太田昌国の夢は夜ひらく[12]環太平洋経済連携協定(TPP)をめぐる一視点
反天皇制運動機関誌『モンスター』第13号(2011年2月8日発行)掲載
世界で唯一冷戦構造が残る東アジアの状況をいかに打開するかの指針ひとつ示すこともない菅民主党政権が、環太平洋経済連携協定(TPP)については、参加に向けて前のめりになり始めたのは昨年末だった。11月9日、TPPについて「関係国との協議を開始」する基本方針を閣議決定したのだ。翌日10日の日経紙は、それが「事実上の日米FTA(自由貿易協定)になる」と報じた。年が明けて、TPP参加を念頭においた首相の口からは、「平成の開国」「第三の開国」などという大仰な言葉が飛び出すようになった。
元来これは、2006年、ブルネイ、チリ、ニュージーランド、シンガポールの4ヵ国が開始したFTAである。例によってこれに米国が参入の意思を表明した。[「環太平洋」という地域概念に関わることなので、長くなるが、以下の点には触れておきたい。私は思うのだが、1846~48年のメキシコ・米国戦争と、勝利した米国がテキサス、カリフォルニアなどの広大な地域をメキシコから奪って太平洋岸へ達したことは、その後の世界にとって痛恨の出来事であった。大西洋に面しただけだった国は、「西部開拓史」の頂点をなすこの史実によって、世界最大の2つの海洋に出口をもつ大国となった。象徴都市ニューヨークを基軸に大西洋を通してヨーロッパへも、環太平洋圏にも含まれていると言い張って遠くアジアへも、そして米州圏に位置することでカリブ海域とラテンアメリカ全域へも、政治・経済・軍事・文化のあらゆる面で「浸透」を遂げてゆく世界に稀な「帝国」の礎は、まさにこの19世紀半ばの戦争と領土割譲によって築かれたのである。この出来事から5年後の1853年に、対メキシコ戦争への参戦を経て早くもインド洋に展開していた米国・ペリー総督下の艦隊は「黒船」として浦賀沖に現われ、日本に開国を迫って砲艦外交を繰り広げた。東アジア世界には精神的に閉じたままで(冷戦解消の努力もせずに「精神的な鎖国」をしたままで)「開国」を語る首相の目線は、どこを向いているのか。右に述べたような歴史的展望を背景に、首相の真意を厳しく問い質す声が、もっとあっていいだろう。]
歴史哲学を欠いた首相には、同じ水準の閣僚が随伴している。海江田経済産業相は「TPP参加は歴史の必然」と語る。前原外相は「TPPは日米同盟強化の一環」と発言する。後者の発言は、確かに、日米両国の政府関係者によって構成されている政策シンクタンクが昨秋提言した内容に合致している。軍事面での強い同盟関係には健全な財政基盤が不可欠だとする立場から、米国がすでに参加を表明しているTPPに日本も加わり、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)構想の実現へ向けて積極的な役割を果たすべきだとするのが、その提言の核心だからである。
現状では、TPP交渉への参加を表明しているのは9ヵ国だが、仮に日本がこれに参加するなら、日米合わせたGDP(国内総生産)は全体の9割を超える(2009年実績)。しかも日本は、9ヵ国のうち6ヵ国との間ですでに二国間経済連携協定(EPA)を締結している。「日米間の経済協定」でしかないTPPの本質は、ここに表われている。
米国は、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)までは、思うがままに自らの意思を押し通すことができた。余剰農産物をメキシコへ輸出し、メキシコ農業を破壊し、ただでさえ貧しいメキシコ農民をさらに貧窮に追い込んだが、知ったことか。だが、この自由貿易圏を(キューバを除く)カリブ・ラテンアメリカ全域に拡大しようとしたブッシュの試みは、自由貿易の本質を見抜いた同地の新生諸政府と民衆運動の抵抗によって、2005年に挫折した。GATT(関税及び貿易に関する一般協定)なき後のWTO(世界貿易機関)を通しての多角的交渉も失敗を重ねている。この機関が多国籍企業が企図する世界制覇の代理人であると察知した世界各地の民衆運動の粘り強い抵抗があるからである。また、農業政策をめぐって、富裕国と貧困国との間には、埋めがたい溝があるからである。
通商問題が、超大国の言いなりには進行しない現実は、こうして世界各地に作り出されている。自由貿易を、二国間あるいは「環」で括られる地域限定で実施しようとするものたちの意図を正確に射抜いた批判的言論を、「食と農のナショナリズム」から遠く離れた地点で、さらに展開しなければならぬ。(2月4日記)