領土問題を考えるための世界史的文脈
『月刊 社会民主』680号(2012年1月号)掲載
一 occupy という言葉に心が騒ぐ
「格差NO」のスローガンを掲げて、ニューヨークで「ウォール街を占拠せよ!」という運動が始まったことが報道された時、私は、この運動の基本的な精神には共感をもちつつも、手放したくはない小さなこだわりをもった。「占拠」を意味するoccupy という語に対する違和感である。米国の歴史は、「建国」後たかだか二百数十年しか経っていないが、それは異民族の土地を次々と「占領」(occupy)することで成り立ってきた。この度重なる占領→征服→支配という一連の行為によって獲得されたのが、現在でこそ漸次低減しつつあるとはいえ、世界でも抜きん出た米国の政治・経済・軍事・文化上の影響力である。これが、世界の平和や国家および民族相互間に対等・平等な関係が樹立されることを破壊していると考えている私にとって、それが誰の口から発せられようとoccupyや occupation という語は、心穏やかに聞くことのできない言葉なのである。
同時に、1%の富裕層に対して「われわれは99%だ」と叫ぶ、訴求力の強い、簡潔明瞭なスローガンに対しても、その表現力に感心しつつも、留保したい問題を感じた。99%という数字は、米国のこのような侵略史を(現代でいえば、アフガニスタンやイラクの軍事占領を)積極的に肯定しそれに加担している人びとをも加算しないと、あり得ないからである。問題を経済格差に焦点化して提起する、新自由主義が席捲している時代のわかりやすくはあるこのスローガンは、99%に含まれる人びとの内部に存在する政治・社会上の矛盾と対立を覆い隠してしまう。
これは、国家主義的な、したがって排外主義的な歴史観が多くの人びとを呪縛している社会にあって、私たちがどんな歴史的な想像力をもちうるか、この歴史観を変革するためにどんな努力をなしうるか、という問題に繋がっていく。焦眉の問題として「1% 対99%」という問題提起の有効性を認めるとしても、99%の中身を分析する視点は持ち続けるという意思表示である。そんなことを思いながら、米国のみならず世界各地の「オッキュパイ運動」を注視していたところ、米国内部からの次のような発言に出会った。
「アメリカ合衆国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領は、もう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はイロコイ民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことに言及されることを、私たちは待ち望んでいる」(ジェシカ・イェー「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」、ウェブマガジン“rabble.ca”10月1日号)。
ウォール街で起ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するのはいいし賛成だが、その視点だけでは、植民地支配に関わってのみずからの「共犯性と責任」をどこかに置き忘れているのではないか――ジェシカが問うているのは、そのことだろうか。
ところで、ジェシカ・イェーが言う「もう長いこと」とは、どんな時間幅だろうか? 米国の場合は、先に触れたように、1776年の「独立」以来の二百数十年となろう。あるいは、メキシコに仕掛けた戦争に勝利した米国が、メキシコから広大な領土を奪った段階(1848年)で、ほぼ現在の版図に近い米国領土が確定したことに注目するなら、「もう長いこと」とは、およそ1世紀半の時間幅となる。
問題を世界的な規模のものと考えるなら、「占領」という概念や「先住民族」という捉え方は、植民地主義支配に必然的に随伴することがらである。現代にまで決定的な影響を及ぼすことになった植民地支配の起源を、15世紀末、1492年のコロンブス大航海とアメリカ大陸への到達に求めることは、ほぼ定着した歴史観になっていると言えよう。したがって、世界的な規模では、500年以上の射程で捉えるべきことがらであることがわかる。
二 「無主の地」を先占する
自分たちの社会の構成体として国家を形成するという道を選ばなかった(選ばない)民族は、世界史上いくつもあった(ある)。国家を形成するに至った諸民族とて、21世紀初頭の現在の国家に繋がるものとしての近代国家を成立させたのは、19世紀後半である。日本近代史研究家・千本秀樹は、イタリアの留学生から、日本の学校には日本史という科目があることの不思議さを問われて虚を突かれた思いをいだいた経験を語っている(「歴史を共有するものが未来を共有する」、『現代の理論』25号、2010年秋号、明石書店)。若い国であるイタリアには、イタリア史という科目はないのだという。悲劇的な戦争や紛争の歴史を重ねることで、時代ごとに互いの版図・国境線に著しい変化を来した過去をふり返るなら、国家史ではなく地域史の観点こそが重要であることの示唆であろう。逆に言えば、周辺国家・民族との交流と抗争の歴史を思えば、現状の国境の枠内に限定した国家史・国民史を構想することの不可能性に行き着くということだろう。この事実を知れば、国家や国境が万古不易に存在してきた(している)と何故か思い込んでいる現代日本人の「常識」は根底から覆されよう。
だから、国家は歴史の問題を考えるうえでの唯一絶対の指標ではない。だが、その時代に形成された国家が、近現代の世界史上で揮ってきた他地域およびそこに住まう住民への支配力の強さからすれば、この存在を無視して問題を考えることはできない。すなわち、ここで言う近代国家こそが、植民地支配を世界各地において推進したからである。
初期植民地主義の最初の実践者となったヨーロッパ諸国は、現在のラテンアメリカ、アフリカ、アジアなど自国から遠く離れた地域にその対象を求めた。コロンブスの大航海を実現したスペインを先駆けとして、それら諸国は異民族の土地を次々と征服し、我が物としていく過程を暴力的に遂行した。歴史地図として多くの人びとの記憶にあるだろう19世紀の「アフリカ分割図」を思い起こせば、それが実感できよう。その過程で作り出されたのが、「先占の法理」である。
「先住民族」は、植民地主義が作り出した存在であることは、別な表現ですでに触れた。土地の私的所有観念を持たない先住民族の土地へ赴くことになったヨーロッパの人間たちは、その「無主の地」は我が物であるといち早く名乗りをあげて、そこを「実効支配」した国の独占的な占有地となるという「法理」を編み出したのである。これは、もちろんのことだが、ヨーロッパの植民地主義を「合理化」する論理にほかならなかった。
「無主の地」は多くの場合、ヨーロッパが欠く天然資源・香辛料・食べ物の産地であった。現地で開発を行なおうとすれば、「安価な」労働力は豊富にあった。アメリカ大陸の場合のように、そこの先住民族を大量に殺害してしまい、その後手がけることになる植民地経営のための労働力を必要とするときは、アフリカから多数の屈強な黒人を奴隷として連行すれば、それで足りた。こうして、ヨーロッパにおける資本主義の勃興と発展にとって、「無主の地」は決定的な役割を果たした(註)。
三 「固有の領土である」
ヨーロッパ列強諸国に遅れること数世紀を経てアジアで唯一の植民地帝国となった日本は、前者とは異なり、遠方の地に植民地を獲得することはなかった。台湾、サハリン南部、朝鮮というように、海洋は隔てているが、植民地化したのはすべて近隣地域においてであった。
日本による近隣地域の植民地化は、戦争を前提として成立したことを忘れるわけにはいかない。日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)である。いずれも、明治維新を経た近代日本国家が、富国強兵を旨としてヨーロッパ列強に伍そうとする路線の下で生じた戦争である。アジアの大国・清国と、ヨーロッパとアジアの双方に広がる広大な帝政ロシアに勝利したことで、日本は「アジアの盟主」を自負した尊大なふるまいを行なうようになった。近代日本は、植民地獲得後にさらにアジア・太平洋各地に対する侵略を進める一方、米国とも開戦して、破滅的な戦争に陥っていった。アジア太平洋諸地域の民衆による抵抗闘争と、1941年以来真っ向から対峙した米国軍の圧倒的な軍事力を前に、1945年、日本は戦争に敗北した。この路線を決定づけた明治維新から数えて、78年の歳月が経っていた。そして、現在、私たちは敗戦から数えて、66年目に当たる時代を生きている。双方を加算すると150年近く、およそ1世紀半の歳月である。
日本が、領土問題も含めて近隣アジア諸国との間に抱えている未決の案件があるとすれば、すべては、少なくともこの時代幅でふり返らなければならない。自民党政権時代ですら、首相レベルの談話では、日本がアジア諸地域に対してかけた多大な被害について詫びる言葉はあったのである。その反省は、戦後史の過程でどこまで社会に根づいているか、それを図る目印としてのしかるべき戦後補償は、どこまで実現しているか――を、まず問わなければならないのは日本社会である。
このことを前提として、本稿では、ここまでの叙述をうけて、領土問題について若干の考察を続けたい。敗戦から66年も経ていながら、日本は周辺諸国との間でいくつもの領土問題を係争案件として持っている。主なものを挙げると、ロシアとの北方四島問題、韓国との竹島(独島)問題、中国との尖閣諸島(釣魚島)問題――である。
特に2010年9月には、尖閣諸島をめぐって中国との間で大きな事件が起きた。尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突し、同庁が船長を逮捕した事件である。この諸島の領有権をめぐる双方の主張を詳しく検討する紙幅はない。自らの問題である日本側の主張についてのみ検討する。事件の直後、前原国土交通相(当時)は「東シナ海に領土問題は存在しない」、「(船長の処遇に関しては)国内法に基づき粛々と対応する」と語った。首相の交代で外相に就任した前原氏は、さらに「(尖閣諸島は日本の固有の領土であることに関して)我々は一ミリたりとも譲る気持ちはありませんし、これを譲れば主権国家の体をなさない」とも語っている(10月15日外務省定例記者会見)。
日本共産党が持ち出すのは、「無主の地」論である。中国の文献には、中国の住民が尖閣諸島に歴史的に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有していたことを明らかにできるような記録もない、と述べたうえで、言う。「近代にいたるまで尖閣諸島はいずれの国の支配も及んでいない、国際法にいう“無主の地”であった」。そこへ探検した某人が貸与願いを日本政府に申請したので、沖縄県などを通じてたびたび現地調査を行ない、「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である。これは“無主の地”を領有する“先占”にあたる」(『しんぶん赤旗』2010年10月5日)。これは、外務省発行の「尖閣諸島に関するQ&A」にも共通する「論理」である。
外相が「固有の領土」論を展開するとしても、その「固有性」はたかだか1895年以降のものでしかない。「固有の」という用語には、古代から本来的に、という意味合いが付着している。だが、「日本」という国号が定まったのは、研究者の間で多少の意見の違いはあるが、七世紀末から八世紀初頭である。それ以前には「日本」も、「日本国」の国制の下ある「日本人」も存在していない(網野善彦『「日本」とは何か』、講談社、2000年)。したがって、「固有の」という言葉を、このような領有権問題に用いることは妥当性を欠く。中国側も領有権を主張している以上、一方の側の閣僚が「領土問題は存在しない」と語るべきではないというのは、二国間関係を考えるうえで双方が弁えるべき必須のことだろう。
メディア上で俗に言われる「前原人気の高さ」なるものは、彼が主張する近隣アジア諸国に対する外交政策が強硬路線であることに由来している。内政上いっこうに解決しないさまざまな問題が山積しているとき、住民が抱く欲求不満の吐き出し口を外部に求めることは、歴史的に見ても、世界中の愚かな政治家や軍人が採用してきた、もっとも安易で、結果的には最悪の事態を招く政策である。この路線を推進したい者にとっては、いつも、外部の何者かが「悪」であればあるほど(「悪」として描き出すことが可能であればあるほど)、役立つのである。
共産党が依拠する「“無主の地”先占」論の妥当性も、十分に疑わしい。本稿ですでに考察したように、「無主の地」論は欧米列強がこぞって競った植民地主義支配の拡大過程で生まれた自己合理化の議論である。共産党文書は「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である」と述べている。1895年とは、日清講和条約調印の年である。前年、日本は朝鮮半島支配をめぐって清国との間で戦争を行なった。日本は勝利し、条約によって遼東半島・台湾・澎湖列島を中国に割譲させた。台湾に近い尖閣諸島の領有宣言は、日本帝国のこの対外拡張路線=欧米列強との植民地獲得競争への参加、という枠内で行なわれている。このような経過を思えば、共産党の文書は歴史的な考察を欠いたまま、国家主権論の枠内に収まっていると言うべきだろう。
この問題について論じるべき点はまだあるが、紙数が尽きた。国家や領土の存亡を賭けて、戦争での勝ち負けを競った時代は、確かに続いてきた。だが、本稿で簡潔に述べた国家の成り立ちや国境の変遷過程を思えば、これに呪縛される考え方の限界性はあまりにも明らかであろう。年端もいかない(成立して1世紀半しか経っていない)近代国家が争う領土問題の地は、歴史的に見て、周辺に住まう多国間の住民が平和裡に共有し、協働する空間であった。解決の糸口は、戦争を好まない、国境を超えた地域住民の知恵にこそ求めるべきだろう。
(註)「無主」という概念をめぐって最近起きている事実に触れておくことは、きわめて重要なことだろう。2011年8月、福島原発事故による放射能汚染の影響を受けた福島県二本松市のゴルフ場が東京電力に汚染の除去を求める仮処分の申し立てを行なった。東電は答弁書で、大要次のように述べた。「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。なぜなら放射性物質は、もともと無主物であったと考えるのが実態に即している。所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者が放射性物質を所有しているわけではない」。東京地裁はゴルフ場の訴えを退けた(朝日新聞11月24~25日)。
本文で述べたように、資本主義は「無主の地」の身勝手な解釈を通して勃興した。21世紀の現代は、その資本主義が「グローバリゼーション」の名の下でひとつの頂点を迎えている時代であると言える。福島原発事故にもかかわらず中止されることのない、米国・フランス・日本の「原子力産業ルネサンス」に向けた動きをみると、現代資本主義と核開発の相互依存関係がわかる。生き延びを図る資本主義がここで編み出しているのが、「無主物」の論理である。これだけ多大な犠牲者を生み出している放射性物質の製造物責任を、飛散してしまったものである以上は負わないというのである。勃興期と絶頂期の資本主義が、それぞれ「無主」の概念をきわめて身勝手に、融通無碍に解釈している現実にこそ、問題の本質をうかがうことができる。