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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

書評:荒このみ著『マルコムX』(岩波新書、2009年12月発行)


『北海道新聞』2010年3月7日掲載

バラク・オバマ米国大統領は自伝で、ハワイの高校時代、自分が黒人であることを自覚するうえで強烈な印象を受けたのは、マルコムXの自伝であったと語る。

マルコムXとは誰か。彼は60年代の黒人解放運動の高揚に、キング牧師と共に大きな影響力を及ぼした。

だが一般的には「非暴力の穏健派=キング牧師、暴力の行使を扇動する過激派=マルコムX」と対照的に描き出されて、白人社会では敬遠されがちであった。

本当はどうか。本書は、40 歳で凶弾に倒れたマルコムXの生涯を豊富な聞書きも交えてたどることで、今まで信じられてきたのとは異なるマルコムX像を描き出す。同時にその精神的遺産が現代にどう引き継がれているかまでを論じる。

窃盗の罪で20歳からの6年有余を獄中で過ごした。単なるマルコムの時代だ。その間、姉の導きもあって、文学書から哲学書まで広範な読書に励んだ。刑務所が、弁舌に優れた後のマルコムXを生んだ。

97年に処刑された網走生まれの「連続射殺魔」永山則夫を彷彿させる挿話だ。イスラムに帰依し、その伝道師となったマルコムは、白人に与えれた奴隷名を絶ち、アフリカの本来の苗字を象徴するXを付して、マルコムXを名乗るに至る。「未知の資質」を表わすXだとするところが含蓄深い。

本書でもっとも生彩を放つのは、彼の言葉・演説が持つ吸引力と魅力を分析した章だ。火を噴くような彼の言葉と演説は、貧困層の黒人の心をわしづかみにした。

公然たる人種差別が米国全土で行なわれていた時代であったことを思えば、例示されている言葉がどれほどの力を持ち得たかは、推測できる。死の直前、アフリカ各地を訪れ、アフリカの鼓動を感じ、米国の黒人差別問題を、より世界的な視野に収める過程の叙述も大事だ。

資本によるグローバリズムとは異質な水準で、人びとが世界的な一体感を味わっていた60年代の特質が浮かび上がるからだ。一読に値する。

軽視すべきでない新政権下の流動


「地域アソシエーション」誌72号(2010年2月28日発行)掲載

元外務省主任分析官であった佐藤優の文章には、彼の立場に賛成するか否かは別として、そこに盛り込まれている情報の量と質の両面で、傾聴に値するものが、ときどき、ある。

『情況』誌3月号には、「青年将校化する特捜検察」と題する文章が掲載されているが、そこでは、検察が小沢一郎の秘書であった石川知裕議員を政治資金規正法違反で取り調べ・逮捕・起訴した問題をめぐって、これは、民主党政権によって官僚の地位が脅かされることを嫌った検察内部の青年将校による強制捜査だとする観点から、官僚心理をめぐる独自の分析を行なっている。

丸暗記主義の国家公務員試験や司法試験を通っただけなのに、官僚は無知蒙昧な「国民」を見下し、自分たちこそが国家運営に携わっているのだ、と確信しているというのである。

国家運営の実権を、選挙の洗礼も受けていない官僚の手から奪い返し、選挙によって選ばれた政治家のもとに取り戻そうとするのが民主党政権の意図だから、そこで新政権と官僚の間での角逐がさまざまな場所で見られる。

問題は、肝心の民主党指導部の多くは元来は自民党に属していたのであり、その金権体質も権力行使の恣意性も、そのまま引きずっているから、政治家の手に実権がいくといっても、民衆のこころに高揚感が沸くことはないという点にある。案の定、首相と党幹事長の政治資金疑惑問題で、新政権は、機能不全のまま半年を経ようとしている。

私たちの多くは、自民党の退場を歓迎しつつも、新政権に全面的な信頼をおくわけには、もちろんいかず、かといって全面的に否定することも非現実的だと考えて、個別課題の現場で試行錯誤しているというのが、大方の現状だろうと思える。

私の場所から見えるいくつかの問題について書き留めておきたい。その場合、沖縄の米軍基地問題に象徴される日米同盟体制をどうするかは最大の問題のひとつだが、新政権には同盟体制を解消する意志はさらさらなく、その範囲内で基地移設の問題をめぐって各閣僚が迷走発言を続けているにすぎない。ここで言うべきことは、あまりにも明らかなので、あえて触れない。

拉致問題は、正直に言えば、新政権によって積極的な打開が図られる可能性のある案件のひとつだと私は考えていた。

拉致問題に関してつくられてきた社会的雰囲気は、歴史認識を歪め、排外主義的な日本ナショナリズムの悪扇動に道を開いてきただけに、共和国との国交正常化を実現する過程で、この雰囲気に終止符を打たなければならない。

そう考えてきた私は、「制裁ではなく交渉を」と主張し始めた拉致被害者家族会の元事務局長・蓮池透氏と対談し、『拉致対論』(太田出版)を刊行した。

刊行時期は偶然にも新政権の発足時と重なったので、私たちがそこで語り合ったことは政策提言的な意味合いも持つものとなった。結果的には(現段階では)私の希望的な観測は甘かった。

新政権でこの問題を担当しているのは、中井洽国家公安委員会委員長だが、私が見るところ、最悪の人物だと思える。

インタビューや国会審議の答弁などを読むと識見にも乏しいことがわかるが、自公連立政権時代とまったく違いのない政策方向しか持たない人物だから、である。

高校無償化法案で朝鮮学校を対象外とする政府内の動き(2月25日現在)は、中井担当相の要請によるものだが、「東アジア共同体」や「友愛外交」を掲げる首相も、この程度の水準の排外主義を諌めるだけの見識すら持たない。諦めるのではなく、政治レベルでも、当方からの多角的な働きかけがまだまだ必要な課題だと考えている。

映画『パチャママの贈り物』を観て


『新潟日報』2010年3月4日掲載

南米ボリビアの南部、チリ国境に近いあたりにウユニ塩湖が広がる。四国の半分程度の面積をもち、世界最大の塩湖だ。最近は、リチウムを産出することがわかり、世界的な注目を集めている。

塩湖が生まれるに至ったアンデス山脈独特の自然造形も興味深いが、周辺に住む人びとは塩原から切り出したブロック状の塩をリャマの背に乗せて売り歩く。

3ヵ月におよぶキャラバンである。異境の地の人びとの生活を知る文化人類学的な観点からも、大いに関心がかき立てられる。

映画『パチャママの贈り物』は、この塩湖を舞台にして展開する。パチャママとは、この地域に住む先住民族の言語で「母なる大地」を意味する。

自分たちが日々足で踏みしめている大地、しかも自然の恵みをもたらしてくれる大地は、おのずから、人びとの深い信仰の対象である。

13歳の少年コンドリは、父を手伝い、塩湖から塩の塊を切り出すのが日常だ。

いよいよキャラバンに参加できる年齢にもなった。映画は、3ヵ月のキャラバンを通して成長する少年の姿を、最後に訪れた村で出会った美しい少女との初恋物語を含めて描きだす。

アンデスの空はあくまでも青く、景色も雄大だ。あどけない表情をもつリャマの群が、たびたび登場するのも、楽しい。

それらを背景に、この地に生きる人びとの日々の生活の喜びと悲しみが浮かび上がるのは、映像の力だ。

加えて、ヨーロッパがこの地を征服して後に持ち出された鉱物資源でヨーロッパ近代の繁栄を可能にしたポトシ鉱山の様子や、ティンクのケンカ祭りの迫力ある映像などが見られて、うれしい。

私たちにとっては遥かに遠ざかってしまった、懐かしくも人間的な物語が、殺伐たる現代のなかに突然に投げ込まれたような印象を受ける。

監督は兵庫県出身で、30年近くニューヨークに在住してCMやドキュメンタリー番組を作り続けてきた松下俊文氏だ。「9・11」事件で倒壊ビルを目撃し、心身ともに揺さぶられ、出直そうと考えたそうだ。

そのとき一冊の本に出会った。私が編纂した『アンデスで先住民の映画を撮る』(現代企画室)という本だ。

先住民を歴史創造の主人公として描き出すボリビアの映画集団の試行錯誤や苦闘を、松下氏はそこに読み取り、深く思うところがあったようだ。

東京の私の事務所にいきなり電話してきたり、ボリビアに住む私の盟友、ホルヘ・サンヒネス監督を訪ねたり、行動は迅速だった。

台本準備から始まって構想以来6年の歳月をかけて、映画『パチャママの贈り物』は完成した。

人と本、人と人、人と映画、人と異境の地――これらすべての出会いは、こんなにも劇的で、楽しいものか、とつくづく思う。

追記:ホルヘ・サンヒネス監督の映画は、去る二〇〇六年、新潟シネ・ウインドで全作品が上映されたことがある。

太田昌国の夢は夜ひらく[1]横断的世界史を創造している地域と、それを阻んでいる地域


反天皇制運動「モンスター」2号(2010年3月9日発行)掲載

東欧近現代史の研究者・南塚信吾が「注目集める横断的世界史」という文章を書いている(朝日新聞2月20日付け夕刊)。

従来の国別・地域別の歴史を並列することでは、同時代を生きる国々・諸地域が相互に関連し接続している現実を見失い、全体としての世界の歴史を再構成することにはならないという反省からきているという。

トリニダード・トバゴの首相も務めたエリック・ウィリアズムの『コロンブスからカストロまで』のように、カリブ海域史を世界史との繋がりの中で書き切った優れた先例は、夙に一九七〇年に生まれているが、確かに、日本の歴史書を観ても、20世紀末以降、そのような問題意識に基づく書物が増えている。また、国境を超えた協働作業で地域史を綴る試みも目立ってきた。

この歴史意識の変化は、一九七〇年代後半以降急速に進んだグローバリゼーション(全球化)によってもたらされている一面もあるだろうが、世界的な趨勢として確立されている以上、今後は現実に先駆け、いわば「未来からの目」として機能することもあるだろう。この観点から、二つの地域の昨今の動きをふり返ってみよう。

一つ目は、ラテンアメリカ地域である。去る2月、中南米・カリブ海統一首脳会議が開かれ、「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」(仮称)を来年7月に発足させることを決めた。

51年に発足した米州機構には米国とカナダも加盟しており、59年のキューバ革命以後はキューバを孤立化させる役割を担ってきたが、今回の共同体は、逆に米国とカナダを除外し、クーデタによって生まれた政権の支配下にあるホンジュラス以外の32ヵ国が参加した。

一昨年、コロンビア軍がエクアドルに越境攻撃を行なったが、この事態を収拾するために動いたのがこの地域の諸国だった。

それが今回の、米国抜きの新機構設立に繋がった。参加国政府の対米姿勢には違いがある。

設立条約作成・分担金確定なども今後の課題であり、前途にはさまざまな困難があるだろう。

しかし、地域紛争を解決するための具体的な努力の過程を経てここに至ったこと、自己利害を賭けて常に紛争を拡大する火種である米国を排除していること、それが従来は米国の圧倒的な影響下におかれてきた地域で起きていること――その意義は深く、大きい。

世界銀行やIMF(国際通貨基金)は、世界に先駆けてこの地域に新自由主義経済政策を押し付けてきた張本人だが、最近、世銀の担当者は、「経済の多様化と富の再分配を通して貧困層を支援する」政策を採用している南米諸国のあり方を高く評価したという。

3月1日にウルグアイの大統領に就任した元都市ゲリラ=ホセ・ムヒカが年俸の(月給ではない)87%相当の一万二千ドル(約一二三万円)を住宅供給のための住宅基金に寄付したというニュースも、政治的・社会的状況の変革のなかで、政治家が身につけたモラルの高さを示している。

彼の地の人びとは、横断的地域史・世界史の創造が、日々の理論的・実践的な課題である時代を生きている。

二つ目は東アジアである。この国では、「平時」を「戦時」にするための努力が、新政権の閣僚と首相によってなされている。

鳩山政権が実施しようとする「高校無償化」をめぐって朝鮮学校をここから外そうとする動きがあるからである。

最初に言ったのは中井拉致担当相だが、彼が識見も政治哲学も欠く人物であることは、就任会見時からわかっていた。

今回の発言に怒りと哀しみと恥ずかしさはあるが、驚きはない。

その発言に、首相が乗った。「国交のない国だから、教科内容の調べようもないから」と。

日朝首脳会談以降の日本の社会・思想状況が、自らを顧みることなくして排外主義に走っている点でこれほどの惨状を呈しているのは、横断的な地域史・世界史の視点を社会全体が欠いているからである。

未だに「国史」の枠内に身を置いて恥じない地点から、中井や鳩山のような発言が飛び出してくる。

「未来からの目」どころの話ではない。首相の言う「東アジア共同体」が、彼のなかで現実感を伴っていないことも、よくわかる。したがって、と言うべきか、私たちには、この現状を変えるという課題が目前にある。まだ国会審議は続いている。

(3月6日記)

追記:生活と仕事の時間からくる制約上、原稿は深夜に書く。夜更けて、25時26時27時と、机に向かう。だいたいは、とりとめもない妄想が、そして時には、夢が、ひらいてくる。故に、ご覧のような連載タイトルとなった。乞う、ご寛容、および同志的な批判。