太田昌国の夢は夜ひらく[30]九月の出来事に、何を思うか
反天皇制運動『モンスター』第32号(2012年9月11日発行)掲載
生きてきた時代の中で、忘れられぬ出来事が詰まった月がある。個人的なことで言えば誰にせよあれこれあるだろうが、現代史の中で起きた社会性を帯びた出来事という観点から言えば、私の場合は、9月が随一だろうか。
まずは、40年近く遡る。1973年9月11日、南米チリで、社会主義政権を打倒した軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、チリの一般選挙で、社会主義者サルバドル・アジェンデが当選した。武力によってではなく、選挙を通じて成立した、世界史上初の社会主義政権であった。その3年前、隣国=ボリビアではチェ・ゲバラが殺されたが、その前後には、1959年以降「キューバに続け」とばかりにラテンアメリカ全土で闘われていた反政府武装ゲリラ闘争が相次いで敗北していた状況に照らすなら、それは、社会変革を実現するうえで新しい道を切り拓く経験であった。ひとによっては、それを「銃なき革命=チリの道」と呼んだ。
チリ革命は、政治・経済過程の変革はもとより、帝国主義文化の浸透に関わる批判的な分析で見るべき成果を挙げたが、それが3年間の試行錯誤の果てに軍事クーデタによって挫折したのだった。鉱山企業や通信事業の国有化によって、従来享受してきた特権的な利益を剥奪された米国の画策がこのクーデタの背後にあったことは、言うまでもない。平和革命の道が、相も変わらぬ、超大国が画策した軍事力によって潰えていくこと――その際立った対照性を、胸に深く刻み込んだ多くの人びとがいた。
それから28年を経た2001年9月11日、私たちの記憶になお生々しい事件がニューヨークとワシントン郊外などで起こった。高層の世界貿易センタービルや、五大陸の軍事的制覇の野望を表現しているのではないかと私が疑っている、五角形の奇怪な形をしたペンタゴン・ビルに、ハイジャック機が激突したのである。「9・11(September Eleventh)」の略称によって、世界中に知れ渡っている出来事である。私は、事件の死者たちを悼みつつも、同じ日付を持つチリ・クーデタの記憶が消えていない者の立場から、この「悲劇」を米国が独り占めすることなく、自らが世界各地で軍事力の行使によってつくり出してきた「数多くの9・11」を思い起こし、世界近現代史上におけるそのふるまいを内省する方向へ向かうこと――そのことをこそ望んだ。
その後の事実が明かしているように、実際には、そうはならなかった。むしろ、逆であった。米国の為政者は、世界史上かつってなかったような悲劇の主人公として自らを演じた。犠牲にさらされた者は、どんなことをしても許される――端的に言って、こんなことをしか語っていない大統領が行なった「報復戦争」の呼号が、米国社会を丸ごと捉えた。悲劇を口実に、新しい戦争が始められた。まずはアフガニスタンで、次いでイラクで。それからの11年間に、どれほどの悲劇が積み重ねられてきているのか。世界はまだ、正確な形では、そのことを知らない。
その翌年の9月の出来事は、東アジアの規模で起こった。2002年9月17日、日朝首脳会談がピョンヤンで行なわれた。戦後57年を経ていながら、いまだに国交回復すらできていない、したがって、植民地支配の清算もついていない朝鮮と日本、二国間の関係を正常化することが最大の眼目であった。その席上、朝鮮側首脳は、推測されてきた「朝鮮特務機関による日本人拉致」が事実であったと認めて謝罪した。植民地支配や侵略戦争を行なった過去を指して、その「加害者性」を指弾されてきた日本社会は、或る拉致被害者の家族が語ったように、「これでようやく被害者になれた」と誤解して、「負い目」を払拭した。政府も、メディアも、社会も、丸ごとそのような感情に支配されて10年――したがって、事態は膠着し、二国間の関係の正常化どころか、拉致問題の進展も見られない。こうして、戦後67年が経ってしまった。
それぞれの社会が、震撼させられる重大な事態に見舞われることで、自らをふり返り/改めるせっかくの機会を得ながら、逆にそれを自己正当化の口実にしてしまう。人間社会の愚かさを明かしているようで、9月の出来事は哀しく見える。(9月8日記)