太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[43]韓国における、日本企業への個人請求権認定の背景
『反天皇制運動カーニバル』第8号(通巻351号、2013年11月12日発行)掲載
第二次大戦中に日本企業に徴用された韓国の人びとが、その企業を相手に行なう損害請求訴訟において、請求権を認定する韓国司法のあり方が定着し始めた。この問題をめぐっては、日本のメディアには「国家間の合意に反する」とする意見が溢れている。1965年の日韓請求権協定に基づくなら、請求権問題は解決済みだとするのである。自民党総務政務官・片山さつきは「国家間の条約や協定を無視した判決を出す国が、まともな法治国家と言えるのか。経済パートナーとしても信頼できない。敗訴した日本企業は絶対に賠償金を支払ってはいけない」と語っている(8月21日付「夕刊フジ」)。これは俗耳に入りやすい論理だけに、検証が必要だ。私たちは、複雑に絡み合った歴史を解きほぐす労を惜しむわけにはいかない。いささか長くなるが、この問題を考える前提として、日本の敗戦以降の歴史過程を胸に留め置くべきだろう。事態は、植民地支配に関わる自覚、反省、謝罪、補償を実現できないまま現在に至った、私たちの戦後史に深く繋がるものだからである。
1945年8月、日本は遅すぎた敗戦を迎えた。アジア太平洋の諸地域に全面的に展開した軍隊が「敗退」を始めた後でも、それは「転戦」だと言い繕う者たちが、政治・軍事権力の座にあった。東京をはじめとする諸都市への大空襲と沖縄地上戦を経てもなお「敗戦」を認めようとしなかった支配層は、広島・長崎の悲劇を味わって後にようやく、それまでの「敵」=連合国側が提示したポツダム宣言を受け入れた。しかもそれは、天皇の「聖断」によるものである、とされた。本土決戦は回避された。空襲で焼け野原になっていた東京にあっても、皇居と国会は炎上することはなかった。ヒトラーと同じ運命を天皇裕仁がたどることは避けられた。
天皇は「現人神」から「象徴」に変身して、生き延びた。戦争を推進した多くの官僚も、戦争を熱狂的に支持した一般の国民も、戦争責任を問われることなく、延命できた。「無責任」なあり方が社会に浸透した。植民地は「自動的に」独立した。1953年のディエンビエンフーのように、1962年のアルジェのように、1975年のサイゴンのように、被植民地民衆の抵抗闘争によって日本の植民地主義が敗北した、という実感を社会総体がもつことはなかった。こうして、戦前と断絶することのない、日本の戦後が始まった。
戦後の出発点に孕まれていた「虚偽」は、戦後も継続した。いったんは武装解除され、やがて米国のアジア戦略の変更によって再武装が認められた日本は、基本的には自ら戦火に巻き込まれることなく「平和」の裡に戦後復興に邁進することができた。翻って、近代日本の植民地支配と侵略戦争および軍政支配から解放されたアジア諸地域では、内戦あるいは大国の介入による戦火が長いあいだ途絶えることはなかった。アジア民衆は、日本が戦後復興を経て高度産業社会へと変貌する過程を目撃していながら、日本の植民地支配や侵略戦争に関わる補償を要求する「余裕」などは持たなかった。
1975年、米国が敗退してベトナム戦争は終わった。アジアにおける大きな戦火が、ようやく消えた。加えて、日本の敗戦から45年を経た1990年前後から、右に概観した世界秩序に変化が現われ始めた。他の矛盾をすべて覆い隠していた東西冷戦構造が、ソ連体制の崩壊によって消滅した。韓国では軍事独裁体制が倒れた。アジアの人びとは、ようやく、自らの口を開き、過去に遡って日本との関係を問い直す条件を得た。
旧日本軍の「慰安婦」や元「徴用」工、元「女子勤労挺身隊」の人びとが、日本国家と雇用主であった日本企業に個人として賠償請求訴訟を始めたのは、この段階において、である。サンフランシスコ講和条約や日韓条約は、そもそも、植民地支配の責任を問うこともなく締結された。過去に締結された条約や協定に基づいて自己の権限を主張するのは、どの時代・どの地域を見ても、常に強者の側である。弱者であった側は、別な原理・原則に基づいて自己主張を始めざるを得ない。奴隷制、植民地支配、侵略戦争の責任の所在を問う現代の声には、そのような世界的普遍性が貫いていると捉えるべきだろう。
(11月9日記)