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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

キューバの「週刊ニュース」の現代的な意義


「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」カタログに掲載

私が小中学校の子どもの頃――1950年代前半から後半にかけて――映画を観にいくと、本編に先だって必ずニュース映画が上映された。そのころ住んでいたのは北海道東部だったが、札幌のような都会へ行くと、ニュース映画専門の映画館があった。一時間足らずの時間のうちに、数週間分のニュース映画を上映するのである。時間潰しにも役立ったが、テレビが普及していない頃のことだから、ラジオと新聞でしか知らない国外と国内の出来事に映像と共に接することができることは、大変な魅力であった。生まれた時には当たり前のようにテレビがあり、いまやパソコンや携帯によっても映像ニュースに接することができる若い世代の人びとには、当時の私たちが持っていた、ニュース映画に対する焼けつくような飢餓感など、想像もつかないかもしれない。

私はその後1970年代半ばの数年間をラテンアメリカで過ごした。東西冷戦真っ只中の時代で、社会主義国キューバを包囲・封鎖するために、米国が支援して多くの国は軍事政権下にあったから、どの国も政治的許容度は厳しかった。私が一番長く滞在したメキシコは、相対的には自由で、多様な書物・映画・演劇・コンサート・講演会などに接することができた。キューバ映画をよく観た。『低開発の記憶』や『ルシア』なども忘れ難いが、ドキュメンタリー作品が強く印象に残った。革命勝利の年(1959年)の直後から、キューバでは20世紀初頭から半世紀以上に及んだ米国による政治的・経済的支配を断ち切るための諸政策が次々と実施された。濡れ手で粟の利権から排除された米国は反撃に出た。革命をつぶすための武力侵攻さえ試みられた――私はこれらの事実を文字面では知っていたが、キューバのドキュメンタリー作品を観ると、映像を伴っているわけだから情報量が格段に増えた。刺激的であった。

社会革命が成就した直後には、価値観の変革や新しい型の人間と才能の開花が見られ、それが文化面での活性化をもたらすことは、ロシア革命後のロシア・アヴァンギャルドの動きを通して知っていた。キューバの映画事情に詳しくはなかったが、革命が勝利した1959年まではハリウッド映画が市場を独占し、自前の映画人が輩出できる可能性がきわめて少なかったであろうことは容易に推察できた。だから、革命直後の1960 年や61 年の事態を、的確なカメラワークで撮影し、訴求力のある一つの作品としてまとめ上げる力に――しかも、それは1、2の作品に留まるものではなかったから、心底感心したのだった。

調べてみれば、革命後のキューバ映画を牽引することになる監督トマス・グティエレス・アレアとフリオ・ガルシア・エシピノサは、アルゼンチンのフェルナンド・ビリーやコロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスと共に、1950年代半ばにローマの映画実験センター(チェントロ)に学んだこと、ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)は革命勝利からわずか2ヵ月後の1959年3月に設立されたこと――などが分かってきて、キューバにおいて新しい映画表現が生まれてくる根拠も、それを制度的に保証する態勢も、確固として見えてきたのだった。

今回山形映画祭でその一部の上映が予定されているNoticiero ICAIC Latinoamericanos (字義どおりの訳では「ICAICラテンアメリカ・ニュース」だが、週ごとに制作されたので、以下では「週刊ニュース」と略記する)もそのときメキシコで観たかと問われると、覚束ない。35年以上も前のことで、記憶があいまいなのだ。しかし、その後ドキュメンタリー作品――例えば『革命』『ヒロン』『モンカダはなぜ?』――としてまとめられた作品を観ると、確かにメキシコでの既視感のある印象的なシーンがいくつか使われているように思われたから、ある程度は観たのかもしれない。

ある程度――と書いて、ふと立ち止まる。「週刊ニュース」は、1960年から1990年までの30年間にわたって、1493本も制作されているのである。平均時間は10分である。You Tubeからダウンロードされた23本と、関わったスタッフが「週刊ニュース」作りを回顧しているDVDなども鑑賞したが、総量から見れば、私が観ることができた作品はきわめて少ない。したがって、以下において「週刊ニュース」の意義を論じることには限界があるが、本文末尾に記す文献資料なども参考にしながら、できる限りのことを試みてみる。

先に触れたように、ICAICが創設されたのは革命の年=1959年であった。映画は「もっとも強力で示唆的な芸術表現の手段であり、教育のためのもっとも直接的な牽引車である」と位置づけられていた。「週間ニュース」が制作され始めたのは翌年からだが、世界的には家庭へのテレビの普及によって、ニュース映画が役割を終えていく時代と重なっていた。革命直後のキューバではテレビは庶民には高嶺の花であったことに加え、何よりも欧米メディアに独占されてきたニュース報道に代えて、自前の媒体を持つ必要性を革命指導部は感じたのだろう。制作された「週刊ニュース」は60本のコピーが作られた。それは全国500の常設館と、400の移動映画館で上映された。『はじめて映画を観た日』(オクタビオ・コルタサル監督、1967年、10分)を思い起こしてみても、とりわけ自家発電機を備えた上映グループが辺鄙な村に訪れて映画を上映したときの、子どもたちや大人の驚きや喜びの深さには、想像がつくというものだろう。

「週刊ニュース」の作品リストを眺めると、監督サンティアゴ・アルバレスの名が圧倒的に目立つ。この記録の、文字通りの創始者であるが、彼は医学・哲学・文学・心理学などを大学で修めた知的人物ではあったが、映像表現の訓練はまったく積んでいなかった。にもかかわらず、40歳のときに「週刊ニュース」の監督を引き受けた。周囲のスタッフにも、経験者はひとりもいなかった。だが、映画批評家ドレック・マルコムによれば、サンティアゴ・アルバレスの仕事ぶりは「迅速で、機材も、ふつうの映画人なら時代遅れだといって拒否するような代物だった。にもかかわらず彼は、ニュース映画としても、宣伝媒体としても、輝かしい即興的な映像表現としても、いまだに乗り越えられることのない一連のフィルムを60年代から70年代にかけて制作したのである」。

すでに触れたように、「週刊ニュース」はキューバ革命初期の記録映像として、きわめて重要であり、優れてもいた。米国系企業の国有化、銀行国有化、反革命軍のヒロン湾侵攻とこれの撃退戦、米国によるキューバ産砂糖買い付け量の削減と、これに対する米国市民の抗議デモ、ミサイル危機――リストからは、このようなテーマが取り上げられたことを知ることができる。もちろん、国内ニュースだけに特化していたわけではない。サンティアゴ・アルバレスらのチームは30年間に90ヵ国以上の国々を歴訪し、68年パリ五月革命、68年プラハの春、米軍のグレナダ侵攻などの歴史的な記録も撮影した。とりわけ、ベトナム報道には並々ならぬ力を入れたから、米国の侵略に抵抗したベトナム民衆が勝利した決定的な瞬間を撮影するなど、世界的にみても貴重な映像もある。また、コンゴ解放闘争への参与を企図してコンゴに滞在していた時期のチェ・ゲバラ(1965・4~11)の映像もあるようだが、現代史の価値ある証言記録であろう。加えて、ラオスやイエーメンのような知られざる小国の取材も重視した。これは、小国キューバの映画人であるという自覚なしには生まれ得なかったような視点であったのかもしれない。

私が視聴できた「週刊ニュース」のなかには、キューバの庶民の生活事情に関わるテーマもある。食料品などの物不足、住宅不足、ゴミ処理問題など、庶民にとっては切実で、身近な問題である。従来の社会主義社会では、指導部批判に繋がる表現が厳しい制約を受けるのが常であった。生活にまつわる諸問題は、直接的には「政治」や「イデオロギー」に関わる地点までは射程が届かない場合がある。仕事を迅速に進めないとか、たらい回しにするなどの官僚制の問題が見えてくる程度である。したがって、観た限りでは率直な取材や問題提起がなされているように思える。だが、キューバ革命の内実をいくらか詳しく知る者にとっては、革命当初から、ソ連型社会主義の諸方式をキューバへ持ちこもうとする内外の勢力と、ある段階以降のチェ・ゲバラのようにそれに疑問と批判を持つ人びともいて、両者の間では激しい論争も展開されていたわけだし、1967~68年の大転換期(ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死、カストロがソ連軍のチェコ侵攻を支持する演説を行なったことに象徴される)以降はソ連一辺倒の路線が定着してもいた。文学者の、革命から「逸脱」した表現が弾圧されることもあった。カストロは当初から、「革命の中ならすべてOK、外ならだめだ」と語ってきた。それを判断するのは誰なのか、についての説明はなかった。直接的に「政治」や「イデオロギー」の領域に関わるこれらの問題に関して、「週刊ニュース」の制作者たちは、体制に無批判的に寄り添うことなくどこまで切り込むことができたのかということは、今後の解明を待つ課題として残ることになる。

「週刊ニュース」が1990年で断ち切られたのは、キューバの経済事情によるものであった。あらゆる物資不足が目立つようになり、電力事情も悪化した。停電が繰り返された。人びとの生活を維持するための優先課題とは言えない映画制作は、ニュース映画も含めて、予算を切られた。ICAICにしてみれば、新作制作どころか、貴重なフィルムを良好な状態で保存すること自体が危機にさらされた。電力不足は、フィルム保存に重要な貯蔵庫の温度管理・湿度管理を不可能にし、複製・修理・修復などの作業をも麻痺させたからである。

この時期を見計らうかのように、「週刊ニュース」は、2009年、ユネスコの世界記憶遺産に認定された。記憶遺産といえば、今年、日本からも初めての認定を受けたものがあったが、それは、筑豊に生きた炭鉱夫画家・山本作兵衛(1892~1984)が描き遺した千点以上にも上る作品群であった。鉱夫たちが従事する鉱山労働の様子や日常生活のあり方をつぶさに描いた、無名と言っていい画家を取り上げたことを知って、私はユネスコもなかなかやるものだ、と思った。その後、この原稿を準備する過程で、キューバの「週刊ニュース」もすでに世界記憶遺産に認定していたことを知って、その見識のほどをいっそう再認識したのである。

キューバは革命後の半世紀有余の間、その人口数と国土面積の小ささからすれば信じがたいほどの存在感を世界に示してきた。K・S・カロルの言葉を引けば、キューバは「世界を引き裂いている危機や矛盾を集中的に体現」しており、「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかなる小さな動揺に対しても、まだどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」(K・S・カロル『カストロの道』、読売新聞社、1972年)。映画「週刊ニュース」は、まぎれもなく、20世紀後半の、キューバと世界の鼓動を、このような位置から伝える映像メディアであった。それは、「低開発」を強いられる小国が担う事業としては、奇跡的なまでの達成度を示したことを、中立的機関=ユネスコも認めざるを得なかったのである。

【参考文献】

Jorge Fraga, “Cuba’s Latin American Weekly Newsreel :Cinematic Language and Political Effectiveness”, in The SOCIAL DOCUMENTARY in LATIN AMERICA, ed. Julianne Burton, University of Pittsburgh Press, 1990.

Memory of the World Register: Original Negatives of the Noticiero ICAIC Latinoamericano ( Cuba), Ref No 2008-41, UNESCO

【追記】キューバ映画については、「NFC(東京国立近代美術館フィルムセンター)ニュースレター」2004年4~5月号にも、「ラテンアメリカ現代史の中のキューバ映画」を寄稿している。→http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2004/lcuba.html

映画『光、ノスタルジア』を観るために――チリ近現代史素描


『光、ノスタルジア』プレス資料+山形映画祭カタログなどに掲載

チリは、他のラテンアメリカ諸国と同様に19世紀初頭にスペインから独立した。小麦などの農産物に加えて銅と硝石の鉱山物資源が豊富で、いずれも19世紀末にかけての主力の輸出品となった。したがって、地主、大鉱山主、大商人などが力を蓄えた。ただし、銅と硝石の主要な産地は、映画『光、ノスタルジア』の舞台でもあるアタカマ砂漠地域なのだが、そこは、スペインからの独立の過程にあってはタラパカ地域がペルー領、アントファガスタ地域はボリビア領となっていたこと、チリがそのいずれに対しても領有権を主張し、そのために太平洋戦争(1879~83)を引き起こしたこと、それに勝利することでチリが新たに獲得したのがアタカマ砂漠一帯であることは、頭に入れておきたい。その後の19世紀末に世界的な硝石ブームが起こり、多くは英国資本の手にあったとはいえ、チリも莫大な収入を得たのである。

輸出によって経済力を蓄えた階級に加えて、支配階級に加わった社会層がふたつあった。ひとつは、国境紛争戦争を戦い抜き、植民地時代から支配層への執拗な抵抗を止めない先住民族=マプーチェ人への掃討作戦にも従事した軍部である。もうひとつは、国教としてのカトリック教会である。これらが一体となって、強力な少数支配階級を形成した。表面的には物質的繁栄を謳歌しながらも、貧農や都市貧民、鉱山労働者、先住民族は打ち捨てられていたから、貧富の差は激しかった。

主要産業が鉱業であるということは、鉱山労働者による労働運動が強力に展開されることをも意味した。前世紀末以来の硝石ブームに沸く1907年、劣悪な労働条件に苦しみ続けてきた北部の鉱山労働者たちは大規模なストライキに訴え、イキーケのサンタ・マリーア学校に寝泊まりしていた。これを鎮圧するために軍隊が派遣され、発砲によって3600人の労働者が虐殺された。これは「イキーケのサンタ・マリーアの虐殺」事件と呼ばれ、チリ社会の癒しがたい記憶となって、後世にまで語り継がれるものとなった。

その後、1917年ロシア革命の刺激などもあって、労働立法の制定をめぐっては、歴代政府と労働組合の間で、熾烈な攻防があった。20年代から30年代にかけては、他の諸国と同様に、共産党、社会党なども結成され、30年代後半には両党も参加して人民戦線政権が成立したことすらあった。

第二次世界大戦を経て1950年代も末になると、チリ社会には三大政治勢力が成立した。地主と大資本グループから成る旧来からの保守的支配層を基盤とする保守党・自由党。中小資本の経営者や公務員などの中間層に支えられ、修正資本主義を主張するキリスト教民主党。社会主義を志向する労働者や農民を支持基盤とする共産党・社会党――それぞれ、保守・中道・左翼を代表する3大勢力である。左翼の台頭を警戒して、保守・中道は連携する機会が多かったが、60年代にはキリスト教民主党政権が成立した。しかし、農地改革に手を付けて保守党の反発を買い、経済政策の失敗で左翼から厳しい批判を受けた。

1970年の大統領選挙は、チリ史上で見ても、世界的な意味からいっても、画期的な結果となった。50年代から何度も左翼統一候補として大統領選に立候補してきた社会党のサルバドール・アジェンデが当選した。世界史上はじめて、選挙によって社会主義政権が成立したのである。それはまた、1959年革命以来米国による一貫した孤立化策動にさらされてきたキューバが、ラテンアメリカという同一域内に友邦国を得たことを意味した。米国から見れば、米国の支配に抵抗する「第2のキューバ」の登場を阻止し得なかったのである。

アジェンデ政権は、銅産業の完全国有化、農地改革、銀行の国家管理、大企業への国家の介入などの改革政策を実施した。保守層と中間層は激しく反発した。銅企業を無償接収された米国もこれに報復し、援助を停止した。反対勢力に膨大な資金を与え、「不安定化」工作を煽った。1973年9月11日、陸海空三軍が軍事クーデタを起した。アジェンデ社会主義政権は、3年間で終わった。新たに成立したピノチェト政権はアジェンデ派を徹底的に弾圧した。映画『光、ノスタルジア』が描くアタカマ砂漠の強制収容所はその象徴である。他方、米国のテコ入れで新自由主義経済政策を全面的に採用した。それは貧富の格差を放置したまま、外国資本と国内特権層の利益を尊重する道であった。ピノチェトによる治世は1990年まで続いた。いま「ピノチェト以後」の時代を生きるチリの人びとは、「恐怖」が支配した軍事政権時代が遺した負の遺産を克服し、新自由主義路線によって混乱の極致におかれていた経済社会のあり方を変革する途上にあると言えよう。

(9月9日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[18]すべての根源には「米国問題」がある――9・11から10年を経て


反天皇制運動連絡会機関誌『モンスター』第20号(2011年9月6日発行)掲載

9・11から10年目を迎えるいま、私の頭に去来する思いは、世界中で人類が抱える最大の問題の根源を一口で言えば、それは、畢竟、「米国問題」に他ならないという単純な事実だ。黒人問題・アイヌ問題・在日朝鮮人問題など、そこで名指しされている人びとが、あたかも「問題」の原因であり所在であるかのような物言いは、今までも絶えることはなかった。それらは、それぞれ、白人問題・日本人問題と呼ばれるべき性格のものであることは、少数ではあっても一部の人びとの間では周知のことであった。これと同じ意味で、9・11はその原因において「米国問題」であることを、私は事件直後の「図書新聞」のインタビューで語った(同紙2001年10月6日号「批判精神なき頽廃状況を撃つ」)。結果においてもそれは「米国問題」でしかないことが紛れもなく明らかになるという形で、私たちは事件から10年目の秋(とき)を迎えている。

米国以外の国・地域に住む者であれば、9・11のような人為的な悲劇は、世界のあちらこちらで起きてきたことを身に染みて知っている。しかも、それを為してきたのが、ほかならぬ米国であることも。海兵隊の派遣・上陸と軍事作戦の展開、海上からのミサイル発射、今であれば無人機爆撃、その前段階としての政治的・経済的な浸透と、米国の必要に応じての社会的な攪乱工作――米国が世界帝国であり得ているのは、このような身勝手極まりない所業を躊躇うことなく続けてきており、超絶した大国が為すことゆえに、その多くが「成功」してきたことの結果である。戦争によって数千、数万、時に数十万の死者を生み出し、化学兵器を使う現代の戦争になってからは幾世代にも影響を及ぼす深刻な後遺症で人びとを苦しめ、インフラを含めた経済秩序を破壊し、社会的にも混乱の極みに捨て置いて、一連の作戦が完了する――それは、幾度となく私たちが目撃してきた、米国が主体となってつくられてきた世界各地の近現代史の姿である。

したがって、9・11の悲劇を米国は独占してはならず、むしろ、そこに自らが為してきたことの影を見て、内省の契機とすること。心ある帝国内少数派が主張したように、9・11で米国が問われたのは、このことに尽きた。しかし、この10年間の米国の動きは真逆であった。そこに、アフガニスタンの、イラクの、世界全体の、そして米国自身の悲劇が生まれた。それを否定できる者は名乗り出よ! と言いたいほどに、自明のことだ。

9・11から10年目を迎えているいま、もっと長い射程で歴史を振り返るよう私たちを誘ういくつかの報道があった。中米グアテマラで、米国公衆衛生当局の医師らは1946年から48年にかけて、性病の人体実験を行ない、1000人以上を故意に感染させたうえで、うち83人が「実験中に」死亡した。ある研究者がこの事実に気づいたのは昨年で、直ちに大統領直属の調査団がつくられ、その調査に基づいて報告書がいうのである。19世紀後半以降、米国企業が広大なバナナ農園を保持し、現地の人びとを見下して「緑の法王」としてふるまった国・グアテマラでは、いかにもありそうな出来事である。「最低限の人権尊重すら怠った」と報告書は指摘しているが、しかし、1946年という年号に注目するなら、それは米国が広島と長崎に原爆を投下した翌年である。間もなく現地に入った米国の医療チームが「治療」には関心を示さず、もっぱら「核」が人体に及ぼした影響如何を調査するばかりであったこともよく知られている。米国側が人種差別意識を隠しようもなく持っている異民族に対する態度としては、いずれも例外的なことがらではない、と言うべきだ。

また、1953年日米両政府は、在日米兵の公務外犯罪に関して、重要事件以外は日本が裁判権を放棄するとの密約を交わしていたという。日本側の弱腰もあるが、当時の二国間関係からいえば、米国は明らかに「尊大な」要求を強制したと推察できよう。傲慢なふるまいを背景に、世界じゅうに抜き差しならない国家間・民族間矛盾を生み出す――米国に、このような政策の変更を強いる力を、米国以外の世界全体が持つまでは、私たちは深刻な「米国問題」を抱え続けるほかはないのだ。

(「9・11から10年」というテーマに関しては、『インパクション』181号、『反改憲運動通信』第7期第6号にも書いた。違う角度から書くよう工夫したので、併読いただけるとありがたい。)

(9月3日記)

「戦争が帰ってくる」――9・11から10年後の課題


『反改憲運動通信』第7期第6号(2011年9月10日発行)掲載

「戦争が帰ってくる」とは、戦争ばかりしている故国=米国について、ダグラス・ラミスが語った言葉だ。国外で戦争に次ぐ戦争に明け暮れていると、それを肯定する価値観と雰囲気が、自分の国の内にまで跳ね返ってきて、戦場と同じく銃を使った犯罪や暴力沙汰が日常的に起こる社会になってしまう。避けがたいその因果の関係を指した表現で、重大犯罪が多発する米国の状況を的確に捉えていて、私は以前から共感していた。

9・11以降10年間にわたって続けられてきている「反テロ戦争」がもたらしたものをふりかえると、この言葉が蘇ってくる。9・11の事態を受けて、米国大統領が「反テロ戦争」を呼号していた2001年9月20日、テキサス州ダラスに住むマーク・ストロマンは、「中東風」の外見の移民への報復を決意して、南アジア出身の男性二人を射殺し、バングラディッシュ出身のイスラム教徒に重傷を負わせた。自分こそ「真の米国人」であると信じ込んだ犯人は、見かけた相手に「どこの出身だ!」と叫びながら銃弾を浴びせた。各地の警察と入管当局も「アラブ風」の人間に対する手酷い仕打ちを制度化した。メディアも一般社会もこの雰囲気を煽り、かつ煽られた。無数の「ストロマン」たちは、「怪しげな者」に銃を向け、嫌がらせの言葉を吐き出し、権力を笠に着た差別と排外の行為を行なったのだ。

それから10年後の2011年7月22日、北欧ノルウェーのアンネシュ・ブレイビクは、重量6トンの車両爆弾をオスロの政府機関の建物近くで爆破させた。その後、「移民に寛容な」労働党政府を嫌悪する彼は、同党青年部のキャンプ地で銃を乱射した。二つの事件で総計77人が殺害された。ブレイビクは、欧州を多文化主義から解放するためには「残忍な行為が必要な状況は存在する」と確信する、イスラム教徒への強烈な偏見に満ちた人物であった。ところが、初期報道では、これがイスラム過激派による犯行であることを匂わせるものもあった。そうではなく、犯行が白人によってなされたことを速報で報じた日本の某TV番組では、それを聞いたキャスターが「では、テロではなかったんですね」と言ったという。爆弾と銃を使って多数の人びとを殺傷したブレイビクも、「イスラム教徒が行なうなら、テロ。そうでなければ、テロ以外のもの」と思い込んでいるメディアの人間も、この世で起こる不吉な出来事はすべてイスラム過激派の仕業であるという確信を、何らの具体的な根拠もなく、いつしか身につけてしまったのである。

そうでもあろう、米欧日のメディアは、一部少数の例外を除けば、この10年間、アフガニスタンとイラクにおける米軍+NATO軍を主力とした戦争行為が、テロリストに対する戦いであるがゆえに無条件に正義に叶ったものであるという宣伝を臆面もなく繰り広げてきた。10年前に、米国大統領は「我々の味方になるのか、それともテロリストの側につくのか」と世界中を脅した。10年後、英国首相は「多文化主義政策は過ちだった」と語った。いずれも、ストロマンとブレイビクを煽るには十分に効果的な発言だった。

それでも、ストロマンの場合には、救いのある後日談が待っていた。事件の被害者や遺族が「ストロマンの無知ゆえの犯行」に哀れみを感じ、世界に満ち溢れる憎悪を断ち切るために、死刑を宣告されていた彼の減刑を嘆願したのだ。ストロマンも、最後には自らの行為を顧みた。犯罪のよって来る原因にたどり着き、自分の犯罪の被害者たちが「人生最大の希望を与えてくれた」と語って、自らの行為を悔いた。ストロマンは、2011年7月、薬物で処刑された。

ブレイビクは、逮捕後、日本は移民に閉鎖的な政策を維持しており、多文化主義を拒む模範的な国だと称賛した。ブレイビクは、日本について大いなる誤解をしていたのだろうか? 否、そうではあるまい。移民政策や多文化主義をめぐって「あれか、これか」の単純極まりない二分法で世界を見ていた彼は、EU各国とは異なって自民族中心主義の道を先んじて歩む日本の現実を冷静に把握していたと言えるだろう。

その日本では、他方、「国際貢献」という掛け声だけがこの間より大きな声となった。それが、憲法9条の精神と対決するかのように、主として軍事面で言われるようになったことに注目すべきだろう。きっかけは、1990年前後の社会主義体制の自壊と湾岸戦争であった。ソ連に代わる独裁体制=イラクのフセインに対して、一丸となって軍事的に制裁を加えることが民主主義国に共通の価値だとの宣伝がなされた。この地域から膨大な量の石油を輸入しているのに軍事的制裁に参加できなかった日本は、世界から「汗も血も流さずに利益だけを得ている」と見られており、それは肩身の狭いことだとする捉え方が浸透し始めた。戦後史の大転換を画する民衆意識の変化であった。それから10年後に9・11を迎えた時、日本の首相はいち早く米国の「反テロ戦争」の呼号に賛意を表明した。インド洋に海上自衛隊の給油船が派遣され、アフガニスタンを攻撃する米軍への給油や兵士輸送作戦に従事した。米軍がイラクを攻撃し始めると、自衛隊の軍事的参画は一段と深まった。

国軍兵士を見送り、そして無事の帰国を歓迎して家族たちがうちふる日の丸の小旗は見慣れたものとなった。2011年、震災・津波・原発事故現場で救援活動に従事する自衛隊員は、その「献身性」によって人びとの心を深く掴んだようだ。こうして、自衛隊がありふれた国軍となる過程は、「反テロ戦争」のこの10年間で格段に進行した。「憲法9条が成立しうる根拠は沖縄に米軍基地があるからだ」(新川明)とする沖縄からの批判的な視線に目を逸らすことなく、「戦争が帰ってくる」ような政治・社会状況を出来(しゅったい)させないための、厳しくて重要な段階を私たちは迎えている。

【付記】この原稿に先んじて、「9・11から10年目の世界」と題する文章を書いた(『インパクション』181号)。この文章とは違う角度から、同じテーマを論じた。併読いただけると、ありがたい。

(9月2日記)