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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

他者不在の、内向きの「日本論」の行方


『季刊ピープルズプラン』61号(2013年5月30日発行)掲載

安倍晋三という政治家は、首相として初登場したときは「美しい国へ」という言葉で、挫折から5年半後に再登場したときには「新しい国へ」いう言葉で、日本の現状と行く先を語った。そこでイメージされている「日本」とはどういうものかを検討することが、ここで私に課されている問題である。この書のレベルを思って、そんな意味があるのか、とは問うまい。安部の登場と再登場の意味を考えるということは、ここ数十年における保守思想の流れのなかに、なぜ極右派が台頭したのかを考えることである。そのために、時代を少し遡った時点から始めたいと思う。(『美しい国へ』は2006年7月、文春新書。『新しい国へ:美しい国へ 完全版』は2013年1月、文春新書)。

(1)

一時期、私は「右派言論を読む」という作業を続けていた。集中した時期を大まかにいえば、1990年代初頭から21世紀にかけてであったと思う。自分なりに切迫した問題意識に駆り立てられていた。時代背景には、ソ連・東欧社会主義圏の無惨きわまりない体制崩壊があった。それと同時期に起こった東西冷戦構造の崩壊、イラクのクェート侵攻を契機にしたペルシャ湾岸戦争もあった。社会主義の実質的な敗北状況を見て、左派言論はみるみるうちに活力を失った。ソ連型社会主義を、「真の社会主義」の立場から夙に批判してきた者にも、ソ連崩壊はボディブローとして効いてきた。対照的に右派言論は沸き立った。「戦後の論壇は、長いこと、左翼に乗っ取られていた」と、なぜか、誤解している彼らは、ついに「われらの時代」がきたと思っているようだった。以前から、産経新聞社刊の『正論』や文藝春秋刊の(いまはなき)『諸君!』などの月刊誌は、右派言論の場として刊行されていたが、その誌面が格段に活気づいた。だが、傾聴に値する、落ち着いた論調の文章は次第に消え、ともかく進歩派と左翼に悪罵を投げつけて溜飲を下げるといった調子の、極右派の文章が増えた。その意味で、右派言論の質の低下は、隠しようもなく顕わになっていた。

それでも、その種の言論が従来とは比べものにならないほどに社会的な基盤を持ち始めている、という判断を私はもった。とりわけ、漫画家・小林よしのりによる近現代史をテーマにした一連の漫画作品が若者の心を熱狂的に捉えていることを知って、小林が描く世界に関心をもった。そして、いかなる暴論でも、それを受容する社会的な雰囲気があるときはそれを無視して済ませるわけにはいかないという考えを日ごろからもつ私は、「右派言論を批判的に読む」という課題を自分に課したのだった。

切実な課題は、逆の方向からもやってきた。良質な右派言論には、また左翼を罵倒するだけの下品きわまりない文章であっても、進歩派や左翼が持つ論理や歴史観の「弱点」を射抜く論点が、ときに見られた。それはとりわけ、ナショナリズムを問題とするときに否応なく立ち現われた。「左翼ナショナリズム」は、体制側のナショナリズムや、私が批判の対象としていた司馬遼太郎の近代日本の捉え方とも重なり合う貌をもってしまうからである。自分の外部にいる「敵」は撃ちやすい。だが、それが自分の内部にも巣食っているのかもしれないと自覚するとき――そのような「敵」に対しては、避け得ぬ課題として向き合わざるを得ないのである。

このような動機から、前世紀末のほぼ10年間、私はひたすら右派言論を読み、それを批判する作業を行なった。質が著しく低下した文章が載った単行本や雑誌を購入するために身銭を切るという意味では悔しく、それをたくさん読まなければならないという意味では虚しく、だがそれは同時に自分(たち)をもふりかえる作業であるという意味では貴重な試みではあった――と、(個人的にではあるが)今にしてふり返ることができる。

やがて21世紀が明けた。自民党内では傍流であった小泉純一郎という政治家が前面に登場したことによって、「政治」を語る言語状況が大きく変化した。論理も倫理も政治哲学も徹底して欠く小泉用語が、大衆的な支持を獲得するという時代が到来した。非論理的な言葉による「煽動政治」である。それは、前世紀末にメディア上に台頭した右派言論に向き合うこととは別な意味で、虚しさが募る時代であった。言論は劣化し、政治も劣化度を増すばかりであった。野党勢力も、政府に政策論争を挑むよりは、閣僚のスキャンダル探しに明け暮れるようになった。「政治の話題」は、その意味ではテレビといわゆるお茶の間を賑わせたが、それが「政治」の本質とは無関係であることは自明だった。

5年間に及んだ小泉時代が終わって後継者に指名されたのは、これまた時代が時代であれば保守本流にはなり得ないはずの、安倍晋三という極右政治家だった。「美しい国へ」というのが、この男が持ち出した〈政治的〉メッセージであった。その後首相となる麻生太郎も「とてつもない日本」という惹句をもって登場した。いずれも、歴史と現実に向き合う姿勢を放棄したまま、夜郎自大的に「日本」を誇示するという、成熟した大人なら口にするのも気恥ずかしさを伴うような類の表現であった。それを臆面もなく言い立てるところに、この時代の極右保守政治家の幼児性が現われていた。冒頭で触れた右派思想の劣化は、ここまできたのか、と嘆息するほかはない状況ではあった。

だが、改憲の意図を明確にもち、近代日本が歩んだ歴史過程(それを象徴するのは、他国の植民地化と侵略戦争である)を肯定的に解釈しようとする安倍が前面に登場したからには、しかもそれが一定の支持率を獲得しているからには、私は仲間と共にその政治観の空しさに堪えながら、彼の言動への注目を怠ることはできなかった。ところが、安部は病気を理由に1年後には政権を放り出した。多くの予想に反して、短命に終わったのだ。私は、それから数年後の2009年、事後的に安倍政権の性格についてあらためて分析する機会をもった。拉致被害者家族会の元事務局長・蓮池透との間で「拉致問題」をめぐって対話を行なったときのことである。その結果は、『拉致対論』と題して出版されている(太田出版、2009年)。

そのころ、蓮池はすでに初期の立場を離れて、北朝鮮の政府に対して「拉致問題の優先的解決」を譲らない、強硬一本槍の政策を主張する家族会とそれに追従するばかりの政府の路線に対する深い違和感を表明していた。異論を持つ者同士の間にも対話の時期がきたと考えて、私は蓮池に対談を申し入れた。4回に及ぶ非公開の対談においては、「拉致問題の解決のために最も熱心に努力してきた政治家である」との自負をもつ安倍について、語るべき多くのことがあった。蓮池は、安倍に対して「一定の世話にはなった」との思いがあるであろうと考えて、その批判的な分析は私が引き受けた。

安倍は、「政界」の内情を詳しく追跡している上杉隆によれば、内輪の集まりの場では「北朝鮮なんて、ぺんぺん草一本生えないようにしてやるぜえ」とか「北なんてどうってことねぇよ。日本の力を見せつけてやるぜ」といった言葉で強がりをいう人間であった(上杉隆『官邸崩壊』、新潮社、2007年)。首相になってからは、いつでもどこでも本音を口にするという態度を戦術的に止めてはいたようだが、周知のように、1年間の首相在任中に、拉致問題は解決に向けて一歩たりとも進展しなかった。逆に安部にしてみれば、「拉致問題への熱心な取り組み」は、意外な地点で裏目に出た。「拉致には熱心な安倍は、旧日本軍の性奴隷、従軍慰安婦問題の誠意ある解決には、なぜ、熱心でないのか。ひとしく人権侵害問題であるのに」という批判が、米国政府高官や主要メディアから沸き起こったのだ。そのころ、安部の表情は憔悴をきわめているように見えた。前任者が、いつも颯爽たる振る舞いの小泉であったから、それは見事なまでに対照的だった。案の定、数日して安倍は記者会見を開き、病気のため辞任すると語った。

(2)

「美しい国」日本などという、およそ政治とも思想とも無縁なイメージを掲げて登場した安倍は、実際のところ、何に躓いて挫折したのだろうか? 他者不在の、自己中心性がゆえに、である。

短く、安倍の経歴をたどってみる。安倍の述懐によれば、ある家族から、イギリスに留学していた娘が北朝鮮にいるらしいから助け出してほしいとの要請があったのは、彼が自民党所属の国会議員であった父親の秘書をしていた1988年のことである。それ以降、死んだ父親の後を継いで1993年に衆議院議員に初当選する転機の時期を挟んで、拉致被害者家族会と拉致議連が結成される1997年までのおよそ10年間、安倍は確かに、自らが属する自民党の中にあっても「奇異」に見られるほど拉致問題の解明に取り組んでいたようだ。「孤立無援に耐えながら自分だけはいち早く拉致問題に取り組んだ」という自負も顕わな安倍自身の著書を離れて、客観視するために他人の書物も参照してみよう。元共同通信記者で、安倍の父親が現役であった時代から自民党を担当していた野上忠興の著書『ドキュメント安倍晋三――隠れた素顔を追う』(講談社、2006年)を読むと、秘書時代の1988年に拉致事件のことを初めて耳にした安倍が、2002年の日朝首脳会談に至るまでの10数年間に、ただひとつ、この拉致問題を通して、自民党およびその主導下にある政府の中枢に上り詰めていった過程が、よく理解できる。当時としてはめずらしく、自民党の党内秩序である年功序列を壊して、相対的には若かった安倍が森政権(2000年7月)と小泉政権(2001年4月)の二期連続で官房副長官に任命された。それには「運」にも恵まれたと野上は書いているが、この地位に就いていたことが、2002年9月の小泉訪朝の際に、安倍が随行する機会に繋がるのである。

安倍の観点からすれば、小泉訪朝計画は、当時の官房長官・福田康夫と、外務省アジア・大洋州局長・田中均という、いうところの「対北朝鮮融和派」によって推進されていた。拉致問題については何かと口出しする「うるさい」安倍は、徹底して蚊帳の外におかれていた。それは、首脳会談から1ヵ月後に実現した拉致被害者5人の「帰国」後の処遇をめぐる論議の時点まで続いている。今後の交渉を進展させるためには「10日間程度の一時帰国だとする北朝鮮との約束を守る」べきだとする田中=福田ラインに抵抗して、安倍は田中に「あんたは北朝鮮外務省の人間か!」とまでなじって、5人の残留を主張した。安部の主張は、北朝鮮に残る子どもたちを思う苦悩の果てに残留を決意した蓮池薫ら被害者自身の選択と、結果的に合致した。この時点で、安倍は、拉致問題での政策路線をめぐる政府内および党内の闘争に勝利したのだと言える。その背景には、北朝鮮との実効性のある交渉よりも強硬な態度を優先的に求める、戦後最大の圧力団体=拉致被害者家族会の存在がある。その意向を慮って、疑問も批判もいっさい封じ込めて、家族会の考え方に追随するばかりのマスメディアと世論の動向もある。安部がこの時期について、直接的に言及している言葉は少ないが、周辺の関係者は当時の安倍の「余裕ある」態度を語り伝えている。「世論」を味方にしていると確信した安倍が、この上ない自信をもってふるまっていることがわかる。

深刻な問題は、これ以降に起こる。2002年9月の日朝首脳会談以降現在までの11年もの間、対北朝鮮政策は、その時点で融和派に「勝利」した安倍らが敷いた路線上で展開されてきた。民主党政権の時代とて、それに変化があったわけではない。その間に何が起こったのか、と問うことも虚しいほどに事態は何ら動いていない。むしろ、両国間関係は悪化している。自らが政府に強要した路線の必然的な結果とはいえ、拉致被害者の年老いてゆく家族の焦燥はつのるばかりである。

理由は明白だ。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」という、安倍らが主張する牢固たる態度が、問題を解決するためのすべての出口を塞いでいるからだ。安倍は、先述の著書のなかで、「ほんらい別個に考えるべき、かつての日本の朝鮮半島支配の歴史をもちだして、[北朝鮮に対する]正面からの批判を避けようとする」勢力がいることを批判している。安倍は、ついうっかりと、この箇所を書いてしまったようだ。北朝鮮側は、ほんらい別個に考える「べき」植民地支配の清算問題を、当然にも持ち出す。為政者としての安倍は、ほんらい別個に考える「べき」問題については、いっさい言葉を発せず、方針も示さないままでいる。安倍はこの問題を「別個に」考えたことが一度でもあったのだろうか? 拉致と植民地支配という2つの問題は、「別個に」ではあっても「同時に」考える「べき」問題だということは、外交関係の相互性からいって、当然のことである。安倍は、「美しい国」の抽象的なイメージを守るために、歴史に直面することをあくまでも避け続けるのである。

安倍の流儀で「歴史」を語るとすれば、次のようになる。「拉致問題は現在進行中の人権問題であるが、植民地問題や従軍慰安婦問題はそれが今も続いているわけではないでしょう」。「別個に考える」という発言の本音は、ここにある。「現在」と「過去」の間に高い壁を設けて、後者は「考えない」ことにするのである。しかし、歴史に関わる問題は、安倍の皮相な思いを超えて展開する。清算されていない「過去」は「現在」の問題として、人びとの意識と現実の中に存在し続けるのだ。ましてや、安倍は、「清算されるべき過去」を、実は、歴史修正主義の立場から「認めたくない」、できれば「肯定的に捉えたい」「美化したい」という本音に基づいて、非歴史的な思考回路をもつ「美しい国」論者である。そうである限り、「過去」を記憶する者は、「忘却したい」者の追跡を止めることはない。

そのような安倍を待ち構えていたのが、次の矛盾である。2000年に「女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、「慰安婦問題」と「昭和天皇の戦争責任問題」が真正面から審理された。この法廷についてNHKが制作した番組内容に、安倍ら「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が政治圧力をかけて、当初企画されていた番組内容が改竄された。このように、安倍にとっては、慰安婦制度は「美しい国」神話を守るために国家責任から解除し、あくまでも民間業者や「慰安婦」自身の「商行為」であるという範囲に押し止めなければならない問題であった。マスメディアが総体として、真実・事実を追及する姿勢をとみに失っていく状況の下で、日本国内では、安倍のこの詐術は一定の効果を上げていたのかもしれない。反撃は、思わぬところから跳んできた。米国から、である。『ワシントン・ポスト』などの主要メディア、議会、米国政府内「知日派」からすら、「拉致問題」と「慰安婦問題」(米国では、「性奴隷問題」と呼ぶほうが一般化している)という人権問題をめぐる「安倍晋三のダブル・トーク(ごまかし、二枚舌)」が公然たる批判にさらされたのである。彼は支柱と仰ぐ米国首脳部からの批判に精神的に堪えかねて、そこへ身体的不調も加わって、2007年9月の辞任に繋がった。当時の報道を見聞しながら、私はそう捉えていた。

すなわち、安倍がいう「美しい国」日本は、他者との関係で物事を考えなければならなくなるときに、即座に崩れるしかない程度の、脆弱なものであることを自己暴露したのである。

(3)

作家の辺見庸は、2007年秋、自分が入院している病院の廊下で、みな無言で浮かない顔をした背広の一団に出会った情景を描いている。

「男たちの群れの中心に、糸の切れたマリオネットのように肩をおとし、やつれはてて、生気をうしなった人間の横顔があった。いっしゅんだけ、そのひとと視線が交叉した。と、彼はすぐによどんだ目を伏せた。たじろいだのは、そのひとが体調不良を理由に辞意を表明して間もない首相だったからではない。そのとき、かれがふだんの「凶相」をしてはいなかったことと、すっかりしおたれた男の暗愁に、なんだかこころやすさをかんじてしまって、われながらとまどったのだった」(『水の透視画法』あとがき、集英社文庫、2013年)。

だが、それから5年後の思いを、辺見は続けてこう書いている。「最近、首相にかえり咲いた男をテレビで見たら、以前よりももっとこわい凶相をしていたのでぎょっとした。(中略)この世は、予感のとおり、まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」。

その昔、『政治家の文章』という好著を書いたのは作家の武田泰淳だった。それを読んで以来、私は、政治家の「文章」と、ついでに「面相」も、その人物の真贋のほどを見極める一助として観察するに値すると思うようになった。いまテレビを点け、新聞を開けば、政治指導部には辺見がいう「凶相」が勢ぞろいしている。それらの者たちはこぞって、敵対諸国を前に世界に稀な国として「日本」を誇る言動を繰り返し、閉鎖的な国家意識の中に人びと(国民、と彼らはいう)を閉じこめようとしている。彼らが、ひとり孤立している存在ならばたいしたことではない。辺見がいうように、この世が「まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」のは、この政治勢力が、民衆の無視できない規模の支持を得ているとしか思えないからである。

安倍を含めて卑小な国家指導者は、18世紀末以降ヨーロッパに構成され始めた近代的国民国家の枠組が永続的に続くものであるかのように、ふるまう。だが、1991年12月のソ連邦の崩壊は、現状では多くの人びとがこれなくしては生きてはいけないと考えているのかもしれない「国家」というものが、いかに脆く、儚いものであるかを証明した。「9・11」以後や「3・11」以後の国家社会のあり方をふりかえるとき、とりわけ論理も倫理も欠いた国家指導部を見ていると、これほどまでに理念的に貧しい連中に牛耳られている「国家」など、早晩崩れ去るほかないのではないか、人類は「国家」とは別な社会組織をつくらなければならないのではないか、という思いがこみあげてくる。

もちろん、国家を即時廃止することはできない。だから、「国家」の枠組みを尊重しながらも、各国の社会的在り方に規制を掛ける国際条約の試みが1960年代から着実に続けられてきた。私の関心の範囲で、ごくかいつまんでいくつかを挙げると、以下のようなものがある。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」と「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966)、「死刑廃止国際条約」(1989)、「組織的強姦、性奴隷、奴隷用慣行に関して被害者個人及び国家の権利及び義務を平和条約、協定などの手段によって国際法上消滅させることはできないことに留意する決議」(1999)、「先住民族権利宣言」(2007)などである。このリストは、長く続く。そして、これらの国際規約の精神をそれぞれの国で実効あるものにするためには、まだ長く歩まなければならない道程もある。だが、これは、国民国家の内向きの強制力が弱まってきたことを背景にもつ、主要には「人権」をキーワードに、国家を超えた共通の価値観をつくり出そうとする努力の表われである。

世界の、この大きな流れを見るとき、特定の「国家」の歴史、伝統、文化などに意味なく拘泥し、他者との関わり/関係性のなかで己を見つめる契機をもたない世界観を待ち受ける運命は明らかだろう。安部晋三の「日本論」を、そんな時代の仇花として、支配層ではなく民衆レベルの「国際化」の流れの中で、泡と消し去ること――それが、東アジアと世界に安定的な平和をもたらすために、私たちが担うべき「国際連帯」の課題である。

【付記】この文章の一部に、最初の安倍政権が成立した直後に書いた、私の以下の文章から流用した部分があることをお断りします。『「拉致問題」専売政権の弱み』(派兵チェック編集委員会編『安倍政権の「戦う国づくり」を問う』、2007年4月)

(4月17日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[37]「外圧」に「抗する」ことの快感を生き始めている社会


『反天皇制運動カーニバル』第2号(通巻345号)(2013年5月14日発行)掲載

5月4日付けの北海道新聞は、「3日に政府関係者が明らかにした」というニュース源で、以下の記事を一面トップに掲げた。現首相は2015年に「戦後70年」の新談話を発表することを目指している。その際、「戦後50年」を迎えて1995年に発表された「村山談話」に盛り込まれた「植民地支配と侵略」を認める文言を使わない意向である。アジア諸国に「損害と苦痛を与えた」「反省とお詫びを表明する」という意味では、村山談話と2005年小泉談話の精神は基本的に引き継ぐものの、「植民地支配と侵略」の言葉は避けて、今後のアジア諸国との友好関係を主眼とする「未来志向」の内容に書き換えたいと考えているというのが、この記事が伝えたことである。

伏線はあった。4月22日の参院予算委での質疑である。首相は、民主党の白真勲議員への答弁で「安倍内閣として、(村山談話を)そのまま継承しているわけではない」「戦後70年を迎えた段階で、安倍政権として未来志向のアジアに向けた談話を出したいと考えている」と語っている。この答弁の裏に隠された真意を探っていたジャーナリストの、いわゆるスクープが、冒頭で触れた道新の記事だったのだろう。

あの男は2年後も政権の座に就いているつもりなのか!――私たちにとっては、悪い冗談としか思えないことも、メディアが行なう世論調査なるものによって高い支持率を得ているからには長期政権が可能だと確信しているらしい本人とその取り巻きには、内心ほんとうに期するものがあるのだろう。前例はある。2001年から06年まで首相であったK・Jも、その新自由主義政策の無責任さにもかかわらず、高い支持率を誇っていた。国会で野党議員が同首相の政策を厳しい言葉で追及すると、当該議員の部屋には「いじめるな」という電話やファクスが、文字通り殺到したと言われた。新聞・テレビも同様であり、それらは、首相に批判的な発言を行なうと抗議の電話とファクスが来るだけならまだしも、購読者数や視聴率の急低下となって如実に反映すると言われたものだった。メディアが権力に対する批判精神を、今までとは格段の差で、急速に失い始めたのは、この時を境にしてであった。

当該の政治家は、もちろん、その言動のすべてにおいて、愚かにも程があるというべき人物だった。メディアの竦み方・怯み方もひどすぎた。だが、なんのことはない、「民意」なるもの、「世論」なるものが、そんな水準で表現される時代が来たのである。そんな時代を作り出してしまったのである。私たちの社会は、派手な言動をする笛吹き童子が現われると、その笛につられて(それが、集団自殺への道だとも知らぬ気に)奈落の底へでも、海の中へでも、喜んでついてゆくようになった。現首相をめぐって立ち現れている昨今の政治的・社会的風景に既視感をおぼえるのは、これが、K・J時代の再現に他ならない一側面をもつからである。

現首相A・Sは、前回首相であったときには、拉致問題と「慰安婦」=性奴隷問題に二重基準を設け、前者の追及には熱心だが後者の国家責任はできる限り低く見せようと腐心することの矛盾を米国政府首脳や同メディアに突かれ、自滅した。日米安保体制に絶対的な信頼感をもち対米追随政策を展開しながら、歴史的には、米国との全面戦争にまで至った戦時過程や他ならぬ米国の主導性にも与かって形成された「戦後レジーム」に関しては米国指導部の意にも反する再解釈を行なおうとすることの、絶対的な矛盾に自縄自縛されたからである。再登場して以降は、当初こそ、官房長官を盾にしたりしながら、本音を公言することはなかった。だが、地金は隠しようもなく、出てきた。「侵略の定義は、学会的にも国際的にも定まっていない。国と国のどちら側から見るかで違う」(4月23日)とまで、A・S自身が語り始めた。これに対して、近隣アジア諸国からはもちろん、欧州メディアや米国議会・政府の元高官・メディアなどからも「懸念」の声が上がり始めている。

問題は、ナショナリズムに席捲されているこの社会は、いま、自浄能力を欠いた状況にあるということである。「外圧」があればあるほど、これに「抗する」ことへの快感を生きるという一定の雰囲気が醸成されており、それがA・Sを支える社会的基盤である。自らの非力を託つようだが、私たちが抱える問題はそこへ立ち戻ると思う。

(5月10日記)

短期間に終わった出会いの記憶に――片島紀男氏に


文化冊子『草茫々通信』6号「特集 片島紀男の仕事」

(2013年4月25日発行、書肆草茫々、佐賀市)掲載

片島紀男氏の存在を知ったのは、いつだったのか、覚束ない。著作も多いが、氏の主たる仕事が映像ディレクターであったことから、いま、氏が制作したテレビ作品一覧を眺めてみると、私が観たのはわずか2作品でしかない。1995年『埴谷雄高「死霊」の世界』と2001年『吉本隆明がいま語る 炎の人 三好十郎』である。自宅にテレビをおかない時期も長かったし、テレビを入れてからも帰宅が遅いこともあって、今なら見逃すはずのない戦争期に関わる記録番組も、井上光晴の番組も、トロツキー紀行もまったく知らずに生きてきた。埴谷・吉本のご両人は、テレビに出演すること自体が珍しい文学者なので、おそらく事前広報が行き届いたのだろう、私も放映以前に察知できた。加えて私が深い関心を持ち続けてきた二人の思想家なので、これを見逃すはずはない。観て、かつ(今は行方不明だが)珍しくも録画までしている。

二人の文学者が語りつくした内容も、もちろん、さることながら、こんな番組を制作するテレビのディレクターが存在することに驚きをおぼえた。『死霊』は、1960年代半ば私が学生であった頃は、冒頭の部分を収めただけの真善美社版が、わずかな古書店で入手できただけであったが、私は当時の生活感覚からすれば高価なそれを買い求めては読み耽り、手元不如意になると同じ書店に売り飛ばすという、わけのわからぬ行為を何度も繰り返していた。それほどまでして手元において、事あるごとに目を通したい書物の筆頭に『死霊』は位置していた。そしてその後長い時間をかけて書き進められていく経緯を同時代史として現認していたわけである。

『死霊』だけではない。埴谷が書く政治論も文学論も映画論も、さらにあらゆるジャンルの断簡零墨のすべてを収録した評論集の一冊一冊が、私の心を捉えた。若いころ愛読している作家や思想家が現存している場合、距離のとり方が難しい。会って一言でも話したいという願望と、読者としてはあくまでも文章を通してのみの、一方的なつき合いに留めておく方が賢明だという冷静な判断の間で揺れ動く。埴谷の場合、私は後者を選んだ。ある会合で近くに見かけたこともある。訪ねようと思えば、伝手はあった。それでも、敬して遠ざけた存在で、埴谷の場合は、あったほうがよい。それが私の選択だった。

敗戦50年後を迎えた1995年正月、実際の声は聴くまいと思い定めていたその人が、あろうことか、テレビに出演して喋りだした。『死霊』の世界を自ら語り出して留まるところを知らない風だ。構成、作品からの引用、ナレーション、質問の仕方――そのすべてに私は圧倒された。しかも、それは五夜にわたって続けられた。埴谷が拘泥した「存在の革命」の内実が解き明かされてゆくこんな番組を実現させたディレクターの手腕に、私は真底驚いた。それが、テレビ番組を通しての片島氏との最初の出会いだった。

番組の内容は、2年後の1997年には『埴谷雄高独白「死霊」の世界』(NHK出版)と題して書物にまとめられた。埴谷の死後5ヵ月目だった。その手際のよさにも感心したが、この本に添えられた第三者の文章を読むと、やはり埴谷にとってテレビに出演するなどとは、死後の放映でない限りあり得ないことだったようだ。その条件を呑むかのようにして、ともかく本人の口を開かせカメラを回してしまったディレクターの「迫力」を感じて、あらためて唸った。

こうした片島氏の存在を意識しながら、その後も毎年のように制作された氏のテレビ番組を観る機会が、なぜか私にはなかった。6年後に観たのが『吉本隆明がいま語る 炎の人 三好十郎』である。語る人も、語られる人も、私には魅力的だった。吉本の著作は埴谷のそれと同じような重量をもって、私の中に位置を占めていた。そして、学生時代にうまくは出会うことができなかった三好とは、20世紀末以降の政治・社会の激変のさなかで、私は必然的に再会していた。左翼思想と運動への加担、転向、戦時体制への翼賛、戦争責任論、戦後進歩派への懐疑――三好がその後半生を費やして拘った諸問題が、そのころ、新たな意味合いを帯びて私に迫ってきていた。三好の著作を読み、その戯曲の演劇公演があればできる限り観る日々を私が送っていたころに、時期的に重なり合って、前述の作品は放映された。

この番組もまた、その完成度において、深い印象を私に残した。番組には三好の伝記的な事実が巧みに織り込まれていた(それには、片島氏のNHK勤務の初任地が、三好の出身地の佐賀であったことにも与かっていたようだが、片島氏の初任地=佐賀勤務が14年間も続いた経緯などは後日になってから知った)。三好の人生の軌跡と作品の誕生およびその変貌の経緯が、京都・三月書房の宍戸恭一と吉本の的確な批評によって辿られていた。宍戸は、先駆的な三好論『現代史の視点』(深夜叢書社、1964年)と『三好十郎との対話』(同、1983年)の著者である。三好の生涯と作品を「悲しい火だるま」と呼んだという吉本が、テレビ・カメラを前に話す様子も初めて観た。講演は若いころから何度か聴いているが、変わることなく言い換えと繰り返しが多く、耳に入る言い回しは決して明快とは言えない。だが、吉本の発想と論理の骨格を知っていると、彼が言おうとしたこと自体は、私の中に明快な像を描いて、残った。それは、おそらく、番組の「構成」がすぐれていたことにも由来するものだろう。

こうして、私が接することができた片島氏の数少ない映像作品からは、作家の世界に深く分け入る独特の方法に学ぶところが多かった。「映像ディレクター=片島紀男」の名は、くっきりと私の中に刻み込まれた。放映から二年後、氏は『悲しい火だるま―評伝三好十郎』(NHK出版、2003年)を出版した。これは著作権抵触問題のために絶版回収されたが、氏は挫けることなく、改訂版『三好十郎傳―悲しい火だるま』(五月書房、2004年)を出版した。600頁近い大著だった。仕事ぶりはエネルギッシュで、徹底したものだった。いつか出会う機会があれば、と望まないではなかった。

意想外な理由から、その出会いは実現した。最初の出会いが、いつ、どこであったかの記憶はない。日記は、その年が終わると処分してしまう習慣を持つ私には、復元する術がない。片島氏が亡くなった年である2008年から逆算すると、2005年あたりの出会いであったろう。三鷹事件・帝銀事件など戦後史に関わる映像作品を制作し、著書も持つ氏は、やがて帝銀事件の死刑囚、故平沢貞通の無実を確信し、再審請求の活動に携わるようになった。私は私で死刑制度廃止運動に以前から関わっており、その場の共通性から、出会う機会に恵まれたのだった。初めて会ったときに交わした言葉も、埴谷と三好の映像作品に関する印象を私がそのとき伝えたか否かも、情けなく、そして無念だと思うが、覚えていない。二度目の出会いは、私の事務所がある渋谷で開かれた平沢貞通の個展会場においてであった。逮捕・幽閉される以前の平沢の作品の「発見」はなお続いている時期で、そこで初めて観る作品がいくつか、あった。作品をめぐってはもちろん、死刑廃止の実現のために今後も連絡を取り合って、いろいろな手を尽くそう、などという話を交わした。それから間もなく、片島氏は、私の渋谷の事務所へ訪ねて来られた。帝銀事件再審請求運動への協力を私にも要請し、その訴えをしかるべき人びとにも広めてほしいということだった。できる限りのことはします、と約束した。

その時だったか、それとも別な機会だったか、氏は私にもう一つの協力を乞うた。レオン・トロツキーを暗殺したラモン・メルカデルの弟が残している回想記を翻訳してもらえないか、という要請だった。1994年に『世界わが心の旅 メキシコ・トロツキー 夢の大地』という映像作品(未見のため、旅人は誰だったのかも、私は知らない)を持つ氏は晩年のトロツキーに関する書物を準備中で、暗殺者の近親者がスペイン語で書いたその回想記の重要性を感づかれたらしかった。私がスペイン語を解することも含めて、ある程度は私のことも理解されたうえでの申し出だったのだろう。

関心は大いにあるが翻訳するまでの時間はない私は、別な適任者に翻訳してもらい、半年後くらいだったか、できあがった訳稿に目を通したうえで片島氏に送った。それは『トロツキーの挽歌』(同時代社、2007年)に生かされた。読みながら、私は、60年安保闘争を軸とする学生運動へ関わって以降の課題のひとつに、片島氏はこれで「ケリ」をつけたかったのだろうと思った。

日常的に常に連絡を取り合っているという関係ではなかった。「死刑制度廃止」という課題の共通性はあり、そして何よりも、埴谷雄高や三好十郎、吉本隆明、ゾレゲ、トロツキーなど、共通の関心事項はあるのだから、いつかじっくりと語り合う機会はあるだろうと確信していた。その日は、放っておいても、いつか来る――いま思えば、何の根拠もなく、そう思い込んでいた。

だから、氏の逝去を報じる2008年12月24日の報道は衝撃だった。いまでも、悔しさはつのるばかりだ。私にとっての埴谷雄高がそうであったように、著作を通して知っていれば十分、という関係性は、もちろん、あり得る。そのひとと実際に知り合う機会を得ながら、それが不十分なままに突然断ち切られると、悔いと無念さが、いつまでも消えない。人間とは厄介な存在だ、とつくづく思う。

片島さん! 失礼ながら少しいかついが、人懐こいあなたの笑顔を思い浮かべならが、人間の「存在の革命」と、人間がその中で生きる「社会の革命」をめぐっての、あなたとの想像上の対話を続けたい。応えてください、私の問いかけに。(3月16日記)