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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[18]すべての根源には「米国問題」がある――9・11から10年を経て


反天皇制運動連絡会機関誌『モンスター』第20号(2011年9月6日発行)掲載

9・11から10年目を迎えるいま、私の頭に去来する思いは、世界中で人類が抱える最大の問題の根源を一口で言えば、それは、畢竟、「米国問題」に他ならないという単純な事実だ。黒人問題・アイヌ問題・在日朝鮮人問題など、そこで名指しされている人びとが、あたかも「問題」の原因であり所在であるかのような物言いは、今までも絶えることはなかった。それらは、それぞれ、白人問題・日本人問題と呼ばれるべき性格のものであることは、少数ではあっても一部の人びとの間では周知のことであった。これと同じ意味で、9・11はその原因において「米国問題」であることを、私は事件直後の「図書新聞」のインタビューで語った(同紙2001年10月6日号「批判精神なき頽廃状況を撃つ」)。結果においてもそれは「米国問題」でしかないことが紛れもなく明らかになるという形で、私たちは事件から10年目の秋(とき)を迎えている。

米国以外の国・地域に住む者であれば、9・11のような人為的な悲劇は、世界のあちらこちらで起きてきたことを身に染みて知っている。しかも、それを為してきたのが、ほかならぬ米国であることも。海兵隊の派遣・上陸と軍事作戦の展開、海上からのミサイル発射、今であれば無人機爆撃、その前段階としての政治的・経済的な浸透と、米国の必要に応じての社会的な攪乱工作――米国が世界帝国であり得ているのは、このような身勝手極まりない所業を躊躇うことなく続けてきており、超絶した大国が為すことゆえに、その多くが「成功」してきたことの結果である。戦争によって数千、数万、時に数十万の死者を生み出し、化学兵器を使う現代の戦争になってからは幾世代にも影響を及ぼす深刻な後遺症で人びとを苦しめ、インフラを含めた経済秩序を破壊し、社会的にも混乱の極みに捨て置いて、一連の作戦が完了する――それは、幾度となく私たちが目撃してきた、米国が主体となってつくられてきた世界各地の近現代史の姿である。

したがって、9・11の悲劇を米国は独占してはならず、むしろ、そこに自らが為してきたことの影を見て、内省の契機とすること。心ある帝国内少数派が主張したように、9・11で米国が問われたのは、このことに尽きた。しかし、この10年間の米国の動きは真逆であった。そこに、アフガニスタンの、イラクの、世界全体の、そして米国自身の悲劇が生まれた。それを否定できる者は名乗り出よ! と言いたいほどに、自明のことだ。

9・11から10年目を迎えているいま、もっと長い射程で歴史を振り返るよう私たちを誘ういくつかの報道があった。中米グアテマラで、米国公衆衛生当局の医師らは1946年から48年にかけて、性病の人体実験を行ない、1000人以上を故意に感染させたうえで、うち83人が「実験中に」死亡した。ある研究者がこの事実に気づいたのは昨年で、直ちに大統領直属の調査団がつくられ、その調査に基づいて報告書がいうのである。19世紀後半以降、米国企業が広大なバナナ農園を保持し、現地の人びとを見下して「緑の法王」としてふるまった国・グアテマラでは、いかにもありそうな出来事である。「最低限の人権尊重すら怠った」と報告書は指摘しているが、しかし、1946年という年号に注目するなら、それは米国が広島と長崎に原爆を投下した翌年である。間もなく現地に入った米国の医療チームが「治療」には関心を示さず、もっぱら「核」が人体に及ぼした影響如何を調査するばかりであったこともよく知られている。米国側が人種差別意識を隠しようもなく持っている異民族に対する態度としては、いずれも例外的なことがらではない、と言うべきだ。

また、1953年日米両政府は、在日米兵の公務外犯罪に関して、重要事件以外は日本が裁判権を放棄するとの密約を交わしていたという。日本側の弱腰もあるが、当時の二国間関係からいえば、米国は明らかに「尊大な」要求を強制したと推察できよう。傲慢なふるまいを背景に、世界じゅうに抜き差しならない国家間・民族間矛盾を生み出す――米国に、このような政策の変更を強いる力を、米国以外の世界全体が持つまでは、私たちは深刻な「米国問題」を抱え続けるほかはないのだ。

(「9・11から10年」というテーマに関しては、『インパクション』181号、『反改憲運動通信』第7期第6号にも書いた。違う角度から書くよう工夫したので、併読いただけるとありがたい。)

(9月3日記)

「戦争が帰ってくる」――9・11から10年後の課題


『反改憲運動通信』第7期第6号(2011年9月10日発行)掲載

「戦争が帰ってくる」とは、戦争ばかりしている故国=米国について、ダグラス・ラミスが語った言葉だ。国外で戦争に次ぐ戦争に明け暮れていると、それを肯定する価値観と雰囲気が、自分の国の内にまで跳ね返ってきて、戦場と同じく銃を使った犯罪や暴力沙汰が日常的に起こる社会になってしまう。避けがたいその因果の関係を指した表現で、重大犯罪が多発する米国の状況を的確に捉えていて、私は以前から共感していた。

9・11以降10年間にわたって続けられてきている「反テロ戦争」がもたらしたものをふりかえると、この言葉が蘇ってくる。9・11の事態を受けて、米国大統領が「反テロ戦争」を呼号していた2001年9月20日、テキサス州ダラスに住むマーク・ストロマンは、「中東風」の外見の移民への報復を決意して、南アジア出身の男性二人を射殺し、バングラディッシュ出身のイスラム教徒に重傷を負わせた。自分こそ「真の米国人」であると信じ込んだ犯人は、見かけた相手に「どこの出身だ!」と叫びながら銃弾を浴びせた。各地の警察と入管当局も「アラブ風」の人間に対する手酷い仕打ちを制度化した。メディアも一般社会もこの雰囲気を煽り、かつ煽られた。無数の「ストロマン」たちは、「怪しげな者」に銃を向け、嫌がらせの言葉を吐き出し、権力を笠に着た差別と排外の行為を行なったのだ。

それから10年後の2011年7月22日、北欧ノルウェーのアンネシュ・ブレイビクは、重量6トンの車両爆弾をオスロの政府機関の建物近くで爆破させた。その後、「移民に寛容な」労働党政府を嫌悪する彼は、同党青年部のキャンプ地で銃を乱射した。二つの事件で総計77人が殺害された。ブレイビクは、欧州を多文化主義から解放するためには「残忍な行為が必要な状況は存在する」と確信する、イスラム教徒への強烈な偏見に満ちた人物であった。ところが、初期報道では、これがイスラム過激派による犯行であることを匂わせるものもあった。そうではなく、犯行が白人によってなされたことを速報で報じた日本の某TV番組では、それを聞いたキャスターが「では、テロではなかったんですね」と言ったという。爆弾と銃を使って多数の人びとを殺傷したブレイビクも、「イスラム教徒が行なうなら、テロ。そうでなければ、テロ以外のもの」と思い込んでいるメディアの人間も、この世で起こる不吉な出来事はすべてイスラム過激派の仕業であるという確信を、何らの具体的な根拠もなく、いつしか身につけてしまったのである。

そうでもあろう、米欧日のメディアは、一部少数の例外を除けば、この10年間、アフガニスタンとイラクにおける米軍+NATO軍を主力とした戦争行為が、テロリストに対する戦いであるがゆえに無条件に正義に叶ったものであるという宣伝を臆面もなく繰り広げてきた。10年前に、米国大統領は「我々の味方になるのか、それともテロリストの側につくのか」と世界中を脅した。10年後、英国首相は「多文化主義政策は過ちだった」と語った。いずれも、ストロマンとブレイビクを煽るには十分に効果的な発言だった。

それでも、ストロマンの場合には、救いのある後日談が待っていた。事件の被害者や遺族が「ストロマンの無知ゆえの犯行」に哀れみを感じ、世界に満ち溢れる憎悪を断ち切るために、死刑を宣告されていた彼の減刑を嘆願したのだ。ストロマンも、最後には自らの行為を顧みた。犯罪のよって来る原因にたどり着き、自分の犯罪の被害者たちが「人生最大の希望を与えてくれた」と語って、自らの行為を悔いた。ストロマンは、2011年7月、薬物で処刑された。

ブレイビクは、逮捕後、日本は移民に閉鎖的な政策を維持しており、多文化主義を拒む模範的な国だと称賛した。ブレイビクは、日本について大いなる誤解をしていたのだろうか? 否、そうではあるまい。移民政策や多文化主義をめぐって「あれか、これか」の単純極まりない二分法で世界を見ていた彼は、EU各国とは異なって自民族中心主義の道を先んじて歩む日本の現実を冷静に把握していたと言えるだろう。

その日本では、他方、「国際貢献」という掛け声だけがこの間より大きな声となった。それが、憲法9条の精神と対決するかのように、主として軍事面で言われるようになったことに注目すべきだろう。きっかけは、1990年前後の社会主義体制の自壊と湾岸戦争であった。ソ連に代わる独裁体制=イラクのフセインに対して、一丸となって軍事的に制裁を加えることが民主主義国に共通の価値だとの宣伝がなされた。この地域から膨大な量の石油を輸入しているのに軍事的制裁に参加できなかった日本は、世界から「汗も血も流さずに利益だけを得ている」と見られており、それは肩身の狭いことだとする捉え方が浸透し始めた。戦後史の大転換を画する民衆意識の変化であった。それから10年後に9・11を迎えた時、日本の首相はいち早く米国の「反テロ戦争」の呼号に賛意を表明した。インド洋に海上自衛隊の給油船が派遣され、アフガニスタンを攻撃する米軍への給油や兵士輸送作戦に従事した。米軍がイラクを攻撃し始めると、自衛隊の軍事的参画は一段と深まった。

国軍兵士を見送り、そして無事の帰国を歓迎して家族たちがうちふる日の丸の小旗は見慣れたものとなった。2011年、震災・津波・原発事故現場で救援活動に従事する自衛隊員は、その「献身性」によって人びとの心を深く掴んだようだ。こうして、自衛隊がありふれた国軍となる過程は、「反テロ戦争」のこの10年間で格段に進行した。「憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ」(新川明)とする沖縄からの批判的な視線に目を逸らすことなく、「戦争が帰ってくる」ような政治・社会状況を出来(しゅったい)させないための、厳しくて重要な段階を私たちは迎えている。

【付記】この原稿に先んじて、「9・11から10年目の世界」と題する文章を書いた(『インパクション』181号)。この文章とは違う角度から、同じテーマを論じた。併読いただけると、ありがたい。

(9月2日記)