「日本一行詩大賞」授賞式での代理挨拶
2013年9月17日 アルカディア市ヶ谷
受賞者・大道寺将司君の「受賞の言葉」を、まず、ご紹介いたします。
このたびはありがとうございました。拙句に「悪名を生きゐて久し竹の秋」がありますが、私は、俳人諸氏や俳句メディアにとってのみならず忌むべき存在です。其れ故、いかなる賞とも無縁だと弁えてきましたし、望んだこともありませんでした。
そのような私の句を作品本位に評価して下さいました選考委員の皆様には 深い敬意を表し、感謝申し上げます。
また、拙句集『棺一基』の上梓に御尽力して下さいました辺見庸さん、太田出版はじめ関係者の皆様にも感謝を申し上げます。
私は病牀六尺の正岡子規に魅かれ、独学で自己流のまま独房から俳句を発出してきました。俳句は小さな詩型ですが詠むことのできる世界は広く、豊かな叙情性を表現することもできるものです。私の句はいまだ狭小な世界のとばぐちに立つばかりですが、時間の許す限り、今後も句作を続けてまいります。
2013年8月11日 大道寺将司
この受賞の言葉は、文通や面会という交通権を持つ私宛てに送ろうとしたものです。ところが、本人が拘置所側に発信を依頼してから一週間以上も経ってから、これは交通権を持たない第三者、つまり一行詩大賞の事務局を担う俳句誌「河」に宛てた文面だから、発信を不許可とするとの告知を受けました。これ以前に、一行詩大賞主催者から本人宛に「受賞の言葉」と自薦20句の原稿を8月20日までに送るようにとの依頼状があったのですが、私が媒介者となって差し入れたこの文書も、同じ理由で交付されませんでした。私が主催者からの申し出を手紙で書き送り、面会時にも口頭で伝えたので、本人はようやく事の次第を理解しました。結局、この原稿は、弁護人経由で私に送られ、延期していただいた〆切日に辛うじて間に合ったのです。
彼がいるのは、ここからわずか1時間もあれば行き着くことのできる、小菅駅や綾瀬駅に近い東京拘置所です。逮捕されてから38年、死刑が確定してから26年になります。刑が確定するまでは、文通も面会も、回数制限はあっても自由にできます。死刑が確定すると、処遇はがらりと変わります。彼の場合、交通権は、当初、弁護人と母親一人に限定されました。手紙は、書く内容を事前に当局に提出し、弁護人には裁判以外のこと、母親には安否を尋ねる以外の文言を書くことは許されませんでした。母親ひとりでは、差し入れられる本の冊数も極端に限られ、拘置所備え付けの本もあらかた読み終えてしまいました。そこで、或る文庫に収録されている日本文学の古典を自分で購入するようになり、そこで、子規の『病牀六尺』や『仰臥漫録』などに出会ったのです。それらを読み進めるうちに、検閲によって頭脳の中まで覗かれているような獄中の日常にあって、それを免れる、あるいは突き破る精神の突破口を、彼は俳句に求めたのでした。
以来22年、そして公表したものとしては母親宛ての手紙の末尾に最初の一句を添えてから17年、彼は俳句を詠み続けてきました。最初の5~6年は、箸にも棒にもかからぬ作品しかできず、一万数千の句を捨てた、と本人は語っています。
彼の句集をお読みの方はお分かりのように、そこにはまず何よりも、自らの行為によって意図せずして殺傷してしまった方々に対する、深い悔いと償いの気持ちがあります。同じ境遇にある死刑囚や獄中の仲間のことを想う句があります。自然に触れることを許されていない環境の中にあって、26年間を生きた外界での記憶と想像力に基づいて、自然のさまざまな姿を詠んだ句があります。日々読む新聞から得た情報に基づいて、同時代の社会や政治のあり方を冷徹に詠む句もあります。彼は病を得てここ数半来は病舎におりますから、そこからしか見えない世界を詠むこともあります。
いま、面会・文通の権利を有する人間は7人まで増えました。明日以降、私たちは面会を行ない手紙を書き、今夜みなさんから寄せられた言葉をできるだけ正確に彼に伝えます。外部の人間にできることは少ないが、彼が句作を続け、また何よりも生き抜くために、外部からできるだけのことはいたします。大道寺君の作品から、何らかの思いを受け止められたみなさんが、今後とも、共感をもってか批判的な視点をもってかのいずれにせよ、彼の俳句と生き方に関心をお寄せくださるよう、お願いいたします。
ありがとうございました。