麦の会編『死刑囚からあなたへ』所収、インパクト出版会、1987年)。埴谷雄高は、数千年を通じて変わらぬ人類の政治の意思は「奴は敵である。敵を殺せ」に尽きると喝破したが(「政治のなかの死」、『中央公論』1958年11月号、のち『幻視のなかの政治』所収、中央公論社、1960年)、それを超える実践例が現われたのであった。

それに続く20世紀末には、アジアやラテンアメリカなどで長く続いた軍事独裁政権が倒れ、民主化の過程をたどる国々が数多くあった。アフリカでも、ナミビアの独立や南アフリカの人種隔離体制(アパルトヘイト)の崩壊と新体制の成立があった。そのすべてにおいてではなかったが、刑罰のあり方や死刑制度の問題をめぐって、この時代、世界の趨勢は明らかに変化を遂げた。新体制下で、血を血で洗う、復讐の虐殺劇が繰り広げられるという、目を覆う光景は少なくなった。厳しい人権弾圧が行なわれた独裁時代の「真実究明」はあくまでもなされなければならないが、それが数々の困難を乗り越えて実現した後には「赦し」と「和解」の過程が待っている、という時代がきた。もっとも示唆的な経験は、アパルトヘイト体制を廃絶した南アフリカの「真実和解委員会」の活動によって試みられた。

遅きに失したという思いがないではないが、それでもこれが、人権の確立に向けた人類史のたゆみない歩みの一成果であった。このような世界風景を背後に置いてみると、2014年の日本社会の異常さが際立って見える。ここでは、植民地支配にせよ侵略戦争にせよ、その「真実を究明」して和解に向かうどころか、真実を覆い隠そうとする考え方の者たちが政権の座に就いている。それを支えるかのように、書店には「偽造する歴史修正主義者」たちの雑誌や本が山積みになっている。もっとも深刻なことには、それを支持する民衆が少なからず存在している。

革命後のニカラグア社会やアパルトヘイト廃絶後の南アフリカ社会の試行錯誤の過程は、私の裡にあっては、このような時間的・空間的な射程の中でこそ活きてくるもののように思える。

4 近代と先住民族

『インパクト』誌創刊の翌年の1980年、私たちは、ボリビア・ウカマウ集団製作の映画の自主上映運動を始めた。初めて上映する映画は『第一の敵』といい、19690年代のアンデス地域で、大地主に対する抵抗の闘いの渦中にある先住民族と、都市部から来た反帝国主義闘争をめざすゲリラ部隊の出会いの物語であった。現地でウカマウの映画作品を幾本か観て、私はこれが、当時すでに必然的な課題になっていたヨーロッパ中心主義の歴史像と世界像を克服し、新たなものを作り上げるうえで大きな役割を果たすと感じていた。先住民族を主体に据えて、近代総体を問い直す視点に共感した。進化した映像・音響機器の普及によって、若者たちはすでに、何ごとにせよ活字媒体に依存して学んでいた私たちの世代とは違って、常時五感すべてを使って世界を感じ取る時代になっていた。だから、ヨーロッパ起源の芸術表現の方法を駆使しつつ、稀有な観点から歴史の読み替えを企図する、ウカマウの映像が持ちうる意味を信じたいと私は思った。あるいは、監督のホルヘ・サンヒネスが語った言葉で言えば、「映像による帝国主義論」の構築をめざす彼らの作業に協働しようと考えた。

先に触れたニカラグア革命の最終蜂起の過程を見ながら、私はその闘争の中で先住民族が果たしている大きな役割に注目していた。それに『第一の敵』で描かれている先住民族像と重ね合せて論じる形で、映画の紹介文を書いた。この場合、現実とフィクションが、偶然のことではあったが、重なり合って見えることが重要だった。手作りの自主上映運動は、一定の成果を生み出しながら34年後の現在まで続いている。関連する図書もずいぶんと出版してきた。『インパクト』誌の別冊としてウカマウ映画のシナリオ集を出版できたことも、意味は大きかった。『第一の敵』(1981年)と『ただひとつの拳のごとく』(1985年)の2冊である。

先住民族と名づけられる人びとの存在を軸に据えるということは、歴史上、植民地主義が担った役割を考えることを意味した。1492年の「コロンブスの航海」以降数世紀をかけて、ヨーロッパは世界じゅうに隈なく植民地をつくり上げ、それによって自らの近代を可能にしたが、その近代に孕まれる、非ヨーロッパ地域という〈裏面〉に注目することを意味した。20世紀末、そのような歴史検証・思想再構築の作業は世界規模で深化した。それには、いくつかの契機が考えられる。ソ連・東欧の社会主義圏で体制崩壊が起こり、資本主義は勝利を謳歌しグローバリゼーションの時代の到来を讃えたが、翻って、ここへ至る歴史過程を検証するなかで、資本主義的な近代を可能にした植民地の存在が浮かび上がったこと。コロンブスの航海とアメリカ大陸への到達から500年目を迎えた1992年に、世界で一斉に、ヨーロッパ近代と植民地主義の関係を捉え返す作業が始まったこと。国連のような国際機関で、先住民族の権利を回復するための宣言が出されたり、諸活動が取り組まれたりしたこと。その結果、2001年には、国連主催で「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(通称「ダーバン会議」)が開かれ、奴隷制や植民地主義に内在する諸問題が、初めて世界的なレベルで討議されたこと――確かに、従来の歴史観では捉えきることのできない、地殻の変動が起こっていた。日本社会でも、北のアイヌと南の琉球人とが、国連が認めた、先住民族が手にすべき諸権利に基づく主張を行なって、歴代の中央政府が積み重ねてきた先住権否認政策に抗議する動きが目立つようになった。『インパクション』誌においても、編集委員であった故・越田清和などの手によって、先住民族をめぐるテーマがたびたび取り上げられたことは、周知の通りである。

5 戦争と死刑と国家

先にも引用した埴谷雄高は、同じ論文でこう書いている。1958年のことである。政治は「死刑と戦争のあいだを往復する振子であって、ついにそれ以外たり得ない」――と。当時の埴谷は、政治(それは、「国家」あるいはその「時どきの政府」と同義であると捉えられていよう)の意思を「奴は敵である。敵を殺せ」というスローガンに見ていたのだから、いかなる個人からも集団からも超越している国家が、その存在の「至高性」を見せつけつつ他者に死を強制し得る手段として「戦争」と「死刑」の発動権を独占していることに注目したのであろう。事実、あの時代であれば(21世紀の現在になっても廃絶のための微かな望みすら見えない戦争は論外として)死刑制度を存置している国は圧倒的に多かった。一般刑事犯であれ政治犯であれ、国内秩序を最悪の形で乱す者に対しては、刑の執行それ自体は非公開で行われる場合でも、究極の刑を科すことで人心の引き締めが可能だと統治者たちは考えていたのである。

だが、死刑制度の存否をめぐって、世界は動き始めた。19世紀を含めたごく早い時期から死刑を廃止していた国々は別格として、先にニカラグアで見た例がこの時代の特徴を表わしている。以下に、この前後から死刑を廃止した国を挙げてみる。【( )内は廃止した年度、「一部」は通常の犯罪に関してのみ廃止、言及なしはすべての犯罪に関して廃止した場合である。】

ポルトガル(1976)、デンマーク(1978)、ルクセンブルグ、ニカラグア、ノルウェー、ブラジル、ペルー、フィジー(1979、後三国は一部)、フランス、カポベルデ(1981)、オランダ(1982)、キプロス、エルサルバドル(1983、両国とも一部)、アルゼンチン(1984、一部)、オーストラリア(1985)、ハイチ、リヒテンシュタイン、ドイツ民主主義共和国(1987)、カンボジア、ニュージーランド、ルーマニア、スロベニア(1989)、アンドラ、クロアチア、チェコスロバキア連邦共和国、ハンガリー、アイルランド、モザンビーク、ナミビア、サントメプリンシペ(1990)、アンゴラ、パラグアイ、スイス(1992)、ギニアビサウ、香港、セーシェル、ギリシャ(1993、末尾国は一部)、イタリア(1994)、ジプチオ、モーリシャス、モルドバ、スペイン(1995)、ベルギー(1996)、グルジア、ネパール、ポーランド、南アフリカ、ボリビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1997、後二国は一部)、アゼルバイジャン、ブルガリア、カナダ、エストニア、リトアニア、イギリス(1998)、東チモール、トルクメニスタン、ウクライナ、ラトビア(1999、末尾国は一部)、コートジボアール、マルタ、アルバニア(2000、末尾国は一部)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、チリ(2001、後者は一部)、キプロス、ユーゴスラビア(2002)、アルメニア(2003)、ブータン、ギリシャ、サモア、セネガル、トルコ(2004)、リベリア、メキシコ(2005)、フィリピン(2006)、アルバニア、クック諸島、ルワンダ、キルギスタン、カザフスタン(2007、後二国は一部)、ウズベキスタン、2008)、ブルンジ、トーゴ(2009)、ガボン、ジプチ(2010)、ラトビア、モンゴル、シエラレオネ、南スーダン(2011)――

煩を厭わず最近の死刑廃止国を列挙したのは、これが紛れもなく現代史の動きだからである。このリストに目を走らせた私たちの多くにとっては、同時代史として進行していた事態であることを確認するために、である。ニカラグアと南アフリカの実例にことさら注目した私の記述がどこか誇張に思えるほどに、「ふつうの国」が次々と死刑を廃止している。現在、死刑廃止国と実質的な廃止国(国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの基準では、制度が残っていても過去10年間にわたって死刑執行が行なわれていない国は「実質的な廃止国」に分類されている)とは合わせて140ヵ国に上るが、実にその半数は、この40年間近くの現代史の歩みの中で死刑廃止に至ったことを、右のリストは物語っている。戦争は廃絶し得ないまでも、差し当たって死刑は廃止できた国が、これほどまでに増えたのである。政治が「死刑と戦争のあいだを往復する振子であって、ついにそれ以外たり得ない」という埴谷雄高の60年有余前のテーゼには、いくぶんかの修正を施さなければならないだろうか。

EU(欧州連合)は、加盟国が死刑制度を廃止していることを加盟のための必須条件に据えている。死刑の非人道性に目覚めてそれを廃止できた欧州の国のなかには、21世紀に入って以降のアフガニスタンやイラクでの「反テロ戦争」に参戦したり、現在でもアラブ世界での無人機爆撃に加担したりしている国もある。国家にとって、死刑廃止に至るハードルは、戦争のそれよりもはるかに低いことがわかる。

この点で異様なのは、東アジア各国の情勢である。日本、中国、朝鮮民主主義人民共和国の三国はいずれも、歴代の統治者の意思で強硬な死刑存置国であり続けている。政治的には複雑な構図の中で激しく対立している三国が、こと死刑の存続という課題では「隊伍を組んでいる」のは皮肉な話である。韓国には制度は残っているが、自身がいっとき死刑囚であった金大中が大統領に就任(1998~2003三年)して以降、大統領は幾代も変わったが今日に至るまでの16年間、死刑の執行はなされていない。したがって、現在では「実質的な廃止国」に挙げられている。軍事政権下では頻繁に死刑の執行が行なわれていただけに、あの時代との対比が鮮やかに見える。

こうしてみると、現在の日本はいかにも特殊な状況下にある。為政者と法務官僚には、死刑廃止に向けた意志は微塵も見られない。死刑という制度や死刑囚という存在についてほとんど情報を持たない民衆は、多くが暗黙の支持を死刑に対して与えているように見える。もっとも、廃止国の外交官に言わせると、死刑制度が存在している時代に世論調査を行なえば、どの国にあっても廃止に「否!」と答える者が多い、それが世論というものだ。制度の非人道性に気づいた政治家やメディアや言論人などがイニシアティブを発揮しなければならないのだ――という。政治レベルでの働きかけの重要性はいっこうに減じないが、私たち死刑廃止運動が考えたことは、情報が厳密に封鎖されている死刑という制度にさまざまな風穴を開けることである。制度を維持するために施されている粉飾を剥ぎ取ることである。その方法は多様にあり得ようが、まず取り組んだのは、死刑囚表現展と死刑映画週間の開催である。前者は2005年から10回、後者は2012年から3回を数えた。死刑囚表現展は大きな反響を呼んできた。死刑囚が描いた絵を見たり、俳句や短歌を読んだりすることで、一面的にしか捉えてこなかった死刑囚という存在、および死刑制度について考え直してみたい、との印象をもつ人が多い。絵を見て「人間の魅力に気づかされた」という声すらある。死刑囚にとっても、自らが犯した行為をふり返るうえで、あるいは囚われの身でも自由な空想の世界に浸るうえで、そして冤罪を訴えるうえで、自らなす「表現」の力を実感し始めていることがうかがわれる。それが10年間続いてきたことの成果であろう。当初10年間の時限で始めたこの試みは、死刑制度廃止の展望が立たないいま止めるわけにはいかず、また新たな基金の提供者も現われて(いわゆる島田事件でいったん死刑が確定しながら、再審で無罪を勝ち取った赤堀政夫さん)、さらに5年間継続することになった。死刑映画週間にも、死刑存置の立場の人も含めて毎年多くの人びとが詰めかけて、古今東西のすぐれた映画作品から何ごとかを汲み取る場として定着してきた。来春以降も、なお続くだろう。

*          *        *

約めて言えば、先住民族という存在を生み出した民族・植民地問題を追究するという課題において、また、国家が戦争と死刑を通じて他者の死を命令する独占的な権限を持つ事実に対する批判を深めるという課題に関しても――私たちはこの雑誌と併走することができた。この雑誌なき明日以降も、揺るぎない確信をもってこの道を進むことができるくらいの素地は、そこで育っていると信じたい。 (11月4日記)

憲法より上位に立つ日米地位協定という問題意識を


『「反改憲」運動通信』6号(2014年11月26日発行)掲載

15年前の歳末の日々、やがて巡りくる新しい世紀に特別な思い入れや期待があったわけでもない。大晦日と元日が時間的な地続きで、何の変化も〈自然には〉期待できないように、世紀の変わり目にしたところで、同じことだ。ただ単に、何かが「革まる」期待感が心理的にないではなかった。言い出したのは誰だったのか、20世紀は「戦争と革命の世紀」と呼ばれていたが、その「戦争」は相も変わらず絶えることもなく、他方「革命」は「無惨な残骸」となり果てて終わろうとしている20世紀には、どこか深い感慨だけはあった。哀惜の念とでもいおうか。その分、新世紀になると何かが「革まる」期待感は、正直言えば、高かったのかもしれぬ。

15年が過ぎた。内外ともに、激動の日々が続いている。その中で、忘れ難くこころに残る出来事は何か、与えられた「反改憲」という主題との関連で、と考えてみる。いくつか思い浮かぶなかから、私の場合、ふたつのことを挙げてみる。ひとつ目は、「反テロ戦争」の餌食にされたアフガニスタンとイラクに対してなされた米軍の占領政策である。ふたつ目は、政権交代が実現して成立した鳩山政権が、米軍基地問題をめぐって日米関係にほんのわずかな変化をもたらそうとした途端に〈内外から〉反撃を食らい、極端な短命政権として終わった事実である。このふたつの出来事からは、現在の日本の姿が如実に浮かび上がってくる感じがしてならず、その折々にも論じた。あらためてそれをおさらいする価値は、いまも、ありそうだ。

2001年「9・11」の出来事をうけて、米国がアフガニスタン攻撃を始めた当初から、「国家の体をなさない国は植民地化したほうが安上がりだ」という言葉が、米国支配層内部からは聞こえてきていた。なるほど、帝国内指導部の本音とはこういうものかと、痛く感じていた。事実、相手を「植民地め!」と見下していて初めて可能になるような、残酷で一方的な攻撃を、アフガニスタンに対して米軍は繰り広げた。続けて「大量破壊兵器を持っている」イラクも攻撃の対象となった。米軍が現地の武装抵抗勢力を「平定」し、さていよいよ「占領統治」が始まるという段になって、迂闊にも私は初めて、これこそが1945年8月以降に日本を見舞った事態なのだと、時空をはるかに隔てたふたつのことが二重写しになって見えてきた。戦争の性格をいうなら、日米戦争には帝国主義間戦争の意味合いもあったから「反テロ戦争」とは違うのだが、「占領」という事態に関わっての思いである。日本占領について実体験が薄い私は、歴史書や証言で読み、ある程度は理解してきたつもりでいたが、アフガニスタンとイラクで進行する事態を見ながら、そこへ至る過程も含めてはるかにリアリティをもって迫ってきたのだった。

同時に、時代状況の変化によるものか、それともアフガニスタンとイラクの両政権の「抵抗力」によるものか、その後の米軍駐留をめぐっては、現在にまで至る戦後日本とは決定的な違いが生まれた。イラクは「米兵に対する完全な刑事免責を認めなければ、アメリカ側は一兵卒たりとも撤退させない」と米側に脅迫されたが、侵略と占領の過程で米兵が犯した無数の残虐行為に照らしてそれは不可能だとの立場を譲らず、また米国側が要求する巨大な米軍基地の維持にも反対したために、米軍は撤退せざるを得なかった。アフガニスタンの状況はなお流動的だが、犯罪を犯した駐留米兵の裁判権をめぐっては、これを免責すべきだとする米国側の居丈高な要求にアフガニスタン側が一貫して反対していることに変わりはない。占領体制が解かれて62年を経た日本において、単に米兵犯罪の一件に限らず、日米安保体制を保証している法体系が憲法の上位に立っている現状が、国際標準からいっていかに異常であるかが、ここに浮かび上がる。

ふたつ目の問題に移る。鳩山首相が提起したのは米軍・普天間基地の移設先を県外または国外とする、というだけのことだった。(問題の本質は「移設」ではないと私は考えるが、ここではこれ以上主張しない。)日米の外務・防衛官僚は「2+2」という名で定期的会合を開いているが、そこへ出席している日本側のふたりは、首相の意向をまったく無視し、むしろその「馬鹿げた考えを無視するよう」米側に進言していた。マスメディアの多くもまた、これに添うように、首相の「迷走」が「日米関係を危機に陥らせている」とする一大キャンペーンを展開した。追い詰められた首相は、「自爆」相手を間違えて、持論をもって米国大統領と合いまみえるのではなく、結局は沖縄民衆に辺野古への移設を迫って、失脚した。覚悟と展望の欠如は覆い難いが、問題の本質はそこには、ない。日米安保の根幹にわずかながら触れようとした者が、その体制の絶対的な擁護者たちによる日米共同作戦で葬られたこと――そこにこそ、問題の本質はある。

前泊博盛の『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社、2013年)は、多くの人が薄々にでも感じていながら信じたくないと思っていたこと、すなわち「日本は独立した主権国家なのか」「もしかしたら、(沖縄はもとより)日本全体がまだアメリカの占領下にあるんじゃないか」と読者に問いかけた。この問いかけに応える努力なしに、「反改憲」は私たちの課題として主体化され得ない、と思う。

(11月17日、沖縄知事選挙の結果を聴きながら記す)

戦争と死刑と国家


『文化冊子 草茫々通信』7号(2014年11月10日発行、書肆草茫々、佐賀)掲載

昨冬一橋大学で開かれた「追悼授業 ドキュメンタリスト・片島紀男の世界」で、私は「獄窓の画家平沢貞通―帝銀事件死刑囚の光と影」という作品を取り上げた。片島氏と私の出会いが、死刑廃止運動の中においてであった、ということに拘りたかったからだ。敗戦後の歴史や死刑制度に関心をもつごく少数の学生を除けば、圧倒的多数の人は、65年前の帝銀事件も無実の死刑囚の獄中死も、そのいずれをも知らないだろう。授業の日は、ちょうど、特定秘密保護法案なるものの国会審議が大詰めを迎えた頃であった。機密を好む国家、秘密を民衆には知らせぬままに国家が独占することで他ならぬ民衆を縛り上げてしまう国家――この〈怪物〉のような存在の片鱗をなりとも、若い学生たちには感じ取ってもらいたい、と思った。

帝銀事件は米国占領下の出来事だから、そこではふたつの国家が絡み合う。事件を捜査する日本警察の手が、犯行現場での犯人の手慣れた毒物処理に注目して、旧関東軍満州第731部隊員に及ぼうとしていた。米軍はその時すでに、「仇敵」であった同部隊員の技量を高く評価し、戦争犯罪を免じ、冷戦下での対ソ連軍作戦に彼らを利用しようとしていた。だから、占領下の日本側に圧力をかけ、捜査方針の転換を強要したのである。他方、日本官憲は代わりの生贄=平沢氏をでっち上げて死刑判決確定までもっていったものの、平沢氏が獄死するまでに就任した35人もの法相は、判決の事実認定への疑義があってか、ひとりとして執行命令書にサインする者はいなかった。前者には、戦争の成果をいかようにも利用しようとする常勝国である超大国の驕りが見える。後者には、死刑制度を墨守するためには冤罪による死者にも頬被りする国家の冷酷さが見える。

ところで、戦争の発動と死刑の執行によって、国家は「国民」の誰かに命令して他者の死を招く権限を独占しているとは、私の古くからの国家論テーゼだった。いかなる個人にも集団にも「人殺し」の権利は認めないが、唯一国家のみにはその権限が付与されていると信じて疑わない支配者たち! 戦争と死刑のためなら、どんな権力の行使も厭わない国家のあからさまな本質を示しているという点で、帝銀事件は、腹立たしくも痛ましい、繰り返してならぬ、国家犯罪のひとつの先例なのである。

だが、世界的に見れば、この状況は近年になって大きく変化した。戦争廃絶へ向けた強固な意思を示す国はほとんど見当たらないが、死刑の実質的な廃止国は140ヵ国に上り、旧帝国も集うEU(欧州連合)圏では死刑制度を廃止していることが加盟条件の一つになっている。米国軍と共にアフガニスタンやイラクへ派兵して、戦争での〈人殺し〉は続けてよいが、刑罰として〈非人道的な〉死刑は廃止すべきだ、と考える国家(政府)が登場しているのである。これをしも、人権の確立に向けた、人類のたゆみない歩みの成果といってよいだろうか? いずれにせよ、私の旧来の国家観は、いくらかは好ましいことに、修正を迫られてきたのだと思える。

ところがここで、新たな問題が生じた。日本で――他ならぬ私たちの足下の社会では、上に見た世界の趨勢には逆行する荒々しい動きが顕著になっている。せっかく軍備と戦争を廃絶した憲法をもちながら、世界でも有数の強力な軍隊(自衛隊)を保持し続けてきたという自家撞着の戦後史の中から、この軍隊を他の「ふつうの国」のように、海外での戦争にも参加できるようにしたいと考える為政者が現われたのだ。私の考えでは、それは、1991年ペルシャ湾岸戦争後に地雷除去の名目で自衛隊の掃海艇を派遣する動きを阻止できなかったことの延長線上にある。悔しいことである。他のいかなる存在をも超越する国家の〈優位性〉を、戦争発動の権限に求める勢力が、敗戦後69年にして社会の前面に立っているのである。

加えて、この政策を推進する政権下での死刑執行は、その頻度において過去を凌駕している。歴代法務官僚の中枢も、その支配下の政権も、自ら率先して〈非人道的な〉死刑制度廃止の気運をつくるどころか、内心では「法の支配」はこれによって貫徹されると考え、外に向かっては「世論が支持しているから」と嘯くのである。私は、先に述べた自分なりの国家論の核心が、古びて、瓦解する時代の到来をこそ望んでいる。戦争にも死刑にも、自己存在の証明を求めない国家の到来――それは、人類史の、未踏の領域に進みゆく課題である。

NHK佐賀局時代に反戦闘争をたたかい、帝銀事件取材を通して死刑制度廃絶を望んだ片島氏は、その課題に共に取り組む同志であり続けている、と私は感じていたい。

(9月18日記)

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[55]四、五世紀の時間を越えて語りかけてくる、小さな本


『反天皇制運動カーニバル』第20号(通巻363号、2014年11月11日発行)掲載

現在のように、あまりに虚偽に満ちた言説が大手を振って罷り通る時代には、これを批判するためには目を背けたくなる言動とも付き合わなければならない。「慰安婦」問題はその最たるものだ。だが、それだけでは心が塞がれる。いしいひさいちの『存在と無知』『フラダンスの犬』『老人と梅』『麦と変態』『垢と風呂』(挙げていくと、きりがない)などの漫画本で気を晴らしたりもするが、気晴らしではない小さな文庫本を幾冊も手元に置いて、落ち着いて読みたくなる。そのうちの数冊からは、拾い読みでも、この耐え難い「現在」を生き抜くうえでの智慧と力を与えられる。歴史の見通し方を教えられる。いずれも幾世紀も前に書かれ、本文だけなら文庫本で百頁にも満たないか、せいぜい200頁程度の小さな書物だ。誰でもそんな本をお持ちだろうが、最近の私の場合について書いてみる。

1冊目は、今までも何回も触れてきた書だが、スペインのカトリック僧、ラス・カサス(1484~1566)の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原著は1552年刊、岩波文庫。A5版の単行本だが現代企画室版もある)である。彼はコロンブスの米大陸到達後に行なわれ始めた「征服」の事業に参加し、その行賞で先住民の「分配」にも与かった人物だが、やがて同胞が行なう先住民虐殺や奴隷化の実態に気づき、先住民が強いられている悲惨きわまりない状況を目撃することで、「征服」の批判と告発に晩年を捧げた。ヨーロッパの植民地主義を内部から批判した古典的な書物である。1960年代、米軍がベトナムで繰り広げる虐殺を見ながら、ドイツの作家、エンツェンスベルガーはラス・カサスのこの書を想起した。私たちも刊行から460年近くを経たいま、アフガニスタンやイラク、そして無人爆撃機による攻撃に晒される土地と人びとの現実と二重写しにしながら本書を読むことができる。強者にとっては、昔も今も「植民地は美味しい」のだ。

2冊目は、フランスの思想家、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530~63)の『自発的隷従論』(執筆は1546年あるいは48年と推定、ちくま文庫)である。モンテーニュの友人として知られるラ・ボエシは、16歳か18歳のころの著作と言われる本書で、いつ、どこの世にも圧政がはびこるのに、その下で生きる人びとが忍従に甘んじているのかなぜか、と問い、人間の集団的心理がもたらす倒錯をするどく考察する。これまた、現代日本社会を活写しているかのような生々しい印象を受ける。翻訳版で特筆すべきは、ラ・ボエシの著作に深い示唆を受けていた思想家、シモーヌ・ヴェイユと、南米パラグアイの先住民族社会の在り方を深く研究した政治人類学者、ピエール・クラストル(『国家に抗する社会』水声社、『グアヤキ年代記』現代企画室などの翻訳がある)の掌編が収められていることである。いずれも30歳代の若さで生涯を終えた3人の論考の前に頭を垂れる。

3冊目は、対馬藩で対朝鮮外交に携わった雨森芳洲(1668~1755)の『交隣提醒』(執筆は1728年と推定。平凡社東洋文庫)である。私は先年、芳洲の故郷=琵琶湖北東岸の町・高月で記念館を訪れた時に、私家版で出ていた本書を入手し読んでいたが、平凡社版は「解読編(読み下し文)」「原文編」及び長文の「解説」から成っていて、読み応えがある。二度にわたる秀吉の朝鮮侵略の傷跡深い17世紀から18世紀にかけて、対朝鮮外交(=交隣)の先頭に立った芳洲が、どんな考えに基づいて何を行なったか、が明らかにされている。芳洲の考えの真髄は、「誠信と申し候は実意と申す事にて、互に欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」とする点にある。日朝ともに、ことさらに相手側の非を鳴らすことなく、互いの実態をよく知ったうえで交わるべきだとの論理だが、主観的な国内向けの論理を振り回すのではなく、客観的な国際常識に則った行動をと訴える主要な相手は、もちろん、藩主であり対馬藩全体の人びとだ。朝鮮通信使の受け入れをめぐって起こる困難な事態にもいくつも触れている。秀吉の戦役の際に切り取った朝鮮人の耳鼻を収めた耳塚を「日本の武威を示す」ために通信使に見せようとする役人を厳しく批判する。現在、対韓・対朝外交に当たる者にこの識見あらば! とつくづく思う。

重厚な大著にも大河小説にも、もちろん、よいものはあるが、掌編と言うべきこの3冊の小さな文庫本に漲る歴史意識・論理・倫理に、目を瞠る。(11月8日記)

【追記】エンツェンスベルガ―論文は「ラス・カサス あるいは未来への回顧」といい、現代企画室版『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(石原保徳=訳)に、田中克彦訳で収められている。

ピエール・クラストルの『グアヤキ年代記』はこちらで。

クラストルの翻訳には、もうひとつ『大いなる誇り』(松籟社刊)がある。「グアラニーの神話と聖歌」についての著作で、私は刊行直後の1997年4月に書評をしているが、このブログに記録されているのは同年後半以降に書いたものなので、ネット上では読めない。『日本ナショナリズム解体新書』(現代企画室、2000年)には収録されている。