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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[108]文化財返還と、終わることなき植民地問題


『反天皇制運動 Alert』第36号(通巻418号、2019年6月4日発行)掲載

多面的な視点を失い一元化された情報で埋め尽くされた日の新聞を読むのは辛い。そんなことが、とみに多くなった。もちろん、テレビニュースは論外だ。そうなるときのテーマははっきりしている――天皇制、対米関係、近隣諸地域との間で継続している植民地支配をめぐる問題などだ。いずれも、深く考え、正面から向き合って論議し、解決のための歴史的かつ現実的な手立てを取ることを、社会全体として怠ってきた問題だ。その結果が、「2019年という現在」のあちらこちらにまぎれもなく表れている。ツケは大きいものだとつくづく思うが、時すでに遅し、の感がしないではない。

そんな日はできるだけ小さな記事を探す。大文字で埋め尽くされた新聞の一面や政治面はほぼ読むに堪えないからだ。最近では、5月中旬、ドイツが植民地支配への反省を強調し、ナミビアへ石柱を返還するという〔ベルリン=時事〕の小さな報道が胸に残った。石柱は高さ3・5メートル、重さ1トンで、ナミビアが持つ海岸線のどこかに建てられていたが、ドイツ統治下の1893年に持ち去られたという。そして、欧米諸国や日本のように植民地主義を実践した国ではそうであるように、この「略奪美術品」は旧宗主国の首都の歴史博物館に麗々しく飾られていたのである。独文化・メディア相は返還を発表した記者会見の場で、「植民地支配は、過去と向き合う中で盲点になってきた」と語ったという。

個人的にはナミビアを含めた南部アフリカに深い思いがある。1980年代後半から90年代初頭にかけて、南部アフリカ地域に続く人種差別体制の歴史と現実に迫るために「反アパルトヘイト国際美術展」に関わり、同時に「差別と叛逆の原点を知る」一連の書物を企画・刊行した。1994年にはアパルトヘイト体制が撤廃されるという現実の動きを伴ったこともあって、忘れ難い記憶だ。なかに『私たちのナミビア』(現代企画室、1990年)という書物があった。独立解放闘争をたたかうナミビアの人びとと、植民地支配の歴史を自己批判したドイツ人とが協働企画として実現した社会科テキストである。戦後史の中で「教科書問題」が常に争点になってきている日本の現実を思うとき、示唆に満ちた本である。

2018年8月には、独政府がナミビアを植民地支配していた1884から1915年にかけて、優生学上の資料として持ち帰った先住民19人分の頭蓋骨などをナミビア政府に返還したという報道もあった。だが、持ち去られた頭部は数千体に及ぶとする説もある。それは、1904~08年にかけてドイツ領南西アフリカ(ナミビアは当時こう称されていた)で植民地政府の暴政に対し蜂起したヘレロ人とナマ人が虐殺された出来事と深く関わっていよう。上記教科書によれば、ヘレロ人の80%、ナマ人の50%に当たる総計7万5千人が犠牲となった。その頭部が持ち去られたというのである。

その後のドイツの20世紀前半の歩みを私たちは知っている。第一次大戦で敗北したドイツは海外植民地の多くを失うが、ドイツ軍守備隊がアフリカ植民地で使用していた褐色の軍服をナチ党が買い入れて突撃隊(SA)の制服にしたこと、SAは1920年にバイエルン評議会共和国を押し潰した反革命軍事力の内部からこそ生まれたが、その指揮を執ったのは、ナミビアの植民地叛乱鎮圧の手腕を認められたフランツ・フォン・エップ将軍であったこと。そして、優生学研究が行き着いた地点も……。過去の植民地叛乱鎮圧と現代史との接点が、生々しくも見えてくるのである。

日本の遺骨返還問題をここで思い出さざるを得ない。1930年代、北大らの学者は、北海道各地・サハリン(樺太)・千島列島にあったアイヌ墓地から、人種特定のために遺骨を掘り出した。同じことは、同じ時期の琉球諸島でも行われた。返還訴訟を2012年に始めたアイヌの場合は、一定の「成果」をみている。琉球の場合は、遺骨を保存している京大が調査と返還を拒否したために係争中である。加害者側がしかるべき言動を行なわない限り、植民地支配問題に「終わり」(=真の解決)の時は来ないと知るべきだろう。(5月31日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[73]先住民族と、ひとりの作家の死


『反天皇制運動カーニバル』38号(通巻381号、2016年5月10日発行)掲載

去る2月に急逝した作家・津島佑子の作品には、初期のころから親しんでいた。ある時、某紙に載った彼女のエッセイを読むと、しばらくのフランス滞在中に、アイヌの神話・ユーカラのフランス語訳出版に協力していたという。彼女の作品には、北方、ひいてはそこに住まう先住民族と、山への関心が深まっていく様子を見て取ることができるようになった。父親が青森県、母親が山梨県の出身だから、「北」と「山」の文化への興味がわいた、とどこかで語ったことがあったようだ。20数年前、先住民族=アイヌの権利獲得の一環として、アイヌの人びとが働き、集うことができる料理店「レラ・チセ(風の家)」建設のための活動をしていた私たちは、この未知の作家に手紙を書き、レラ・チセ建設活動の呼びかけ人となってくれることを依頼した。快い承諾を得て、彼女はさらに身近な存在になった。

『アイヌの神話 トーキナ・ト ふくろうのかみの いもうとのおはなし』という絵本がある(福音館書店、2008年)。翻案された文は津島、挿画に使用されているアイヌ刺繍は宇梶静江の手になる。アイヌ文化活動家の宇梶も、レラ・チセ初期の担い手のひとりであり、現在にまで至るその活動は目覚ましい(存在感のある俳優、宇梶剛士は。彼女の長男である)。レラ・チセは十数年間に及ぶ営業ののち事情あって閉店したが、当時の若い担い手が数年前から、東京・新大久保で「北海道・アイヌ料理店/ハルコロ」(アイヌ語で、おなかいっぱい、の意)を運営している。朝鮮、中国、ベトナム、タイなどの料理店や食材店が林立し、東南アジアの人びとで賑わう「イスラーム横丁」もある新大久保に、ハルコロがあるのは似つかわしい。数年前、恥ずべき「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」のデモ行進現場ともされた新大久保界隈は、外部から悪煽動のためにやって来る者たちがいない限りは、日常的にはほんとうは、多民族共生・多文化表現の場所である。

津島佑子急逝の衝撃から書き始めたので、思わず、回顧的な書き方となったが、もう少しそれを続ける。その後、彼女の知遇を得た私は、アンデスの先住民族の世界を描いたボリビア映画上映時の対談相手をお願いしたり、彼女が高く評価するアジア女性作家の小説を翻訳・紹介する出版企画で協働したりしてきた。「3・11」後には、経産省包囲行動の現場で偶然出くわしたこともあった。その作品には、時代への危機意識が顕わになっていた。

津島の死後、早くも、遺作と最後のエッセイ集が刊行された。前者は『ジャッカ・ドフニ―海の記憶の物語』(集英社)、後者は『夢の歌から』(インスクリプト)である。時空を超えて展開する壮大な物語『ジャッカ・ドフニ』は、もちろん、興味深いが、ここでは、後者に「母の声が聞こえる人々とともに」と題した後書きを寄せている津島香以の文章で描かれている作家の晩年の姿に触れたい。2015年4月、通院治療の段階に入っていた津島は、中学校の一歴史教科書に文科省が行なった検定結果を報道した小さな新聞記事を、怒ったようにして、娘に示す。そこには「政府は、1899年に北海道旧土人保護法を制定し、狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようにすすめました」となっていた記述が、「誤解を生む」との文科省の指摘で、「アイヌの人々に土地をあたえて」と変更されたと記されていた。土地を「取り上げた」を「与えた」と変えさせるような詐術を、文科省に巣食う歴史修正主義官僚は事もなげに行なうのである。保護法には、確かに、アイヌ家族一戸当たり一定の土地を「無償下付」するとの規定があったが、それが農地に適さないものであったという事実や、それ以前の段階での土地収奪などをも無視した教科書の記述は、「歴史を偽造する」ものでしかない、と作家は怒りをもったのだろう。

先住民族は、歴史上のどこかの時点で植民地主義支配を実践した欧米日諸国によって必然的に生み出された存在である。歴史的にも、国際法上も「不法な」ところ一点の曇りもない洗練された国家であることを誇りたい欧米日諸国にとっては、国家成立の根源を問い質す存在である。国際的には、先住民族と規定された人びとに対して各国政府が特別な権利を保障しなければならないとする動きが加速している。当該の政府は、それを拒絶したい。そのせめぎ合いが、いま世界的に進行している。日本では、アイヌと琉球の地で。

「近代」が孕む問題と真正面から向き合って、文学的な格闘を続けた作家の、早すぎる死を悼む。(5月4日記)

民族問題の発信支えた「フチ」たち――チャランケ:聞く・語る・考える


『北海道新聞』2011年10月11日夕刊道東(釧路・根室)版掲載

来年になると、釧路を離れて50年目だ。この50年間関東圏に暮らしながら、異なる民族同士がどんな関係で生きていくことができるかが大事な問題だと考えてきた。釧路時代に同じ小学校で学んだアイヌの友人と30年ぶりに再会したのは1980年代半ば、昨年亡くなったチカップ美恵子さんが起こした肖像権裁判を支援する集まりの場であった。その友人は、関東圏に住むアイヌ女性たちの「レラの会」に属しており、それ以来たびたび、文化伝承と親睦のために集まる彼女たちの場に同席させてもらった。

1992年は、植民地支配や先住民族という存在を作り出す世界的なきっかけとなったコロンブスの大航海から500年目を迎えた年だった。国連は翌年を国際先住民年と決め、日本でも先住者と植民者が従来の垣根を越えて出会う機会がさらに増えた。シャモ(和人)である私も、そのために自分なりに力を尽くした。その過程で、レラの会の人たちは、経済的自立のための、またいつでも自由に集うための場所を作りたいと思うようになった。協力を乞われた私も、他の和人の友人たちと共に拠点づくりに参加した。アイヌ料理店「レラ・チセ」(風の家)が東京・早稲田にできたのは1994年のことだった

外国のメディアは、日本よりも民族問題に敏感だ。いくつもの海外メディアがこの店の誕生を報じた。研修旅行で来日した米国の教師数十人(全員が黒人だった)が昼食を食べにきた。民族問題に関わっている人が来日すると、私はその人を必ずこの店に招いた。歌や踊り、楽器演奏の交歓が、客とお店のスタッフの間で頻繁に行なわれた。もちろん、関東圏のアイヌウタリ(同胞)が、足繁く通う店でもあった。

いくつかの事情が重なって、レラ・チセは営業16年間で閉店した。創業メンバーの一人であった宇佐タミエさん(文字通りの働き者であった彼女も今夏亡くなった)の娘、照代さんはこの閉店を悲しみ、今春、新大久保に自力でアイヌ料理の店「ハルコロ」を開店した(9月13日付本欄)。ハルコロの席に座って、キトピロ(ギョウジャニンニク)やイモシト(イモ団子)などを食べていると、春採湖、チャランケチャシ、月見坂など釧路のいくつもの風景が目に浮かぶ。これはすべて、小学校時代のアイヌの旧友(因みに、彼女は宇佐タミエさんの妹、田中きよみさんだ)と30年ぶりに再会したことから始まったのだと思うと、人と人の出会いの大切さが身に染みる。

私は編集者として、また物書きとして、民族や植民地支配に関わる書物をたくさん作り、自らも発言してきた。それを支える現実感はどこにあったのかと問われるなら、レラの会の年長や同輩のフチ(おばさん、おばあさん)たちとの会話にあった、としか言いようがない。アイヌの人たちが働き、発言する場が増えることによって、和人の認識が変わり、両者の関係のあり方も変わる。それが確信できた歳月だった。出会いの力は捨てたものではない。

おおた・まさくに 1943年釧路市生まれ。62年に釧路湖陵高校卒業後、東京外語大ロシア科に進学。編集者の傍ら、自らも民族問題・南北問題をはじめ内外の政治・社会・歴史・文化の諸問題についての執筆・発言を続けている。著書に「日本ナショナリズム解体新書」(現代企画室)「拉致異論」(河出文庫)「暴力批判論」(太田出版)などがある。

太田昌国の夢は夜ひらく[19]「占拠せよ」(occupy)という語に、なぜ、私はたじろぐか


反天皇制運動『モンスター』21号(2011年10月11日発行)掲載

「ウォール街を占拠せよ!」のスローガンの下、ニューヨークで「格差NO」の動きが始まったのは9月17日のことだった。それは10年目の「9・11」から間もないころだったので、私の関心はどうしても、次の点に集中した。すなわち、経済格差や高い失業率に異議を唱えてウォール街に集まっている人びとは、米国のこの現状と、自国が10年間にわたって続けてきているアフガニスタンとイラクに対する戦争とを、いかに結びつけているのだろうか。

10月6日になって、ワシントンのホワイトハウスの近くで開かれた反戦集会には、「反ウォール街」を掲げる人びとも参加して、「アフガニスタンではなくウォール街を占拠せよ!」とのスローガンを叫んだという。当然のことながら、「強欲なウォール街」の論理に基づく戦争に対して「反戦」の課題を立てる一群の人びとが存在しているのであろう。

では「占拠せよ!」はどうだろう? それは、もうひとつのスローガン「われわれは99%だ」と共に、わかりやすく、人目を惹きつける語句である。しかし、私のように生活する言語としてではなく、文学や歴史を解釈する言語として一定の範囲内で英語に触れてきた立場からすると、occupy やoccupationには、どこか心騒ぐものがある。繰り返し言うが、生活言語として英語を使っているわけではない私にとっては、この単語は、米国が近現代史のなかで、世界中で行なってきた「軍隊による占領」をしか意味しないからである。侵略戦争を仕掛けて勝利した後の数々の「占領」。日本との帝国主義間戦争に勝利した後の「占領」。21世紀の現在なおアフガニスタンとイラクで行なってきている「占領」。この単語にも孕まれているのであろう豊富な語感を感じとることができない私は、そのゆえにであろうか、小さなこだわりを感じてきた。

その違和感を共有している文章に出会った。カナダで “rabble.ca” と題したウェブマガジンが出ている(http://rabble.ca)。「無秩序な群衆、やじうま連、暴徒」と「撹拌棒」の二つの意味がある単語だが、前者の意味で使われているのだろうか。2001年4月、ケベック市で開かれる米州サミットに抗議して、「進歩的なジャーナリスト、作家、芸術家、アクティビスト」が集まって「他では容易に入手できない」情報の伝達のために創刊したという。読み応えがあって、ときどき目を通している。その10月1日号に、ジェシカ・イェーという人物が「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」と題する文章を寄せている。彼女が冒頭で端的に言うのは以下のことである。「合州国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領はもう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はHaudenosaunee 民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことが言及されることを、私たちは待ち望んでいるのだ。」

北米先住民族の末裔であるらしいジェシカと、蝦夷地に対するコロン(植民者)の末裔である私とでは、歴史的に位置している立場が異なる。だが、私はジェシカの問題意識を共有する。彼女は「アメリカを民衆のもとに取り戻せ」とデモ参加者が叫ぶとき、その「民衆」とは誰なのか、先住民族はあらかじめ排除されているのではないか、愛国的な帝国主義言語に絡め捕られて先住民族の存在を忘却しているのではないか、と問うている。歴代の進歩主義者や左翼が、先住民族の「同意」を得ることもないままに「解放の戦略」を提示し続けてきたことに対する、抜きがたい不信を抱いている。彼女も資本主義とグローバリゼーションに終止符を打つことには賛成だが、ウォール街で立ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するばかりで、植民地主義に関する自らの「共犯性と責任」に無自覚であることに(しかも、それがあまりにも長いあいだ続いていることに)苛立っている。

これは、ウォール街での新たな胎動に冷水を浴びせる言動ではない。歴史的な過去の累積の上に現在がある以上、そこで不可避的に生まれた異なる民族同士の、支配・被支配の関係性に目を瞑るな、という呼びかけである。「継続する植民地主義」という問題意識がそこから生まれるのである。(10月8日記)

アンデス史の広がりと深みに迫る作品 ――ペルー映画『悲しみのミルク』について


あいち国際女性映画祭2011パンフレットに掲載

主人公の女性ファウスタの母親は、住まいのある山岳農村部が、政府と反政府ゲリラが激しい暴力で応酬し合う中心地になったとき、何者かに凌辱された。殺された夫のペニスを口に突っ込まれるほどの辱めも受けた。これは、5世紀前ヨーロッパ人がやってきて、集団的な強姦を含めた暴力によってこの地が征服されたという、先住民族にとっての癒しがたい記憶に繋がるものでもある。苦しみと哀しみを歌にして、母は死んだ。娘は、母が体験した苦しみが母乳を通して娘に伝わると信じるアンデス山岳民である。男たちからわが身を守るために、膣にジャガイモを埋め込んでいる。ジャガイモは生きていて、花が咲き、葉が茂る。ときどき、それを切り落とさなければならない。それは、下劣な男からわが身を守る盾であり、社会に対してわが身を閉ざす蓋でもある。

ファウスタはいま、叔父一家を頼りに首都郊外のスラムに住む。農村を離れざるを得なかった人びとが、首都の片隅でひっそりと、だが楽しげに送る日常生活の描写には見どころが多い。物語の背後には、いくつもの大事な要素がちりばめられている――母と娘が話す先住民族の母語=ケチュア語。その母語を話す庭師にはおずおずながら心を半ば開くがスペイン語の発語が容易にはできないファウスタの心のわだかまり。山岳民の土着的な信念。原産地であることからジャガイモが彼女たちの食と生活の中で果たしている重要で象徴的な役割。エリート的な都市住民を象徴する白人ピアニストの利用主義と裏切り。

これらの背景を読み取ることができれば、この映画の広がりと深みが並々ならぬものであることが理解できよう。可憐な花をつけたジャガイモの苗が、庭師から贈り届けられる最後のシーンからは、これから主人公が歩みだすであろう方向への想像も及ぼう。

『悲しみのミルク』とは意訳で、原題に忠実に訳すと『怯えた乳房』とでもなるだろう。

追記:映画祭は、2011年9月7日~11日 会場ウィルあいち

『悲しみのミルク』上映は、9月8日(木)午前10時から、大会議室。

問い合わせは専用電話 052-962-2512

「領土ナショナリズム」をどう考えるか ――2011年2月11日反「昭和の日」集会における講演(東京・千駄ヶ谷)


反天皇制運動連絡会編集『運動〈経験〉』33号(2011年7月30日発行)掲載

きょうの集会のテーマは「領土ナショナリズム」です。集会の呼びかけ文を読むと、そこには「植民地主義の継続」という問題意識があると思います。私自身も同じような問題意識を持っていますので、植民地が実質的になくなった現在にあっても、領土問題を通して否応なく現われ出てくる植民地主義を肯定し支える意識と実態が、どのように生き延びているかということをお話ししたいと思います。

この間、日本社会の中では、尖閣諸島や竹島(独島)をめぐる領土問題が非常に大きな関心を集めてきています。みなさんも、それぞれの歴史過程や現状についてはいろいろ調べられたり、分析されたりしていらっしゃると思います。私は、きょうは、この個別の問題それ自体に深入りするのではなく、それらが位置している大枠の問題について、どう考えるかというお話をしたいと思います。

第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国の支配下にあった東南アジアの諸国が次々と独立を遂げました。日本の敗戦とともに、その支配下にあった植民地も解放されました。さらに1960年には「アフリカの年」と言われるほどに、多くの国々が独立を遂げた。そういった戦後過程の中での具体的な展開があって、植民地主義そのものがすでに崩壊し、存在しなくなったという考え方が、長く続いてきたと思います。アフリカのポルトガル領植民地は1975年まで続いていましたから、すべてが一掃されたわけではなかったけれども、大きな形としてはそれらは第二次世界大戦後の過程の中で無くなったというのが世界共通の認識であった。しかしこの間改めて「継続する植民地主義」という言い方をする人たちが、全体から見れば少数派ではあるけれども、生まれてきています。私自身もそういう問題意識を共有している、そういう立場で物事を考えている人間です。そのことを前提にした上で、お話しします。

●捏造された歴史の古層

昨年、2010年という年は、前期旧石器時代の史跡捏造事件からちょうど10年目にあたりました。事件を振り返る書物も幾冊か出ました。捏造事件が発覚したのは2000年の11月で、毎日新聞のスクープで始まったわけですが、ジャーナリズムの上では、大量の報道がなされました。

事件発覚以前は、石器を発掘する特殊な能力を持っていて、「神の手」とまで称揚されていた藤村さんは、その後、「この手がだめなんだ」と言って右手の指を二本切断して、今はひっそりと暮らしておられるようです。当事者である彼自身の振り返りというのは公になってはいない。けれど、事件以前に20年間にわたって藤村氏に同伴したり称揚したりしてきた周辺の学者とか、文科省、・文化財保護局の人間などが、重い口をようやく開き始めています。

宮城県を中心に東北地方では、藤村氏が前期旧石器の遺跡から次々と石器を発掘していた時期があった。そのことによって、いわゆる日本列島の歴史は一挙に何万年、ときには10万年単位で古くなるという、そういう発見が続いたわけですね。ほかの考古学者がいくら発掘してもそのようなものは出土しない。ところが藤村氏が現れると突然のようにしてその時代の石器が現れる。結果的には、縄文遺跡から発掘した石器を、誰もいない深夜とか早朝に、発掘調査が続いている現場に埋め込んで、後日「発見した」と言って大騒ぎになるという、そういうことをしていたことがあとでわかったわけです。考古学というのは、世界どこでもそうですけれども、より古く、より大きく立派な文明が、自分たちが現在生きている地域に栄えていたんだということを実証する競争になってしまうところがあるわけです。どこまで古く自分たちの国の歴史をさかのぼることができるか、そしてそれはどれほど偉大な、当時の世界水準でいってまれに見るほど優れた水準であったかという、そういうことを競うことになる。考古学という学問の恐ろしい一面です。藤村氏が発見したという前期旧石器時代の遺跡は、まさしくそのような日本の歴史の古さを証明するものとして、当時報道されていたわけです。考古学者の中には、あまりにも奇蹟的な発見が続くので、留保したり批判したりした人もいたけれど、当時の社会状況の中ではそれは大きな声にはなりませんでした。むしろそのような批判的な考え方が疎んじられていたようです。この事件は、自国の歴史がより古く、世界にもまれな発展段階を示していたということを主張するものとして働いたわけですが、それはいわば、客観性を欠いた自国中心主義的な歴史観を日常レベルで準備する、そういうものとなっていったわけですね。

考古学というのは、それなりに人のロマンをかき立てるし、日常的な歴史意識を形づくっていく上で、大きな働きをすると思います。日本の場合、1972年に高松塚古墳が発見されました。あの壁画の鮮やかな色や形も、ちょうど高度成長期の発展する日本という感覚に沿っていたように思います。つまり、朝鮮半島や中国大陸との関係で前期旧石器時代をどう考えるのか、日本列島のみに孤絶して花咲いた、前期旧石器時代などというものがありえたのかどうかという冷静な問題意識が、まったく欠けていた。つまり日本独自文化論と言いますか、列島として、あるいは島国として孤立していることによって可能になっている「独自の文化」というものの、そういう枠組みの中に回収されていく。そういう思考の問題が残っているだろうと思います。

●3人の歴史学者──井上清

こうしたわれわれの日常的な歴史意識を形作ってきたのは、考古学だけではありません。具体的な例をあげますけれど、そこで固有名を挙げるのは、時代的な限界の中で生きた人の議論を、後世に生きるわれわれの特権で一方的に批判するためではありません。むしろ、時代的な制約の中で、人間の歴史観・世界観というものがいかに制限されてきたものであったのか。今の私たちから見れば信じられないような主張ですが、そういう時代というものがあるんだ、という、その時代の特殊性を取り出すためです。

井上清という歴史家がいます。2010年からの尖閣列島問題では、1972年に出された彼の本『「尖閣」列島──釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)を媒介にして、思い出されることが多かった人です。

戦後日本の歴史学の中ではずっと共産党の立場で発言していましたが、ちょうど中国の文化大革命のとき除名され、毛沢東派として中国べったりの発言をおこなった方です。一番よく売れた本としては、1963~66年に岩波新書で出た『日本の歴史』全3冊があります。これは今でも出ています。40刷とか50刷とか、そういう増刷を重ねている本ですから、数十万単位の人びとに読まれている本だと思います。

いわゆる人民史観と言いますか、勤労者階級のような働く人びとの立場を大事にしようという歴史観を、井上さんなりに込めた本だと思います。けれども、冒頭で展開されるのは、単一民族国家論なのです。日本は島国であることによって、「歴史をさかのぼることができる最古のときから、現在にいたるまで、同一の種族が、同一の地域、いまの日本列島の地で、生活してきた」。それは非常にまれなことであった。「日本人は、原始の野蛮から現代文明の一流の水準にまで、社会と文明を断絶することなく発展させてきた。これは日本歴史の大きな特徴の一つである」「一たん文明に到達してからの、日本社会の発展のテンポは、ときには急進しときには停滞しながらも、全体としては、けしてのろくはなかった。その何よりの証拠に、日本は現在、世界の一流の文明国である」。こういう表現が出ています。

単一民族国家論というのは、その後の現代史の過程で批判しつくされています。63年の時代にはそれが常識であったのでしょうから気の毒かもしれないけれども、しかし、井上さん自身が左翼の歴史家であったということを考えれば、いったいどうしてこのような認識が出てくるのかということは、私の価値観からすれば、今なお問うに値することです。それから、ある国が「世界の一流の文明国である」というような表現は、どう転んでも私の口からは出てこないし、おそらくこの会場におられる、2011年に生きている皆さんの口からも、出て来ようもないだろうと思う。自分の国を指して、このような表現でなにか世界の中で際立たせていく発言が、なぜ50年前の日本人左翼歴史家に可能であったのか。その後30年経ち40年経ち、井上さん自身にもいろいろな思想的な変遷があったろうけれども、それが本の書き直しとして果たされることなく、なお、そのまま増刷されていったのはなぜであろうか。そういう問題が出てくると思うのです。

このような単一民族国家論、あるいは文明国家を高度から低度までの発展段階に分けて、比較し優劣をつける。そういう歴史観・文明観というのと断絶すること。そのことが植民地主義の克服のためにはどうしても必要なことだと思います。

●三人の歴史学者──江口朴郎

もう一人、江口朴郎さんという人がいます。この方も井上さんと同じ時代の生まれで、1989年、ヒロヒトが死んだ年に亡くなっています。僕らの世代で言えば、日本共産党に属していた世界史的な視野を持った歴史家として記憶されていると思います。この方が88年段階で、こう語っています。今から23年前ですね。

「19世紀から20世紀初頭の転換期を、日本が明治憲法と教育勅語そして日清・日露戦争というかたちで乗り切ったということは、世界的に見ても、善かれ悪しかれ、たいしたことであったと思います」「アジアの諸地域が欧米列強のもとにどんどん植民地化されていくという状況のもとで、ほんの小さな可能性しかないときに、どうやって不平等条約を解消できるかというふうに考えれば、あれはとにかく善かれ悪しかれ、たいしたことですよね。19世紀から20世紀をああいうふうにのりきるこというのは、あれよりほかにはなかったんだよ」(『現代史の選択――世界史における日本人の主体性確立のために』、青木書店、1984年)。

江口朴郎は、ほとんど晩年まで共産党員で、おそらく70年代初めの「新日和見主義問題」のときに共産党から除名されて、離れた方だと思います。しかし、この物言いは、司馬遼太郎とほとんど同じ歴史観であるとわかります。昨年からNHKで、司馬遼太郎の『坂の上の雲』がドラマ化されて、不思議なインターバルで放映されています。長い時間をかけて、しかし継続的にではなく放映されている。『坂の上の雲』に凝縮された歴史観というものがどれほどひどいものであるかということについては、私も行なったことがありますし、さまざまの人の発言がすでになされています。それを私たちが聞いたり、あるいは考えたりするときに、司馬遼太郎の世界に熱狂する、主としてサラリーマン世界を中心とした男たちの世界というものを外部化して、自分とはまったく関係ない一つの傾向というふうにみなすことはたやすくできるかもしれない。しかし江口さんの今の発言を顧みるときに、このような考え方は、必ずしも自分の外部にのみあるものではないのではないか、もしかしたら自分たち自身を蝕んでいる考え方なのではないのかというふうにとらえ返すことが、どうしても必要なのではないかと思います。「善かれ悪しかれ」ということばを挟みこめば、どんな歴史的過去も無限肯定できてしまう恐ろしさが、ここには表われているのです。

●3人の歴史学者──高倉新一郎

もう一人、高倉新一郎さんという方がいます。北海道出身ではない、あるいはアイヌ史に特別な関心をお持ちでない方はご存知ないかもしれません。1902年生まれで1990年に亡くなった歴史学者です。『アイヌ政策史』(日本評論社)という本を、戦争中の1943年に出しています。そこで、明治国家がいかにアイヌを収奪・支配してきたかという歴史過程を実証的に描きました。これはいまでも、読むに値する本だと思います。

その彼が、1969年の『現代の差別と偏見』(新泉社)という本の中で「アイヌ人」という項目を担当しているのですが、そこでは次のように書いています。

「一つの民族が永久に地上から消える。大問題だが、結局は双方にとってしあわせであり“人類は一つ”の理想的な行き方でもあろう」。

永久に死滅して地上から消えていくのはアイヌ民族です。そしてそれが、アイヌ民族にとっても、日本民族にとってしあわせであると、高倉氏は言っています。

高倉さんは、先ほどふれた戦争中の重要な仕事にもかかわらず、戦後の一定の段階を経た後では、もうアイヌ民族の日本社会への同化は完了したということを基本的な考え方としてきました。その延長上で、この69年の文章も書かれていると思います。しかしこれはアイヌ民族にとってみれば、いったいどのようなことばとして聞こえるか。どれほどことば自身に暴力性が孕まれているか。植民者の側にあった、そして北海道という植民地の中において、明治以降急速に確立されていった教育制度の中で学問をおこなうことができ、大学教授になることができた高倉さんには、とうとう見えなかった問題があったのではないか。ここでも「継続する植民地主義」という問題を見抜くことが必要なのではないかというふうに思います。

私は高校を卒業するまで北海道に暮らしていたのでわかりますが、高倉さんは、当時北海道では非常に大きな勢力であった社会党のシンパサイザーであり、北海道における進歩的文化人の一人でした。つまり、ここに挙げた井上、江口、高倉という三人の方たちは、それぞれ日本の戦後過程の中では左派的な立場、いわば進歩的文化人という立場で、一定の発言権を持っていた人たちです。その人たちが展開してきた議論が、当時はこういう水準であったということをみれば、やはり社会全体の中から植民地主義的な思考が払拭されていたわけではなかったことがはっきりします。このような思考は、それから何年もたった今なお、私たちを呪縛しているのではないだろうか。そのような思考が私たちを捉えて離さないということには、ある種の必然性がある。たたかうべき敵を、すべて自分の外部に置いてしまうのではなくて、もしかしたら自分たちがこれに腐食されているのかもしれないという、そういうとらえ方をする必要が、この問題の場合にはあるのではないか、というふうに思っています。

●近代の日本とアメリカ

次に移ります。本当は地図と年表を用意すればよかったのですが、時間が足らずに自分用のメモを作るのが精一杯でした。少し聞きづらいかもしれませんが、年号がしばらく並びます。あとで地図をご覧になるなり、年表をひもといて確認していただきたいと思います。

竹島・独島の問題、尖閣列島の問題を考えるうえで私たちが注意しておかなければならないことは、これらが明治維新前後に始まった日本帝国の領土的な拡大の過程で出てきている問題であるということです。そういう歴史的な過程の中に投げ入るという方法が必要です。反天連のニュース(『反天皇制運動モンスター』2011年2月号)の連載でも、この問題には若干ふれておきました。日本が明治維新を迎えた時代と、アメリカ合衆国が太平洋に進出してくる時代と、非常に密接な関連性があるということです。

現代世界の平和と戦争をめぐる問題を考えていく上で、アメリカ帝国というものの存在がどれほど大きなマイナスの力を持っているか。それは私たちが常に行き当たる問題です。あの超大国は、今なお、世界で唯一、あの傍若無人な振る舞いが許されてしまっているわけです。それは、最初は大西洋に面した東部の小さな地域から始まりました。その後、ルイジアナやフロリダのように、フランスやスペインから金で領土を買ったり、あるいは「西部開拓史」に見るように、先住民族・インディアンの殲滅戦争をおこなった。19世紀半ばには、メキシコと戦争して、賠償としてカリフォルニア、ユタやネバダなど、メキシコ領土の半分を割譲させた。それによってアメリカ帝国は、太平洋への出口を1848年に確保したわけです。そしてあの国は、イギリス帝国にならって太平洋に艦隊を繰り出し、1853年には、メキシコ戦争にも加わったペリー総督がインド洋に展開し、本国からの指令で日本の鎖国をとくために浦賀に来航した。これが近代化へ向かう日本の一つの大きな結節点になったわけです。

ですから、今に至る日本と米国との関係というのは、この時代にさかのぼってさまざまな問題を解明していかないと、見えない問題がある。歴史的な解明は事実に則してわりあいすぐできるのですが、心理的な解明、日本の社会に深く刻み込まれてしまった米国なるものの位置、重さ、そういう心理的解明は、ここの段階にまでさかのぼって、われわれの内心をえぐるようにしてやらなければならないだろうと思うのです。

●四方向への日本の進出

ペリー来航を契機として、幕末、明治維新にかけての混乱の過程を歩んだうえで成立した明治国家が目指したのは、富国強兵という形で欧米列強にならう政策を準備していくものでした。左翼歴史家・江口朴郎氏は、まさにこの過程を不可避のものとして肯定したのです。そこで現われるものの一つは、帝国の版図の拡大ということでした。さきほど、アメリカ帝国の版図拡大の例にも簡潔に触れました。日本の列島の位置を頭に思い浮かべた時に、北へ向かってどう拡大したか、南へ向かってどう拡大したか、東へ向かってどう拡大したか、西へ向かってどう拡大したかということを、考えていく必要があるわけです。

北へ向かったときにどうなったか。明治維新は1868年ですが、その翌年、アイヌモシリ=蝦夷地は、北海道と改称されて明治維新国家が日本の領土として強制的に編入してしまいます。私の考えでは、これは日本が初めておこなった公式の植民地獲得であると思う。植民地獲得は、1894年の日清戦争後の台湾領有に始まるのではなくて、明治維新の翌年の蝦夷地の編入から始まった。

それから6年後の1875年には、千島樺太交換条約というものを、当時の帝政ロシアと結んでいます。蝦夷地を北海道として編入したことで、その近辺にある千島・樺太を領土問題としてどう捉えるかということが、当時の支配層にとって切実な問題となったのです。そこで、帝政ロシアとの一定の妥協の上で、樺太を放棄して千島を手にするという、そういう交換条約を締結したわけです。そして1905五年、日露戦争の翌年には、樺太の南半分を植民地にしています。

きょうは時間を割くことはできませんが、現在に至る北方四島問題というのも、この延長上で生まれてきていることです。ソ連時代にも、またロシアに戻ったいまも、まだ日本との間では平和条約が結ばれていない。一時実現の可能性のあった二島返還論も実現されないまま、現在のような膠着状態にあって、昨今の菅政権とロシア首脳部との外交的なやり取りが続いているという、そういう状況があるわけですね。

さて、南の方です。これも細かくあげていくといろいろあるのですが、やはり1879年の「琉球処分」、つまり琉球王国を併合して沖縄県にしたことがあります。蝦夷地を北海道にしたときから10年目のことですが、これが南方政策の決定的な節目です。これ以前には、小笠原諸島を日本領にしています。だんだん南下していくという、その意図がはっきりしていくわけですね。琉球王国の併合後には、硫黄諸島を日本領にしています。そして九五年、日清戦争の翌年には台湾や澎湖島を日本領土に編入する。年表風にこのようにたどっていけば、非常にはっきりと、近代国家としての日本帝国の意図というものが見えてきます。

1898年に、台湾とフィリピンとの境界線を明確にすることがおこなわれます。この時代、フィリピンはまだスペイン領でした。ですから境界線の策定は、スペイン帝国との間でおこなわれます。ところが、九八年に、独立戦争の勝利を間近にしたフィリピンとキューバの状況を見て、米国が対スペイン戦争に踏み切り勝利した結果、フィリピンは米国の植民地にされてしまいます。それで台湾とフィリピンの境界線は、同時に日本と米国の境界線になっていくわけです。太平洋の制覇を巡って、このように伏線が張られているわけですが、日本帝国とアメリカ帝国との間では、帝国主義同士の激しい領土争奪戦がおこなわれていたのだという形で、捉え返していくことが必要であると思います。

沖ノ鳥島という島があります。よく気象予測を聞いていると、ふだん自分たちの身近にはないいろいろな島々の名前が出てきますね。人びとは住んでいないとしても、気象庁が観測所を設けているので、そこを基点とした気象状況がラジオを通して流れるわけです。沖ノ鳥島もそのひとつですが、この島の領土編入も、いわゆる満州事変の前の1931年頃におこなわれています。ですから、これも南へ向かっての日本領土の拡大の過程の中で考えることができる。日米開戦前後、さらに海南島やベトナム、インドネシアというふうに、日本の軍政支配が南方に拡大していきます。それが大東亜共栄圏という、あのとんでもない構想として具体化していくのだと位置づければ、琉球処分を大きなきっかけとした南への進出の意味も、はっきりと見えてくるだろうと思います。

それから、東ですね。まず、1871年にハワイ王国と修好通商条約が結ばれています。1871年、まだハワイは独立王国でした。ところが、アメリカ合衆国が太平洋に向かってどんどんと進出してきますから、その過程で、1898年にハワイを併合してしまったのです。

それまで、ハワイと日本が結んでいた条約の意味は、ほとんどめぼしい島がない東に対する日本の安全弁を、どう作っておくのかという、そういうことの模索だったのでしょう。この、米国がハワイを強制併合した同じ年に、日本は、ヨーロッパによってそれまでマーカス島とかウイーク島と呼ばれていた南鳥島を、小笠原の管轄下の領土として編入しています。これが今も、日本国の最東端の島になるわけです。南鳥島という名前も気象予報に出てきますね。ここにも気象庁の観測所があって、やはり領有権主張の大きな根拠になっているわけです。

最後に西です。問題になっている尖閣諸島=釣魚島は、1895年、日清戦争の翌年に日本国が領有宣言をおこなったものです。同じ九五年には、宮古や八重島地域を日本領にしています。与那国島がいま、日本の最西端になるわけです。1905年、竹島=独島を島根県が告示して占領したということになるわけですが、その五年後には、大韓帝国が日本の植民地、支配下に置かれますから、この西に向かっての伸張というものも、非常にはっきりと帝国の意図が見えるものである、というふうに考えることができる。特に竹島=独島の場合には、前年の1904年、日露戦争のときに日本は、日韓議定書を大韓帝国に強制して、韓国領内で日本軍は自由に行動できるという条件を押しつけてしまった。翌年には外交権を奪い保護国にしてしまう。そのように国の独立というのを奪って、外交的な抵抗手段、抗議手段というものを奪った上で、それまで大韓帝国との間で係争のあったある一つの島を、領有宣言してしまうという、そういう行為自体が一体どういうことを意味するのか。そのような観点から振り返るに値するだろうと思います。

●尖閣諸島=釣魚島の問題について

尖閣の問題には、もう少しだけ触れておきたいと思います。

二国間で領土領海紛争がある問題に関しては、19世紀後半から形作られてきた国民国家の枠の中でやり取りをしていても、もはや解決不能な時代にわれわれは来ているだろう。もっと別な水準で、国家主権というものを外したような形でこの紛争地域を、たとえば共同開発・共同利用するような知恵を現代および未来の人類は編み出さなければだめだろうというのが、基本的な私の考えです。ですから歴史的にいろいろな主張をして、自分たちの国のものだとかいや違うだとかという議論も、もしかしたらこれからも必要な議論として残るかもしれないけれども、もう少し先を見すえた論議として、そこを抜け出る知恵を両方の当事者が持たなければならないだろう。そういうところに未来社会のイメージを考えたいという、そういう立場をとっていきたいのです。もちろん、その前提としては、過去において覇権主義的な行動をとった側の国が、痛切な自己批判を行なうということがあります。

さきほど、井上清さんの、尖閣諸島問題に関する歴史的分析についてふれました。私が井上さんの仕事に疑問を持つのは、この点に関わるのです。日本帝国の領土拡大の意図を批判する。その志は大事なことだと思います。しかし当時、あの仕事をなさったときの井上さんは、完全に中国文革支持派の立場であった。そのような立場からなされた分析視角には、党派的なものはなかっただろうか、という問題提起だけは、ここでおこなっておきたいと思います。人によっては論議の余地があることかもしれません。

近代日本帝国が、北へ南へ東へ西へ、いったいどのような領土拡大政策を取ってきたか。それが無謀な大東亜共栄圏構想になってしまったというのは事実です。それが、自民族はもちろん、ましてアジア太平洋諸地域の諸民族に対しては、大変な悲劇を強いてしまった。この日本近代の歴史の中から、どのような教訓を得ることが可能なのかということを考えるためのふりかえりが必要であると思っています。

●ヤポネシア論が示した視角

ここで、もう一人、歴史家の名前を上げておきたいと思います。鹿野政直さんという、沖縄問題についてもいろいろ書いておられますし、近代史学について大事な仕事をされた方です。彼の著作に、『「鳥島」は入っているか』という、岩波書店から88年に出た本があります。かいつまんで言えば、鹿野さんが、自分の立場から第二次大戦後の日本における歴史学的なとらえ方のゆがみ、偏重、中途半端さというものを内在的に捉え返した本です。このタイトルには、自分たちの歴史的視野の中には鳥島というような辺境の地は入ってこない。あくまでも中央史観・東京中心史観でやっていて、辺境の地を忘れ去ったところでわれわれの歴史観は組み立てられている、それについての反省を込めたタイトルであったわけです。鹿野さんがこの考え方をどこから得たかというと、作家の島尾敏雄の『ヤポネシア論』からです。鹿野さん自身がそう書かれています。『死の棘』という代表作を含めて、島尾敏雄は非常によい作家だと私は思っていますが、小説とは別に、「ヤポネシア論」を展開した人物としてもさまざまな影響を与えた人です。島尾さんは奄美に住んだ人ですが、1961年に奄美に住み始めた頃、この日本という地域社会の歴史をどういうふうに捉え返すかということから、この地域全体を指すことばとしてヤポネシアという言葉を使った。ネシアというのはたくさんの島々からなる地域を指すわけです。つまり日本を、たくさんの島々によって成り立っている地域として捉えるという考え方ですね。「各種の日本地図を見ますと、種子、屋久までは書き入れてありますが、その南の方はたいてい省略されています。われわれの意識の底にははずしてもいいというような感覚が残っているのです」「たとえば奄美の地図を書く時に、徳之島の西の方の鳥島を落としていても平気だという気持ちをなくしたいのです」「と同時に、日本の歴史の中であるいは日本人の中で、はじっこのほうだから、落としてもいいというふうな考え方を是正していかなければならないと考えるわけです」。

こういう島尾さんの発言をうけた鹿野さんの問題意識というものを、私たちはじゅうぶん理解しうるわけですね。いま、この会場におられる方の多くが、東京および東京周辺に住んでおられると思います。そうした場合に、たとえば私たちの視野に沖縄は入っているかということを問いかけたときに、昨年[2010年]の鳩山から菅への政権移行の時期のことを振り返ってみて、内心忸怩たるものがある。ヤポネシアのような問題意識は、東京中心主義から私たちが離脱していくためには重要な視点だと思いますが、明治維新前後からの日本帝国の版図拡大図の中に、鳥島などの問題を入れていったとき、それはまた別なものとして見えてくるのではないだろうか。島尾さんや鹿野さんのこのとらえ方というものは、一面の真理でもあるし、また別な視覚を入れて捉え返さなければならない、そういう視点を持つものだと思う。島尾さんが「ヤポネシア論」を展開してから五十年経った今の段階で、あらためてこの問題をふりかえっておく必要があるだろうというふうに思うのです。

●東アジアの困難な関係をどう越えるか

さて、尖閣や独島の問題を中心としてわき起こっている東アジアの問題には、なかなか解決のメドはつきそうにありません。政治のことばで語られている関係各国首脳のことばというのが、あまりにも貧しい。歴史的過程をふまえて冷静な形で発言をおこなっている歴史学者、あるいは、何らかの運動的なかかわりの中で発せられている別な視点が地道に打ち出されてはいたとしても、それが社会全体に浸透するだけの力を持ちえていない。愚かな各国政治家たち、民間レベルのどうしようもない評論家たち、ネット上でいたずらに煽られるナショナリズム。それらによって問題は増幅に増幅を重ねているわけです。そのような現実を見たときに、決して解決の道がここにあるというふうに誰も示すことはできない。そういう状況にあります。

中国の状況についても注意深く見ていかなくてはならないのですが、最近の動きを見ていれば、やはり軍事を中心として、大国主義的な勢いが出ています。それは否めない事実でしょう。中国国内の複数の歴史学者が、中国への沖縄返還論というものを唱えています。これは日本が沖縄を強制併合する以前にあった、琉球王国の一定の独立性を持った独自性をも無視するような暴論です。日本が沖縄を植民地化したその歴史ももちろん大変な問題であるけれども、だからといって中国の歴史学者の中から沖縄返還論が出てくるというのも、いったいどういう思想状況になっているのかと、非常に憂慮すべき部分があります。

このような問題を、いったいどのような形で解決し得るのか。なかなか困難なところを模索しなければならない。長い時間がかかることだと思いますが、可能性ということで言えば、やっぱり政治や軍事のことばでものごとを語らないという、そういうことを、どうやって徹底させることができるか。そのことをとことん試みていくしかないのではないか。

『文学界』という文学雑誌の3月号に、「東アジア文学フォーラム」という、昨年12月に北九州市で中国、韓国、日本の四十人ほどの文学者によって開かれた集まりの報告が載っています。いろいろな意味で、なかなか興味深い報告がなされていたと思います。その集まりでは、『赤いコーリャン』の原作者の莫言(モー・イェン)という中国の文学者が基調講演をしました。これは私の解釈になりますが、彼のことばの中には、いまの政治の動きを見ると、どこを向いても希望とか、はっきりした未来へ向かうイメージというのはまったくない。しかし、文学のことばをとおして、お互い国境を隔てられているもの同士が語り合えばそこで打開されていく局面というのがあると、そういう内容が含まれていたと思います。確かに、たとえば演劇でも音楽でも映画でも美術でもそうですが、そのような、いわば人間が否応なく自己表現している文化・芸術の面では、国境というのはほとんど意味をなくしている。共同で一つの制作に当たるということがあたりまえのことになっているわけですね。私自身が関わっている出版の分野でも、翻訳出版によってある国の文学や歴史読み物が紹介されていくのは普通のことです。そういう積み重ねが、政府指導者たちの、人を惑わすようなナショナリズムの言動に集約されないような、一人一人の根拠を形作っていくのではないか。そのようなところに希望を置いて、たゆみない歩みを続けていくしか、この困難な時代を突破する方法はないのではないかというふうに、私自身は考えています。

問題が非常に困難であるということは誰もがわかっていることですが、それは逆に言えば、私たちが担い得る課題がそれだけたくさんあるということを意味するわけでもある。そのような場所からそれぞれが個人として、あるいは集団・グループとして、やることを見つけ出して、世界で唯一冷戦構造が残っているこの東アジアの地で、各国政治家のように愚かなことを言い続ける者たちを追いつめて、別な世界を作り上げていく、そういう努力を続けたいと思います。

(2011年2月11日、千駄ヶ谷区民会館にて)

いわゆる「尖閣諸島」問題について


『人民新聞』2010年10月15日号掲載

国家を背景にして発言したくはない、と思い続けてきた。国家人あるいは国民という自己規定に基づいて発言することはしたくない、とも。
それは、先人たちが火傷を負い、他民族にまで害悪を及ぼした日本民族主義・日本国家主義の克服をめざす立場から、である。加えて、国家なるものは、私自身のアイデンティティを最後まで根拠づけてくれるような存在ではないからである。

人類史をふり返ってきて、たかだか数世紀の歴史しかもたない近代国家の枠組にわが身を預けてしまうことの、自他に対する「危うさ」を知ったからである。

そのような立場から、いわゆる北方諸島問題について発言したことがある。

ソ連体制末期の一九九一年、当時のゴルバチョフ大統領の来日が予定されていたころ、日本での「北方領土返還運動」はメディア上での世論扇動も、右翼の情宣活動もピークに達していた。

日本もソ連も、近代国家の枠組の論理で相互の対立的な主張を繰り返していたのだが、私の考えでは、領土問題はそのような国権の主張では解決できない種類のものであった。

近代国家の形成以前から、「無主地」であるそこを生活の現場としていた先住民族の共同管理地域として、領土紛争なき自由地とするしかない。日本からはアイヌが、ソ連からはサハリン、シベリアの北方諸民族が集って、土地と周辺海域の利用方法を考えればよい、と私は主張した。

国民国家の論理を否定するこの解決方法を「夢想」と嗤う者もいたが、国境や排他的経済水域の論理で国家同士が角突き合いしていれば解決できるという見通しを、その批判者とて持っているわけでもない。

ならば、一見したところ永遠の彼岸にあるかのごとくに見えるかもしれない、脱国家主権の論理に基づいて「地域住民」による共同管理の方途を探ることを提案し、その具体化を図るという道をたどる者がいてもよい。

その場合「地域住民」のなかには、近代国家形成の過程でそこへ「植民」してきて今も住みついている人びとを、排他的な既得権を主張しない限り排除しない、という程度の倫理を忍び込ませておけばよい。

ひとが、現存する秩序を前提としてしか発想ができないものであるならば、遠く未来を見通した理想を語ることも、来るべき未来を夢想することも、それを手近に引き寄せるために日常的な努力する者も立ち現われることはない。

いわゆる尖閣諸島(中国の言う魚釣島)をめぐって噴出している日中間の軋轢についても、私なら、同じ視点で分析する。菅民主党政権、マスメディア、北朝鮮や中国との間に緊張が走ると途端に活気づく安部晋三らの愚昧な政治家、反中ナショナリズムで沸騰する「世論」――この社会の多くの人びとは、この諸島が「日本の領土」であることと確信している。

日本政府が一八九五年の閣議決定によってここを日本領に編入し、これが歴史的に最初の「領有行為」であったから、国際法上でも、最初に占有した「先占」に基づく取得および実効支配が認められている、とするのである。

この、歴史的には後世につくられた国際法上の概念こそが、すでに既成の事実として積み重ねられてきていた、帝国主義による植民地支配を「合法化」し正当化する論理を構成してきた。

尖閣諸島の場合も、「一八九五年」という年号と「台湾」の近々である該当地域に注目するなら、やがて悲劇的に展開することになる日本帝国主義による植民地支配の一歴史的過程であることは、一目瞭然ではないか。

二一世紀も一〇年が過ぎて、国家間対立・国境紛争・経済格差・環境悪化・温暖化など人類社会が突き当たっている諸問題と真剣に向き合うならば、たとえば「領有権」問題に関して言うなら、「先占」の概念そのものを再審に付さなければならないことは、自明のことと思える。

そこへ踏み出すことなど考えたこともなく、未来永劫「国家」にしがみついていれば安心立命していられると思い込んでいる人びとが、中国を含めてどの国でも「国民」の多数派であることは、否定し難い現実だ。

一見不動に見える現実を前にしてもなお、その時代状況の中では「空想」か「夢」のような問題提起を行なう者がおり、それを実現するための、不断の運動・活動があったからこそ、惨めでもあるが進歩してきた側面もないではない「現在」があるのだ。
(10月13日記)