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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[53]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その1)


『反天皇制運動カーニバル』18号(通巻361号、2014年9月9日発行)掲載

8月5日~6日付けの朝日新聞が、いわゆる「慰安婦」問題に関する32年前の記事に過ちがあったことを認め、これを取り消したことから、右派の政治家、メディア、口舌の煽動家たちが沸き立っている。大仰な「嫌韓・反中」報道で民衆を悪煽動することが習慣化している一部週刊誌編集部が言うように、この種の記事を載せると「売れる」のだから止められない、という時勢の只中での出来事である。

一部の連中から「サヨク」とか「進歩派」と呼ばれる朝日新聞の中にも、きわめて従順な体制派の記者もデスクも編集委員もいるだろう。同じように、〈非〉あるいは〈反〉の志を個人としては持つ人間の中にも、焦りなのか未熟なのか功名心なのか、はたまた素質的に適任者ではないのか、その個人的な思いのままに突っ走り、事実の裏づけに乏しい記事を書いてしまう記者も、稀にはいるのである。それは、どの人間世界にあってもあり得るような、自然の理(ことわり)と言うべきことがらである。

「済州島で慰安婦を強制連行した」ことを自らの体験として語った元山口県労務報国会下関支部動員部長・吉田清治の「証言」を朝日新聞が取り上げたのは、1982年9月2日付け大阪本社版において、であった。この「証言」に関しては、済州新聞の現地記者が追跡調査を行なった結果、それが事実無根であることを1989年8月14日付け同紙で報道し、日本では1992年4月30日付け産経新聞が歴史家・秦郁彦の調査に基づいて、吉田証言=虚偽説を提起した。だが、秦説の説得力がメディア全体に浸透するには時間がかかり、その後もなおしばらくの間は、産経、毎日、読売の各紙とも吉田証言に一定の重要性を認めて報道していたことは、想起しておくべきだろう。朝日新聞は1997年3月31日付けで「慰安婦」問題特集を行なっているが、その段階では、吉田証言を根拠に「慰安婦強制連行」説を主張する言説は、どこにあっても、ほぼ消えている。すでに信憑性を失っていたのである。吉田清治が「慰安婦強制連行」の証言者として初めて登場してから15年の間、確かにその証言はさまざまな波紋を投げかけてきたわけだが、証言の「売り込み」を掛けられたジャーナリストの中には、当初からその信憑性を疑った者もいた。したがって、事実に迫り得るかどうか――82年に「スクープ」をした朝日新聞の記者も含めて、ジャーナリストは例外なく、確かに篩にかけられたのである。

82年の朝日新聞大阪本社版の記事取り消しは、97年のこの段階で行なわれるべきであった。91年には、元「慰安婦」金学順さんが被害者として名乗り出て、日本国家の謝罪と賠償を求めて提訴していた。国内情勢としては戦後史を長く支配した軍事独裁体制から解放されて発言の自由を獲得し、国際的には最大矛盾であった東西冷戦構造が崩壊して個々の国が抱える内部矛盾が顕わになった状況の中で、ようやくにして被害当事者が発言を始めたのだ。それが、何よりも「慰安婦」が制度として存在したことを明かしており、その証言を通して国家犯罪の実態が暴かれようとしていた。

右派メディアと極右政治家はいきり立った。左翼は――と、彼らは言った――91年にソ連が崩壊して社会主義の夢が消えたと思ったら、今度は植民地の元娼婦を持ち出してきて、反日策動を試みている、と。公娼制度が存在した時代状況の中で、彼女たちは商売としてそれに従事しただけだ、金を稼いだではないか、と。植民地下にあったのだから、日本国民である彼女たちを使っただけだ、と。

こうして、「慰安婦」問題に関わる論議は97年段階で、国家責任を「追及」する側も、「防御」にまわる側も、すでにして吉田証言にはまったく依拠することなく、沸騰していたのである。その意味では、朝日新聞の今回の措置はあまりに遅きに失した。しかも、極右政権下で問題の「見直し」が叫ばれている時期であるという意味では、あまりにもまずいタイミングであったと言わなければならない。このことは、だが、次の事実をも物語っている。「慰安婦」問題の本質は、連行の様態それ自体に「強制性」があったか否かではないこと、制度それ自体が孕む問題の根源へと批判的分析の眼を向けるべきこと。これ、である。今は元気溌剌にふるまっている首相A・Sや右派メディアが、本来なら躓いているはずなのは、ここである。【この項、続く】

(9月6日記)

社会全体に浸透した排外主義的風潮の中で


『支援連ニュース』(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議、第365号、2014年1月25日発行)掲載

虚しさに耐えながら、いわゆる右翼の言論誌を熱心に読み、そこで展開されている議論に対する批判を書き続けていたのは、1990年代だったか。文藝春秋の、いまはなき『諸君!』と産経新聞社の『正論』に掲載されている文章を相手にして、である。その後、社会総体が「右傾化」を確実に深めるにつれて、この手の雑誌は増え続けた。いま、駅前の小さな書店でさえ、雑誌コーナーにはそんな雑誌が小山をなしている。

私がこの種の雑誌の立ち読みを始めたのは1980年代前半だった。私は学生時代に、竹内好や村上一郎や橋川文三などの著書を導きにして、日本の右翼思想に触れていた。そこでは、私には同意もできず共感をおぼえることもできないことが、さまざまに展開されていたが、にもかかわらず、それを思想書として冷静に読むことは可能だった。ここを潜らなければ、近代日本が抱えた暗闇を理解することはできない、などと考えながら。

戦後も40年近くを経た段階で右派雑誌に現われた言論は、それと好対照をなしていた。

ただひたすらに、罵倒と罵詈雑言だけがそこにはあった。誰に対して? 国内の左翼に対して、そして、近隣のアジア諸国に対しての――歴史意識も、論理も、倫理も持たずに、「仮想敵」に対する悪罵に満ちた議論が商業雑誌上で大手をふってまかり通っていることに、私は「異様な」なものを感じたのである。日本国内の「進歩的知識人」や左翼に対してなら、どんなに汚い言葉で批判しても、まだしも、よい。だが、「外」に向かっての、この悪意の深さはなんなのか? 底知れぬ憎悪と悪意の根拠はなんなのか? 見過ごして、いいものだろうか? 学生時代に私が読んだ右翼の思想書には、「日本文化・歴史中心主義」は確固としてあったが、他者存在に対する悪罵はなかった。自国文化中心主義は、否応なく「排他性」をもつものだから、その点を批判的に読めばよかった。

1980年代から90年代にかけて現われた事態は違っていた。私は見過ごすべきではないと考えて、立ち読みで済ませることを止めて雑誌を買い求め、彼らが何を言っているかを紹介しながら批判を始めたのが、1990年前後だったのである。だが、市民運動の小さな機関誌に私が書くものなぞ、蟷螂の斧に等しいものだったろう。それから20数年が経って、現在の状況にまで立ち至った。

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現在のこの傾向には、いますぐにも隣国との間に戦火を交えよ、と煽動するかのような見出しが新聞広告に踊る週刊誌も加わる。産経新聞と読売新聞などの新聞メディアも加勢する。そして、体制批判的な言論人をことごとく排除した地点で成り立っているような、テレビの報道番組なる茶番劇が、この一連の情報包囲網を完成させる。そこへ政治的に登場したのが現首相A・Sであり、社会的に登場したのが在特会である。前者の第一次政権が成立したのは2006年だった。後者は2007年に社会的に公然化した。社会の最高の政治権力者である首相に、自分たちの排外主義的な思いを代弁してくれるような思想を持つ人物が就任した。違いは、あからさまにそれを語るか、それともオブラートに包んで語るか、にしかない。この事実は、在特会に大きな安堵感・安心感をもたらすものであり、自分たちが「社会的に認知された」と考えたのではないか。

得意の絶頂にあったA・Sは、わずか一年で政権の座を降りた。降りざるを得なかった。だが、3年間に及んだ民主党政権の不甲斐なさと、それを受けての自民党内部の権力争いに関わる事情から、2012年末、A・Sは首相に返り咲いた。これにふたたび勇気づけられたのか、在特会はその翌年の2013年、それまでは右に触れた右翼雑誌上にだけ留まっていた(インターネット時代を迎えた20世紀末からは、ネット上にも溢れていることは、付け加えておきたい)、外部の「仮想敵」に対する憎悪表現を社会的に「解き放った」。街頭で、民族排外主義のスローガンを公然と叫ぶ、いわゆる「ヘイト・スピーチ」によって、である。首相A・Sは国会答弁でこの在特会のふるまいに眉をひそめてみせたが、近代日本の歴史過程に関わる彼の言動の「本音」を見れば、両者はそれほど違わない位置にあることは、先にも述べたように、誰にでもわかることだろう。

この「空気」は現在行なわれている都知事選挙にも表れている。自民党都連がこの選挙において、元厚生労働相M・Yの支援を決めると、「自衛隊元航空幕僚長T・Tこそが現首相A・Sの立場に近いではないか」と主張し、支援先の変更を求める抗議のメールが多数寄せられているというニュースである。(もっとも、「T・T=A・S」という等式は、国際的には知られてはまずい「特定秘密」かもしれぬ。)

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これらすべてのことは、ひとしく物語っている――ひと握りの、愚かな保守政治家だけが諸悪の根源なのではない。社会全体が、何かの感情に駆り立てられるようにして、生き急いでいる。そのような時代が始まっているのである。そのとき「国民」内部の団結を求めるならば、その拠りどころが偏狭な民族主義になることは目に見えている。他者(他国)にひたすら悪罵を投げつけること、国内にありながらそれに付和雷同しない者がいるならそれを炙り出し、抑圧すること、これである。

繰り返し確認しなければならない。30年前、税金によって生活が保障されている国立大学教授も含めた極右の者たちが、目を疑うような悪煽動の排外主義的文章を『諸君!』誌などに発表し始めたとき、それは奇矯に見えないことはなかった。あくまで少数の復古主義者たちの心を捉えるに留まるであろう、あまりに愚かしい議論にしか思えなかった、という私自身の当時の印象も書いておこう。それは、いつしか、保守政権党内部に浸食し、リベラル派を根絶やしにしてしまった。そして、いまや、社会的にも浸透し、この社会の「雰囲気」を大きくつくり変えてしまった。この現象を、私は昨年来「〈外圧〉に抗することに〈快感〉をおぼえる」雰囲気と呼んでいる。「外部」からの批判があればあるほど、それを利用して、ナショナリズムが沸騰するのである。

2014年初春――私たちが直面している現実は、このようなものである。相手が盤石なわけではない。あまりに「極右」の道をゆくA・Sを警戒する動きが、都知事選挙などを通して、保守政治・経済の世界でも蠢いている感じがする。最近、天皇・皇后が憲法に関わる発言を何度か行なっているが、その中身を読み取ると、A・S路線への警戒心が透けて見える感じもする。「外圧」は近隣諸国のみならず、首相が頼みの綱とする、大洋の彼方の超大国からも押し寄せている。

そして最後に。以下は、この間の私の持論だが、現在の「敗北状況」をもたらした責任の、小さくない一端は、広い意味での「進歩派」と「左翼」の理論と実践の在り方にある。

それが何であり、いかに克服するかをここで述べるには、紙数が尽きた。すでに機会あるたびに触れており、今後もそのための試行錯誤を続けたい。(1月23日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[43]韓国における、日本企業への個人請求権認定の背景


『反天皇制運動カーニバル』第8号(通巻351号、2013年11月12日発行)掲載

第二次大戦中に日本企業に徴用された韓国の人びとが、その企業を相手に行なう損害請求訴訟において、請求権を認定する韓国司法のあり方が定着し始めた。この問題をめぐっては、日本のメディアには「国家間の合意に反する」とする意見が溢れている。1965年の日韓請求権協定に基づくなら、請求権問題は解決済みだとするのである。自民党総務政務官・片山さつきは「国家間の条約や協定を無視した判決を出す国が、まともな法治国家と言えるのか。経済パートナーとしても信頼できない。敗訴した日本企業は絶対に賠償金を支払ってはいけない」と語っている(8月21日付「夕刊フジ」)。これは俗耳に入りやすい論理だけに、検証が必要だ。私たちは、複雑に絡み合った歴史を解きほぐす労を惜しむわけにはいかない。いささか長くなるが、この問題を考える前提として、日本の敗戦以降の歴史過程を胸に留め置くべきだろう。事態は、植民地支配に関わる自覚、反省、謝罪、補償を実現できないまま現在に至った、私たちの戦後史に深く繋がるものだからである。

1945年8月、日本は遅すぎた敗戦を迎えた。アジア太平洋の諸地域に全面的に展開した軍隊が「敗退」を始めた後でも、それは「転戦」だと言い繕う者たちが、政治・軍事権力の座にあった。東京をはじめとする諸都市への大空襲と沖縄地上戦を経てもなお「敗戦」を認めようとしなかった支配層は、広島・長崎の悲劇を味わって後にようやく、それまでの「敵」=連合国側が提示したポツダム宣言を受け入れた。しかもそれは、天皇の「聖断」によるものである、とされた。本土決戦は回避された。空襲で焼け野原になっていた東京にあっても、皇居と国会は炎上することはなかった。ヒトラーと同じ運命を天皇裕仁がたどることは避けられた。

天皇は「現人神」から「象徴」に変身して、生き延びた。戦争を推進した多くの官僚も、戦争を熱狂的に支持した一般の国民も、戦争責任を問われることなく、延命できた。「無責任」なあり方が社会に浸透した。植民地は「自動的に」独立した。1953年のディエンビエンフーのように、1962年のアルジェのように、1975年のサイゴンのように、被植民地民衆の抵抗闘争によって日本の植民地主義が敗北した、という実感を社会総体がもつことはなかった。こうして、戦前と断絶することのない、日本の戦後が始まった。

戦後の出発点に孕まれていた「虚偽」は、戦後も継続した。いったんは武装解除され、やがて米国のアジア戦略の変更によって再武装が認められた日本は、基本的には自ら戦火に巻き込まれることなく「平和」の裡に戦後復興に邁進することができた。翻って、近代日本の植民地支配と侵略戦争および軍政支配から解放されたアジア諸地域では、内戦あるいは大国の介入による戦火が長いあいだ途絶えることはなかった。アジア民衆は、日本が戦後復興を経て高度産業社会へと変貌する過程を目撃していながら、日本の植民地支配や侵略戦争に関わる補償を要求する「余裕」などは持たなかった。

1975年、米国が敗退してベトナム戦争は終わった。アジアにおける大きな戦火が、ようやく消えた。加えて、日本の敗戦から45年を経た1990年前後から、右に概観した世界秩序に変化が現われ始めた。他の矛盾をすべて覆い隠していた東西冷戦構造が、ソ連体制の崩壊によって消滅した。韓国では軍事独裁体制が倒れた。アジアの人びとは、ようやく、自らの口を開き、過去に遡って日本との関係を問い直す条件を得た。

旧日本軍の「慰安婦」や元「徴用」工、元「女子勤労挺身隊」の人びとが、日本国家と雇用主であった日本企業に個人として賠償請求訴訟を始めたのは、この段階において、である。サンフランシスコ講和条約や日韓条約は、そもそも、植民地支配の責任を問うこともなく締結された。過去に締結された条約や協定に基づいて自己の権限を主張するのは、どの時代・どの地域を見ても、常に強者の側である。弱者であった側は、別な原理・原則に基づいて自己主張を始めざるを得ない。奴隷制、植民地支配、侵略戦争の責任の所在を問う現代の声には、そのような世界的普遍性が貫いていると捉えるべきだろう。

(11月9日記)

司馬遼太郎の「日本明治国家」論の呪縛――アニメ『風立ちぬ』が孕む問題


『映画芸術』第445号(2013年10月末刊行予定)掲載

子ども向けのアニメーション映画では、夢を追い、理想を語り、現存する価値観や秩序の外へ出て、新しいものをつくりあげていいんだよ、と呼びかけてきた宮崎駿監督が、大人のアニメーション映画をつくったときに、どんな作品が出来あがったか。『風立ちぬ』が問いかけるのは、この問題だと思う。

この映画の原作・脚本・監督のすべてに関わった宮崎は、戦争を糾弾したり、ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞したり、主人公は実は戦闘機ではなく民間機を作りたかったのだと庇ったり――それらを描くことは意図しない、と語る(「企画書・飛行機は美しい夢」、映画パンフレット『風立ちぬ』所収)。続けて、言う。「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間を描きたいのである。夢は狂気をはらむ。その毒もかくしてならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない」。

「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間」とは、この映画の主人公で、実在の人物であった堀越二郎である。戦闘機・ゼロ戦の設計者として知られる。1941年生まれの宮崎は、自他共に認める兵器愛好者であり、会議中でも雑談中でも、白い紙に思わず兵器や戦闘機をスケッチしているという挿話の持ち主である。設計物としてのゼロ戦の「美しさ」を思い、同時に、日本は愚かな戦争で「負けただけじゃなかった」と言える数少ない存在が優秀な機能をもったゼロ戦であると確信している(『朝日新聞』2013年7月20日「零戦設計者の夢」)。戦争を嫌い、武器を愛するのは「矛盾の塊」だが、「兵器が好きというのは、幼児性の発露」と自己分析する。

脚本では堀越二郎の人物像には、具体的な接点はまったくなかった同時代の作家・堀辰雄の像がフィクションとして重ね合されていることだけを付け加えておくなら、この作品にかけた宮崎の意図の説明としては、これで十分だろう。大急ぎで言っておくなら、「狂気や毒をすらはらむ夢」が描かれることになるなら、芸術作品の企図としては十全だ、とも。

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『風立ちぬ』において、宮崎の意図はどのように実現しているだろうか?

1910年代、北関東の片田舎に生を受けた二郎は、近代化以前の時代を生きていた美しい日本の風土の中で育ち、いつしか大空を風のように飛ぶ飛行機への憧れを抱く。手本として夢の中で出会うのは、同時代のイタリア航空機業の創業者、ジャンニ・カプローニ伯爵である。ユニークな型の航空機を次々と開発していたカプローニへの傾倒は、少年時代の二郎の夢の大きさを物語る。彼はその夢を実現し、大学では航空学科に学び、就職も三菱内燃機(現・三菱重工)に決まり、航空宇宙システムの分野で働く。視察・研修のためにドイツへも長期間にわたって赴く――二郎の前半生をこのように設定することには、もちろん、実在した堀越二郎の経歴が反映されていよう。同時に観客は、明治維新以降の50~60年の日本国家の歩みをそこに重ね合せることになる。二郎の人生は、欧米諸国をモデルに、富国強兵・殖産興業に邁進した歳月の国家的なあり方の縮図でしかないからである。

映画は、「自分の夢に忠実にまっすぐに生きた」二郎が開発した戦闘機・ゼロ戦が、どのように使われたかを明示しない。終盤に登場するカプリーニとの間で、「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」「はい、終わりはズタズタでした」「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは」という会話が――それは、ゼロ戦の残骸の山を前に交わされる――すべてを暗示するだけである。

冒頭で紹介した宮崎の意図からすれば、ここまで描けば十分となるのだろう。だが、映画では夢の中で出てくる爆撃シーンの先には、現実には異邦の人びとの生死があったのだという事実を無視することは、宮崎においてどのように可能になったのだろうか? この映画が主題としているのは別なことだという説明は可能だろうか? 二郎の夢にはらまれていた「狂気や毒」は、この描き方で十分だったのだろうか?

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現実の宮崎駿は、日本がアジア諸地域に対して行なった植民地支配や侵略戦争の問題について、また従軍「慰安婦」問題について、的確な批判的発言を行なってきた。その彼が『風立ちぬ』で行なった、アジア無視という歴史把握の方法には、次の問題がはらまれているのだと思える。

宮崎には、堀田善衛および司馬遼太郎と語り合った『時代の風音』という著書がある(朝日文庫、1997年。初版はユー・ピー・ユー、1992年)。若いころからの堀田の影響は大きかった、とは宮崎の言である。司馬に関しても、『明治という国家』やテレビ番組『太郎の国の物語』に非常に感動した、と述べている。『歴史の風音』の座談会自体は、堀田と司馬のふたりを軸に行なわれていくので、宮崎の発言は目立たない。私自身も、堀田独自の、歴史の重層的な把握方法には多くを学んできた。他方、司馬の『明治という国家』や『坂の上の雲』などに見られる「明るい明治」と「暗い昭和」を対比させ、両者の間に断絶をもうけて前者を称揚する方法には、あまりにご都合主義的で、歴史の見方としては成立し得ないとの批判をいだいてきた。

任意に、いくつかの司馬の発言を引いてみる。「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることはまちがいはない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追い詰められた者が生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったことはまぎれもない」(『坂の上の雲』)。

「私は軍国主義者でも何でもありません。(中略)日本海海戦をよくやったといって褒めたからといって軍国主義者だということは非常に小児病的なことです。私は彼らはほんとうによくやったと思うのです。彼らがそのようにやらなかったら私の名前はナントカスキーになっているでしょう」(『「明治」という国家』)

『この国のかたち』と題された、司馬の文明批評的な評論集の随所に見られるのは、「昭和はだめだが、明治の国家はよかった。そこまではよかった」という独特の史観である。明治国家はすでに述べたように、欧米に追随し富国強兵の道を歩み、そのことで近隣のアジア諸地域を植民地支配と侵略戦争で踏みつけにした。その延長上に、堀越二郎が生きた「大正」「昭和」の時代はくるのだから、それは連続性によって捉えるべき歴史事象であり、個人の恣意で断絶をもうけることはできない。また、歴史事象には「オモテ」と「ウラ」があり、この場合は「オモテ」だけを主題としているから、「ウラ」からの批判を免れることができるということもない。司馬の不透明な文章と物言いは、その点を曖昧模糊とさせて、ひとを幻惑する。司馬の近代日本国家論に親しむという宮崎は、『風立ちぬ』において、その轍を踏んでしまったように思える。

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最後に、次のことに触れておきたい。20年ほど前、歴史教科書において、植民地支配・侵略戦争・「慰安婦」問題などをめぐる従来の記述方法に異議を唱える「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が活発化した時期があった。漫画家・小林よしのりもその流れに参与し、独自にたくさんの漫画作品を描き始めた。それが、若者を中心としたおおぜいの読者を獲得していることを知った私は、どんな漫画なのかと思い、いくつかを眺めてみた。絵柄は好みではなく、物語の展開にも呆れる個所が多かったが、目を逸らすようにして、吹き出しの文句だけを読み急いだ。時代はすでに、左翼をはじめとする反体制の思想と運動の退潮期に入っていた。小林は、戦後進歩派や左翼が従来展開してきた戦争論や「慰安婦」問題に関わる論議のうちから、「弱点」を衝きやすい論点を誇大かつ一面的に描いては、それに反駁するという方法を駆使する場合が多かった。当時は、今なら実現しているようなネット社会ではなかった。だが、小林漫画の扇情的で独断に満ちた情報の切り出し方といい、受け手の多くがそれを唯一の解釈として受け入れ、他の情報との照合を行なって真偽を確かめるという作業を行なわない流儀といい、現在のネット空間の貧相なあり方を先取りしたような世界であった。私は、小林漫画が展開している非歴史的な「論理」(「非論理」と言うべきか)は批判したが、どこか痒いところに手が届いていない欠落感を抱えていた。

ちょうどその頃、美術史家の故・若桑みどりが行なった小林漫画についての講演を聴く機会に恵まれた。彼女もまた、あの漫画は嫌だけれども読まなければならぬといい、図像学的な分析から言えば、彼の漫画はうまく、読み手がどこに反応するかのツボを心得て描いている、と語った。物語の要所に登場しては問題を提起し、叫び、怒り、悲しむ人物には漫画家自身が投影されているが、クライマックスにおけるこの人物とその周辺の描き方は際立っており、読み手が主人公に一体化する仕掛けが施されている、というように。

アニメーション映画としての『風立ちぬ』論においても、また、このような図像的な視点からの分析・批判が必要なのだろう。現在の私にその任は担いきれないが、しかるべき方がその作業を担ってほしいと希望して、この稿を終えたい。小林と宮崎の同一性を主張したいのではない。ジブリ・グループの画の魅力を十分に弁えたうえで、物語の展開への批判を深めたいのだ。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[42]ボー・グェン・ザップとシモーヌ・ヴェーユは同時代人であった


『反天皇制運動カーニバル』第7号(通巻350号、2013年10月15日発行)掲載

ベトナムのボー・グェン・ザップ将軍の死(10月4日)を聞いて、連鎖的にいくつかの思いが浮かんだ。彼の生年は、日本で幸徳秋水ら12名が大逆事件で処刑された1911年であったから、享年102歳であった。太宰や埴谷雄高などと同世代か、と咄嗟に思った(太宰は09年、埴谷は10年の生まれである)。まず、書棚から彼の著作『人民の戦争・人民の軍隊:ベトナム解放戦争の戦略戦術』(弘文堂新書、1965年)とジュール・ロア『ディエンビエンフー陥落:ベトナムの勝者と敗者』(至誠堂新書、1965年)を取り出して、ぱらぱらと頁を繰った。彼は軍人として訓練を受けた人ではなかった。『孫子』やナポレオン戦役記を読んで軍事知識を身につけたとは、有名な逸話だ。ザップ自身の本に関しては、刊行当時も、ソ連や中国の経験の絶対化やマルクス・レーニン主義理論をベトナム的な現実に当て嵌める生硬な論理展開には納得できない気持ちを私は抱えていたには違いない。同時に、1960年代半ば、眼前で展開されている抗米闘争のめざましさを思えば、不可避的にたたかわれていたあの戦争の「正しさ」を、信じるほかはなかった。準備時期を経て1944年にフランス植民地軍とたたかうために結成された人民軍の萌芽が、翌年には占領した日本軍との戦いも強いられていく過程を読めば、(読んでいた60年代半ばの時点で言えば)20年間も絶えることなく続けられてきた武装闘争の必然性が見えてくる感じがした。「ベトナムは勝つにさえ値しない戦争に勝つより米国による占領体制を進んで選択し、日本のような戦後復興を図るほうが賢明だ」とする磯田光一(磯田『左翼がサヨクになるとき』、集英社、1986年)の考えや、「自前で武器を作る能力も持たないベトナムが他国から武器の補給を受けて戦い続けていることのばかばかしさを人類の名において鞭打つべきだ」とした司馬遼太郎(司馬『人間の集団について――ベトナムから考える』、中公文庫、1974年)の意見などは、私には論外であった。

次に思い出したのは、10月9日が46回目の命日だったこともあって、チェ・ゲバラのことである(1928~1067)。彼には、サップの『人民の戦争・人民の軍隊』キューバ版に寄せた序文「ベトナムの指標」という文章がある(1964年)。それも再読した。当時のチェ・ゲバラの発言と行動が私(たち)を惹きつけるものがあったとすれば、それは、さまざまな領域にわたる彼の言動が常に、旧来のソ連型社会主義の枠組みに疑問を呈し、それを乗り越えようとする、あるいは克服しようとする新たな観点を提起していた点にあった、と思える。その彼にして、この小さな論文では、前衛としての革命党と人民解放軍に対する無限定的な信頼は揺るぎない。「党と軍隊の親密な関係」や「軍隊と人民の間の固い絆」に対する確信も、同様である。後代に生きていることで、20世紀型革命の、悲惨な行く末を見届けることになった私たちが、今さら踏みとどまっていてよい地点だとは思えない。

最後に、ふと思いついたことは、自分でも意外だった。シモーヌ・ヴェーユの生年と没年を確かめたくなったのだ。1909~1943年であった。ボー・グェン・ザップより二歳だけ年上である。ヴェーユは極端な短命だったが、第一次世界大戦からロシア革命へ、世界恐慌からファシズムの台頭へと向かう20世紀初頭の30年有余を、ザップとヴェーユのふたりは、直接的な交流はなかったとしても、まぎれもない同時代人として生きたのであった。

1933年末、スターリン体制へと進みゆくロシア革命の過程をすでに同時代的に目撃していたヴェーユは書いている。「ロシアにおける干渉戦争は、真の防衛戦であり、我々はその戦士をたたえるべきだが、それでもロシア革命の進展にとっては越え難い障害となった。恒久的な軍隊、警察、官僚政治の廃止が革命のプログラムであったのに、革命がこの戦争のお蔭で背負わされたものは、帝政派将校を幹部とする赤軍や、反革命派よりもっときびしく共産主義者を殴打するようになる警察や、世界の他の国に類を見ない官僚政治組織なのである。これらの組織はすべて一時的な必要にこたえるはずのものであったが、それがこの必要ののちまで生きのびることは避けられなかった。一般に戦争はつねに人民の犠牲において中央権力を強化する。」(「革命戦争についての断片」、伊藤晃訳、『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』、春秋社、1968年)。

ヴェーユが、例外として挙げる史実は、パリ・コミューンだけである。同時代人ではあったが、異なる条件下の社会に生きて、社会変革の道を探り続けた三人の言動から何を学び取るかは、現在を生きる私たちに委ねられている。(10月12日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[38]歴史を「最低の鞍部で越えよう」とする論議に抗して


『反天皇制運動カーニバル』第3号=通巻346号(2013年6月11日発行)掲載

学生時代に愛読した文学者、本多秋五の『物語戦後文学史』(1958年から『週刊読書人』に連載。単行本は新潮社、1966年。現在は岩波現代文庫、全3巻)の末尾に、忘れがたい言葉があった。「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」というものである。ことは、戦後文学にのみ関わることではない。いかなる対象物であろうとも、論争の相手であろうとも、そのもっとも低い峰においてではなく、最高の(最良の)地点で越えることを呼びかける声として、私は聞き取った。理想主義にもっともよく憧れる若い時代のことだから、自分はこれを原則としたいものだ、と強く思った。その後、私と同世代の人の文章を読んでいて、本多秋五のこの表現に触れた件を何度か見かけた記憶がある。ひとつの時代を画するほどの、深いメッセージ性を帯びた言葉としてはたらいたのだろう。

従軍「慰安婦」問題をめぐって吐かれ続ける有象無象の政治家や評論家たちの言葉を見聞きしながら、不似合にも、本多のこの言葉をいく度も思い出していた。精神の、倫理的かつ論理的な高みを目指すことのない、「下品な」言葉にそれらは溢れていて、本多が呼びかけた志とは対極にあるものとして、印象が深かったからである。ここでは、それらの耐え難い言葉を再現するのは最小限に留めたいが、この現象には「時代の記憶」として再度触れないわけにはいかない。

大阪市長・橋下徹が十年前に出版した本には、次のような件があるという(5月26日付け東京新聞コラム「筆洗」から重引する)――自分の発言のおかしさや矛盾に気づいたときは「無益で感情的な論争」をわざと吹っかける。その場を荒らして決めぜりふ。「こんな無益な議論はもうやめましょうよ。こんなことやってても先に進みませんから」。

橋下は、まさしく一貫して、この「論法」に拠って生きていることがわかる。詭弁やすり替えを批判して、もしかして有効になるのは、相手がそれを恥じて改める精神を持つ場合だけである。橋下のように、それを自分の特技として誇示するような人間に対しては、有効ではない(橋下ほどのあけすけな語り口は持たないが、元首相K・Jや現首相A・Sも思想的に同根であることは、その発言歴を辿ればわかる)。問題は、今回の問題についての橋下の弁明に納得するという人びとが41%も占めるという「世論」のあり方にある(共同通信6月1~2日調査)。関西のテレビ局がわざわざ「大阪のおばちゃん」を登場させて「あの人、正しいこと言うたはんのに、周りが騒ぎ過ぎちがう?」と言わせるところにある。前号で述べたように、「外圧」に「抗する」快感を生きる「国民」が確実に増えているのである。皮相きわまりない歴史観を披歴し、同時に恐るべき排外主義的な言辞をふりまく橋下などの一握りの政治家が、決して「孤立」しているわけではないという点に、現状の深刻さが現われている。

「最低の鞍部を越える」議論の典型は、「戦場の性の問題として女性を利用していたのは日本軍だけではない」という物言いにある。アメリカ軍も韓国軍も同じではないか、といって「おあいこ」にしてしまいたい心根が透けて見える。これは、第二次大戦において国軍が組織的にこの制度(=性奴隷制)をもったのは、日本とナチス・ドイツだけであったという歴史的事実を捻じ曲げる、根拠なき言い草である。「軍に売春はつきもの」という石原発言はいかにも俗情に阿る物言いだが、「慰安婦は売春婦と同じだ」という水準に問題の本質をすり替えて「性奴隷制」の免罪を意図している。他方、石原たちには「売買春は必要だ」という男社会の「常識」が張り付いている。彼らはこの「常識」を「平時」にも「戦時」にも適用する。後者の時代であれば、食糧や物資が集中する軍隊の周辺に群がって生きるしかない一定の女性たちの「強制された生」には、思いのかけらも及ばない地点で、彼らは発言している。

半世紀前の本多秋五の言葉が持った意味をあらためて捉え返し、議論をまっとうな水準に据えなおして、私たちの歴史観・世界観を鍛えたいと思う6月である。(6月8日記)

他者不在の、内向きの「日本論」の行方


『季刊ピープルズプラン』61号(2013年5月30日発行)掲載

安倍晋三という政治家は、首相として初登場したときは「美しい国へ」という言葉で、挫折から5年半後に再登場したときには「新しい国へ」いう言葉で、日本の現状と行く先を語った。そこでイメージされている「日本」とはどういうものかを検討することが、ここで私に課されている問題である。この書のレベルを思って、そんな意味があるのか、とは問うまい。安部の登場と再登場の意味を考えるということは、ここ数十年における保守思想の流れのなかに、なぜ極右派が台頭したのかを考えることである。そのために、時代を少し遡った時点から始めたいと思う。(『美しい国へ』は2006年7月、文春新書。『新しい国へ:美しい国へ 完全版』は2013年1月、文春新書)。

(1)

一時期、私は「右派言論を読む」という作業を続けていた。集中した時期を大まかにいえば、1990年代初頭から21世紀にかけてであったと思う。自分なりに切迫した問題意識に駆り立てられていた。時代背景には、ソ連・東欧社会主義圏の無惨きわまりない体制崩壊があった。それと同時期に起こった東西冷戦構造の崩壊、イラクのクェート侵攻を契機にしたペルシャ湾岸戦争もあった。社会主義の実質的な敗北状況を見て、左派言論はみるみるうちに活力を失った。ソ連型社会主義を、「真の社会主義」の立場から夙に批判してきた者にも、ソ連崩壊はボディブローとして効いてきた。対照的に右派言論は沸き立った。「戦後の論壇は、長いこと、左翼に乗っ取られていた」と、なぜか、誤解している彼らは、ついに「われらの時代」がきたと思っているようだった。以前から、産経新聞社刊の『正論』や文藝春秋刊の(いまはなき)『諸君!』などの月刊誌は、右派言論の場として刊行されていたが、その誌面が格段に活気づいた。だが、傾聴に値する、落ち着いた論調の文章は次第に消え、ともかく進歩派と左翼に悪罵を投げつけて溜飲を下げるといった調子の、極右派の文章が増えた。その意味で、右派言論の質の低下は、隠しようもなく顕わになっていた。

それでも、その種の言論が従来とは比べものにならないほどに社会的な基盤を持ち始めている、という判断を私はもった。とりわけ、漫画家・小林よしのりによる近現代史をテーマにした一連の漫画作品が若者の心を熱狂的に捉えていることを知って、小林が描く世界に関心をもった。そして、いかなる暴論でも、それを受容する社会的な雰囲気があるときはそれを無視して済ませるわけにはいかないという考えを日ごろからもつ私は、「右派言論を批判的に読む」という課題を自分に課したのだった。

切実な課題は、逆の方向からもやってきた。良質な右派言論には、また左翼を罵倒するだけの下品きわまりない文章であっても、進歩派や左翼が持つ論理や歴史観の「弱点」を射抜く論点が、ときに見られた。それはとりわけ、ナショナリズムを問題とするときに否応なく立ち現われた。「左翼ナショナリズム」は、体制側のナショナリズムや、私が批判の対象としていた司馬遼太郎の近代日本の捉え方とも重なり合う貌をもってしまうからである。自分の外部にいる「敵」は撃ちやすい。だが、それが自分の内部にも巣食っているのかもしれないと自覚するとき――そのような「敵」に対しては、避け得ぬ課題として向き合わざるを得ないのである。

このような動機から、前世紀末のほぼ10年間、私はひたすら右派言論を読み、それを批判する作業を行なった。質が著しく低下した文章が載った単行本や雑誌を購入するために身銭を切るという意味では悔しく、それをたくさん読まなければならないという意味では虚しく、だがそれは同時に自分(たち)をもふりかえる作業であるという意味では貴重な試みではあった――と、(個人的にではあるが)今にしてふり返ることができる。

やがて21世紀が明けた。自民党内では傍流であった小泉純一郎という政治家が前面に登場したことによって、「政治」を語る言語状況が大きく変化した。論理も倫理も政治哲学も徹底して欠く小泉用語が、大衆的な支持を獲得するという時代が到来した。非論理的な言葉による「煽動政治」である。それは、前世紀末にメディア上に台頭した右派言論に向き合うこととは別な意味で、虚しさが募る時代であった。言論は劣化し、政治も劣化度を増すばかりであった。野党勢力も、政府に政策論争を挑むよりは、閣僚のスキャンダル探しに明け暮れるようになった。「政治の話題」は、その意味ではテレビといわゆるお茶の間を賑わせたが、それが「政治」の本質とは無関係であることは自明だった。

5年間に及んだ小泉時代が終わって後継者に指名されたのは、これまた時代が時代であれば保守本流にはなり得ないはずの、安倍晋三という極右政治家だった。「美しい国へ」というのが、この男が持ち出した〈政治的〉メッセージであった。その後首相となる麻生太郎も「とてつもない日本」という惹句をもって登場した。いずれも、歴史と現実に向き合う姿勢を放棄したまま、夜郎自大的に「日本」を誇示するという、成熟した大人なら口にするのも気恥ずかしさを伴うような類の表現であった。それを臆面もなく言い立てるところに、この時代の極右保守政治家の幼児性が現われていた。冒頭で触れた右派思想の劣化は、ここまできたのか、と嘆息するほかはない状況ではあった。

だが、改憲の意図を明確にもち、近代日本が歩んだ歴史過程(それを象徴するのは、他国の植民地化と侵略戦争である)を肯定的に解釈しようとする安倍が前面に登場したからには、しかもそれが一定の支持率を獲得しているからには、私は仲間と共にその政治観の空しさに堪えながら、彼の言動への注目を怠ることはできなかった。ところが、安部は病気を理由に1年後には政権を放り出した。多くの予想に反して、短命に終わったのだ。私は、それから数年後の2009年、事後的に安倍政権の性格についてあらためて分析する機会をもった。拉致被害者家族会の元事務局長・蓮池透との間で「拉致問題」をめぐって対話を行なったときのことである。その結果は、『拉致対論』と題して出版されている(太田出版、2009年)。

そのころ、蓮池はすでに初期の立場を離れて、北朝鮮の政府に対して「拉致問題の優先的解決」を譲らない、強硬一本槍の政策を主張する家族会とそれに追従するばかりの政府の路線に対する深い違和感を表明していた。異論を持つ者同士の間にも対話の時期がきたと考えて、私は蓮池に対談を申し入れた。4回に及ぶ非公開の対談においては、「拉致問題の解決のために最も熱心に努力してきた政治家である」との自負をもつ安倍について、語るべき多くのことがあった。蓮池は、安倍に対して「一定の世話にはなった」との思いがあるであろうと考えて、その批判的な分析は私が引き受けた。

安倍は、「政界」の内情を詳しく追跡している上杉隆によれば、内輪の集まりの場では「北朝鮮なんて、ぺんぺん草一本生えないようにしてやるぜえ」とか「北なんてどうってことねぇよ。日本の力を見せつけてやるぜ」といった言葉で強がりをいう人間であった(上杉隆『官邸崩壊』、新潮社、2007年)。首相になってからは、いつでもどこでも本音を口にするという態度を戦術的に止めてはいたようだが、周知のように、1年間の首相在任中に、拉致問題は解決に向けて一歩たりとも進展しなかった。逆に安部にしてみれば、「拉致問題への熱心な取り組み」は、意外な地点で裏目に出た。「拉致には熱心な安倍は、旧日本軍の性奴隷、従軍慰安婦問題の誠意ある解決には、なぜ、熱心でないのか。ひとしく人権侵害問題であるのに」という批判が、米国政府高官や主要メディアから沸き起こったのだ。そのころ、安部の表情は憔悴をきわめているように見えた。前任者が、いつも颯爽たる振る舞いの小泉であったから、それは見事なまでに対照的だった。案の定、数日して安倍は記者会見を開き、病気のため辞任すると語った。

(2)

「美しい国」日本などという、およそ政治とも思想とも無縁なイメージを掲げて登場した安倍は、実際のところ、何に躓いて挫折したのだろうか? 他者不在の、自己中心性がゆえに、である。

短く、安倍の経歴をたどってみる。安倍の述懐によれば、ある家族から、イギリスに留学していた娘が北朝鮮にいるらしいから助け出してほしいとの要請があったのは、彼が自民党所属の国会議員であった父親の秘書をしていた1988年のことである。それ以降、死んだ父親の後を継いで1993年に衆議院議員に初当選する転機の時期を挟んで、拉致被害者家族会と拉致議連が結成される1997年までのおよそ10年間、安倍は確かに、自らが属する自民党の中にあっても「奇異」に見られるほど拉致問題の解明に取り組んでいたようだ。「孤立無援に耐えながら自分だけはいち早く拉致問題に取り組んだ」という自負も顕わな安倍自身の著書を離れて、客観視するために他人の書物も参照してみよう。元共同通信記者で、安倍の父親が現役であった時代から自民党を担当していた野上忠興の著書『ドキュメント安倍晋三――隠れた素顔を追う』(講談社、2006年)を読むと、秘書時代の1988年に拉致事件のことを初めて耳にした安倍が、2002年の日朝首脳会談に至るまでの10数年間に、ただひとつ、この拉致問題を通して、自民党およびその主導下にある政府の中枢に上り詰めていった過程が、よく理解できる。当時としてはめずらしく、自民党の党内秩序である年功序列を壊して、相対的には若かった安倍が森政権(2000年7月)と小泉政権(2001年4月)の二期連続で官房副長官に任命された。それには「運」にも恵まれたと野上は書いているが、この地位に就いていたことが、2002年9月の小泉訪朝の際に、安倍が随行する機会に繋がるのである。

安倍の観点からすれば、小泉訪朝計画は、当時の官房長官・福田康夫と、外務省アジア・大洋州局長・田中均という、いうところの「対北朝鮮融和派」によって推進されていた。拉致問題については何かと口出しする「うるさい」安倍は、徹底して蚊帳の外におかれていた。それは、首脳会談から1ヵ月後に実現した拉致被害者5人の「帰国」後の処遇をめぐる論議の時点まで続いている。今後の交渉を進展させるためには「10日間程度の一時帰国だとする北朝鮮との約束を守る」べきだとする田中=福田ラインに抵抗して、安倍は田中に「あんたは北朝鮮外務省の人間か!」とまでなじって、5人の残留を主張した。安部の主張は、北朝鮮に残る子どもたちを思う苦悩の果てに残留を決意した蓮池薫ら被害者自身の選択と、結果的に合致した。この時点で、安倍は、拉致問題での政策路線をめぐる政府内および党内の闘争に勝利したのだと言える。その背景には、北朝鮮との実効性のある交渉よりも強硬な態度を優先的に求める、戦後最大の圧力団体=拉致被害者家族会の存在がある。その意向を慮って、疑問も批判もいっさい封じ込めて、家族会の考え方に追随するばかりのマスメディアと世論の動向もある。安部がこの時期について、直接的に言及している言葉は少ないが、周辺の関係者は当時の安倍の「余裕ある」態度を語り伝えている。「世論」を味方にしていると確信した安倍が、この上ない自信をもってふるまっていることがわかる。

深刻な問題は、これ以降に起こる。2002年9月の日朝首脳会談以降現在までの11年もの間、対北朝鮮政策は、その時点で融和派に「勝利」した安倍らが敷いた路線上で展開されてきた。民主党政権の時代とて、それに変化があったわけではない。その間に何が起こったのか、と問うことも虚しいほどに事態は何ら動いていない。むしろ、両国間関係は悪化している。自らが政府に強要した路線の必然的な結果とはいえ、拉致被害者の年老いてゆく家族の焦燥はつのるばかりである。

理由は明白だ。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」という、安倍らが主張する牢固たる態度が、問題を解決するためのすべての出口を塞いでいるからだ。安倍は、先述の著書のなかで、「ほんらい別個に考えるべき、かつての日本の朝鮮半島支配の歴史をもちだして、[北朝鮮に対する]正面からの批判を避けようとする」勢力がいることを批判している。安倍は、ついうっかりと、この箇所を書いてしまったようだ。北朝鮮側は、ほんらい別個に考える「べき」植民地支配の清算問題を、当然にも持ち出す。為政者としての安倍は、ほんらい別個に考える「べき」問題については、いっさい言葉を発せず、方針も示さないままでいる。安倍はこの問題を「別個に」考えたことが一度でもあったのだろうか? 拉致と植民地支配という2つの問題は、「別個に」ではあっても「同時に」考える「べき」問題だということは、外交関係の相互性からいって、当然のことである。安倍は、「美しい国」の抽象的なイメージを守るために、歴史に直面することをあくまでも避け続けるのである。

安倍の流儀で「歴史」を語るとすれば、次のようになる。「拉致問題は現在進行中の人権問題であるが、植民地問題や従軍慰安婦問題はそれが今も続いているわけではないでしょう」。「別個に考える」という発言の本音は、ここにある。「現在」と「過去」の間に高い壁を設けて、後者は「考えない」ことにするのである。しかし、歴史に関わる問題は、安倍の皮相な思いを超えて展開する。清算されていない「過去」は「現在」の問題として、人びとの意識と現実の中に存在し続けるのだ。ましてや、安倍は、「清算されるべき過去」を、実は、歴史修正主義の立場から「認めたくない」、できれば「肯定的に捉えたい」「美化したい」という本音に基づいて、非歴史的な思考回路をもつ「美しい国」論者である。そうである限り、「過去」を記憶する者は、「忘却したい」者の追跡を止めることはない。

そのような安倍を待ち構えていたのが、次の矛盾である。2000年に「女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、「慰安婦問題」と「昭和天皇の戦争責任問題」が真正面から審理された。この法廷についてNHKが制作した番組内容に、安倍ら「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が政治圧力をかけて、当初企画されていた番組内容が改竄された。このように、安倍にとっては、慰安婦制度は「美しい国」神話を守るために国家責任から解除し、あくまでも民間業者や「慰安婦」自身の「商行為」であるという範囲に押し止めなければならない問題であった。マスメディアが総体として、真実・事実を追及する姿勢をとみに失っていく状況の下で、日本国内では、安倍のこの詐術は一定の効果を上げていたのかもしれない。反撃は、思わぬところから跳んできた。米国から、である。『ワシントン・ポスト』などの主要メディア、議会、米国政府内「知日派」からすら、「拉致問題」と「慰安婦問題」(米国では、「性奴隷問題」と呼ぶほうが一般化している)という人権問題をめぐる「安倍晋三のダブル・トーク(ごまかし、二枚舌)」が公然たる批判にさらされたのである。彼は支柱と仰ぐ米国首脳部からの批判に精神的に堪えかねて、そこへ身体的不調も加わって、2007年9月の辞任に繋がった。当時の報道を見聞しながら、私はそう捉えていた。

すなわち、安倍がいう「美しい国」日本は、他者との関係で物事を考えなければならなくなるときに、即座に崩れるしかない程度の、脆弱なものであることを自己暴露したのである。

(3)

作家の辺見庸は、2007年秋、自分が入院している病院の廊下で、みな無言で浮かない顔をした背広の一団に出会った情景を描いている。

「男たちの群れの中心に、糸の切れたマリオネットのように肩をおとし、やつれはてて、生気をうしなった人間の横顔があった。いっしゅんだけ、そのひとと視線が交叉した。と、彼はすぐによどんだ目を伏せた。たじろいだのは、そのひとが体調不良を理由に辞意を表明して間もない首相だったからではない。そのとき、かれがふだんの「凶相」をしてはいなかったことと、すっかりしおたれた男の暗愁に、なんだかこころやすさをかんじてしまって、われながらとまどったのだった」(『水の透視画法』あとがき、集英社文庫、2013年)。

だが、それから5年後の思いを、辺見は続けてこう書いている。「最近、首相にかえり咲いた男をテレビで見たら、以前よりももっとこわい凶相をしていたのでぎょっとした。(中略)この世は、予感のとおり、まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」。

その昔、『政治家の文章』という好著を書いたのは作家の武田泰淳だった。それを読んで以来、私は、政治家の「文章」と、ついでに「面相」も、その人物の真贋のほどを見極める一助として観察するに値すると思うようになった。いまテレビを点け、新聞を開けば、政治指導部には辺見がいう「凶相」が勢ぞろいしている。それらの者たちはこぞって、敵対諸国を前に世界に稀な国として「日本」を誇る言動を繰り返し、閉鎖的な国家意識の中に人びと(国民、と彼らはいう)を閉じこめようとしている。彼らが、ひとり孤立している存在ならばたいしたことではない。辺見がいうように、この世が「まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」のは、この政治勢力が、民衆の無視できない規模の支持を得ているとしか思えないからである。

安倍を含めて卑小な国家指導者は、18世紀末以降ヨーロッパに構成され始めた近代的国民国家の枠組が永続的に続くものであるかのように、ふるまう。だが、1991年12月のソ連邦の崩壊は、現状では多くの人びとがこれなくしては生きてはいけないと考えているのかもしれない「国家」というものが、いかに脆く、儚いものであるかを証明した。「9・11」以後や「3・11」以後の国家社会のあり方をふりかえるとき、とりわけ論理も倫理も欠いた国家指導部を見ていると、これほどまでに理念的に貧しい連中に牛耳られている「国家」など、早晩崩れ去るほかないのではないか、人類は「国家」とは別な社会組織をつくらなければならないのではないか、という思いがこみあげてくる。

もちろん、国家を即時廃止することはできない。だから、「国家」の枠組みを尊重しながらも、各国の社会的在り方に規制を掛ける国際条約の試みが1960年代から着実に続けられてきた。私の関心の範囲で、ごくかいつまんでいくつかを挙げると、以下のようなものがある。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」と「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966)、「死刑廃止国際条約」(1989)、「組織的強姦、性奴隷、奴隷用慣行に関して被害者個人及び国家の権利及び義務を平和条約、協定などの手段によって国際法上消滅させることはできないことに留意する決議」(1999)、「先住民族権利宣言」(2007)などである。このリストは、長く続く。そして、これらの国際規約の精神をそれぞれの国で実効あるものにするためには、まだ長く歩まなければならない道程もある。だが、これは、国民国家の内向きの強制力が弱まってきたことを背景にもつ、主要には「人権」をキーワードに、国家を超えた共通の価値観をつくり出そうとする努力の表われである。

世界の、この大きな流れを見るとき、特定の「国家」の歴史、伝統、文化などに意味なく拘泥し、他者との関わり/関係性のなかで己を見つめる契機をもたない世界観を待ち受ける運命は明らかだろう。安部晋三の「日本論」を、そんな時代の仇花として、支配層ではなく民衆レベルの「国際化」の流れの中で、泡と消し去ること――それが、東アジアと世界に安定的な平和をもたらすために、私たちが担うべき「国際連帯」の課題である。

【付記】この文章の一部に、最初の安倍政権が成立した直後に書いた、私の以下の文章から流用した部分があることをお断りします。『「拉致問題」専売政権の弱み』(派兵チェック編集委員会編『安倍政権の「戦う国づくり」を問う』、2007年4月)

(4月17日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[31] 「尖閣問題」を考えるとき、私たちが立つ場所


反天皇制運動『モンスター』第33号(2012年10月9日発行)掲載

先日、「レイバーネットTV」に初めて出演した。ユーストリームを利用したオンラインニュース番組である。2010年5月以来、月2回のペースで生放送されている。当夜の「特集」は、「尖閣・竹島」に象徴される領土問題であった。番組全体の時間枠は75分間、そのうち45分が「特集」に割り当てられる。キャスター2人はもちろん、特設スタジオ内の10人近い技術スタッフの中からも質問が出たり、声がかかったりしながら番組は進行するが、45分間は、けっこう長い時間幅だ。

領土問題は、植民地主義が遺した「遺産」である場合が多い――現在、日本が直面しているそれは、その典型である――から、列強による世界分割地図や、「固有の領土」論に関わっては、いにしえの地図が必要になる。「無主地先占」論なる、聞き慣れない表現には、文字パネルが用意される。放送中とその後の反響を聴きながら、それらの素材が果たした「威力」を思った。

このテーマに関わって、言葉で表現しなければならない問題は多面的だが、これを機会にどうしても強調したい点がひとつあった。日中間に起こった、今回の不幸な事態を招いたのは、現東京都知事が去る4月米国で行なった「尖閣諸島を東京都が買い取る」とした発言にある、ということである。問題のよって来るゆえんに迫る報道が、傲岸不遜この上ないこの小人物を怖れているわけでもないだろうが、マスメディアでは弱い。対照的なことには、ネット上では、都知事批判が的確になされている。曰く「選挙公約であった米軍横田基地返還交渉も行なわずに、何が尖閣か」。曰く「140万もの人びとが住む沖縄が、米軍基地負担に喘いでいる事実に何も言及しないで、無人島へのこの異常な関心は何なのか」。曰く「原発推進派として、福島の現実にこころひとつ動かさずに、何が『国家を守る』か」。曰く「この国は元来、領土問題にはたいへん太っ腹な国で、天皇制を守るためなら沖縄くらいくれてやったではないか」。曰く「いまなお、複数の県に実効支配の及ばない広大な領土があるではないか」――これらは、ごくふつうに、ネット上で複数の人びとが発している言葉である。知事番の記者たちは、都知事をたちどころに矛盾の極致に追い詰めてしまう、この種の質問のひとつをすらしないのだろうか。

都知事を米国に招いたのは、同国ネオコンのシンクタンク「ヘリテージ財団」であった。米国右派からすれば、東アジアに安定的な平和秩序が確立されることは、忌むべきことだ。国家間に常に一触即発の緊張関係が走っているならば、米国の軍事力が、広くアジア太平洋地域に、従来のそれを上回る形で伸長し続ける理由として活用できる。誰もが言うように、領土問題は、ナショナリズムをいたく刺激する。国内に抱える諸矛盾を覆い隠すために「反中国」の悪煽動を行なえば、国内での政治的な支持を得るのは容易なことだ。それは、そのまま、日米両国の右派の利害に繋がる。都知事は、いわば彼の本質に重なる地のままで、そのための役割を演じたのだと言える。

「1895年に沖縄県に編入された」という「日本固有の領土」=尖閣諸島は、「1879年=琉球処分」という名の「ヤマトによる琉球植民地化」以降の、重層的な歴史を想起させずにはおかない存在である。同時に、敗戦後の米国による占領統治から「返還」の過程では、諸島のなかの2つの島が米軍の射撃場とされたこと(豊下楢彦『「尖閣購入」問題の陥穽』、「世界」2012年8月号)で、米国による軍事植民地化という問題をも浮かび上がらせる存在でもある。こうして、「東アジア騒乱」を望む日米右派が反中国の「切り札」として悪用している尖閣問題は、そこに平和をつくりだそうとする私たちの側からすれば、のちに米国も加担して実践されてきた、百数十年に及ぼうとする植民地主義をふり返るべき場所である。おりしも、在沖縄米軍のオスプレイ配備をめぐって、「日米の植民地」としての琉球という問題意識の大衆的な深まりが、沖縄現地からは伝えられている(たとえば、松島泰勝氏インタビュー、9月24日付毎日新聞)。ここが、私たちが踏みとどまって、問題の本質を探り続けるべき場所である。

注記――レイバーネットTVへのアクセスは、http://www.labornetjp.org/tv

(10月6日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[30]九月の出来事に、何を思うか


反天皇制運動『モンスター』第32号(2012年9月11日発行)掲載

生きてきた時代の中で、忘れられぬ出来事が詰まった月がある。個人的なことで言えば誰にせよあれこれあるだろうが、現代史の中で起きた社会性を帯びた出来事という観点から言えば、私の場合は、9月が随一だろうか。

まずは、40年近く遡る。1973年9月11日、南米チリで、社会主義政権を打倒した軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、チリの一般選挙で、社会主義者サルバドル・アジェンデが当選した。武力によってではなく、選挙を通じて成立した、世界史上初の社会主義政権であった。その3年前、隣国=ボリビアではチェ・ゲバラが殺されたが、その前後には、1959年以降「キューバに続け」とばかりにラテンアメリカ全土で闘われていた反政府武装ゲリラ闘争が相次いで敗北していた状況に照らすなら、それは、社会変革を実現するうえで新しい道を切り拓く経験であった。ひとによっては、それを「銃なき革命=チリの道」と呼んだ。

チリ革命は、政治・経済過程の変革はもとより、帝国主義文化の浸透に関わる批判的な分析で見るべき成果を挙げたが、それが3年間の試行錯誤の果てに軍事クーデタによって挫折したのだった。鉱山企業や通信事業の国有化によって、従来享受してきた特権的な利益を剥奪された米国の画策がこのクーデタの背後にあったことは、言うまでもない。平和革命の道が、相も変わらぬ、超大国が画策した軍事力によって潰えていくこと――その際立った対照性を、胸に深く刻み込んだ多くの人びとがいた。

それから28年を経た2001年9月11日、私たちの記憶になお生々しい事件がニューヨークとワシントン郊外などで起こった。高層の世界貿易センタービルや、五大陸の軍事的制覇の野望を表現しているのではないかと私が疑っている、五角形の奇怪な形をしたペンタゴン・ビルに、ハイジャック機が激突したのである。「9・11(September Eleventh)」の略称によって、世界中に知れ渡っている出来事である。私は、事件の死者たちを悼みつつも、同じ日付を持つチリ・クーデタの記憶が消えていない者の立場から、この「悲劇」を米国が独り占めすることなく、自らが世界各地で軍事力の行使によってつくり出してきた「数多くの9・11」を思い起こし、世界近現代史上におけるそのふるまいを内省する方向へ向かうこと――そのことをこそ望んだ。

その後の事実が明かしているように、実際には、そうはならなかった。むしろ、逆であった。米国の為政者は、世界史上かつってなかったような悲劇の主人公として自らを演じた。犠牲にさらされた者は、どんなことをしても許される――端的に言って、こんなことをしか語っていない大統領が行なった「報復戦争」の呼号が、米国社会を丸ごと捉えた。悲劇を口実に、新しい戦争が始められた。まずはアフガニスタンで、次いでイラクで。それからの11年間に、どれほどの悲劇が積み重ねられてきているのか。世界はまだ、正確な形では、そのことを知らない。

その翌年の9月の出来事は、東アジアの規模で起こった。2002年9月17日、日朝首脳会談がピョンヤンで行なわれた。戦後57年を経ていながら、いまだに国交回復すらできていない、したがって、植民地支配の清算もついていない朝鮮と日本、二国間の関係を正常化することが最大の眼目であった。その席上、朝鮮側首脳は、推測されてきた「朝鮮特務機関による日本人拉致」が事実であったと認めて謝罪した。植民地支配や侵略戦争を行なった過去を指して、その「加害者性」を指弾されてきた日本社会は、或る拉致被害者の家族が語ったように、「これでようやく被害者になれた」と誤解して、「負い目」を払拭した。政府も、メディアも、社会も、丸ごとそのような感情に支配されて10年――したがって、事態は膠着し、二国間の関係の正常化どころか、拉致問題の進展も見られない。こうして、戦後67年が経ってしまった。

それぞれの社会が、震撼させられる重大な事態に見舞われることで、自らをふり返り/改めるせっかくの機会を得ながら、逆にそれを自己正当化の口実にしてしまう。人間社会の愚かさを明かしているようで、9月の出来事は哀しく見える。(9月8日記)

領土問題を考えるための世界史的文脈


『月刊 社会民主』680号(2012年1月号)掲載

一  occupy という言葉に心が騒ぐ

「格差NO」のスローガンを掲げて、ニューヨークで「ウォール街を占拠せよ!」という運動が始まったことが報道された時、私は、この運動の基本的な精神には共感をもちつつも、手放したくはない小さなこだわりをもった。「占拠」を意味するoccupy という語に対する違和感である。米国の歴史は、「建国」後たかだか二百数十年しか経っていないが、それは異民族の土地を次々と「占領」(occupy)することで成り立ってきた。この度重なる占領→征服→支配という一連の行為によって獲得されたのが、現在でこそ漸次低減しつつあるとはいえ、世界でも抜きん出た米国の政治・経済・軍事・文化上の影響力である。これが、世界の平和や国家および民族相互間に対等・平等な関係が樹立されることを破壊していると考えている私にとって、それが誰の口から発せられようとoccupyや occupation という語は、心穏やかに聞くことのできない言葉なのである。

同時に、1%の富裕層に対して「われわれは99%だ」と叫ぶ、訴求力の強い、簡潔明瞭なスローガンに対しても、その表現力に感心しつつも、留保したい問題を感じた。99%という数字は、米国のこのような侵略史を(現代でいえば、アフガニスタンやイラクの軍事占領を)積極的に肯定しそれに加担している人びとをも加算しないと、あり得ないからである。問題を経済格差に焦点化して提起する、新自由主義が席捲している時代のわかりやすくはあるこのスローガンは、99%に含まれる人びとの内部に存在する政治・社会上の矛盾と対立を覆い隠してしまう。

これは、国家主義的な、したがって排外主義的な歴史観が多くの人びとを呪縛している社会にあって、私たちがどんな歴史的な想像力をもちうるか、この歴史観を変革するためにどんな努力をなしうるか、という問題に繋がっていく。焦眉の問題として「1% 対99%」という問題提起の有効性を認めるとしても、99%の中身を分析する視点は持ち続けるという意思表示である。そんなことを思いながら、米国のみならず世界各地の「オッキュパイ運動」を注視していたところ、米国内部からの次のような発言に出会った。

「アメリカ合衆国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領は、もう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はイロコイ民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことに言及されることを、私たちは待ち望んでいる」(ジェシカ・イェー「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」、ウェブマガジン“rabble.ca”10月1日号)。

ウォール街で起ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するのはいいし賛成だが、その視点だけでは、植民地支配に関わってのみずからの「共犯性と責任」をどこかに置き忘れているのではないか――ジェシカが問うているのは、そのことだろうか。

ところで、ジェシカ・イェーが言う「もう長いこと」とは、どんな時間幅だろうか? 米国の場合は、先に触れたように、1776年の「独立」以来の二百数十年となろう。あるいは、メキシコに仕掛けた戦争に勝利した米国が、メキシコから広大な領土を奪った段階(1848年)で、ほぼ現在の版図に近い米国領土が確定したことに注目するなら、「もう長いこと」とは、およそ1世紀半の時間幅となる。

問題を世界的な規模のものと考えるなら、「占領」という概念や「先住民族」という捉え方は、植民地主義支配に必然的に随伴することがらである。現代にまで決定的な影響を及ぼすことになった植民地支配の起源を、15世紀末、1492年のコロンブス大航海とアメリカ大陸への到達に求めることは、ほぼ定着した歴史観になっていると言えよう。したがって、世界的な規模では、500年以上の射程で捉えるべきことがらであることがわかる。

二 「無主の地」を先占する

自分たちの社会の構成体として国家を形成するという道を選ばなかった(選ばない)民族は、世界史上いくつもあった(ある)。国家を形成するに至った諸民族とて、21世紀初頭の現在の国家に繋がるものとしての近代国家を成立させたのは、19世紀後半である。日本近代史研究家・千本秀樹は、イタリアの留学生から、日本の学校には日本史という科目があることの不思議さを問われて虚を突かれた思いをいだいた経験を語っている(「歴史を共有するものが未来を共有する」、『現代の理論』25号、2010年秋号、明石書店)。若い国であるイタリアには、イタリア史という科目はないのだという。悲劇的な戦争や紛争の歴史を重ねることで、時代ごとに互いの版図・国境線に著しい変化を来した過去をふり返るなら、国家史ではなく地域史の観点こそが重要であることの示唆であろう。逆に言えば、周辺国家・民族との交流と抗争の歴史を思えば、現状の国境の枠内に限定した国家史・国民史を構想することの不可能性に行き着くということだろう。この事実を知れば、国家や国境が万古不易に存在してきた(している)と何故か思い込んでいる現代日本人の「常識」は根底から覆されよう。

だから、国家は歴史の問題を考えるうえでの唯一絶対の指標ではない。だが、その時代に形成された国家が、近現代の世界史上で揮ってきた他地域およびそこに住まう住民への支配力の強さからすれば、この存在を無視して問題を考えることはできない。すなわち、ここで言う近代国家こそが、植民地支配を世界各地において推進したからである。

初期植民地主義の最初の実践者となったヨーロッパ諸国は、現在のラテンアメリカ、アフリカ、アジアなど自国から遠く離れた地域にその対象を求めた。コロンブスの大航海を実現したスペインを先駆けとして、それら諸国は異民族の土地を次々と征服し、我が物としていく過程を暴力的に遂行した。歴史地図として多くの人びとの記憶にあるだろう19世紀の「アフリカ分割図」を思い起こせば、それが実感できよう。その過程で作り出されたのが、「先占の法理」である。

「先住民族」は、植民地主義が作り出した存在であることは、別な表現ですでに触れた。土地の私的所有観念を持たない先住民族の土地へ赴くことになったヨーロッパの人間たちは、その「無主の地」は我が物であるといち早く名乗りをあげて、そこを「実効支配」した国の独占的な占有地となるという「法理」を編み出したのである。これは、もちろんのことだが、ヨーロッパの植民地主義を「合理化」する論理にほかならなかった。

「無主の地」は多くの場合、ヨーロッパが欠く天然資源・香辛料・食べ物の産地であった。現地で開発を行なおうとすれば、「安価な」労働力は豊富にあった。アメリカ大陸の場合のように、そこの先住民族を大量に殺害してしまい、その後手がけることになる植民地経営のための労働力を必要とするときは、アフリカから多数の屈強な黒人を奴隷として連行すれば、それで足りた。こうして、ヨーロッパにおける資本主義の勃興と発展にとって、「無主の地」は決定的な役割を果たした(註)。

三 「固有の領土である」

ヨーロッパ列強諸国に遅れること数世紀を経てアジアで唯一の植民地帝国となった日本は、前者とは異なり、遠方の地に植民地を獲得することはなかった。台湾、サハリン南部、朝鮮というように、海洋は隔てているが、植民地化したのはすべて近隣地域においてであった。

日本による近隣地域の植民地化は、戦争を前提として成立したことを忘れるわけにはいかない。日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)である。いずれも、明治維新を経た近代日本国家が、富国強兵を旨としてヨーロッパ列強に伍そうとする路線の下で生じた戦争である。アジアの大国・清国と、ヨーロッパとアジアの双方に広がる広大な帝政ロシアに勝利したことで、日本は「アジアの盟主」を自負した尊大なふるまいを行なうようになった。近代日本は、植民地獲得後にさらにアジア・太平洋各地に対する侵略を進める一方、米国とも開戦して、破滅的な戦争に陥っていった。アジア太平洋諸地域の民衆による抵抗闘争と、1941年以来真っ向から対峙した米国軍の圧倒的な軍事力を前に、1945年、日本は戦争に敗北した。この路線を決定づけた明治維新から数えて、78年の歳月が経っていた。そして、現在、私たちは敗戦から数えて、66年目に当たる時代を生きている。双方を加算すると150年近く、およそ1世紀半の歳月である。

日本が、領土問題も含めて近隣アジア諸国との間に抱えている未決の案件があるとすれば、すべては、少なくともこの時代幅でふり返らなければならない。自民党政権時代ですら、首相レベルの談話では、日本がアジア諸地域に対してかけた多大な被害について詫びる言葉はあったのである。その反省は、戦後史の過程でどこまで社会に根づいているか、それを図る目印としてのしかるべき戦後補償は、どこまで実現しているか――を、まず問わなければならないのは日本社会である。

このことを前提として、本稿では、ここまでの叙述をうけて、領土問題について若干の考察を続けたい。敗戦から66年も経ていながら、日本は周辺諸国との間でいくつもの領土問題を係争案件として持っている。主なものを挙げると、ロシアとの北方四島問題、韓国との竹島(独島)問題、中国との尖閣諸島(釣魚島)問題――である。

特に2010年9月には、尖閣諸島をめぐって中国との間で大きな事件が起きた。尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突し、同庁が船長を逮捕した事件である。この諸島の領有権をめぐる双方の主張を詳しく検討する紙幅はない。自らの問題である日本側の主張についてのみ検討する。事件の直後、前原国土交通相(当時)は「東シナ海に領土問題は存在しない」、「(船長の処遇に関しては)国内法に基づき粛々と対応する」と語った。首相の交代で外相に就任した前原氏は、さらに「(尖閣諸島は日本の固有の領土であることに関して)我々は一ミリたりとも譲る気持ちはありませんし、これを譲れば主権国家の体をなさない」とも語っている(10月15日外務省定例記者会見)。

日本共産党が持ち出すのは、「無主の地」論である。中国の文献には、中国の住民が尖閣諸島に歴史的に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有していたことを明らかにできるような記録もない、と述べたうえで、言う。「近代にいたるまで尖閣諸島はいずれの国の支配も及んでいない、国際法にいう“無主の地”であった」。そこへ探検した某人が貸与願いを日本政府に申請したので、沖縄県などを通じてたびたび現地調査を行ない、「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である。これは“無主の地”を領有する“先占”にあたる」(『しんぶん赤旗』2010年10月5日)。これは、外務省発行の「尖閣諸島に関するQ&A」にも共通する「論理」である。

外相が「固有の領土」論を展開するとしても、その「固有性」はたかだか1895年以降のものでしかない。「固有の」という用語には、古代から本来的に、という意味合いが付着している。だが、「日本」という国号が定まったのは、研究者の間で多少の意見の違いはあるが、七世紀末から八世紀初頭である。それ以前には「日本」も、「日本国」の国制の下ある「日本人」も存在していない(網野善彦『「日本」とは何か』、講談社、2000年)。したがって、「固有の」という言葉を、このような領有権問題に用いることは妥当性を欠く。中国側も領有権を主張している以上、一方の側の閣僚が「領土問題は存在しない」と語るべきではないというのは、二国間関係を考えるうえで双方が弁えるべき必須のことだろう。

メディア上で俗に言われる「前原人気の高さ」なるものは、彼が主張する近隣アジア諸国に対する外交政策が強硬路線であることに由来している。内政上いっこうに解決しないさまざまな問題が山積しているとき、住民が抱く欲求不満の吐き出し口を外部に求めることは、歴史的に見ても、世界中の愚かな政治家や軍人が採用してきた、もっとも安易で、結果的には最悪の事態を招く政策である。この路線を推進したい者にとっては、いつも、外部の何者かが「悪」であればあるほど(「悪」として描き出すことが可能であればあるほど)、役立つのである。

共産党が依拠する「“無主の地”先占」論の妥当性も、十分に疑わしい。本稿ですでに考察したように、「無主の地」論は欧米列強がこぞって競った植民地主義支配の拡大過程で生まれた自己合理化の議論である。共産党文書は「1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である」と述べている。1895年とは、日清講和条約調印の年である。前年、日本は朝鮮半島支配をめぐって清国との間で戦争を行なった。日本は勝利し、条約によって遼東半島・台湾・澎湖列島を中国に割譲させた。台湾に近い尖閣諸島の領有宣言は、日本帝国のこの対外拡張路線=欧米列強との植民地獲得競争への参加、という枠内で行なわれている。このような経過を思えば、共産党の文書は歴史的な考察を欠いたまま、国家主権論の枠内に収まっていると言うべきだろう。

この問題について論じるべき点はまだあるが、紙数が尽きた。国家や領土の存亡を賭けて、戦争での勝ち負けを競った時代は、確かに続いてきた。だが、本稿で簡潔に述べた国家の成り立ちや国境の変遷過程を思えば、これに呪縛される考え方の限界性はあまりにも明らかであろう。年端もいかない(成立して1世紀半しか経っていない)近代国家が争う領土問題の地は、歴史的に見て、周辺に住まう多国間の住民が平和裡に共有し、協働する空間であった。解決の糸口は、戦争を好まない、国境を超えた地域住民の知恵にこそ求めるべきだろう。

(註)「無主」という概念をめぐって最近起きている事実に触れておくことは、きわめて重要なことだろう。2011年8月、福島原発事故による放射能汚染の影響を受けた福島県二本松市のゴルフ場が東京電力に汚染の除去を求める仮処分の申し立てを行なった。東電は答弁書で、大要次のように述べた。「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。なぜなら放射性物質は、もともと無主物であったと考えるのが実態に即している。所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者が放射性物質を所有しているわけではない」。東京地裁はゴルフ場の訴えを退けた(朝日新聞11月24~25日)。

本文で述べたように、資本主義は「無主の地」の身勝手な解釈を通して勃興した。21世紀の現代は、その資本主義が「グローバリゼーション」の名の下でひとつの頂点を迎えている時代であると言える。福島原発事故にもかかわらず中止されることのない、米国・フランス・日本の「原子力産業ルネサンス」に向けた動きをみると、現代資本主義と核開発の相互依存関係がわかる。生き延びを図る資本主義がここで編み出しているのが、「無主物」の論理である。これだけ多大な犠牲者を生み出している放射性物質の製造物責任を、飛散してしまったものである以上は負わないというのである。勃興期と絶頂期の資本主義が、それぞれ「無主」の概念をきわめて身勝手に、融通無碍に解釈している現実にこそ、問題の本質をうかがうことができる。