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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

社会の中の多数派と少数派をめぐる断章――選挙結果を見て


『労働情報』第854/855号(2013年1月1/15日号)掲載

社会を変えたいと思ったのは若いころのことだが、それを実現するために多数派を形成する場に自分をおこうと考えたことは、ほとんどない。現存する体制を変革したいと思う運動体・組織体の中にも、自覚的にか無自覚的にか、強権・暴力・専制をふるい、少数者や力弱きものに対して抑圧者として立ち現れる多数派や、それを上から取り仕切って自らが揮う権力の恐ろしさを疑うことすら知らない指導部がいる。それとの一体化は避けたうえでなお、社会変革運動への関わり方を模索しよう。私は、そう考えた。

だから私には、多数派であることを誇る態度に対する、根本的な懐疑がある。米国の公園占拠運動が掲げた「1%対99%」というスローガンは、格差問題に焦点を当てた判りやすいものだと感心はするが、同時に、米国の99%と言えばアフガニスタンとイラクに対する殺戮戦争を熱烈に支持する人間も含まずにはおかないのだから、この数字を強調することは内部矛盾を糊塗してしまう場合もある、などと言わずにはいられないのである。

首相官邸前や国会前で巨万の人びとと共に「原発再稼働反対!」と叫んでいても、この中で、日米安保条約破棄や死刑制度廃止などの、私が近未来に展望している課題を共有できる人は極端に少ないことを経験的に知っているから、そこにいる多数派に丸ごと同一化している実感が私にはない。巨万の人びとが持つ「反原発」の熱意を軽んじるわけでは、もちろん、ない。反原発運動の盛り上がりが、沖縄に集中している軍事基地への怒りに結びつかないことがもどかしいのだ。総人口の1%でしかない少数派の琉球人が、1947年に天皇が占領軍に発した「沖縄切り捨てメッセージ」の延長上で65年後の今なお米軍基地の重圧に喘ぐ現実を因果関係で見ると、これをつくり出しているのはヤマトの多数派の意志に他ならないとしか言いようがないのだ。だから、ヤマトの人間たちは憲法9条の護持を言いつつ日米安保にも安住しているという沖縄からの指弾を受け止めなければ、と思うのである。多数派が、少数派の強いられている現実に気づくことは、かくも難しい。

この社会の中で保守言論が次第に力を得はじめる出発点は1990年前後だったと言える。それは、「革命・革新」を掲げる言論と運動が、世界でも日本でもその影響力を急速に失い始めた時期に重なっている。私は、保守言論が根を張る社会的な基盤の問題としては軽視すべきではないと考え、それらの言論を読み込み、批判する作業をしばらくの間続けた。歴史・論理・倫理などの面から見て支離滅裂な議論を相手にするのは、深い虚しさを伴うことだった。その歴史観が若者の間に浸透しつつあるようだということが、私がその作業の虚しさに堪え得た唯一の理由だった。だが、それから20数年が経って振り返ってみれば、その言論傾向は社会全体を浸しているのであった。

決定的な契機はあった。小泉時代である。政治・社会の中で論理が機能しなくなった例を日本現代史に探るなら、すぐに行き当たるのは小泉政権時代である。思い出すことも忌わしい数々の非論理的で、無責任な発言をこの男は行なった。それが大衆のレベルでは人気上昇の契機にもなった。非論理的な決め台詞が大衆的な喝采を浴びるという状況は、この社会では議論や討論が成り立たなくなったことを意味している。〈政治〉は、テレビスタジオで声の大きな政治屋が芸人相手に与太話に興じるものと化し、投票行動もまたそのレベルで行なわれるようになったのである。

国内には、先行きに対する不安と不満が渦巻いている。その解決に向けた地道な討論よりは、外部にいる、目に付きやすいものを「敵」に仕立て上げればよい。東アジア地域には、その意味では「恰好な敵」が多い。

私たちはいつのまにか、衆寡敵せず、の状況に追い込まれていたのである。

今回の選挙結果に見られる「危機的な状況」に即呼応できる指針があるわけではない。政治とは、つまるところ、議会内の議員の数のことだと観念するなら、確かに、危機は深い。絶対無勢ながら〈議会外〉から議会内に対応しなければならない期間が、少なくとも数年間は続く。他方、選挙とは、もっとも性悪な人物を自らの代理人として選ぶ儀式と化している、というのが私の確信だ。それが、もっとも悲劇的な形で実現してしまった今回の選挙の当選者の顔写真を一瞥すれば、納得する人も多いだろう。私たちが獲得すべき〈政治〉は、ほんとうに、こんな醜悪な連中の手中にすべて握られているのだろうか? 〈政治〉とは何か、という哲学的・現実的な問いを、選挙の結果とは別に、永続的に自らに突きつけて私たちは歩みたい。その時、「危機」はひたすら外在化されることなく、主体内部のものとしても自覚されるのだ。

(2012年12月18日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[33]ヤマトの政府と「民意」の鈍感さに見切りをつけた琉球弧の運動


反天皇制運動『モンスター』第35号(2012年12月4日発行)掲載

「アメリカへ軍事基地に苦しむ沖縄の声を届ける会」は、2012年1月下旬に訪米団を派遣した。ささやかな旅費カンパを行なった私のもとに、10月30日付けで発行された「訪米団報告集」が届いた(インターネットをお使いの方は、会の名前を入力すると、いくつかの情報源に行き着くことができる)。

冒頭にある団長・山内徳信の文章はのっけから次のように始まる。「日本政府に訴えても聞いてもらえないならば、基地の運用者であるアメリカ政府や連邦議会、アメリカ市民へ訴えよう」と。ここで言う「日本政府」の背後には、これを支えてきた日本社会の「民意」か「世論」が存在しているわけだから、私たちも無傷では読むことのできない文言である。まず、二つの論点をここから引き出しておきたい。沖縄の民衆が持つ日本政府に対する絶望感が、歴代のそれに対して積み重ねられてきたものであることは、戦後史を顧みるなら当然理解できることだ。だが、時期に注目して直接的な要因を探れば、普天間基地に関して「最低でも県外」移設を掲げて挫折した鳩山元首相の一件に由来することは、見えやすい道理である。彼には確かに「政治力の不足」が見られたが、それと同時に見ておくべきは、彼の企図が「辺野古移設を既定路線とする米国側と日本の外務、防衛両省上層部からの反撃」に見舞われたことである(『文藝春秋オピニオン 二〇一三年の論点百』所収の鳩山論文)。この点は私も何度か指摘してきたが、メディアと多数派世論は鳩山の「公約違反」を論うばかりで、外務・防衛官僚上層部によって鳩山案に対する妨害工作が行なわれたことに触れる議論は極端に少ない。ここにこそ、あの事態の本質を見るべきであろう。

ふたつ目は、この事実を自覚したうえでなお、米国から見れば、日本の「国内問題」でしかないものをわざわざ米国まで出かけてきて訴えるのはお門違いではないか、という反応に見舞われるに違いないということである。事実、代表団メンバーの報告を読むと、応対した米国の議員からは、そうした趣旨の指摘が幾度も返ってきている。日本社会の中でそのケリがつけられていないという意味において、この指摘はヤマトの私たちにも痛覚をもたらす。代表団には、その時の居心地の悪さを予感するものがあったと思われるが、それでもなお訪米した意図は何か。参加した糸数慶子によれば「米国内で財政赤字削減計画の一環として国防費の大幅削減が計画され、そのため海外の米軍基地の大幅見直しの動きがあり、米国連邦議会の有力議員や有識者、シンクタンクの中からも沖縄の米軍基地の整理・縮小や在日米軍の再編を求める声が高まり、このタイミングでの訪米は千載一遇のチャンスであった」ということになる。事実、基地支配者である米国政府(国務省、国防省)や連邦議会の上下両院議員、補佐官、シンクタンク、駐米日本大使など62ヵ所にも及ぶ訴えは、かつてない「民衆による直訴行動」であったようだ。

結果は、もちろん、楽観的なものではあり得ない。しかし、真剣な議論もないままに、駐留米軍の「抑止力論」に終始する日本政府・官僚(何度でも書かねばならないが、その背後にあるヤマトの「民意」!)の「無感覚な対応」(山内徳信の言葉)に翻弄されてきた代表団にしてみれば、米国側のそれは「率直で、新鮮であった」という感想を一様に述べている点が注目される。問題提起がなされれば、最後の一線を譲る気持ちはさらさらないとしても、「議論を通してその提起を受け止める」という態度が見られたのであろう。それを「率直で、新鮮」と言わざるをえない心中を察したいと思う。

他方、「琉球弧の先住民族会」のメンバーである親川志奈子は、ジュネーブの国連人権理事会先住民族部会で「先住民族という視座」から、琉球の軍事化や基地被害についての訴えを行なった経験を報告している(『世界』12月号)。『世界』掲載の文章には珍しく、生活と文化に根差した豊かな視点から、「脱植民地化を実践し生きていく」展望を語っている。彼女の文章は「そして問い続ける、沖縄を目の前にして日本人はどう生きるのかと」という言葉で結ばれている。

沖縄での注目すべき動きが、期せずしてか、ヤマトの政府と「民意」の鈍感さに見切りをつけ、世界からの包囲網の形成に向かっている現実に目を向けたい。  (12月1日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[32]10年目の拉致被害「帰国」者の言葉


『反天皇制運動モンスター』第34号(2012年11月6日発行)掲載

朝鮮特務機関による拉致被害者の蓮池薫氏が『拉致と決断』と題する著書を出した(新潮社)。同社のPR小冊子「新潮」に2年間ほど連載されていたものを元にして、「帰国」10年目に合わせての単行本化である。朝鮮で送らざるを得なかった24年間の歳月が、あふれるごとくの言葉で綴られている。外部の人間が、一部を恣意的に引用したりまとめたりすることは慎みたい、と思わせる何かがある。氏の文章を実際に読まなければ伝わらないものがある、と感じさせるという意味において。

10年前、日朝首脳会談が実現し、ピョンヤン宣言が発表されたとき、日本社会を覆い尽くしたのは拉致問題への関心一色だった。それは確かに重大な国家犯罪だが、問題の本質は、近代国家・日本による近隣諸地域への侵略、戦争、植民地化の過程と、敗戦後の「戦後処理」のあり方に関わっており、それへの総合的な視野なくしては拉致問題などの個別課題を解決する目途も立たないことは、私には自明のことだった。

だが、この問題に関わる世論形成に大きな力を発揮した拉致被害者家族会の方針は違った。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」――他のいかなる問題にも先駆けて拉致問題を解決すること、そのことを強硬に主張した。ことは、外交問題である。二国間の関係に関わることがらであるからには、一国が一方的に優先課題を設定していては、交渉の糸口にもたどり着くことはできない。このことを知ってか知らずにか、家族会の方針に異論を立てる者が、この社会には極端に少なかった。政治家しかり、外務官僚しかり、メディアに登場する者たちしかり。家族会は、比類ない圧力団体として、社会全体を縛り上げてきたと言える。背後には常に、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(いわゆる「救う会」)という、極右団体を控えさせながら。

去る10月、日朝首脳会談から10年目を迎えて、無為に過ぎた10年間をふり返る企画がメディア上にあふれた。「拉致問題の進展が見られない」「内閣改造のたびごとに、拉致問題担当相が変わり、政策の継続性がない。政府の誠意を疑う」「親の高齢化が進み、残された時間はほんとうに僅かだ」――家族会の人びとの、即時的な心情に寄り添う言葉はあった。それだけが、あった。拉致問題だけを切り離して、優先的に解決する――社会を10年ものあいだ金縛りにしてきたこの路線の「非現実性」を指摘する声は、いまだにかき消されたままだ。

この10年間、渦中にありながらもっとも理性的な言葉を語ってきたのは、「帰国」できた5人の拉致被害者であったように思える。「帰国」から1年半の間はまだ子どもたちが朝鮮に残っており、その後も、生存している拉致被害者の安否を思えば、自分たちの発言がどんな影響を及ぼすかを熟慮した、慎重な言い回しが目立った。だが、蓮池薫氏の場合には、家族会事務局長時代の兄・透氏の著書『奪還』(新潮社、2003年)や『奪還第二章』(同、2005年)から、漏れ響いてくる印象的な言葉がいくつもあった。「何ヵ月も安否確認さえできない政府の無能ぶり。一介のNGOにできることなのに」「政府は主導的に何をしようとしているかわからず、物足りなかった」「自分たちだけが帰ってきて忍びない」「日本だけが被害者だというような態度で北朝鮮に接しても、ぶつかり合いにしかならないんだ」。

私は当時これらの言葉を読みながら、「帰国」者たちが、奪われた24年間の経験を生かし、日朝和解のための架け橋になるような生き方をしてくれたなら――とひそかに夢想した。部外者の、勝手な思いであることは承知していた。書物を刊行するという意味では外部の私の視野にも入ってくる蓮池薫氏の仕事を見ていると、その思いが叶いつつあるような気がする。現代韓国文学を中心とした氏の翻訳書は20冊を超えている。孔枝泳の『私たちの幸せな時間』『トガニ』(いずれも新潮社)など優れた作品が目立つ。拉致そのものを扱った新著『拉致と決断』も、氏がそれによって強いられた運命を思えばなお、公平・公正な立場で日朝間の歴史的・現在的な関係を観ようとしており、そのありようが胸を打つ。

(11月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[31] 「尖閣問題」を考えるとき、私たちが立つ場所


反天皇制運動『モンスター』第33号(2012年10月9日発行)掲載

先日、「レイバーネットTV」に初めて出演した。ユーストリームを利用したオンラインニュース番組である。2010年5月以来、月2回のペースで生放送されている。当夜の「特集」は、「尖閣・竹島」に象徴される領土問題であった。番組全体の時間枠は75分間、そのうち45分が「特集」に割り当てられる。キャスター2人はもちろん、特設スタジオ内の10人近い技術スタッフの中からも質問が出たり、声がかかったりしながら番組は進行するが、45分間は、けっこう長い時間幅だ。

領土問題は、植民地主義が遺した「遺産」である場合が多い――現在、日本が直面しているそれは、その典型である――から、列強による世界分割地図や、「固有の領土」論に関わっては、いにしえの地図が必要になる。「無主地先占」論なる、聞き慣れない表現には、文字パネルが用意される。放送中とその後の反響を聴きながら、それらの素材が果たした「威力」を思った。

このテーマに関わって、言葉で表現しなければならない問題は多面的だが、これを機会にどうしても強調したい点がひとつあった。日中間に起こった、今回の不幸な事態を招いたのは、現東京都知事が去る4月米国で行なった「尖閣諸島を東京都が買い取る」とした発言にある、ということである。問題のよって来るゆえんに迫る報道が、傲岸不遜この上ないこの小人物を怖れているわけでもないだろうが、マスメディアでは弱い。対照的なことには、ネット上では、都知事批判が的確になされている。曰く「選挙公約であった米軍横田基地返還交渉も行なわずに、何が尖閣か」。曰く「140万もの人びとが住む沖縄が、米軍基地負担に喘いでいる事実に何も言及しないで、無人島へのこの異常な関心は何なのか」。曰く「原発推進派として、福島の現実にこころひとつ動かさずに、何が『国家を守る』か」。曰く「この国は元来、領土問題にはたいへん太っ腹な国で、天皇制を守るためなら沖縄くらいくれてやったではないか」。曰く「いまなお、複数の県に実効支配の及ばない広大な領土があるではないか」――これらは、ごくふつうに、ネット上で複数の人びとが発している言葉である。知事番の記者たちは、都知事をたちどころに矛盾の極致に追い詰めてしまう、この種の質問のひとつをすらしないのだろうか。

都知事を米国に招いたのは、同国ネオコンのシンクタンク「ヘリテージ財団」であった。米国右派からすれば、東アジアに安定的な平和秩序が確立されることは、忌むべきことだ。国家間に常に一触即発の緊張関係が走っているならば、米国の軍事力が、広くアジア太平洋地域に、従来のそれを上回る形で伸長し続ける理由として活用できる。誰もが言うように、領土問題は、ナショナリズムをいたく刺激する。国内に抱える諸矛盾を覆い隠すために「反中国」の悪煽動を行なえば、国内での政治的な支持を得るのは容易なことだ。それは、そのまま、日米両国の右派の利害に繋がる。都知事は、いわば彼の本質に重なる地のままで、そのための役割を演じたのだと言える。

「1895年に沖縄県に編入された」という「日本固有の領土」=尖閣諸島は、「1879年=琉球処分」という名の「ヤマトによる琉球植民地化」以降の、重層的な歴史を想起させずにはおかない存在である。同時に、敗戦後の米国による占領統治から「返還」の過程では、諸島のなかの2つの島が米軍の射撃場とされたこと(豊下楢彦『「尖閣購入」問題の陥穽』、「世界」2012年8月号)で、米国による軍事植民地化という問題をも浮かび上がらせる存在でもある。こうして、「東アジア騒乱」を望む日米右派が反中国の「切り札」として悪用している尖閣問題は、そこに平和をつくりだそうとする私たちの側からすれば、のちに米国も加担して実践されてきた、百数十年に及ぼうとする植民地主義をふり返るべき場所である。おりしも、在沖縄米軍のオスプレイ配備をめぐって、「日米の植民地」としての琉球という問題意識の大衆的な深まりが、沖縄現地からは伝えられている(たとえば、松島泰勝氏インタビュー、9月24日付毎日新聞)。ここが、私たちが踏みとどまって、問題の本質を探り続けるべき場所である。

注記――レイバーネットTVへのアクセスは、http://www.labornetjp.org/tv

(10月6日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[30]九月の出来事に、何を思うか


反天皇制運動『モンスター』第32号(2012年9月11日発行)掲載

生きてきた時代の中で、忘れられぬ出来事が詰まった月がある。個人的なことで言えば誰にせよあれこれあるだろうが、現代史の中で起きた社会性を帯びた出来事という観点から言えば、私の場合は、9月が随一だろうか。

まずは、40年近く遡る。1973年9月11日、南米チリで、社会主義政権を打倒した軍事クーデタが起こった。その3年前の1970年、チリの一般選挙で、社会主義者サルバドル・アジェンデが当選した。武力によってではなく、選挙を通じて成立した、世界史上初の社会主義政権であった。その3年前、隣国=ボリビアではチェ・ゲバラが殺されたが、その前後には、1959年以降「キューバに続け」とばかりにラテンアメリカ全土で闘われていた反政府武装ゲリラ闘争が相次いで敗北していた状況に照らすなら、それは、社会変革を実現するうえで新しい道を切り拓く経験であった。ひとによっては、それを「銃なき革命=チリの道」と呼んだ。

チリ革命は、政治・経済過程の変革はもとより、帝国主義文化の浸透に関わる批判的な分析で見るべき成果を挙げたが、それが3年間の試行錯誤の果てに軍事クーデタによって挫折したのだった。鉱山企業や通信事業の国有化によって、従来享受してきた特権的な利益を剥奪された米国の画策がこのクーデタの背後にあったことは、言うまでもない。平和革命の道が、相も変わらぬ、超大国が画策した軍事力によって潰えていくこと――その際立った対照性を、胸に深く刻み込んだ多くの人びとがいた。

それから28年を経た2001年9月11日、私たちの記憶になお生々しい事件がニューヨークとワシントン郊外などで起こった。高層の世界貿易センタービルや、五大陸の軍事的制覇の野望を表現しているのではないかと私が疑っている、五角形の奇怪な形をしたペンタゴン・ビルに、ハイジャック機が激突したのである。「9・11(September Eleventh)」の略称によって、世界中に知れ渡っている出来事である。私は、事件の死者たちを悼みつつも、同じ日付を持つチリ・クーデタの記憶が消えていない者の立場から、この「悲劇」を米国が独り占めすることなく、自らが世界各地で軍事力の行使によってつくり出してきた「数多くの9・11」を思い起こし、世界近現代史上におけるそのふるまいを内省する方向へ向かうこと――そのことをこそ望んだ。

その後の事実が明かしているように、実際には、そうはならなかった。むしろ、逆であった。米国の為政者は、世界史上かつってなかったような悲劇の主人公として自らを演じた。犠牲にさらされた者は、どんなことをしても許される――端的に言って、こんなことをしか語っていない大統領が行なった「報復戦争」の呼号が、米国社会を丸ごと捉えた。悲劇を口実に、新しい戦争が始められた。まずはアフガニスタンで、次いでイラクで。それからの11年間に、どれほどの悲劇が積み重ねられてきているのか。世界はまだ、正確な形では、そのことを知らない。

その翌年の9月の出来事は、東アジアの規模で起こった。2002年9月17日、日朝首脳会談がピョンヤンで行なわれた。戦後57年を経ていながら、いまだに国交回復すらできていない、したがって、植民地支配の清算もついていない朝鮮と日本、二国間の関係を正常化することが最大の眼目であった。その席上、朝鮮側首脳は、推測されてきた「朝鮮特務機関による日本人拉致」が事実であったと認めて謝罪した。植民地支配や侵略戦争を行なった過去を指して、その「加害者性」を指弾されてきた日本社会は、或る拉致被害者の家族が語ったように、「これでようやく被害者になれた」と誤解して、「負い目」を払拭した。政府も、メディアも、社会も、丸ごとそのような感情に支配されて10年――したがって、事態は膠着し、二国間の関係の正常化どころか、拉致問題の進展も見られない。こうして、戦後67年が経ってしまった。

それぞれの社会が、震撼させられる重大な事態に見舞われることで、自らをふり返り/改めるせっかくの機会を得ながら、逆にそれを自己正当化の口実にしてしまう。人間社会の愚かさを明かしているようで、9月の出来事は哀しく見える。(9月8日記)

フライデー・ナイト・フィーバーの只中で/あるいは傍らで


『インパクション』誌第186号(2012年8月25日発行)掲載

M 3月末に3000人から始まった、首相官邸前での毎週金曜日夜の反原発行動は、現政権が原発再稼働方針を明言したころから、参加者が一気に増え始めている。主催者の発表では、その増え方は、300人→1000人→2700人→4000人→12000人→45000人→20万人……となっている。君もよく顔を出しているというが。

O 今までなら、金曜日の夜というのは、けっこう予定が入っていて、2回に1回程度しか参加できていなかった。事態が変わったので、これからは金曜日の夜はできる限り空けておき、現場に行くようにしようと思っている。

M 集会やデモなら、公安条例に即して言えば、届け出を出して「許可」を得ることになるが、あれは自然発生的にひとつの場所に集まって、並んで抗議するわけだから、憲法の原則「移動の自由と表現の自由」から言って、警察も本来は規制できない。防衛庁(現防衛省)や外務省や法務省などの前でなら、以前からさまざまな団体が行なってきたことだが、今回は参加者の規模があまりに大きくなったので、従来とはまったく異なる性格と意義を帯びるようになったのだと思える。率直に言って、君はどんな感じを持っているの、あの集まり方に。

O この行動を呼びかけているのは「首都圏反原発連合有志」だが、先行する例のない、まったく新しい運動形態を作り上げていると思う。もともと中心を持たない運動である。明確な指導部が存在する場合には、指導部の方針に従って運動が〈一なるもの〉としてまとまることを求めがちだが、それもない。私としては、組織論的にいって、異議はない。むしろ、賛成だ。この形態は、呼びかけ団体が作り出したというよりも、各回の参加者の総意が作り上げている、と解釈するのがいいのだろうけれど。

M 「現場では混雑するから、事故を起こさないようにボランティアスタッフや警察官の誘導に従いましょう」とか、帰るときには「警察官の人たちにも、できれば『お疲れさま』の一言を」とか呼びかける姿勢が物議をかもしていると聞いた。また、行動終了時刻の夜8時になると、時には警察車両の高性能マイクを使って、主催者が「解散」を呼びかけることもあったという。なお立ち止まって抗議を続けようとする人びとからは、それに対する罵声がとんだとも聞いたし、またツイッター上の別な情報によれば、そのとき警察車両の上に乗ってマイクを握っていた人は、デモ隊に解散要請を行なったばかりではなく「再稼働反対!」のコールも呼びかけていたのだから、なかなかのしたたか者だったという弁護論も見かけた。

O 正直なところ、広場でもない場所に10万人以上も集まると、全体像を把握できる人はいないと思う。噂話は私の耳にもいろいろと入ってくるし、ユーチューブで確かめたりもするが。いま君が言ったことのなかで、前半部はその通りだ。警察官の誘導に従ってとか、警察官にも「お疲れさま」の一言を、という呼びかけは、チラシそのものに書かれている場合もある。警察が鉄柵や警察車両を使って、官邸近くの特定の地帯から人びとの排除を始めたときには、私もそれには抗議して、この先へ行かせよ、と求めた。私はまだ周囲の人間から咎められてはいないが、警官隊の措置に抗議する人に対して、これを非難し「やめなさい」と止める声が、デモ隊のなかからよく上がるのだという。私なら、「皆さんの安全を願っての措置です」と警察官がいう阻止線の設置はかえって危険なものだと思うし、デモ隊を分断して全体像を見えなくさせるのは弾圧の一方法なので、抗議そのものを止めるつもりはない。デモ隊の中には、警官隊や、随所でデモ隊を待ち受けていては日の丸を振りながら罵声を浴びせる在特会や「草の根右翼」に対して、同じ水準の口汚い罵声を投げ返す人もいて、それがデモ隊の仲間の間から発せられることが耐え難いことは身に沁みているから、態度や言葉遣いには気をつけているが。

同時に、以下のことは付け加えておきたい。警官隊との余計な軋轢・摩擦・対立を避けたいと思って、私から見れば必要以上に抑制的になっている人の心には、こと反原発問題についてなら、ひとりひとりの警察官をこちら側に呼び寄せることができるのではないか、という希望があるのではないか。「敵」の巣窟とも言える軍隊や警察の内部から、寝返ってこちら側に越境してくる人を生み出すこと――生易しいことではないが、古典的とも言える、価値あるその試みをしているのだ、と。若い日、埴谷雄高の政治論『幻視のなかの政治』を通して、「敵を味方に転化する」ための、気が遠くなるような長い時間をかけた努力の過程を学んだ者としては、その思いは掬い取りたい気持ちがしている。

M いまの話を聞いていると、思い出すことがある。15年ほど前のことだ。私は、先住民族問題や国外の解放運動とそれに連帯する運動をめぐってけっこう頻繁に討論集会を呼びかける側にいた。そこには、もはや息も絶え絶えになっていた政治党派の人びとがよく来ていた。某党派の人物たちは、討論の時間になると必ず挙手して、その日のテーマとは直接には関係しないことがらを取り出しては、「労働者国家擁護」という無内容な立場からの論議を延々と行なうのが常だった。そのスタイルがわかった私は、彼/女らが発言していつもの逸脱を始めると、司会をしていても発題者として質問を受ける立場にいても、厳しく批判して、その発言を止めさせた。すると、集会アンケートなどを通して、次のように言われたりした。「あの種の発言に対して苛立つMさんの気持ちはわかるが、今の人びとはあのような激しい言い合いに慣れていないから、退いてしまうかもしれない。やり方を考えたほうがいいです」。直接の知り合いからは、こう言われた。「ああいう場面になるとドキドキします。面白そうという気持ちもあるけど、これから一体どうなるのだろう、と緊張します」。それは、いわば、その場の雰囲気としては「浮いていたかもしれない」私のことを心配しての、友情ある説得であるように思われた。言葉を換えれば、それは、私たちの世代の運動が次世代に遺してしまっている過激なるもの、「暴力の記憶」なのだろうか。内ゲバ、連合赤軍の同志殺し、デモ隊と機動隊との衝突、爆弾による死者、激しい言葉遣い――個々人がどこまでそれに関わっていたかとは関係なく、今となっては、「あの時代の遺産」はこんなものとしてしか記憶されていないのだろうか?

O デモや大きな集会やストライキの記憶といえば、60年安保か70年安保の時代にまで遡らなければならない。60年安保は、確かに敗戦後15年目の段階での大きな大衆的闘争だったが、ひとつには所得倍増計画によって、いまひとつにはヤマトから削減された米軍基地を沖縄に押しつけることによって、収束させられた。68年の全共闘と70年安保は、確かに君も言うように、その時代を直接には知らない世代によって「無惨な暴力」の時代として刻印されているのだと思う。しかも、60年代の経済成長を引き継いで、その後は高度消費社会が実現していく過程に入り、豊かな社会に人びとは生きるようになった。加えて、「正義」を求める過激な運動がどこへ行き着いたかを人びとは見聞きしていたこともあって、政治・社会・経済上の、多少の矛盾や不正義には目を瞑る、脱政治の時代が長く続いた。その後に行なわれた新自由主義的な改革や冷戦構造の崩壊の過程で、戦後革新の象徴ともいえる総評と社会党は解体に追い込まれた。正規雇用を前提として成立していた企業内組合の旗がはためくデモや集会は、すでにほぼ消えて、なくなっていた。

M 君の話を受けて言うと、大学生のなかには、デモやストライキって非合法ではないのですか、と尋ねる者がいると大学教師が嘆いていたのは、もう10年近く前のことだったろうか。日本社会はそれほどオメデタイ状況になっていたのだ。21世紀に入って小泉政権の下で新自由主義改革は完成した。デモ非合法論を唱えていたのかもしれない元学生を待ち受けていたのは、非正規雇用と失業の時代だった。だから、フリーターや派遣労働者が主体となって、音楽を流しながら街頭を歩くサウンドデモが大都会で行なわれるようになった。歩道でデモを見ていた若者がデモ隊に合流するなどの、絶えて久しく見られなかった光景が現れたりもした。だが、そのような合流を怖れた機動隊の隊列が、デモ隊を取り囲むようにして厳しく規制した。サウンドデモは、新しい果敢な試みだったが、デモ隊は、歩道の群衆からは「切り離されて」いた。

O その意味では、首相官邸前に詰めかける人の数が増えることで、デモ隊が封じ込められていた歩道から車道にあふれ出て、そこを占拠するという現象がときどき起こっているのは興味深いことだ。しかも、暴力を伴っているわけではない。警察がどれほど阻止線をつくろうと、「抗議エリア」なる地帯を飛び地のように設けてデモ隊を分断しようと、それを無効にしてしまうほどまでに人びとが集まってくれば、阻止線を張っていた警察の警備車両もおのずと姿を消していく。それが実現したときの人びとの笑顔は印象的だ。自分の顔だって、明るくなる。私は、ふだん乗っている電車内の光景と官邸前の光景を、よく対比的に思うことがある。混み合った電車内では、譲り合いもないわけではないが、見知らぬ他人と身体を接触させている緊張感と不機嫌さが溢れている。隣の男が何を考えている人間かは、まったくわからない。油断も隙もない。だから、交わされる言葉もない。押されると、すぐ押し返す。官邸前では、見知らぬ人であっても同じ思いでここにいるという信頼感をもつことができる。立つ場所も譲り合う。自然に、言葉が交わされる。大勢だ、ということも安心できる要素だ。知人にもよく会う。政府の方針に抗議するという政治的な行動が、これだけの「楽しさ」を伴っている。日常生活では味わうことのない「解放感」もどこかで感じる。週1回という頻度で行なわれている官邸前行動への参加者が増え続けているのは、ここにあるような気がする。それを実現しつつあるのだから、この行動の発案者たちは、すごい仕掛けをしたと思う。

M よいことばかりだろうか。先日、ある友人が言った。「いまの運動に問題点があるとすれば、またしても被害者意識に依拠した運動だということではないだろうか。原水爆禁止運動もそうだったが、自分が被害者になる、あるいはその恐れがある、という場所にいてはじめて、日本社会では運動が盛り上がる」。

琉球の友人が言ったことだから、私の受け止め方では、この言葉には、米軍基地の被害(重圧)の過半を沖縄に押しつけることで、自らは被害者意識を持たないヤマトへの批判が込められている。被害者意識のないヤマトでは、したがって、米軍基地撤去の課題にも、それに結びつく日米安保条約破棄の課題にも、関心は著しく低い。憲法9条は守りたいという気持ちと、近隣諸国の脅威があるから日米安保で米国に守られていると安心という意識がヤマトでは共存している。自分が被害者にならなければ、ある深刻な問題についての関心も沸かない状況はどういうことなんだ、という問いかけがある。

O 確かに大事な問題が孕まれているが、それは、運動・活動の過程の問題として考えればよいのではないか。政府・官僚・財界・東電・原子力の専門家たち――これらの連中が、起きている悲劇的な現実を無視して再稼働に向かって動き始めてしまった以上、再度の原発事故を「恐れて」反原発・脱原発の運動が高揚することには十分な根拠がある。実際に現場に来て、集まっている人びとの多様性――年齢、性差、社会層―-を見るだけで、いまこの社会がどんな状態になっているかが分かる。この対話でも垣間見てきた時代の変化も、現実に即して理解できる。これだけ多くの人びとが、官邸前に定期的に集まって抗議活動を続けることで、そこに参加している人びとの間で、時代の変化と現状に関する認識が深まっていくというのは大変なことだ。楽しさや解放感がある時の、人間の学び方は、広い。深い。早い。「被害者意識に依拠できるときしか、この国では運動が盛り上がらない」という批判もよし。誰もが、百家争鳴のようにものを言い合い、互いにそれを尊重しつつ〈共同の空間〉をつくりあげればよい。事実、先ごろからは、主催者の指揮から離れた別な場所で、独自の抗議活動を行なう集団も生まれている。これは、相手を罵倒することも否定することもなく、たたかうための〈共同の空間〉をつくりあげる努力だ。

私が、もうひとつ持っている希望の根拠は、次のことからきている。私が住んでいるのは、東京西部にある私鉄沿線の市だ。5つの駅を利用できる、比較的広がりのある都市で、人口は19万人だ。そこでも、昨年の「3・11」以来、2ヵ月に一度程度の頻度で、集会とデモが行なわれている。私はそこへもほとんどすべてに参加してきた。都心のデモと違って、道行く人がはるかに身近になる。それぞれの駅付近を起点にすると、5通りの行進ルートがある。それぞれの駅でのビラまきに先だって参加したら、次回のビラまきの日程が書きこまれていて、「○○駅前を首相官邸前に!」などという文言があった。余談になるが、思わず、1968年の懐かしいスローガンを想起させるものだった。米原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止闘争の時にまかれた「エンタープライズを戦艦ポチョムキンへ!」という文言のアジビラだ。それはともかく、都会の「空虚の中心」というべき首相官邸前における行動では、戻っていく居住地における行動の裏づけも持つ人が多いことが重要だ。居住地での生活と切り離された地点で、都心の国会や官邸や諸官庁への行動だけが行なわれているわけではない。集会へ行くと、地域ごとのデモの呼びかけが多い。私自身も、従来は、労働と活動の時間割の制限上、できなかったことだ。休日に行なわれる大規模な集会・デモの時には、明らかに同じ目的をもって同じ私鉄駅から乗る人も目立つようになってきた。従来の日常とは異なる兆しは、社会・政治のレベルで、至るところに見られる。首相官邸前での定期的な行動の重要性を思いつつも、そこだけで終わっていないことが大事なことだと思う。

M 君は「フライデー・ナイト・フィーバー」の只中にもいるし、同時に、少し逸れた傍らの視点も持っているということかね。

(8月2日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[29] 都市ゲリラであった大統領のリオ演説の波紋


反天皇制運動『モンスター』31号(2012年8月7日発行)掲載

テレビはあまり見なくなったが、7月末のある日、どこかのチャンネルが、雨宮処凛と毛利嘉孝をスタジオに招いて、首相官邸前の原発再稼働反対デモをめぐる討論番組を放映することを知って、何気なく点けたままにしておいた。当世の番組だから、観ている誰でも、ツイッターで意見を寄せることができる視聴者参加型番組である。官邸前デモについては、いずれ触れる機会もあるだろう。きょうの話題は別だ。主要なテーマが終わって、「今週ツイッターでもっとも注目度が高かったテーマ一覧」というパネルが出て、一位から十位までのテーマが並んだ。他のテーマはひとつも頭に残っていないが、八位の「ムヒカ大統領演説」という文字だけが、私の目に跳びこんできた。その後の番組の流れの中では、1位か2位のテーマについての説明がなされたが、テーマも中身も覚えていない。

私は1年前からツイッターにはまっているが、その数日前に、私の「フォロワー」が紹介していたムヒカ演説を読んで、それを日本語で読むことができるウェブサイトを紹介し、ムヒカなる人物についての簡潔な情報を伝えたばかりであった。日本のマスメディアではまったく報道されていないムヒカ演説が、ツイッターの世界では次々と転送されて、テレビ番組が放映する「週間ベストテン」に入っていること–―そのことへの、新鮮な驚きが私にはあった。メディア状況は、それほどまでに、劇的な変化を遂げつつあることをあらためて実感したのである。

ムヒカとは、ホセ・アルベルト・ムヒカ・ゴルダノ(1935~)、南米ウルグアイの大統領である。2009年の選挙で当選し、2年有余前の2010年3月、大統領に就任した。話題となっている演説は、6月末にブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連持続可能な開発会議(Rio+20)」で行なわれた。翻訳は、ラテンアメリカに住む日系青年たちが運営するNikkei Youth Network のサイトにアップされたのだが、この原稿を書いている時点では接続不能なので、それをフォローした以下を挙げておく(ユーチューブで、生演説も視聴可能)→http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/archives/1706023.html

(これも接続不能な場合は、「ムヒカ演説」で検索できよう)。

演説内容は、しごく簡明――リオ会議は「持続可能な発展と世界の貧困をなくす」ことを目的とした会議だが、無限の消費と発展を求めてきたのが私たちであることを顧みるなら、残酷な競争によって成り立つ消費資本主義社会が孕む問題を放置したまま、共存共栄の論理を語ることは不可能。問題の本質は、環境危機ではなく、問題の本質に向き合わない政治危機なのだ、と要約できよう。

この演説がネット上で熱い共感を呼んでいるのは、昨今の首相や大統領には珍しい「論理」と「倫理」を兼ね備えた内容が、ここにあるからだろう。私がツイッター上で付け加えたのは、ムヒカの「前歴」である。1960年代から70年代初頭にかけて、ウルグアイでは反体制都市ゲリラ「トゥパマロス」が活発に行動していた。トゥパマロスは、その政治的倫理の高さと作戦活動のめざましさで、一時代を画した。ムヒカはそのメンバーで、何度も逮捕された。しかし、彼は二度も脱獄した。獄外の仲間が、刑務所に近い家屋の床下から牢獄へ向けてトンネルを開通させ、それを伝って脱走したのである。1972年の軍事クーデタ後に徹底した弾圧を受けた。辛うじて生き延びたメンバーの一部が、民主化の過程以降、政党を結成し、政治の世界に進出した。そのような人物を、およそ40年を経て一般選挙で大統領に当選させるウルグアイ民衆の政治的・社会的「成熟ぶり」が眩しい。ある時代に、信念に基づいて法を犯した者が、刑期を終えてのち、社会的に復権することを保証している人びとの「寛大さ」に打たれるのである。その人物が77歳のいま、40年の時間を超えて持続していたゲリラ時代の初志を大統領として国際会議で披歴し、その演説を貫く理想主義に、およそ政治家なるものへは不信感しか持たない他地域の人びとが感銘を受けている。

ツイッターを含めたネット世界での「精神的交通」、侮るべからず。そう、思った。

(8月4日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[28]オスプレイ配備は、事前協議によって拒否できる


反天皇制運動連絡会『モンスター』30号(2012年7月10日発行)掲載

米海兵隊御用達の航空機・オスプレイospreyは、「ミサゴ」の意である。「わしたか科の大形の鳥で、海岸の岩や入り江などに住み、するどい爪で魚をとらえて食べる」と簡便な辞書にはある。古代・中世の歴史を欠き、移民国家として高々二百数十年の歴史しか持たない米国は、開発する武器や展開する軍事作戦の名称に、征服した先住民族(インディアン)の母語に由来する名詞や、猛々しい鳥類の名称や、「不朽の自由作戦」や「トモダチ作戦」などという、米国以外の地域に住む人間なら顔も赤らむ名称を、臆面もなく付す伝統がある。オスプレイは、猛禽類から来る名称である。

「敵」ながら、言い得て妙な、名づけである。侵略部隊としての米海兵隊がオスプレイを重用するということは、従来なら上陸用舟艇に頼っていた上陸作戦(それは、当然にも、陸地に構える「敵」から丸見えである)の様態を一新する手段を得たことを意味している。水平線の彼方から突如として現われるオスプレイは、最大速力・時速520キロメートルで飛行できるのだが、その輸送能力は、兵員数24名と武器などの物資(15トン)である。持てるその獰猛な暴力によって「敵」を鷲掴みにするというのであろう。

オスプレイの日本配備(厳密にいうなら、沖縄配備)の道を掃き清めるために、日本国防衛省が「MV-22オスプレイ——米海兵隊の最新鋭の航空機」と題するA4で22頁の小冊子を関係各所に配布したのは、去る6月13日であった。同日夕刻(米国時間)、フロリダ州ナヴァレ北部のエグリン射撃場でCV-22オスプレイが墜落し、搭乗員5名が負傷した。4月11日にはMV機がモロッコでの軍事演習中に墜落したばかりだから、事故確率が高いという印象が否めない。冊子には翌14日に配布された分もあったが、それには事故発生だけを伝える素っ気ないビラが一枚挟み込まれた。

この冊子によれば、オスプレイは「ヘリコプターのような垂直離着陸機能と、固定翼機の長所である速さや長い航続距離という両者の利点を持ち合わせた航空機」とされている。「回転翼を上へ向けた状態ではホバリングが可能となり、前方へ向けた状態では高速で飛行することができ」、「MV-22は、現在配備されているCH-46と比較して、最大速度は約2倍、搭載量は約3倍、行動半径は約4倍になる」という。ヘリコプター機能を持つことで滑走路を必要としない点が、一層の効果的な運用を可能にするのだろう。冊子には、飛行高度と騒音の関係表もあるが、下限は500フィート(150メートル)だから、超低空飛行も行なうのである。その他「運用・任務」「安全性」「騒音」「沖縄での運用」などの項目ごとに、ごく簡単な説明がなされている。

全体としてみれば、事故率を低く見せかけ、騒音は「前機より軽減」され、環境への影響なども「特段なし」とみなすなど、米軍が提供した資料をそのまま翻訳しただけの代物であることが透けて見える。危険性が高いこのオスプレイ配備が発表されるや、沖縄はもとより低空飛行訓練が予定されている全国各地から、厳しい批判の動きが高まっている。無視できなくなった政府は、一応、せめて「配備延期」要請を行なう程度の対米交渉は行なったらしいことを明らかにしている。官房長官は「米国と何度も交渉したが、押し返せなかった。米国は日米安保条約上の権利だと主張した」と語った。防衛相は「日本政府に条約上のマンダート(権限)はない」と述べている。1960年の条約改定時に「安保条約六条の実施に関する交換公文」が交わされ、米政府は、在日米軍に関する①重要な配置の変更、②重要な装備の変更、③日本国内の基地から行われる戦闘作戦行動——の3項目については、事前協議することが規定されている。協議があれば、日本政府が自主的に諾否を判断するというのが政府の立場であるが、事前協議は一度として行なわれていない。自民党時代はもとより、民主党政権になっても、日米安保を容認することが、そのまま、占領時代さながらに米軍の特権を容認し続けることに直結している。米軍の140機のオスプレイは、今年3月現在、東はノースカロライナ、西はカリフォルニアとハワイの米国内に配備されている。米国本土を初めて離れて、オスプレイは日本→沖縄へ向かっている。日米軍事協力体制は、こうして、世界にも稀な「異常な」性格を有している。(7月7日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[26]米日「主従」関係を自己暴露する、耐え難い言葉について


『反天皇制運動モンスター』第28号(2012年5月15日発行)掲載

一、「TPP(環太平洋経済連携協定)をビートルズに喩えれば、日本はポール・マッカートニーのようなもの。ポールなしのビートルズは考えられない。ジョン・レノンはもちろんアメリカです。この二人がきっちりハーモニーしなければならない」

二、「自分はバスケットボールのポイントガード。チームワークを重んじる。目立つ選手ではないが、結果を残していく」

前者は、3月24日、日本の現首相がTPP加盟を推進する意向を強調して行なった、東京における講演の一節である。私は、この日、いつものながらでテレビのニュースをつけていて、喩えの出鱈目さに驚倒して耳をそばだてた。全体を聞き取った自信はなかったが、事後的に調べると発言の内容は確かにこうであった。

後者は、4月30日、ワシントンを訪れた日本首相が、米国大統領との会談時に行なった発言だ。これも、いくつかのルートで確認した。バスケットボールに詳しくはないが、ポイントガードとは、知る人が言うところでは、ドリブルして主役にいい球をパスする役割だという。スポーツ競技での役割分担として見るなら麗しいことだが、政治の場で使うべき喩えとは言えない。バスケット好きのオバマの気を惹くために、外務官僚が思いついて首相に焚きつけた文句なのだろう。「主役」は、もちろん、米国大統領であり、共同会見時には首相はその人物を「相手守備に切り込んで得点を稼ぐパワーフォワードだ」とまで持ち上げたという。これに対して大統領は「首相は柔道の専門家、黒帯だ。記者団から不適切な質問が出たら、守ってくれるだろう」と応じたという挿話さえ付け足されている。

私は、民族的義憤とも国民的憤怒とも無縁な人間なので、その種の思いはない。しかし、人間としての、譬えようもない恥じの感覚が、この一連の言葉を聞いて生まれる。自虐的な、あまりに自虐的な! ウィットからも、文学的・芸能的なセンスからも限りなく遠い、おべっかとへつらい。他人事ながら、恥じらいのあまり身悶えるほどである。他人事とはいっても、私が否応なく所属させられている国家社会にあって、政治的代表であることを表象する人物の言動が、これなのである。

その恥じらいは、翌日には憤怒と化す。5月1日付け読売新聞は言う。「大統領選挙まで半年となり、活動の多くを全米各地の遊説に費やしている大統領が野田首相がらみで約3時間の時間を割くのは、首相への期待度の高さを物語る」。同じ記事が、加えて言うには、リチャード・アーミテージ元国務副長官は、仙石由人などの超党派議員訪米団と会見し、歴代首相で誰を評価しているかと問われて(そんな頓馬な質問をする議員がいることも驚きであり、恥じでもあるが)「一に中曽根、二に小泉。その二人に野田は匹敵する。日米同盟の意義を理解しており、消費税やTPPも一生懸命やっている」と答えたという(ワシントン支局・中島健太郎記者)。

どのエピソードからも、「主人と下僕」という関係を内面化している政治家とジャーナリストが記した言葉であることが、否定しようもなく立ち上ってくる。これらは、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が、不可分の一セットで発効した1952年4月28日から、60年目を迎える日々に吐かれた言葉である。

『続 重光葵手記』(中央公論社、1988年)によれば、60年前の日々対米交渉に当たっていた外相の同氏は、那須で天皇裕仁から「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」との「下賜」を受けた(55年8月20日)。駐留米軍全面撤退構想すら持っていた重光は、なぜかそれを取り下げ、今日まで続く「主従」としての米日関係が固定化し始めた。それは、沖縄を切り捨て、日米一体となってそこへの植民地主義的支配を貫徹してゆくことになる節目の日々であった。

沖縄の「役割」を軸にした、自民党政権時にも不可能であった水準の米日主従関係の固定化――私たちが直面している事態は、これである。これへの反発を反米民族主義として表現しないためには、1952年(講和条約+日米安保)→1972年(「復帰」=再併合)→2012年(現在)より射程を伸ばし、1879年(琉球の武力併合)以来の植民地主義史として捉え返すことで、ようやく主体的な問題設定となると思う。(5月12日記)

二〇一二年新春二話 


『支援連ニュース』343号(2012年1月27日発行)掲載

一、原発事故から見えてくるもの――男性原理の派生物

福島原発の事故直後から、多くの人びとの目に焼きついたであろう光景があった。東京電力の経営者・原発担当の幹部、政府の関係閣僚、原子力政策を推進してきた関係省庁の官僚、原子力の専門家――大勢の人びとが、連日のようにカメラの前でしゃべった。その光景である。多くの場合、その物言いが率直さも誠実さも欠くものであることは一目瞭然であった。事故の実態を軽いものとして見せかけようとして、何事かを隠して事実を言わない、言葉遣いによってごまかす――それは、観ている者をして疲れさせるほどに徹底していた。その画面を見ながら、異様なことに気づいた。男しかいないのである。カメラの前に立ってごまかし言葉を話し続ける者も、話す男を一人孤立させるのは忍びないから一緒にいてやるよといった感じでそばに居並ぶ者たちも、例外なく男なのである。

そして思い出したのは、次の挿話である――某テレビ局の女性ディレクターに尋ねられたことがある。「なぜ、男は黙るのか」という番組を企画したことがある。男に対して女がもつ疑問や怒りは、口論になったり、男の振る舞いの欠点を女が指摘したりするときに、男というものは、ほぼ一様に黙りこくったりごまかしの言葉をもてあそんで話の筋道をずらしてしまう点に向けられている。番組をつくってみると、傍から見るとこの人(男)は相当イケていて、普通の男とは違うだろうなと思い込んでいた人でも、その「癖(ヘキ)」は多少なりとも抜け切れていないことがわかった。あなたはどうですか? というのである。私は、あれこれの自分の個人史を思い出し、このような問題に自覚的なつもりでいる私も、まだまだ緩慢な「成長過程」でしかないな、思い当たる節があるなと思い、そのように答えざるを得なかった。

原発事故でマイクの前に立たされている男たちは、少なくとも「黙ってはいない」。語ってはいるが、その言葉遣いがごまかしに満ちている点で、一般の男なるものの類例の裡に入るのである。しかし、彼らは、単なる男ではない。その背後には、政治権力があり、電力の発電・送電の独占権力があり、専門知を誇示する知的権力がある。存在論的に言うなら、いずれも広い意味での支配階級に属しているといえよう。この連中を、「権力を背景に持った男の論理」の巣穴から引きずり出すのは容易なことではない、と私は思ったのだった。

同時にまた、私は、4年有余前に亡くなったことが悔しくてたまらない、愛読する美術史家、故若桑みどりさんの言葉も思い起こしていた。「男たちが戦争を起こしてきたのだから、今度は女性たちが平和をつくらなければならない」(『戦争とジェンダー――戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』、大月書店、2005年)。私は戦争廃絶・軍隊解体の論理はここから導くべきだとこの間考えてきているが、脱原発に向けた運動でも、ここに突破口があると思ったのだ。

ここでいう男と女が、生物学的なオスとメスに重なり合うものならば、オスである私には出番がない。もちろん、この「男」とは、家父長制的な男性原理による社会の支配の正当性を微塵も疑うことのない存在を指しているのだから、そこには、メスとしての女も、彼女が有する価値観次第では含まれることもあるということになる。言葉を換えると、「平和をつくりださなければならない女性たち」に、たとえば曾野綾子や塩野七生や工藤美代子や小池百合子や猪口邦子などは金輪際入れることはできないが、(おこがましくも自分を引き合いに出すなら)私を入れることはできるのである。

3・11以降の反原発・脱原発の運動は、基本的にこのような方向性で展開されてきており、私はそのことを好ましいと考えてきたが、最近次のような意見を目にした。反原発情報の発信に努めてきたたんぽぽ舎のメール・ニュースを読んだ読者からの反応である。最近の反原発運動では、「女」「母」「孕む」などの言葉が強調されていて、「母」にも「孕む」にも関係のない独身女性はこんなところでも見捨てられたのか、という気分になるというのである。この人は「放射能に男女差別はありません」とも書いている。これは、幼い子どもや妊娠する可能性をもつ若い女性に及ぼす放射能の危険性が当然のことだが医学的に強調されてきており、それが「母」や「孕む」に一面的につながっていくこと、今や反原発運動のシンボルと化した経産省前テントで座り込みを行なっている福島の女性たちが、その行動を妊娠期間に因んで「とつきとうか(10ヵ月と10日間)」と名づけていることにも関連してくるのだろう。このような言葉に覆い尽くされていく運動空間、という捉え方が事実に即しているならば、それに違和感や疎外感を抱く人びとがいるということも頷ける。いずれにせよ、傾向性を持つ何らかの言動を全否定するところに問題の本質はなく、脱原発を目指す人びとが普遍的に繋がり得る理論と実践が、どこにあるかを冷静に探ることだと思える。生物学的なオス・メスから派生する問題をすべて排除することはできないが、戦争や原発を許してきた構造上の問題を、人間が歴史的に、文化的に、社会的につくりあげてきた「男性性」「女性性」に起因するものとして把握することが常に重要なのだと強調しておきたい。

二、大量死を見てなお叫ばれる「死を待望する声」

『死刑映画週間――「死刑の映画」は「命の映画」だ』――を「死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90」で企画した(2月4日~10日、東京渋谷・ユーロスペース ☞http://www.eurospace.co.jp/)。内外の映画10本を上映する。チラシをまいていると、いろいろな反応に出会う。心が弱っているときに、こんなにしんどい映画を立て続けに見せるの? 重いなあ、人生にはいろいろな辛いことがあり過ぎて、この歳になってもまだそれを続けなけりゃならないの? 見逃した映画がいっぱい、いいチャンスだから、出来るだけ行くよ。いろんな映画週間の企画があるけど、これほど、あまりに内容が暗くて観客が敬遠し、経済的にうまくいくはずのない企画も珍しい。講演者のメンバーをよくここまで集めたね……。

これらの感想には、部分的には同意する点もなくはない。私たちの企図は次のようなところにある。死刑の問題は、社会の表層で語られれば語られるほど、煽情的・煽動的なものになる。むごい犯罪があって死者が生まれ、それを実行した特定の人物がいる以上、その人間は自らが犯した犯罪の質に対応した「応報」の処罰を受けなければならない。死刑制度が存在しているからには、それを甘受するのだ――この「論理」が、ただひたすら尊重されて、現在のこの社会における犯罪報道・裁判報道はなされている。「世論」は哀しい。メディアのこの煽動に鼓舞されて、形成されてゆく。だが、ひとたび、文学・映画・演劇など人間が(創造者として、またその受けてとして)育て上げてきた芸術の分野に目を移すと、そこでは人間社会にあっては避けて通ることのできない問題として、犯罪・罪と罰・死刑・贖罪・転生・再生などの問題が扱われている場合がある。紙幅がないから、例は挙げない。誰もが、何点かの作品名を挙げるに違いない。それこそ、私たちが掘り進めるべき道だ。

読書なら、ひとりひとりの個人の努力と探究の範囲内で、或るテーマについてまとめ読みすることは可能だ。映画はそうはいかない。重たいテーマに関わる映画週間など、このカルーイ時代においては、他人任せでは実現不可能だ。やってみようということで、今回の実現に漕ぎつけた。深く、広く、問題の根源に立ち戻って考える契機をつくりたい。

震災と津波が生み出した大量死と、原発事故が招き寄せている計測不可能な数の近未来の死をこんなにも目撃せざるを得なかった悲劇的な年の終わりに、私たちがこの社会に見たのは、次の光景だった。15年前後前、間違った宗教的信念に基づいて大量殺人を犯した宗教集団メンバーに関わる死刑事犯の審理が終了し、すべて死刑確定者になったからには、その「教祖」から直ちに死刑を執行すべきだとする世論煽動である。

仮りに対象が凶悪犯罪者であれ、その「死を待望する」言論の台頭という雰囲気はいかがわしい。「いやな感じ」だ。別な考え方があり得るよ、と提示する基本的な作業だ。ぜひ、多くの方々に劇場まで足を運んでいただきたい。(1月26日記)