『インパクション』誌第186号(2012年8月25日発行)掲載
M 3月末に3000人から始まった、首相官邸前での毎週金曜日夜の反原発行動は、現政権が原発再稼働方針を明言したころから、参加者が一気に増え始めている。主催者の発表では、その増え方は、300人→1000人→2700人→4000人→12000人→45000人→20万人……となっている。君もよく顔を出しているというが。
O 今までなら、金曜日の夜というのは、けっこう予定が入っていて、2回に1回程度しか参加できていなかった。事態が変わったので、これからは金曜日の夜はできる限り空けておき、現場に行くようにしようと思っている。
M 集会やデモなら、公安条例に即して言えば、届け出を出して「許可」を得ることになるが、あれは自然発生的にひとつの場所に集まって、並んで抗議するわけだから、憲法の原則「移動の自由と表現の自由」から言って、警察も本来は規制できない。防衛庁(現防衛省)や外務省や法務省などの前でなら、以前からさまざまな団体が行なってきたことだが、今回は参加者の規模があまりに大きくなったので、従来とはまったく異なる性格と意義を帯びるようになったのだと思える。率直に言って、君はどんな感じを持っているの、あの集まり方に。
O この行動を呼びかけているのは「首都圏反原発連合有志」だが、先行する例のない、まったく新しい運動形態を作り上げていると思う。もともと中心を持たない運動である。明確な指導部が存在する場合には、指導部の方針に従って運動が〈一なるもの〉としてまとまることを求めがちだが、それもない。私としては、組織論的にいって、異議はない。むしろ、賛成だ。この形態は、呼びかけ団体が作り出したというよりも、各回の参加者の総意が作り上げている、と解釈するのがいいのだろうけれど。
M 「現場では混雑するから、事故を起こさないようにボランティアスタッフや警察官の誘導に従いましょう」とか、帰るときには「警察官の人たちにも、できれば『お疲れさま』の一言を」とか呼びかける姿勢が物議をかもしていると聞いた。また、行動終了時刻の夜8時になると、時には警察車両の高性能マイクを使って、主催者が「解散」を呼びかけることもあったという。なお立ち止まって抗議を続けようとする人びとからは、それに対する罵声がとんだとも聞いたし、またツイッター上の別な情報によれば、そのとき警察車両の上に乗ってマイクを握っていた人は、デモ隊に解散要請を行なったばかりではなく「再稼働反対!」のコールも呼びかけていたのだから、なかなかのしたたか者だったという弁護論も見かけた。
O 正直なところ、広場でもない場所に10万人以上も集まると、全体像を把握できる人はいないと思う。噂話は私の耳にもいろいろと入ってくるし、ユーチューブで確かめたりもするが。いま君が言ったことのなかで、前半部はその通りだ。警察官の誘導に従ってとか、警察官にも「お疲れさま」の一言を、という呼びかけは、チラシそのものに書かれている場合もある。警察が鉄柵や警察車両を使って、官邸近くの特定の地帯から人びとの排除を始めたときには、私もそれには抗議して、この先へ行かせよ、と求めた。私はまだ周囲の人間から咎められてはいないが、警官隊の措置に抗議する人に対して、これを非難し「やめなさい」と止める声が、デモ隊のなかからよく上がるのだという。私なら、「皆さんの安全を願っての措置です」と警察官がいう阻止線の設置はかえって危険なものだと思うし、デモ隊を分断して全体像を見えなくさせるのは弾圧の一方法なので、抗議そのものを止めるつもりはない。デモ隊の中には、警官隊や、随所でデモ隊を待ち受けていては日の丸を振りながら罵声を浴びせる在特会や「草の根右翼」に対して、同じ水準の口汚い罵声を投げ返す人もいて、それがデモ隊の仲間の間から発せられることが耐え難いことは身に沁みているから、態度や言葉遣いには気をつけているが。
同時に、以下のことは付け加えておきたい。警官隊との余計な軋轢・摩擦・対立を避けたいと思って、私から見れば必要以上に抑制的になっている人の心には、こと反原発問題についてなら、ひとりひとりの警察官をこちら側に呼び寄せることができるのではないか、という希望があるのではないか。「敵」の巣窟とも言える軍隊や警察の内部から、寝返ってこちら側に越境してくる人を生み出すこと――生易しいことではないが、古典的とも言える、価値あるその試みをしているのだ、と。若い日、埴谷雄高の政治論『幻視のなかの政治』を通して、「敵を味方に転化する」ための、気が遠くなるような長い時間をかけた努力の過程を学んだ者としては、その思いは掬い取りたい気持ちがしている。
M いまの話を聞いていると、思い出すことがある。15年ほど前のことだ。私は、先住民族問題や国外の解放運動とそれに連帯する運動をめぐってけっこう頻繁に討論集会を呼びかける側にいた。そこには、もはや息も絶え絶えになっていた政治党派の人びとがよく来ていた。某党派の人物たちは、討論の時間になると必ず挙手して、その日のテーマとは直接には関係しないことがらを取り出しては、「労働者国家擁護」という無内容な立場からの論議を延々と行なうのが常だった。そのスタイルがわかった私は、彼/女らが発言していつもの逸脱を始めると、司会をしていても発題者として質問を受ける立場にいても、厳しく批判して、その発言を止めさせた。すると、集会アンケートなどを通して、次のように言われたりした。「あの種の発言に対して苛立つMさんの気持ちはわかるが、今の人びとはあのような激しい言い合いに慣れていないから、退いてしまうかもしれない。やり方を考えたほうがいいです」。直接の知り合いからは、こう言われた。「ああいう場面になるとドキドキします。面白そうという気持ちもあるけど、これから一体どうなるのだろう、と緊張します」。それは、いわば、その場の雰囲気としては「浮いていたかもしれない」私のことを心配しての、友情ある説得であるように思われた。言葉を換えれば、それは、私たちの世代の運動が次世代に遺してしまっている過激なるもの、「暴力の記憶」なのだろうか。内ゲバ、連合赤軍の同志殺し、デモ隊と機動隊との衝突、爆弾による死者、激しい言葉遣い――個々人がどこまでそれに関わっていたかとは関係なく、今となっては、「あの時代の遺産」はこんなものとしてしか記憶されていないのだろうか?
O デモや大きな集会やストライキの記憶といえば、60年安保か70年安保の時代にまで遡らなければならない。60年安保は、確かに敗戦後15年目の段階での大きな大衆的闘争だったが、ひとつには所得倍増計画によって、いまひとつにはヤマトから削減された米軍基地を沖縄に押しつけることによって、収束させられた。68年の全共闘と70年安保は、確かに君も言うように、その時代を直接には知らない世代によって「無惨な暴力」の時代として刻印されているのだと思う。しかも、60年代の経済成長を引き継いで、その後は高度消費社会が実現していく過程に入り、豊かな社会に人びとは生きるようになった。加えて、「正義」を求める過激な運動がどこへ行き着いたかを人びとは見聞きしていたこともあって、政治・社会・経済上の、多少の矛盾や不正義には目を瞑る、脱政治の時代が長く続いた。その後に行なわれた新自由主義的な改革や冷戦構造の崩壊の過程で、戦後革新の象徴ともいえる総評と社会党は解体に追い込まれた。正規雇用を前提として成立していた企業内組合の旗がはためくデモや集会は、すでにほぼ消えて、なくなっていた。
M 君の話を受けて言うと、大学生のなかには、デモやストライキって非合法ではないのですか、と尋ねる者がいると大学教師が嘆いていたのは、もう10年近く前のことだったろうか。日本社会はそれほどオメデタイ状況になっていたのだ。21世紀に入って小泉政権の下で新自由主義改革は完成した。デモ非合法論を唱えていたのかもしれない元学生を待ち受けていたのは、非正規雇用と失業の時代だった。だから、フリーターや派遣労働者が主体となって、音楽を流しながら街頭を歩くサウンドデモが大都会で行なわれるようになった。歩道でデモを見ていた若者がデモ隊に合流するなどの、絶えて久しく見られなかった光景が現れたりもした。だが、そのような合流を怖れた機動隊の隊列が、デモ隊を取り囲むようにして厳しく規制した。サウンドデモは、新しい果敢な試みだったが、デモ隊は、歩道の群衆からは「切り離されて」いた。
O その意味では、首相官邸前に詰めかける人の数が増えることで、デモ隊が封じ込められていた歩道から車道にあふれ出て、そこを占拠するという現象がときどき起こっているのは興味深いことだ。しかも、暴力を伴っているわけではない。警察がどれほど阻止線をつくろうと、「抗議エリア」なる地帯を飛び地のように設けてデモ隊を分断しようと、それを無効にしてしまうほどまでに人びとが集まってくれば、阻止線を張っていた警察の警備車両もおのずと姿を消していく。それが実現したときの人びとの笑顔は印象的だ。自分の顔だって、明るくなる。私は、ふだん乗っている電車内の光景と官邸前の光景を、よく対比的に思うことがある。混み合った電車内では、譲り合いもないわけではないが、見知らぬ他人と身体を接触させている緊張感と不機嫌さが溢れている。隣の男が何を考えている人間かは、まったくわからない。油断も隙もない。だから、交わされる言葉もない。押されると、すぐ押し返す。官邸前では、見知らぬ人であっても同じ思いでここにいるという信頼感をもつことができる。立つ場所も譲り合う。自然に、言葉が交わされる。大勢だ、ということも安心できる要素だ。知人にもよく会う。政府の方針に抗議するという政治的な行動が、これだけの「楽しさ」を伴っている。日常生活では味わうことのない「解放感」もどこかで感じる。週1回という頻度で行なわれている官邸前行動への参加者が増え続けているのは、ここにあるような気がする。それを実現しつつあるのだから、この行動の発案者たちは、すごい仕掛けをしたと思う。
M よいことばかりだろうか。先日、ある友人が言った。「いまの運動に問題点があるとすれば、またしても被害者意識に依拠した運動だということではないだろうか。原水爆禁止運動もそうだったが、自分が被害者になる、あるいはその恐れがある、という場所にいてはじめて、日本社会では運動が盛り上がる」。
琉球の友人が言ったことだから、私の受け止め方では、この言葉には、米軍基地の被害(重圧)の過半を沖縄に押しつけることで、自らは被害者意識を持たないヤマトへの批判が込められている。被害者意識のないヤマトでは、したがって、米軍基地撤去の課題にも、それに結びつく日米安保条約破棄の課題にも、関心は著しく低い。憲法9条は守りたいという気持ちと、近隣諸国の脅威があるから日米安保で米国に守られていると安心という意識がヤマトでは共存している。自分が被害者にならなければ、ある深刻な問題についての関心も沸かない状況はどういうことなんだ、という問いかけがある。
O 確かに大事な問題が孕まれているが、それは、運動・活動の過程の問題として考えればよいのではないか。政府・官僚・財界・東電・原子力の専門家たち――これらの連中が、起きている悲劇的な現実を無視して再稼働に向かって動き始めてしまった以上、再度の原発事故を「恐れて」反原発・脱原発の運動が高揚することには十分な根拠がある。実際に現場に来て、集まっている人びとの多様性――年齢、性差、社会層―-を見るだけで、いまこの社会がどんな状態になっているかが分かる。この対話でも垣間見てきた時代の変化も、現実に即して理解できる。これだけ多くの人びとが、官邸前に定期的に集まって抗議活動を続けることで、そこに参加している人びとの間で、時代の変化と現状に関する認識が深まっていくというのは大変なことだ。楽しさや解放感がある時の、人間の学び方は、広い。深い。早い。「被害者意識に依拠できるときしか、この国では運動が盛り上がらない」という批判もよし。誰もが、百家争鳴のようにものを言い合い、互いにそれを尊重しつつ〈共同の空間〉をつくりあげればよい。事実、先ごろからは、主催者の指揮から離れた別な場所で、独自の抗議活動を行なう集団も生まれている。これは、相手を罵倒することも否定することもなく、たたかうための〈共同の空間〉をつくりあげる努力だ。
私が、もうひとつ持っている希望の根拠は、次のことからきている。私が住んでいるのは、東京西部にある私鉄沿線の市だ。5つの駅を利用できる、比較的広がりのある都市で、人口は19万人だ。そこでも、昨年の「3・11」以来、2ヵ月に一度程度の頻度で、集会とデモが行なわれている。私はそこへもほとんどすべてに参加してきた。都心のデモと違って、道行く人がはるかに身近になる。それぞれの駅付近を起点にすると、5通りの行進ルートがある。それぞれの駅でのビラまきに先だって参加したら、次回のビラまきの日程が書きこまれていて、「○○駅前を首相官邸前に!」などという文言があった。余談になるが、思わず、1968年の懐かしいスローガンを想起させるものだった。米原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止闘争の時にまかれた「エンタープライズを戦艦ポチョムキンへ!」という文言のアジビラだ。それはともかく、都会の「空虚の中心」というべき首相官邸前における行動では、戻っていく居住地における行動の裏づけも持つ人が多いことが重要だ。居住地での生活と切り離された地点で、都心の国会や官邸や諸官庁への行動だけが行なわれているわけではない。集会へ行くと、地域ごとのデモの呼びかけが多い。私自身も、従来は、労働と活動の時間割の制限上、できなかったことだ。休日に行なわれる大規模な集会・デモの時には、明らかに同じ目的をもって同じ私鉄駅から乗る人も目立つようになってきた。従来の日常とは異なる兆しは、社会・政治のレベルで、至るところに見られる。首相官邸前での定期的な行動の重要性を思いつつも、そこだけで終わっていないことが大事なことだと思う。
M 君は「フライデー・ナイト・フィーバー」の只中にもいるし、同時に、少し逸れた傍らの視点も持っているということかね。
(8月2日記)