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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ベトナムをめぐって、過去と現在を往還する旅


映画『石川文洋を旅する』公式パンフレット(大宮映像製作所+東風、2014年6月21日発行)掲載

1965年に米国が北ベトナム爆撃を開始してから、来年2015年で50年目になる。半世紀が経つということである。その65年から、解放勢力が占領米軍をサイゴン(現ホーチミン)をはじめ全ベトナム領土からの撤兵にまで追い込んだ75年までの10年間、私はほぼ20歳代の人生を送っていた。当時の私から見て、世界はベトナムを軸に動いているかのようだった。超大国=米国の巨大な軍事力を相手に、貧しい小国=ベトナムのたたかいぶりは際立っていた。南米ボリビアの山岳部で、反帝国主義のゲリラ戦の展開を図っていたチェ・ゲバラは「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」とのメッセージを発した。米国の侵略とたたかうベトナムは、これを支援すべき中国とソ連の対立で悲劇的に孤立しているが、世界各地の民衆が「ベトナムのように」たたかうならば、敵=帝国主義の力は分散され、われわれの勝利の時が近づくのだ、というのがこのメッセージの趣旨だった。世界各地では、ベトナム反戦闘争が激しくたたかわれていた。米ソの対立によって規定された東西代理戦争の枠組でベトナム戦争を意味づける考え方もあったが、それは、第三世界解放闘争の主体性を無視した暴論だと、私には思えた。私は、不可避的なたたかいのさ中にあるベトナムの民衆が軍事的に勝利することを心から願い、祈っていた。75年4月30日、ベトナムは勝利した。蟻が巨象を前に立ちはだかった事実に、世界じゅうが沸き立った。

それから40年が経とうとしている。残酷な時間の流れの中で、65~75年当時には想像もつかなかったことが、ベトナムをめぐって起こった。また、当時のベトナムのたたかい方をめぐって新たな解釈が現われた。いくつかを任意に挙げてみる。米国に対して「盟友国」としてたたかった隣国カンボジアに、ベトナムは軍事侵攻した。同じく「同盟国」中国と、ベトナムは戦火を交わした。それは、2014年のいまなお、西沙および南沙諸島をめぐる領有権争いとして続いている。65~75年当時のベトナムと米国の政治・軍事指導者たちは、1995年からベトナム戦争をめぐる総括会議を開き、互いの政策路線や軍事戦略を検討し合った。これに参加した、当時の米国国防長官、マクナマラは「ベトナム戦争は誤りだった」と『マクラマナ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』(1997、共同通信社)に記した。単一支配政党であるベトナム労働党大会では、党幹部や政府幹部の汚職や職権乱用をいかに食い止めるかが、もっとも重要な議題となって久しい。

磯田光一という文芸批評家は、ベトナムの解放勢力が米国と妥協点を見出し、米国の「占領政策を通じてベトナムの復興を意図したほうが、勝つにさえ値しない戦争に勝つよりも、はるかに賢明だったのでは」と論じた。300万人に及んだ「あの膨大な死者たち」を背景に置きながら。ベトナム戦争の真っ只中で、日本の「国民的な」作家・司馬遼太郎はここまで書いた――戦争は補給如何がその趨勢を決するが、自前で武器を製造できないベトナムは、他国から際限もなく無料で送られている兵器で戦っている。大国は確かによくないが、この「環境に自分を追いこんでしまったベトナム人自身」こそ「それ以上によくない」として、世界中の人類が「鞭を打たなければどう仕様もない」。北ベトナム軍の兵士としてたたかった経験をもつバオ・ニンは、その後作家となり、『戦争の悲しみ』(1997、めるくまーる。現在は河出書房新社)と題する作品を書いた。そこでは、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が、戦闘時にとったふるまいのなかには、戦争に疲れ慣れきってしまったがゆえに、他者のことを気遣ったり同情したりする余裕もないままに自暴自棄の行動に走る場合もあったことが、実録風に明かされている。

昨年10月、元ベトナム人民軍ボー・グェン・ザップ将軍の死の報に接した。ディエンビエンフーのたたかいの指揮ぶりや『人民の戦争・人民の軍隊――ベトナム解放戦争の戦略・戦術』(1965年、弘文堂新社、現在は中公文庫)という著作で、忘れがたい印象を残す人物だった。1911~2013年の生涯で、102歳という長命だった。この年号を見てふと思いつき、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユの生没年を調べた。1909~1943年であった。ザップとヴェーユは、少なくとも前半生は同時代人だった。早逝したヴェーユは、最後まで社会革命に心を寄せ、その実現を願いながら、恒久的な軍隊・警察・官僚組織が革命の名の下に永続することへの批判と警戒を怠らない人であった。このふたりの生涯と思想を、同一の視野の中に収め、今後の課題を考えることが重要だと思える。

すぐれた「戦場カメラマン」である「石川文洋」を「旅する」とは、ベトナム戦争がたたかわれていた65年から75年にかけての、この狭い時間軸の中に彼を閉じこめてしまっては、できることではない。映画が描いているように、石川はいまもなお、ベトナムへの旅を続けている。「ベトナムから遠く離れている」私たちも、過去と現在を往還するそれぞれの旅を、万感の思いを込めてなお続けなければならない。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[50]日朝合意をめぐって、相変わらず、語られないこと


『反天皇制運動カーニバル』15号(通巻358号、2014年6月10府発行)掲載

5月末、スウェーデンのストックホルムで開かれていた日朝両政府の外務省局長級協議が終わると、メディアは一斉に「焦点だった拉致問題の再調査については合意に至らず」との報道を行なった。加えて、日本側担当者は「相手方は拉致問題についての議論を拒否する姿勢ではなかった」と語り、朝鮮側は「朝鮮総連中央本部問題は必ず解決しなければならない」と強調したことも報道された。目に見える成果が得られなかったらしいことから、拉致被害者家族会メンバーの「落胆ぶり」も伝えられた(以上はいずれも、5月29日付各紙朝刊。テレビ・ニュースは見るに耐え難いので、第二次現政権が成立して以降、ほとんど見ない)。二国間協議である以上は「焦点が拉致問題」であるはずはなく、「国境正常化問題」だと捉えるべきであろうが、そのような姿勢を、政府・外務省、メディア、「世論」なるものに期待することは、今さら、できるものではない。

このような新聞報道がなされた同じ日の夜、帰国した外務省担当者から報告を受けた首相は、急遽、記者団に会い、「拉致再調査で日朝が合意し、その調査開始後に日本側が課してきた制裁を解除する」ことで一致をみた、と語った。首相のイメージ・アップにつなげようとするメディア戦略はありありと窺われるが、「合意」それ自体は好ましいことには違いない。そのうえで、どんな問題が残るかについて考えておきたい。

日朝協議合意事項全文や朝鮮中央通信による報道全文を読むと、今回の合意が、2002年の日朝平壌宣言を前提にしていることは明らかである。その指摘が、新聞報道の中にも、ないではない。たとえば、5月30日付朝日新聞で平岩俊司関西学院大教授が寄せているコメントのように。だが、日本での報道は、ほぼ「拉致一色」状態が、変わることなく続いている。この日、サンプル的に見たテレビ・ニュースのいくつかにも、その傾向が色濃く出ていた。それは、「報道側」が抱える問題点に終わるわけではない。29日の首相発言そのものに孕まれている問題である。「拉致問題の全面解決は最重要課題の一つだ」とする首相は、「全ての拉致被害者の家族が自身の手でお子さんを抱きしめる日がやってくるまで、私たちの使命は終わらない」という、得意の〈情緒的な〉言葉をちりばめながら「拉致」のことを語るのみである。官房長官会見の内容は「要旨」でしか読めなかったが、国交正常化にまで至る日本政府の「覚悟」を語る言葉も、それを質す問いかけも見られない。要するに、この社会には、政策・態度を改めるべきは相手側のみである、という牢固たる考えが貫いているのである。

これは、2002年9月17日、日朝首脳会談が行なわれ、平壌宣言が発せられて以降12年間にわたって日本社会を支配してきた「空気」である。歴史過程を顧みての論理にも倫理にも依拠することなく、いったん、この不気味な「空気」に支配され始めると、社会はテコでも動かなくなる。私は、2003年に刊行した『「拉致」異論』において、拉致問題に関わっての朝鮮国指導部の政治責任にも言及しながら、「相手側に要求することは、自らにも突きつけるべきだ」と主張した。拉致問題の真相究明と謝罪を相手側に求めるのはよいが、その前提には、植民地支配問題に関わる真相究明と謝罪・補償を日本側が積極的に行なわなければならないという課題が、厳として存在しているのだ。その構えが日本側にあれば、この12年間がこれほどまでに「無為」に過ぎることはなかっただろうというのは、私の確信である。ところが、家族会は「拉致問題解決優先」という、非歴史的な、いたずらな強硬路線を主張した。政府もメディアも「世論」も、家族会の方針に〈情緒的に〉反応するという「安易な」態度に終始した。したがって、相手側の「不誠意」や「不実」や「不履行」を言い立てるばかりで、自らを省みることのないままに、歳月は過ぎたのだ。この「空気」に助けられて、辛うじて成立している現政権が、今回の日朝合意から実りある成果を得るためには、自らが何を発言し、何を果たさなければならないかという「覚悟」が要ることは自明のことである。だが、それを指摘する者はごく少数派で、この社会は変わることなく「自己中心音頭」を歌い痴れ、踊り痴れるばかりである。

(6月7日記)

蜂起から20年、転換期を表明したサパティスタ民族解放軍


(一) はじめに

去る5月24日、メキシコは南東部、チアパス州のサパティスタ自治管区のひとつ、ラ・レアリダー村で、ひとつの声明文が発表された。「光と影の間で」と題されたそれは、サパティスタ民族解放軍の名で出されたものだが、末尾の署名は「叛乱副司令官マルコス」となっており、短くはない文中では、ときどき、マルコス自身を指す主語と述語の影がちらついている。基本は「この文書は、(私の)存在それ自体が消えてなくなる前に公に発せられる最後の言葉となるだろう」「サパティスタ民族解放軍の同志たちよ、私のことは心配しないでほしい。これがここでのわれわれの流儀であり、なお歩み、戦い続けるのだ」「この集団的な決定を知らしめる」などの言葉が見られる。反グローバリズムの旗を高く掲げた1994年1月1日の武装蜂起の直後から、その運動に注目し、その理念と行動の在りようから、世界的にいっても死に瀕している社会変革運動再生のための深い示唆を受けてきた私は、自らその分析を行ない、5冊におよぶサパティスタ文書を企画・編集・紹介し、1996年にはサパティスタが全世界に呼び掛けて現地チアパスで開催した「人類のために、新自由主義に反対する宇宙間会議」に出席し、その報告も書いてきた。(末尾の註に列記してある)。

サパティスタ蜂起から20年目の年の5月に発表された今回の文書は、どんな意味をもつのか。私なりの分析を、簡潔にだが、試みてみたい。

(二) 5月24日文書の概要

2014年5月24日文書は、何を語っているのか。それを順次、見ていこう。以下は、全訳ではない。原意から離れぬことを心がけての抄訳である。今後全訳する時間に恵まれるかどうかはわからない。大急ぎでの翻訳なので含意が取りにくいままに残した箇所もあり、試訳の段階とご理解いただきたい。

1、困難な決定――死と破壊を伴う、上からの戦争なら、それは敗者に押しつけられるものとして、われわれは幾世紀にもわたって耐え忍んできた。1994年に始まったのは、下の者が上の者に対して、その世界に対して挑んだ戦争のひとつであった。それは5大陸のどこにあっても、農村でも山岳部でも日々戦われている抵抗の戦争である。われわれは、たたかい始めることによって、近くからも遠方からも、われわれの声に耳を傾け、心を寄せてくれるという特権を授かった。問題は、次は何か、ということである。試行錯誤の果てにわれわれが選んだ道は、ゲリラ戦士、兵士、部隊を形成するのではなく、教育と医療の従事者を育てることであって、こうして、いま世界を驚嘆させている自治の基盤が形成されたのである。兵営を建設したり、武器を改良したり、防壁や塹壕を築いたりするのではなく、学校、病院、医療センターを建設し、われわれの生活条件の改善に取り組んだのだ。そして20年が経った。この間に、EZLN(サパティスタ民族解放軍)の内部で、共同体の内部で、何かが変わった。2012年12月21日、破局が予言されていたその日(註:マヤ暦に基づけば、世界が終末を迎える日かもしれないと騒ぐ「先進国」の人間たちが、メキシコはユカタン半島のマヤ遺跡に群がっていた)に、われわれは銃を一発も発することなく、武器を持たず、ただ沈黙によって、人種差別主義と侮蔑を育む揺り篭であり巣窟である都会の傲慢不遜さに挑んだのである。(註:この日、万余のサパティスタがチアパス州のサンクリストバル・デ・ラスカサス市などに登場して、沈黙の行進を行なった。その模様は、以下を参照→http://www.youtube.com/watch?v=qH8nxafgKdM)

軍隊は平和を担保できないという道を選んだわれわれは間違っている、と考えるひとは少なからずいるかもしれない。選択の理由はいくつかあるが、もっとも重要なことは、このままではわれわれは消え去ってしまうということである。死を崇めることなく、生を育む道を選んだわれわれは間違っているか? だが、われわれは外部の声に耳を傾けることなく、この道を決めた。死にゆく者が他者である限りは、死を賭して戦え、と要求したり主張したりする者たちの声は聴かずに。

われわれは反抗を選んだ、すなわち、生を、だ。

2、失敗?――サパティスタが得たものは何もない、と言う人びとがいる。確かに、司令官の子弟が外国へ旅行に行ったり私立学校に入学したりといった特権を享受してはいない。

副司令官が、どこの政治家たちもやっているような、血縁に基づいて子どもに仕事を継がせるといったこともない。外部からの援助資金の過半を指導部が占有し、基盤を形成している人びとには雀の涙ほどのものしか分け与えない、といったこともない。

そうなのだ、「われわれには何も要らない」というのは、スローガンや歌やポスターにこそふさわしい、格好の言葉に終わったのではなく、現実そのものなのだ。その意味でなら、われわれは勝利するより失敗することを選ぶのだ。

3、変化――20年間の間にはEZLNにあっても変化が起こった。ひとがよく言うのは、世代の交代だ。1994年の蜂起が始まったときには幼かったり、生まれてさえいなかった若者が、いま、たたかいのさなかにいたり、抵抗運動を指導したりしている。だが、それだけではない。

階級の変化――開明的な中産階級から、先住民の農民へ

人種の変化――メスティーソ(混血層)の指導部から、純粋に先住民の指導へ

いっそう重要なことは、思想の変化である。すなわち、革命的な前衛主義から「従いつつ統治する」へ、上からの権力の獲得から下からの権力の創造へ、職業としての政治から日常の政治へ、指導部から民衆へ、性的排除から女性の直接的な参加へ、他者への嘲笑から異なることへの賛美へ、といったように。歴史は民衆によってこそつくられると確信している思慮深い人が、どこにも「専門家」なる存在が見かけられない、民衆による統治が存在していることに直面するとひどく驚くのはなぜか、私には理解できない。統治するのは民衆であり、己の道を定めるのは民衆自身に他ならないという事実に怖れをもつのは、なぜなのか。「従いつつ統治する」と聞いて、あからさまに同意できないと首を横に振るのは、なぜか。個人崇拝は、そのもっとも狂信的な形として、前衛主義の崇拝となって現われる。まさにそれゆえにこそ、先住民が統治し、スポークスパースンかつ首長として先住民が存在しているという事実に、或る者は怖じ気づき、反発し、前衛を、ボスを、指導者を探し求めるのである。左翼の世界にも人種差別は根を下ろしているのだ、とりわけ、革命的であると自称する者の中にこそ。

EZLNはそうではない。誰もがサパティスタになれるものではないのだ。

4、変わりゆく、流行のホログラム

1994年の夜明け前までに、私は10年間を山で過ごした。

叛乱副司令官、同志モイセスの許可の下に、以下のことを言っておこう。良きにせよ悪しきにせよ、武装した軍事力、サパティスタ民族解放軍なくしては、われわれは何事もなし得なかった。それなくしては、悪しき政府に対して正当な暴力を行使して蜂起することもできなかった。上からの暴力に直面した時に、下からの暴力をもって。われわれは戦士であり、その役割を心得ていた。

1994年が明けた最初の月の最初の日、巨大な軍隊、すなわち先住民の叛乱軍が都会へと下りて、世界を揺るがせた。それから数日して、街頭に流されたわれわれの死者の血がまだ乾きもしないうちに、われわれは悟った――外部の人たちはわれわれを見ていないことを。先住民を上から眺めることに慣れきっていて、われわれを見つめてはいないことを。われわれを虐げられた者としてのみ見做して、尊厳ある叛乱の意味を理解できない心の持ち主であることを。その視線は、目出し帽を被ったたったひとりのメスティーソの上に注がれていたのだ。

わが指導者たちは言った。「彼らには、自分の器量に見合った小さなものしか見えない。その器量に合わせた小さな人物をつくりだし、それを通して彼らがわれわれを見つめることができるようにしよう」。そこで、気晴らしのような策を弄したのだ。現代というものの稜堡をなすメディアに挑戦するという先住民の智慧、そのいたずら心が生み出したもの、それが「マルコス」なる人物だったのだ。体制というものは、とりわけメディアは、有名人をつくり出すことが好きだが、それが自らの意図に添わなくなると放り出す。マルコスはスポークスパースンから、いつしか気晴らしの放蕩者に転じていった。

マルコスの目は青かったり、緑であったり、あるいは珈琲色、はちみつ色、黒のときもあった――すべては、インタビューを行ない、写真を撮るのが誰なのか次第だった。マルコスとは、躊躇うことなく言うが、いわば、道化師だったのだ。その間にもわれわれは、ここにいようといるまいと、われわれと共にあるあなたたちを探し続けていた。〈他者〉と出会うために、他の〈同志〉と出会うために、われわれが必要としている、同時にそれに値する〈見つめてくれる目〉と〈傾けてくれる耳〉と出会うために、われわれはさまざまな試みを行なった。それは失敗した。出会ったのは、われわれを指導しようとする人であり、われわれに指導されたいと願う人たちだった。利用主義的に近づいた人もいれば、人類学的な郷愁であれ戦闘的なノスタルジーであれ、過去を振り返るだけの人もいた。ひとによっては、われわれは共産主義者にされたり、トロツキストにされたり、アナキストにも毛沢東主義者にも千年王国主義者にもされたりした。自分の器量に合った「主義者」としてわれわれを名づけるとよい、と放っておいたが。「第6ラカンドン宣言」(註:2005年6月発表。メキシコ先住民運動連帯関西グループのHPで、その一部を読むことができる→

http://homepage2.nifty.com/Zapatista-Kansai/EZLN0506001.htm)まではそうだった。もっとも果敢で、サパティスモの真髄が詰まっているこの宣言によって、われわれは出会った。正面からわれわれを見て、挨拶を交わし、抱擁する人びとと。われわれが、導いてくれる牧者や約束の地に連れて行ってくれる存在を探し求めてなどいないこと、われわれは主人でもなければ奴隷でもないこと、地方ボスでもなければ頭(かしら)なき愚衆でもないこと――を理解するひとがついに現われたのだ。その間、内部にあって、民衆自身の前進には目を見張るものがあった。導きや指導を待望することなく、服従や付き従うなどといったふるまいとは無縁に、われわれと正面から向き合い、耳を傾け、話し合う世代が登場したのだ。

マルコスなる人物は、かくして、無用となった。サパティスタの闘争は、新たな段階を迎えたのだ。統治の変化は、病気や死によるものではない。内部抗争や粛清、追放によるものでもない。EZLNがこれまで蓄積し、同時に現在も経験しつつある内部での変化に応じた、論理に叶ったものなのだ。

私は病気でもなければ、死んでもいない。何度も殺されたり、亡き者にされたりしたが、私は、いまも、ここにいる。モイセス副司令官が「彼の健康状態が許せば」と言ったとしても、それは「人びとが望むなら」とか「アンケート調査の結果がよければ」とか「神のお赦しがあるならば」といった、昨今の政治世界ではよく使われる定番の文句に過ぎない。ひとつ、助言を差し上げよう。精神的な健康のためにも、身体的な健康のためにも、いくらかなりともユーモアのセンスを磨かれてはいかがか。ユーモアのセンスなくして、サパティスモを理解することなど到底できない。

以下のことは、われわれの確信であり、実践のあり方そのものである。叛乱したたかい続けるためには、指導者も地方ボスもメシアも救世主も要らない。たたかうために必要なものは、いささかの恥じらいと、多くの尊厳と組織である。上を見上げては誰かを待望し、指導者を探し求める者は、どうみても、観客に過ぎず、受動的な消費者であるしかないのだ。マルコス副司令官を愛した者も憎んだ者も、いまこそ知ろう、レーザーを使って記録された虚像としての立体画像を愛したり憎んだりしていただけだったことを。マルコスが生まれ育った場所を示す自宅博物館も金属プレートもあり得ない。誰がマルコスであったかを明かす者もいない。その名前と任務を継ぐ者もいない。旅費がすべて負担される講演旅行もあり得ない。豪華なクリニックに移送されることも、そこで治療を受けることもない。個人崇拝を促進し、集団的共有制を蔑ろにするために体制がでっちあげるもの、すなわち、葬儀も栄誉も銅像も博物館も授賞も、そんなものはあり得ないのだ。

この人物は確かにつくり出されたが、それをつくり出した者、すなわち、サパティスタ自身がこれを破壊するのだ。われらが同志たちが示したこの教訓を理解したひとがいるなら、そのひとはサパティスモの原則のひとつを理解したことになる。われわれは何度もこの機会をうかがってきた。ガレアノの死が、その時をもたらしたのだ。

5、痛みと苦しみ、つぶやきと叫び

(註:この章では、本文書が公表されるわずか3週間前の2014年5月2日、サパティスタ自治区ラ・レアリダーで、EZLNに敵対する者たちに殺された、サパティスタ学校の教師、ガレアノことホセ・ルイス・ソリス・ロペスに対する追悼の言葉にあふれている)。モイセス叛乱副司令官が言うには、「われわれはサパティスタ解放軍総司令部として、ガレアノを思い起こすために来たが」、ガレアノが生きるためには、われわれの誰かが死ななければならない。そこで、われわれは、今日を限りにマルコスが存在しなくなることを選んだのだ。彼は戦士の影を帯び、微かな光の中を行かねばならないが、道に迷わぬためには、カブトムシのドン・ドゥリートおよび老アントニオと手を携えていかなければならない。(註:ドン・ドゥリートと老アントニオが何者であるかは、末尾に記した参考文献を参照されたい)

サパティスタ民族解放軍が、私の声を通して語ることは、今後はないだろう。

これで十分だね。健康を、もはや二度と……否いつまでも。理解したひとには、わかるだろう、これは大して重要なことではないことを、いままでもそうだったことを。

サパティスタの「現実」から

叛乱副司令官マルコス

メヒコ、2014年5月24日

(陰の声で)

夜明けの挨拶です、同志たち。私の名はガレアノ、叛乱副司令官ガレアノです。

他にもガレアノはいるかい?(たくさんの声、叫びが上がる)

私が生まれ変わったら、集団的にやろうと言ったのは、そういうことかい。

そうだね。

よい前途を。気をつけて、気をつけよう。

メヒコ南東部の山岳部から

叛乱副司令官ガレアノ

メヒコ、2014年5月

(註:メキシコの「ウニベルサル」紙のサイトで、この時の動画を見ることができる→

http://www.eluniversal.com.mx/estados/2014/impreso/-8220muere-marcos-surge-galeano-8221-94879.html

(三) サパティスタ運動が問いかけるもの

私の記憶では、EZLNがマルコスの声を通じて、外部も含めた世界に語りかけるのは、5年ぶりのことと思われる。5・24文書を読むと、蜂起以後の20年間の経験に依拠して(蜂起以前の準備段階の期間を算入するとどれほどの年数になるのだろうか?)、自らが築き上げてきた自治的な統治のあり方に対する揺るぎない自信(確信)をうかがうことができると同時に、メキシコ政府および内外のマスメディアならびに一部社会運動体との関係が、もはや我慢ができないほどの段階に達していることも示しているようだ。政府やメディアとの関係がそのようなものになるのは、当然にも避けられないことと思われるが、内外の(と書かれてはいないが、サパティスタ運動が持ち得た世界的な影響力の大きさからすれば、明記されている反応は、メキシコ国内の運動体はもとより国外のそれからも寄せられていたと考えるのが妥当と思われる)一部の(であろうが)社会運動体がサパティスタ運動に要求してきたことがらが問わず語りに明らかにされていて、興味深い。その「要求」を要約的にまとめてみる。それは、サパティスタが

1) 軍事路線を放棄していることへの批判。

2) 指導部が持つべき指導性を放棄した「従いつつ統治する」路線への批判。

の2点に絞ることができよう。この種の批判が実際に行なわれてきたのだとすれば、私の観点からすれば、それは驚くべきことだと思える。1994年以降の20年間とは、各国で痩せても枯れても左翼の中軸に位置していた従来の正統派的な共産党が、1991年のソ連邦崩壊を前後に解党に追い込まれるか、大胆なモデル・チェインジを行なおうとしてもうまくいかずに立往生してしまった時期に重なっている。ヨリ左派の立場から既成の共産党やソ連体制を批判することで存在意義を保ってきた「新左翼」諸潮流も、ソ連崩壊のボディブロウが次第に効いてきた段階であって、従来なら何の躊躇いもなく主張してきたのかもしれない己の政治路線に関する見直しなり路線転換を否応なく迫られていた時期と言えるだろう。

1989年から91年にかけて起こった東欧・ソ連社会主義体制の連続的な崩壊現象の渦中にあって私が思ったのは、次のことだった――長きにわたって現実に存在してきた抑圧的な体制が無惨にも崩れ去っていくのは、資本主義を批判する理論的な武器としての、広い意味での社会主義の再生のためには決して悪いことではない。だが、人類社会の夢や理想が孕まれたこの思想の実践的な帰結が、粛清・収容所列島・言論の不自由・民主主義の欠如・経済的非効率性・党=政府=軍部が三位一体化した指導部の特権層としての形成などとなって現われたことで、人類社会にはしばらくの間、「高邁な」思想・哲学を弊履のごとく捨て去り、現行秩序を無限肯定する「現実主義」がはびこるだろう。この「現実主義」を批判しこれを克服するためには、今まで社会主義の理念に広い意味で荷担してきた者による過去の総括と、そのうえで新たな道を模索する態度が不可欠である。

そう心に決めての、私なりの模索を始めていた。実際に、社会主義の崩壊を前に、資本主義の擁護者たちは欣喜雀躍としていた。日本社会では、従来の歴史解釈の見直しや、歴史教科書から「自虐史観」を追放し「子どもたちが日本を誇らしく思えるような」教科書づくりを目指す動きが声高に始まった。極右雑誌『諸君!』(文藝春秋)や『正論』(サンケイ新聞社)の元気ぶりは、すでに1980年代から始まっていたが、それらがますます増長したのに加えて、豊富な資金源を持つらしい新興の右翼雑誌が次々と刊行され、書店の棚を占領するようになった。現在の書店の荒涼たる風景は、この時期に始まったというのが、私の実感である。それでも、たとえば、ソ連崩壊の翌年の1992年には、「1492→1992 コロンブス航海から500年」キャンペーンを行なって、ヨーロッパ植民地主義を登場させることに繋がった「コロンブス大航海」以降5世紀におよぶ世界近現代史が孕む諸問題を広く討議し、民族・植民地問題が人類史において決定的に重要な位置を占めることを明らかにするなど、新しい世界像と歴史像を生み出す作業に私たちは共同で取り組んだりしていた。

サパティスタ蜂起は、こんな雰囲気の中で起こった。上の問題意識に基づいて、私はこの運動に見られる注目すべき諸点を、当初から以下のようにまとめていた。

(1)先住民族が主体の社会変革運動であることから、メキシコのような人種差別が著しい社会にあって根本的な問題提起となり得るし、ひいては、すでに「1992年」以降世界的に開始されている、植民地問題を主軸に据えて近現代史の書き換えを推進する動きにもつなげていくことが必要だろう。

(2)蜂起が「ローカルな(地域的な)要求と「グローバルな(地球規模の)」要求を結びつけている点に注目しよう。仕事・住宅・医療・教育・水道・道路など日常生活に根差した要求を地方政府と中央政府に対して行なうとともに、蜂起の日=1994年1月1日に発効する北米自由貿易協定(スペイン語でTLC、英語でNAFTA)に抗議の意志を示していることで、世界を覆いつくしつつあるグローバリズムの推進者である「先進各国」・多国籍企業・国際金融機関などを厳しく批判している。とりわけ、この協定が「先住民族に対する死刑宣告にひとしい」と断言している部分に注目したい。

(3)止むに止まれず武装蜂起を行ないながら、1960年代までの左翼とは異なり、軍事至上主義路線ではないこと、したがって、蜂起後すぐにメキシコ政府を交渉の席に就かせた政治的な手腕に注目したい。「ほんとうは兵士であることを止めて」教師、農民、医師、看護婦などとして働きたいのだと語り、戦争亡き/軍隊なき未来を展望しているその姿勢を貴重なものとして捉えたい。その後、全国のもろもろの社会運動の団体に呼び掛けて「全国民衆会議」のようなものを開催するに当たっては、貧しい程度とはいえ武装しているサパティスタが、非武装の他の民衆に対して優越する位置に立つことを防ぐために、サパティスタの投票権をごく少数に限ったことも、彼らがいかにこの課題に自覚的であるかを明かしていると思う。

(4)前衛主義とはまったく無縁であることに注目したい。「我(党)こそは」という自党中心主義/自党絶対主義が、世界と日本の社会変革運動をいかに蝕んできたかということは、「運動圏」に身を置いたことのあるひとなら誰もが気づくことだろう。それこそが、すでに触れたように、党=政府=軍(よりによって、それは、革命軍とか、赤軍とか、人民解放軍と名づけられている!)の指導部が三位一体化して特権層を生み出し、官僚主義をはびこらせ、ひいては粛清の論理(日本的には、内ゲバの正当化)に繋がっていくのであるから、まこと、「党こそは諸悪の根源」(栗原幸夫)だと言える。

(5)前衛主義から解放されているということは、いわゆる「指導部」と、運動の基盤を形成している「大衆」の関係性のあり方に関しても、運動主体が深く考えていることに繋がる。「従いつつ統治する」という言葉自体が、上意下達的な組織運営を当然のことしてきた旧来的な左翼運動のあり方に対する批判となっている。

(6)健康で、頑強な、大人の「男」を軸に展開されてきた従来の社会運動のあり方に疑問をもち、これを改めようとする努力がなされている。そこでは、サパティスタ運動が、さまざまな人びとの日々の生活基盤をなしている村(共同体)に依拠した運動体であることのメリットが最大限まで生かされている。「革命国家」の樹立をめざす変革運動は、「若い」男の「職業的な」までの献身性に依拠して展開されることで、必然的に経験の度合や活動量のヒエラルキーを内面化してきた。サパティスタはこの「限界」を突破しようとしている。

(7)サパティスタが発表するコミュニケは、社会的・政治的なメッセージ性を帯びた文章にあり方に対する深い問題提起をなしている。硬直したイデオロギーに基づいて、無味乾燥な政治言語を駆使して書かれてきた、左翼の大論文に飽き飽きした経験をもつ人は多いだろう。それは、いまなお、守旧的な左翼によって書き続けられている。サパティスタ文書は、時に過剰な文学的な修辞にあふれている、と思われる場合もある。「お遊びか」と思われる表現も、ないではない。しかし、歴史と現状を的確に把握した上での表現であるという一貫性は貫かれている。広い意味での、マヤ先住民世界の民俗性(フォークロア)や神話的な世界の確固たる存在が背後にうかがわれることも、文書に深みと奥行きを与えている。

(8)マルコスが回想しているように、サパティスタ蜂起に先立つ10年ほど前、都市での革命運動に見切りをつけたマルコスら10人以下の都市インテリは、メキシコ最深部の貧しい先住民世界での「工作活動」をめざして、チアパスの山に入った。ヨーロッパ直輸入のマルクス主義で武装した彼らは「上からの」イデオロギー操作によって、貧しい農民を「覚醒させる」つもりだった。だが、チアパスの山の厳しい諸条件の下で生き抜くためには、そこで食することのできる動植物を含めて都会人こそが村人たちから学ぶべきことがらがたくさんあった。「学ぶ―教える」が一方通行的な形で完結することは、この段階でなくなった。そこで、都市のマルクス主義と、チアパス先住民の独自の哲学・歴史観が、相互主体的に出会う瞬間が生まれ、それが持続してきた。そのことが、上記(7)で触れたサパティスタ文書に見られる、独特の発想とことば遣いに表われている。

(四)おわりに

サパティスタの論理と実践から以上のような諸課題を受け取ってきた私からすれば、5・24文書で触れられている、サパティスタに対して外部からなされているという批判的な言辞には、あらためて書くが、驚く。20世紀型左翼運動の失敗は、仮にその時代の担い手から見ていかなる必然性に裏打ちされていたとしても、その組織論や軍事論に大きな誤謬が孕まれていたからこそ生まれたのだ、と私は思う。そのふたつの論点は、運動それ自体の性格を大きく規定する力をもつものであった。ソ連崩壊後の日々、そんなことをつらつら考えていた私は、それだけに、サパティスタが発することばのひとつひとつに、深い共感をおぼえていた。だから、私は、遠くメキシコ南東部の先住民村から発せられたメッセージに、同じ時代を生きていて、状況を近しい視点から捉えている人びとの存在を感じ取ったのである。

「左翼の世界にも人種差別は根を下ろしているのだ」というサパティスタの文言を読みながら、私は、いま私たちが各地で展開中の、ボリビア・ウカマウ集団/ホルヘ・サンヒネス監督全作品レトロスペクティブ【革命の映画/映画の革命の半世紀 1962~2014】のことを思い出してもいた。サンヒネスもまた、自らをも位置づけている左翼の中に、先住民に対する根深い差別のことばとふるまいを見出しており、この「劣性」の克服なくして左翼の再生はあり得ないと確信している映画人である。『地下の民』や『鳥の歌』に、そのような左翼的心情の持ち主をめぐるエピソードがさりげなく挿入されているのは、そのため、である。上に紹介したサパティスタのことばから、こうして、私たちはそれぞれの場所において、普遍性のある論点を取り出すことができる。

久しぶりに発せられたサパティスタのコミュニケを読みながら、変革のための社会運動再生に向けての試行錯誤=模索を始めていた20数年前の、原点の日々が蘇り、思いを新たにする。

(註)

私が企画・編集したサパティスタ文書には、以下のものがある。版元はすべて現代企画室。

太田昌国/小林致広=編訳『もう たくさんだ!――メキシコ・サパティスタ文書集1』

(1995年)

マルコス+イグナシオ・ラモネ『マルコス ここは世界の片隅なのか』(湯川順夫=訳、2002年)

マルコス『ラカンドン密林のドン・ドゥリート――カブト虫が語るサパティスタの寓話』

(小林致広=訳、2004年)

マルコス『老アントニオのお話――サパティスタと叛乱する先住民族の伝承』(小林致広=訳、2005年)

マルコス+イボン・ルボ『サパティスタの夢――たくさんの世界から成る世界を求めて』

(佐々木真一=訳、2005年)

私が書いたサパティスタ分析の文章は、時代順に、以下の書物に収録されている。

『〈異世界・同時代〉乱反射』(現代企画室、1996年)

『暴力批判論』(太田出版、2007年)

『【極私的】60年代追憶』(インパクト出版会、2014年)

(2014年6月3日記)