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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

第10回「大道寺幸子基金・死刑囚表現展」共感と反発と――死刑囚が表現することの意味


『出版ニュース』2014年11月上旬号掲載

2005年に始まった「死刑囚表現展」の試みが、公開の場で人目にさらされるのは、毎年10月10日前後に開かれる「死刑廃止デー企画」の中で、選考委員による作品講評のプログラムが組まれて公開の場で応募作品の論評が行なわれ、絵画作品は会場ロビーに展示されるという、わずか数時間の枠内で完結するものでしかなかった。だが、文章作品でひとのこころに届くものは、次第に運よく刊行の機会を得て、この10年間で5冊の単行本が刊行された。「死刑囚表現展」特集が編まれた『年報・死刑廃止2013年版』でも、重要な俳句・短歌作品が一定程度紹介されもした。他方、絵画作品に関しては、2008年以来、京都・高山・広島・東京などのスペースで何度かにわたって展示会が開かれてきた。応募点数は毎年30~40点にも及ぶので、全点展示は難しいが、それぞれの主催者が選ぶことで「個性」が現われ、どれもが得難い機会となった。こうして、死刑囚の作品が市井の人びとの目に触れる機会は徐々に広がってきた。

昨年の報告で触れた広島県鞆の津ミュージアムで開催された「極限芸術――死刑囚の絵画展」の成果に触発されて、今年は、活動の中心が東京である私たち(基金運営会)も、大規模な死刑囚絵画展の企画を立てた。「基金10年」の活動をふり返る意味合いを込めた。そして、9月14日から23日までの10日間、渋谷区の公共スペースである大和田ギャラリーを会場に、9年間の応募絵画作品をほぼ全点(360点ほど)展示する「死刑囚絵画展」を開いたのである。渋谷駅からほど近いという地の利もあったのか、10日間で4000人もの来場者があった。NHKテレビおよびラジオでのニュース報道、共同通信の配信(英字新聞でも)、朝日新聞記事、『週刊金曜日』記事など、メディアが取り上げてくれたことが大きな力を発揮した。私たちも、時代状況に学んでツイッターやフェイスブックを使っての発信に力を入れた。頻繁に更新した記事にはかなりのアクセスがあったから、特に若い人びとの来場を促すには効果があったと思われる。ネット上での情宣には、多くの方々の協力も得られた。

来場者の多くは、実に長い時間をかけて、作品に見入っていた。スタッフとふと目が合うと、なにかと話しかけてくる人が多かった。もちろん、積極的に質問を投げかける人もいた。画材は何か、水彩や油彩で描くことはできないのか、クレヨンは使えないのか。用紙の制限とはどんなことか、すでに処刑された人はいるのか? 冤罪を訴えている人は? どんな罪を犯した人なの?――質問の範囲は、留まるところを知らない。スタッフはそれぞれ、できる限りていねいに、それらの質問に答えた。アンケートの回収率も高かった。内容はまだ整理中だが、真剣な書き方が目立つ。どちらかというと、死刑制度存置派の人が多い、少なくとも作品を観るまでは。だが、壁面を覆い尽くし、ファイル化された作品にひとたび触れると、その人の心も揺らぎ始める。その揺らぎを率直に書く人が多い。「生きている限り、人間には可能性があると思った」「死刑は、社会からの逸脱者を除く有用な手段だと考えてきたが、作品を観て、考え直そうと思った」「涙が出ました。こんなに心のこもった美しい絵を描ける人たちが、なぜ?」「驚きのひとこと。自分の中に〈死刑囚〉という記号でスタンプされたイメージから、どんどん命をもつ人が立ちあがってくる」「絵を見ていると、何とも言えない気持ちになる。犯罪に手を染める以前の過去に戻れたら、という後悔、制約された状況で少しでも気持ちを伝えたいとする意志」「冤罪は恐ろしい」「死刑肯定派でした。しかし、人間の魅力に気づかされました。死刑はない方がいいと考えが変わりました。衝撃でした」――観る人の多くは、自分への問いかけとして作品と向き合っていることがわかる。直接には会えないまでも、絵を通しての精神的な相互交通が始まっているのだ。作品を観て波立った心が切り開いてゆくかもしれない可能性を、私は信じたいと思う。

もちろん、批判もある。「ズルいと思う」と端的に書いた人がいる。被害者は帰ってこない、遺族の心は癒されることもなく、塞がれたままだ。なのに、加害者である死刑囚がこんなにも自由に絵を描いている――このような受け止め方があることを、死刑囚表現展を運営する私たちは忘れるわけにはいかない。この難問に向き合うとき、死刑囚の表現はどう立ち竦むものであるか。その具体例を、私たちは後で見ることになるだろう。

今回の絵画展は、私たち運営会のメンバーにとっても、じっくりと作品と向き合うことのできるよい機会となった。同じ人の作品を年代順に観ていくと、その進化・変貌の過程がはっきりとわかる。一スタッフは、無念なことに処刑された或る死刑囚の作品を観ながら、「私は発見した」と教えてくれた。その人の作品の変貌過程には、看守の存在が関係しているのでは、というのだ。その作品ではある段階から、穴あけパンチでできる円型の紙屑がたくさん使われるようになるが、死刑囚に穴あけパンチの使用が許されるとは考えにくい。看守の特別許可があったのではないか。色紙や大きな紙の使用も、特別に認められたのではないか――確かめる術はもはやなく、これは、もちろん、推測に過ぎない。幼少年期には貧困ゆえに実現できなかった「夢」を、今になってタイムスリップして「あの時代へ」と向かい、画面に描き出しているその人に、処刑される以前に看守(あるいは、処遇権限を持つ高位の幹部)との間でそんな「交流」がもしあったのだとすれば!――と想像することは、微かではあれ、ひとつの希望の証しなのだ。私が会場の当番をしていたある日、その作品の前で、未知の来場者と目が合った。「この絵を見ていると、涙が出てきますね」と、その人は言った。看守にも、彼の絵が秘めている力が伝わって、ある段階からなにくれとなく「便宜」を図ってくれたのかもしれない。そして、その看守が万一、彼の処刑の場に立ち会わなければならなかった、とすれば――一枚の絵が語りかけてくることは、こんなにも広がりをもつのだ。

さて、10年目を迎えた「死刑囚表現展」が、このように広く社会の中へと開かれつつあることを確認したうえで、今年の応募作品に限定的に触れよう。実は、今年は、あらかじめ定めていた最終年度であった。今後のことは末尾で触れるが、応募者には当然その思いがあったのだろう、例年よりも多めの作品が寄せられた。文章作品は14人から、絵画作品は15人から、ふたつの分野にまたがっての応募者は5人だから、延べ24人からの応募があったことになる。確定者と未決を合わせて150人前後と思われる死刑囚のうち16パーセントからの応募という数字は、平均値である。ひとりで何点もの作品を応募した人が多かったので、総点数の印象がいつもと違ったのである。

まず、文章作品から見てみよう。今年も響野湾子さんの旺盛な創造力が際立っていた。俳句200句、短歌800首、詩句10句――というように。昨年の『年報・死刑廃止』は「響野湾子詩歌句作品集」を特集した。それを指して、こんな歌を詠む人で、彼はある。

我が短歌の特集記事の載りし本嬉しき中に痛悔勝れり

死刑囚の自己表現に対して、アンケート用紙に「ズルいと思う」と書いた人がいたことは、先に触れた。湾子氏は、毎年、この感想に響き合うかのような作品を多数寄せている。

我が深き悔を想えど一瞬に打ち砕かれむ被害者の夢にも

熱を病み目覚めし夜半のこの独房の闇の奥こそ被害者の瞳(め)の浮く

後悔も贖罪さえもまだ浅しなれど髪の毛白くなり初む

贖罪と書く度われは虚身になる自堕落に似る罪よりの逃避に

生きたい!と望みし被害者殺めし手で我が再審書認むるを恥ず

処刑があったことへの思いや、自分の身に迫りくる刑死の時を詠む歌は、変わることなく、重苦しい。だが、同時に、己が境遇をいささかユーモラスに表現したり(前二首)、社会的参与の意志を明確に表したりする(後二首)のも、湾子氏独自の世界である。

パン・シチュー・甘きぜんざい・ジャム・チーズ土曜日を待つ恥ずべき未練

偽りの無き悔いなれど後めたき心根で買ふあんぱんを二個

この国が滅んでも尚怒り持てぬ民は孤独な集まりの個

川花火高校野球スマホの群れそこに「被災」の福島が無い

湾子氏が選んでいるのは短詩型の表現ゆえ、氏が犯してしまった行為そのものが語られることはない。だが、「罪と罰」をめぐる多くの事柄が、この簡潔きわまりない表現の中で切開されているように思われる。「短詩型」という小さな世界から無限に広がりゆく宇宙が感じられて、私は氏の作品にいつも打たれる。

音音(ねおん)さんの狂歌集「経年劣歌」は、相変わらず、用いられている言葉の自在さや言語感覚の面白さが印象的だが、氏が別な箇所では「言葉の軽さや歌の軽さに気持ちの均衡を求めたとこがある」と表現しているのを目にすると、改めて氏が置かれている、死刑囚という現実を思う。表現の本意を、重層的に読み取らなければ、と気づかされる。

伊藤和史さんの「心のおと」は、「自伝」といいつつ自らが関わった事件を語らない点に、大きな欠落を感じた。父親が花屋で働いていたことから、幼い頃から花屋に出入りしていた記憶を語る箇所があるが、確かに「花」を語る時の文章は、豊かな知識にも彩られて躍動しており、ここを拠り所にするなら開かれてゆく世界があるように思えた。

絵画部門に移る。林眞須美さんがすべて色紙を使って30点以上もの作品を応募してきた。四角い白地の真ん中に、涙と思える紅い形の点が浮かぶ絵がある。「国旗」と題されている。実作者の真意がどこにあるかはわからぬが、日の丸のパロディーか、と強引な読みが可能だとすればこの作品に秘められた寓意性は深い。昨年、選考委員の北川フラム氏の言葉を借りて、林さんは「他者に理解されたい」という気持ちを断ち切って、作品を創っていると書いた。今年も、「四面楚歌で生きる」とか「ありのままに生きる 私は私 マイウェイな眞須美です」と題された作品で、その覚悟のほどを披歴しているように思える。他方で、「私は無実―たすけてください」という叫びが込められた直截的なメッセージ性のある作品もある。観る者を捉えて離さぬ、その不思議な力に圧倒される。

宮前一明さんは、今年も説明書付きの応募だった。和紙、色紙、扇面色紙、新麻紙など多様な素材を駆使して描くので、その入手方法や色合いの出し方などは、説明されて初めて理解できるものもある。「欠如」が当たり前の獄中にあって、それに押し潰されない工夫をつねに試みているという意味で、作品と説明書は一体化した表現となっている。「作務衣の半襦袢でツギハギの僧衣」との説明が付された「糞掃衣」の出品には、正直、驚いた。10年間四季を問わずに着続けてきた作務衣だという。両袖は七分袖となり、丈も五センチ以上短くなって、元の生地の80パーセントは失われたという。敢えて作品に仕立て上げたものではなく、自然に擦り切れたものを、「表現」として応募した作者の大胆さに不意打ちを食らった思いがした。「表現」の領域を拡大してみせた作品として、忘れ難い印象を残した。

残された紙幅が少ないので、先を急いで、今年度の受賞作品を挙げておきたい。文章では、響野湾子「死刑囚の表現賞」、音音「チャレンジ賞」、絵画では、林眞須美「オンリー・ワン賞」、風間博子「表現賞」、千葉祐太朗「奨励賞」、宮前一明「(作務衣に関して)表現を問う賞」、伊藤和史「(文章と絵画の双方を合わせて)敢闘賞」。以上である。今年は、この文章では触れることができなかった作品がたくさんある。昨年も書いたように、どなたにも表現を続けてほしいという望みを私たちは持ち続けている。表現の変貌や深まり、広がりや拡張、そして新機軸――10年間の持続は、「表現」にさまざまな陰影を与えて、今日に至った。今年の絵画展で寄せられたアンケートのごく一部を先に紹介したが、こうして成立しているコミュニケーションの力によって、この社会に牢固として存在する壁が崩れていくのだ。

最後に――発足当初の展望でいえば、この「表現展」企画は10年の時限をもって開始した。その間に、死刑制度廃止の展望を確たるものにしたいという希望的観測をもち、また資金的にもそれが限度だろうという見込みもあった。だが、政治・社会状況はいくつかの要因で急変し、それが議会構成にも反映しているので、死刑廃止の展望は遠のいたままだ。この表現展が、応募してくる(今後応募することになるかもしれない)死刑囚にとって持つ意味は、すでに見たように、この10年間で計り知れぬほど大きなものになった。いかなる意味でも、止め時ではない。その時、四大死刑再審無罪事件のひとつ、島田事件の元死刑囚・赤堀政夫さんから、趣旨に賛同しての基金提供の申し出を受けた。私たちはありがたくこの申し出を受けて、2015年度からは「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」と改称して、活動を継続することにした。今回は五年間の時限を設定し、その後のことは数年を経た段階で改めて討議することにしている。持続期間の長さを誇り得る活動ではない。死刑廃止の展望を手応えあるものにしたいと思いつつ、「死刑囚表現展」は、なお続く。

(10月17日記)

追悼・小田原紀雄さん


『救援』第546号(救援連絡センター、2014年10月10日発行)掲載

私が小田原紀雄さんともっともよく付き合ったのは、1980年代から90年代にかけての時期だったろうか。たとえば、1987年、東アジア反日武装戦線のメンバーに最高裁で死刑確定判決が出ることは必至と思われた時機を選んで、ひとりの仲間が抗議のハンガー・ストライキを行なおうとした。街角や公園を使っての行動が厳しく制限されている日本では、訴えを行なう適切な場所を見つけることが、なかなかに難しい。小田原さんが智慧を出したのだろう、外部にはあまり目立たない場所だが、西早稲田のキリスト教団内の敷地を使ってはどうか、ということになった。それがきっかけになってのことだったか、それまでは千駄ヶ谷、代々木上原、代々木八幡などの公共施設の会議室を取っては行なっていた、私が参加していたさまざまな運動体の会議は、ほとんどが教団施設を使うようになった。小田原さんがメンバーのひとりとして担っていたキリスト教団社会問題委員会の計らいである。

時代状況はその後すぐ、天皇代替わり、PKO(国連平和維持作戦)法案、それに基づいた自衛隊の海外派兵などへの抗議・反対の連続行動の時期へと移っていく。いくつもの課題に関わっていると、夜になると週に何度も教団通いをするという破目に陥っていた。私(たち)はキリスト者でもないのに、である。小田原さんともひっきりなしに会っていたのは、その頃からである。1993年からは、さらにもう一つの要件が加わった。首都圏に住むアイヌの人びとが、自分たちが自由気ままに集い、使うことのできるたまり場をつくりたいが、それには料理店がよいと思うので、それを設立するのを手伝ってくれないか、と私が依頼された。数年前から、先住民族としてのアイヌの権利を確立するためのいくつかの動きを私たちは展開していた。その枠を軸に、周辺で同じ問題意識を持つと思われる人たちに声をかけて、「アイヌ料理店をつくる会」を創設したのだが、そこでも協働することになった小田原さんの発案で、煩雑な事務作業をこなさなければならない事務局を教団においた。短期日の間に全国各地からカンパが素早く寄せられ、設立準備期間は一年足らずで終えたが、領収書発送などの事務作業は大変だったと思う。

そのアイヌ料理店「レラ・チセ」は、1994年5月に、キリスト教団の建物から近くの地下鉄駅に向かう途中の場所で開店した。すぐにお客がつくのは難しいかもしれないから、せめて諸々の市民運動団体がひっきりなしに会議で使う教団近くに立地を求め、会議から流れた客を迎えよう、つまりは自分たち自身が客になろうという考えだった。敗戦50年に当たる翌年1995年に向けての活動も始まったから、その当時は、週の過半の夜を小田原さんともどもそこで過ごした。「レラ・チセ」の運営は、お店で働くアイヌの人びとに私たち和人(シャモ)も加わって、行なった。仕入れ、献立、料金体系、スタッフの勤務時間割、待遇、全体的な収支をはじめ、複雑な人間関係などもすべて、その運営会議で討論した。私はいちおう代表者のようにふるまわなければならなかったので、難しい局面になると、小田原さんの低い声での発言に助けられた。

このような社会運動での現場とは別に、小田原さん独自の世界をもっている人でもあった。近隣の中高年の女性と日本古典の読書会をしているということを、楽しげに話す場面に何度か居合わせた。古典の読み方をめぐっての爆笑物のエピソードもあったように思うが、その中身は忘れてしまった。講師をしている塾の子どもたちに同行するサマー・キャンプの様子も楽しげに、よく語っていた。そんな異質な世界から得られたに違いないエネルギーを、小田原さんは社会運動に返していたのかもしれない。加えて言うなら、小田原さんが話す「キリスト業界」の内輪話も、その世界には無縁な私には面白かった。

21世紀に入って以降、活動する場が違い過ぎて、小田原さんと顔を合わせることはほとんどなくなった。2001年「9・11」以後は、私が行なう発言への「違和感」を他人を介して伝えてくるようになった。「9・11」の実行行為者たちが追い込まれていた、切羽詰った状況を客観的に理解できたとしても、「解放」の理念を逸脱しているその行為は肯定できないとした私に対して、小田原さんは、「帝国」内に生きる自分たちに、追い込まれた第三世界の人間の行為を批判できるものか、との思いを秘めているものらしかった。私にとっては、東アジア反日武装戦線の三菱重工ビル爆破の「過ち」を、行為者たちと共に克服していく作業の途上で必然的に行き着いた道だったが、小田原さんが感じたらしい、私への「違和感」をめぐって討論する機会は、彼の早すぎる死によって、永遠に断ち切られてしまった。

かくなるうえは、小田原さんとの〈想像上の〉対話を続けていくしか、ない――2014年8月23日、小田原さんの訃報を、「信原孝子さんを偲ぶ会」を終えた直後に聴いて、私は、そう、こころに誓った。

(9月25日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[54]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その2)


『反天皇制運動カーニバル』第19号(通巻362号、2014年10月7日発行)掲載

「本来なら躓いているはず」の首相A・Sらが、まるで論理的な傷を負っていないかのようにふるまうのは、素知らぬ顔で論議の次元をズラしているからである。そのズラしは、意図的に行なわれている。なにしろ、彼は「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」(2013年4月23日参議院予算委員会)と公言するような人物である。アジア太平洋戦争が日本のアジア侵略から始まったという、隠しようもない本質をごまかし、戦争から「加害・被害」の性格を消し去ること。彼の本意はそこにこそある。うぉっーという怒りの声が、国の内外から挙がっても当然な、恥知らずな言動である。恬として恥じずにそれを繰り返す人物が生き延びているのは、「内」からの批判・抗議・抵抗の声が小さいがゆえに、である。彼はこの国内的な状況を利用して、戦時下のもろもろの問題について述べるときにも、戦争をめぐるこの大枠の捉え方を壊すことなく、展開する。

この立場を「慰安婦」問題に応用するときにはどうするか。植民地の女性を「慰安婦」として働かせるにあたっての「強制性」をめぐる論議に、意味をなさない「狭義・広義」という分断線を持ち込むことである。首相A・Sは、第一次政権時に次のように語っている。「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」(2007年3月5日参議院予算委員会)。問題の核心はすでに、「長期に、かつ広範な地域に設置された慰安所は、当時の軍当局の要請によって設営され、その設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与」(1993年の「河野談話」から要約抜粋)したことの「強制性」にこそ置かれていた。問われれば、彼は答えるであろう、「広義の強制性があったことを否定したことは一度もありません」と。だが、それは「侵略を否定したことは一度もありません」との発言と同じく、問われなければ触れることもない、付け足しの物言いでしかない。彼は土俵を常に、自分に有利な場所に勝手に設置するのである。自分の見解が客観性を保つことに、彼は関心を持たない。彼が固執する論点を移動させなければならないからである。不利な場所に自らを置くことになるからである。

党首に返り咲いた5年後にも、次のように語っている。「そもそも、朝日新聞の誤報による、吉田清治という、まぁ詐欺師のような男が作った本がまるで事実かのように、これは日本中に伝わっていった事でこの問題がどんどん大きくなっていきました」(2012年11月30日の日本記者クラブ主催党首討論会)。2012年の段階でなお、この人物は、朝日新聞の「誤報」を頼りに、この問題についての発言をしていた、否、次のように言うべきだろう、この問題について発言するときには、唯一この観点でしか物を言っていない、と。当該の問題に関する研究・調査が、どこまで深化し進展しているかにも、彼は関心を持たないことを、この事実は示している。産経新聞と(最近では)読売新聞を日々の教科書にしている彼からすれば、旧来の図式をなぞるように発言する材料に事欠くことはないからである。

朝日新聞の紙面と、ETV特集「戦争をどう裁くか」で戦時性暴力を取り上げようとした2001年までのNHKの一部番組には、「慰安婦」問題をめぐる動きを、「内」(=加害)と「外」(=被害者側の視点、および世界的な人権意識の深化)の複眼で捉えようとする試みがあった。自国の近代史から侵略の史実を消し去るために「内」に籠ろうとする意識が、そこでは揺さぶられる。1997年に『歴史教科書への疑問』を刊行した「若手議員の会」の主軸メンバーであったA・Sは、まず2001年にNHKに圧力をかけて右の番組を改変させた。その延長上に、権力の前に全面的に屈した13年後の現在のNHKの姿がある。朝日新聞は、このNHK番組へ圧力をかけた政治家の名をA・Sの名入りで他のメディアに先駆けて報じたことでも、彼にとっては「許すべからざる」新聞である。こうして、現在の朝日バッシングの陰には、明らかに首相官邸の姿が見え隠れしている。

来年は日本の敗戦から70年目の節目を迎える。70年を経てもなお、戦時下の「記憶」をめぐるたたかいを、卑小な「敵」を相手に続けなければならないとは、情けなくも徒労感を覚える。人間がつくり上げている社会の論理と倫理、歴史意識とは、古今東西この程度のものが大勢を占めてきたという実感に基づいて、歩み続けるほかはない。(10月4日記)