現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(10) 山口昌男氏の『第一の敵』評のこと


上映会を前にして、ぜひ観てほしい10数人の作家、詩人、研究者にチラシを送った。ほとんどは面識もない人たちだ。私のほうでは、顔を知っているからわかったが、けっこう多くの方が来てくれた。文化人類学者の、故・山口昌男氏もその一人だった。氏とは、見終わった後のロビーで言葉を交わした。読売新聞1980年7月16日付け夕刊文化欄に、氏は「中南米革命映画の広がりと厚み」と題して『第一の敵』評を書いてくれた。数年前ニューヨークの小劇場でも観た映画だが、東京の方は観客も多く、よかった、という言葉もあれば、アンデスの農民たちのコスモロジーの中軸である大地母神「パチャママ」に、ゲリラたちが酒を供えた時に、「彼らと農民たちが共有する世界は一挙に広がりと厚みを得た。この点を描くことによって作品は単線的な物語の水平性から派生する垂直構造を獲得する。知識人が製作する民衆映画で、このような類型的ではない出遭いが描かれたのは稀ではなかろうか」という評言もあった。総じて、好意的な評だった。ところが、末尾に次のような文章があった。「しかしながら、ゲリラが農民達に、世界帝国主義の重圧がアンデスの小さな村にまで直接及ぶような時代であると説明するときに使われる言葉に日本帝国主義というのがあったように記憶しているが、日本語字幕には現われなかったのはどういうわけだったのか。当否は別としてこの一語は作品の中におけるアンデスの農民と日本の観客の唯一のきずなであったはずなのに」。

山口氏がどのシーンのことを言っているかは、すぐに分かった。ゲリラと先住民農民が討論するシーンだ。ゲリラが、imperialismo hatun (強大な帝国主義/第一の帝国主義)という言葉を使って、説明する個所がある。ケチュア語に「帝国主義」という用語はないからスペイン語から借用し、それにhatun (強大な/第一の)というケチュア語をつけている。このhatun (ハトゥン)を山口氏は スペイン語のJapón(日本、発音はハポン)と聞き違えて、「日本帝国主義」という語が字幕に出なかった、と書いたのだ。ロビーで言葉も交わしているのだし、氏は私たちに電話の一本でもくれれば、こんな間違いを犯さずに済んだはずなのに。

当時は、私も若かった。山口氏の仕事を敬愛しているからこそ、上映会の案内も送ったのだが、こともあろうに「語られたはずの日本帝国主義という語が字幕に出なかった」と書かれては、黙ってはいられない。読売新聞は反論の掲載を認めず、小さな訂正記事だけを出した。そこで、日本読書新聞という書評紙に山口氏への公開質問状を書いた(1980年8月4日付け)。多言語使用者がその才に溺れると、どんな結果が生じるか――とまでは書かなかったが、「才気あふれる軽率さ」は指摘した。「保守的な」読売新聞に、『第一の敵』などという「政治的に」強烈な映画をめぐって基本的には好意あふれる評論を書いたのに、たったひとつの事実誤認を針小棒大に言挙げするとは――と、山口氏は思ったかもしれぬ。だが、「日本帝国主義の語が字幕になかった」とは、私たちにとって、小さな針ではなかった。すでに触れたように、ホルヘ・サンヒネスの「映像による帝国主義論」の試みへの共感から私たちは出発しているのだから、それは心外で、あまりに重大な、誤った指摘だった。2000人の観客に対する説明責任もある。その誤解は解かなければならなかった。批判の文章は、勢い、厳しい調子を帯びた。山口氏は翌週の同紙に弁明文を書いた。私の中で、一件は落着した。その後も、山口氏の著作は大事に読み続けて、すでに氏が亡くなった現在にまで至る。

したがって、山口氏の言辞をこれ以上云々することはないのだが、『第一の敵』製作時点での日本帝国主義の〈存在感〉については、もう少しふり返っておきたい。アジアでのそれは、すでに大きい時代であった。その経済的な進出の規模は拡大の一途をたどり、資源の収奪や労働条件の問題、水俣病などが大きな社会問題となり公害規制が厳しくなった日本を逃れて東南アジア諸国に向けて行なわれるようになった「公害輸出」などをめぐって反対運動が起こり、それは時に「反日暴動」の形を取る事態さえ起こっていた。だが、ラテンアメリカにおけるそれは、まだまだ影が薄い段階だった。アンデスの先住民村で、反体制ゲリラが政治・経済状況を説明する際に、日本帝国主義の浸透に触れなければならない状況ではなかった。一方、北アメリカ帝国主義の、経済的・軍事的・政治的・文化影響力的な〈存在感〉は圧倒的だ。まさに〈第一の敵〉なのだ。そこに映画『第一の敵』が、すでに説明したような内容をもって登場する必然性が生まれていたのだ。

他方で、次のことにも触れておかなければならない。『第一の敵』製作時の74年から数えてわずか4年後の1978年、中米エルサルバドルの反体制ゲリラ「民族抵抗軍」(Fuerzas Armadas de Resistencia Nacional)は、東レ、三井銀行、蝶理、岐染などが出資して同国で企業活動を行なっている日系繊維企業インシンカ社の社長を誘拐し、日本帝国主義が現地の独裁政権と癒着しこれを支援している現実を告発する声明文を公表した。このコミュニケは、当時、日本経済新聞の紙面2頁全部を埋めて掲載された。ゲリラが取引の条件として、それを求めたのだ。だから私はそれを熟読し翻訳もしたが、きわめて透徹した論理で、現地政権と帝国主義の相互癒着関係を分析していたことが印象に残っている。インシンカ社は、上記の日本企業4社が1967年に50・1%の出資比率をもって(残りの49・9%は現地の公営産業開発公社)設立した繊維織物の合弁会社であった。合繊の紡績、綿布、染色を行ない、中米各国に製品を輸出する同社は、首都郊外の工場に1200人前後の労働者を擁し、同国でも最大規模の企業であった。日本経済に占める対エルサルバドル貿易の比率は小さいが、後者のような経済規模の国にとっては、同国最大の2工場が日系であり、主要輸出品である綿花のほとんどを日本が買い付けているという関係は重大である。これに注目したゲリラは、それが日本に対する過度の経済的従属化を招いている、と分析したのであろう。ここからは、すでに進出している日本企業が、相手国の経済規模の中で占める比率の多寡によっては、現地の人びとが日本帝国主義の〈存在感〉を感じとる時代状況へと入りつつあったと言えるのだろう。

さらに付け加えるなら、私は当時、ニカラグアとエルサルバドルで高揚する中米解放闘争の行方に大いなる関心を抱いていた。ニカラグアには闘争に関わっている友人も多く、1979年に同地の解放勢力=サンディニスタ民族解放線戦線は勝利していた。それに勢いを得て、隣国エルサルバドルにおける解放闘争の高揚が見られた。『第一の敵』上映開始後2年目の1982年、私はメキシコへ行く機会に恵まれたが、そのとき Zero a la Izquierda (不要の人間集団)を名乗るエルサルバドルの映画グループのGuillermo Escalón (ギレェルモ・エスカロン)と知り合いになった。解放勢力は当時モラサン州を解放区として維持していたが、そこでの住民の日常生活を描いた『モラサン』(80年)と『勝利への決意』(81年)は、よい出来だった。ウカマウと同じく「連帯方式」での日本上映を取り決めた。これらふたつの作品は、ウカマウの『人民の勇気』を初上映した1983年夏に、同時に公開することになる。

エルサルバドルの2本の16ミリ・フィルムもまた、ウカマウのそれと同じように、前の上映場所から戻るとすぐに次の会場に送るという日々が続いた。未知の土地から届けられた映像作品が持つ力を、私たちはますます実感しつつあった。(4月30日記)

ウカマウ集団の長征(9) 『第一の敵』への反響


『第一の敵』を上映した全電通ホールのキャパは490人くらいだったと記憶する。そこで、全6回の上映を行ない、入場者は2000人に上った。68%の稼働率だから、以て瞑すべし、というべきだったろう。私の勝手な思い込みでは、もっと入るものかな、と思っていた。その道の人が言うには、自主上映でこんなに入るのは「奇跡」に近いことのようだった。私もその後経験を重ねることで、初回上映時の観客数のすごさを思うようになった。

当時わたしは30歳代後半だったが、来場者の過半は私と同じ世代か、もう少し上の世代の人びとだったと記憶している。何度も書くように「ボリビアにおけるゲバラの死」の記憶がはっきりと残っている世代である。アンデスの民俗音楽「フォルクローレ」の愛好者が多かったことも印象的だった。映画を公開するときには、スタッフとキャストをチラシに明記するのが当たり前のことだが、当時のウカマウはその種のデータにあまり頓着せず、私たちもそれを追求しなかった。だから、最初のチラシには「製作=ウカマウ集団、監督=ホルヘ・サンヒネス」と記してあるだけだ。だが、フォルクローレの愛好者は、映画で使われている曲がどの楽団の演奏なのか、すぐに理解できたようだった。中学生か高校生の制服姿も、ちらほら目についた。そのうちのひとりは、のちにわかったことからすれば、兒島峰さんだった。アンデス音楽に関心のあった彼女は当時中学生だったが、『第一の敵』上映の報がうまくアンテナに引っかかったようだ。その後も上映のたびにウカマウ作品を見続けたという。34年後のいまは、アンデス文化の研究者になっている【→『アンデスの都市祭礼――口承・無形文化財「オルロのカーニバル」の学際的研究』(明石書店、2014年)】。

東京上映が終わって、いくつかの問題が残った。まずは、ウカマウとの連絡である。上映報告を行なうべき80年7月、ボリビアでは凶暴なファシスト体制によるクーデタの時期と重なった。ウカマウとの連絡は途絶えた。死者1000人、逮捕者2000人……との報道が続いた。彼らからの返事がないまま、焦慮の時が半年に及んだ。私は、メキシコの出版社シグロ・ベインティウノ(21世紀出版社)を主宰するアルナルド・オルフィーラ・レイナルとホルヘが親密な友人であることを思い出し、前者にホルヘたちの安否を尋ねる手紙を送った【横道に逸れるが、チェ・ゲバラは1955年にメキシコで、亡命アルゼンチン人であったオルフィーラに出会っている。当時はフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカという出版社を主宰していたが、彼はその後前記の新しい出版社を興した。ラテンアメリカ全体を見渡して見ても、彼の出版事業が果たし得た役割は大きい。私たちが現地で買い求めた書物には、オルフィーラが時代を違えて関わったこの二つの出版社のものが多い。この点に関しては、チェ・ゲバラ=著『チェ・ゲバラ第2回AMERICA 放浪日記――ふたたび旅へ』(現代企画室、2004年)の「日本語版解題」に詳しく書いた。翌年の81年、私たちは、ホルヘがオルフィーラの出版社から刊行した本 ”Teoría y práctica de un cine junto al pueblo” の日本語版を出版することにもなる】。

オルフィーラが媒介してくれて、ホルヘから手紙が届いたのは80年12月も末日近くだった。クーデタ後の半年間、彼らは。逮捕・射殺命令・家宅捜査・検閲の重包囲下で潜行を余儀なくされていたのであった。彼らが再び国外へ場を移したことで、私たちは連絡網を回復できた。半年間にわたって蓄積されていた、日本における上映運動の精神的・物質的支援は直ちに彼らに送り届けられた。日本地図を描き、いつ、どこで上映会が開かれたか、その土地はどんな特徴をもつ町か、来場者数、上映収入などを記した。「日本の同志たちにこれほど熱心に観てもらって、われわれは、自らの映画をもって、民衆の解放にささやかなりとも寄与する決意を新たにしている」と、彼らは書き送ってきた。

「東京上映以降の半年間」と、ホルヘたちが潜行していたために連絡が取れなかった時期は重なっていた。その半年間は、私たちにとっても、めまぐるしいほどに忙しかった。東京上映の「評判」は全国各地に急速に広がった。名古屋、仙台、札幌、京都、大阪、広島、福岡などの自主上映団体から、上映したいとの申し出があった。9月、名古屋シネアスト主催の名古屋上映を終えた後の80年秋、私は『第一の敵』のフィルムを背に、1ヵ月間の行脚の旅に出た。京都と大阪で試写会を行ない、秋以降の本上映の可能性を探った。

アカデミーにラテンアメリカ専門の研究者が多い京都では、試写会でのいくつかの反応が、奇妙なものとして記憶に残っている。「われわれ専門的な研究者が怠っているから、素人が(と、言いたげだった)こんな動きをしている」という某氏の言葉は、自らの「怠惰」を鞭打つものであったのかもしれないが、「専門家」の防衛意識が感じられた。その「専門家意識」を打倒するためにこそ1960年代後半のたたかいはあったのだと確信している私には、異様なものに響いた。あの時代の闘争からまだ10年程度しか経っていないのに、同世代の、しかも自己認識としてはおそらく「左翼」を自認しているであろう人の口から、こんな言葉が出てきたことに私は驚いた。

「僕が知っているアンデスのインディオはこんなおしゃべりじゃないな。連中は黙りこくっていて、何も喋らんよ。この映画は作りものだね」と言い放った専門家もいた。アンデスの先住民の村で、フィールドワークを積み重ねている人のようだった。「専門知」に安住する人びとが陥りやすいこの陥穽について、私は1989年に「支配しない〈知〉のほうへ――ウカマウ映画論」を書いた(太田=編『アンデスで先住民の映画を撮る』、現代企画室、2000年に所収)。しかし、その後の34年間、こうした「専門知」の側からの「排他的な」言葉を聞くことは、幸いにしてきわめて少なかったことには触れておきたい。上映運動初期における、ごく稀な反応だったのだろう。

大阪試写会を終えて、沖縄へ飛んだ。那覇市はもちろん、金武湾、沖縄市など各地で上映会を開いた。その後も長く続くことになる、人との得難い出会いがいくつもあった。現地の上映スタッフのひとりの娘さんは、当時は5歳と幼かったが、その後彫刻と版画を専攻しスペインで学んでいた。彼女は2008年、彼の地でやまいを得て急逝した。32歳だった。遺作は、彼女の才能が並々ならぬものであることを示していた。作品集『すべてのもののつながり――下地秋緒作品集』(現代企画室、2011年)を刊行し、東京でも遺作展を開いた。こうして、ウカマウ集団を媒介にして、さまざまな方向へ「補助線」が伸びていくというのが、私たちの実感である。

沖縄から長崎へ飛び、その後、長崎、佐世保、水俣、福岡、小郡などで上映会を開いている。それは、資料として残っているチラシ類から確認できるのだが、短期日でのスケジュール調整をどうやって、こうもうまく出来たのか――は、今となっては、まったく思い出すことができない。いずれにせよ、各地の人びとの働きと協力で、『第一の敵』自主上映運動が、半年間で急速に広がりと厚みを獲得し始めていた時に、ウカマウ集団との連絡を再開できたのだった。

(4月29日記)