太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[38]歴史を「最低の鞍部で越えよう」とする論議に抗して
『反天皇制運動カーニバル』第3号=通巻346号(2013年6月11日発行)掲載
学生時代に愛読した文学者、本多秋五の『物語戦後文学史』(1958年から『週刊読書人』に連載。単行本は新潮社、1966年。現在は岩波現代文庫、全3巻)の末尾に、忘れがたい言葉があった。「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」というものである。ことは、戦後文学にのみ関わることではない。いかなる対象物であろうとも、論争の相手であろうとも、そのもっとも低い峰においてではなく、最高の(最良の)地点で越えることを呼びかける声として、私は聞き取った。理想主義にもっともよく憧れる若い時代のことだから、自分はこれを原則としたいものだ、と強く思った。その後、私と同世代の人の文章を読んでいて、本多秋五のこの表現に触れた件を何度か見かけた記憶がある。ひとつの時代を画するほどの、深いメッセージ性を帯びた言葉としてはたらいたのだろう。
従軍「慰安婦」問題をめぐって吐かれ続ける有象無象の政治家や評論家たちの言葉を見聞きしながら、不似合にも、本多のこの言葉をいく度も思い出していた。精神の、倫理的かつ論理的な高みを目指すことのない、「下品な」言葉にそれらは溢れていて、本多が呼びかけた志とは対極にあるものとして、印象が深かったからである。ここでは、それらの耐え難い言葉を再現するのは最小限に留めたいが、この現象には「時代の記憶」として再度触れないわけにはいかない。
大阪市長・橋下徹が十年前に出版した本には、次のような件があるという(5月26日付け東京新聞コラム「筆洗」から重引する)――自分の発言のおかしさや矛盾に気づいたときは「無益で感情的な論争」をわざと吹っかける。その場を荒らして決めぜりふ。「こんな無益な議論はもうやめましょうよ。こんなことやってても先に進みませんから」。
橋下は、まさしく一貫して、この「論法」に拠って生きていることがわかる。詭弁やすり替えを批判して、もしかして有効になるのは、相手がそれを恥じて改める精神を持つ場合だけである。橋下のように、それを自分の特技として誇示するような人間に対しては、有効ではない(橋下ほどのあけすけな語り口は持たないが、元首相K・Jや現首相A・Sも思想的に同根であることは、その発言歴を辿ればわかる)。問題は、今回の問題についての橋下の弁明に納得するという人びとが41%も占めるという「世論」のあり方にある(共同通信6月1~2日調査)。関西のテレビ局がわざわざ「大阪のおばちゃん」を登場させて「あの人、正しいこと言うたはんのに、周りが騒ぎ過ぎちがう?」と言わせるところにある。前号で述べたように、「外圧」に「抗する」快感を生きる「国民」が確実に増えているのである。皮相きわまりない歴史観を披歴し、同時に恐るべき排外主義的な言辞をふりまく橋下などの一握りの政治家が、決して「孤立」しているわけではないという点に、現状の深刻さが現われている。
「最低の鞍部を越える」議論の典型は、「戦場の性の問題として女性を利用していたのは日本軍だけではない」という物言いにある。アメリカ軍も韓国軍も同じではないか、といって「おあいこ」にしてしまいたい心根が透けて見える。これは、第二次大戦において国軍が組織的にこの制度(=性奴隷制)をもったのは、日本とナチス・ドイツだけであったという歴史的事実を捻じ曲げる、根拠なき言い草である。「軍に売春はつきもの」という石原発言はいかにも俗情に阿る物言いだが、「慰安婦は売春婦と同じだ」という水準に問題の本質をすり替えて「性奴隷制」の免罪を意図している。他方、石原たちには「売買春は必要だ」という男社会の「常識」が張り付いている。彼らはこの「常識」を「平時」にも「戦時」にも適用する。後者の時代であれば、食糧や物資が集中する軍隊の周辺に群がって生きるしかない一定の女性たちの「強制された生」には、思いのかけらも及ばない地点で、彼らは発言している。
半世紀前の本多秋五の言葉が持った意味をあらためて捉え返し、議論をまっとうな水準に据えなおして、私たちの歴史観・世界観を鍛えたいと思う6月である。(6月8日記)